大日本古記録 中院一品記 上

『中院一品記』は南北朝期の貴族、中院通冬が記した日記である。建武三年(一三三六)から貞和五年(一三四九)に至る十四年に及ぶ記事があり、同時期を知るうえで欠くべからざる基本史料である。現在、通冬自筆原本の主要部は、東京大学史料編纂所(以下、史料編纂所)と国立公文書館に伝来し、京都大学総合博物館・公益財団法人大和文華館(以下、大和文華館)等に断簡が所蔵されている。その呼称には、「通冬卿記」「中院一位殿御記」などがあるが、本冊編纂に当っては、最も通用している「中院一品記」を題名として採用した。
 記主の通冬は、正和四年(一三一五)に村上源氏の一流、中院家に生れている。十八歳で鎌倉幕府の滅亡に直面し、南北朝対立の政情不安に身を置くことになるが、およそ政治的には顕著な動きを見せていない。建武政権の崩壊後も京に残り、そのまま北朝に参仕している。研究史的に見て、通冬の動向に些かなりとも注目が集まるのは、源氏長者をめぐる村上源氏内の対立といった部分になるだろう。通冬は、久我家と対抗関係から正平一統ののちに、南朝に奔ったとされているが、その詳細な経緯・理由は不明である。その後、延文四年(一三五九)まで八年間にわたって南朝方にあったことが災いし、北朝に帰参しても、貞治二年(一三六三)に没するまで、大臣となることは叶わなかった 。またその禍は子孫にも及び、没後百年以上、中院家から大臣になる者は、途絶えてしまうことになる。
 本記は、つとに『大日本史料』第六編に収載されたことから、洞院公賢の『園太暦』や中原師守の『師守記』とならんで、南北朝時代史研究における必須の史料となっている。しかし総体として活字化されることはなく、古くからその刊行が期待されてきた。幸い二〇一三年度より三年間にわたり、史料編纂所所蔵の原本・古写本類を対象とする修理事業が実施されたことで、本来の姿を取り戻すことになった(詳細は、東京大学史料編纂所研究成果報告二〇一五ノ一『東京大学史料編纂所『中院一品記』修理事業に伴う調査と研究』参照)。重ねて二〇一七年度には、国重要文化財に指定されたことから、その価値は社会的にも広く認知されるに至った。こうした状況をふまえて、日記本文のみならず紙背文書も加え、その全体を翻刻することとした次第である。
 『中院一品記』は近世後半に入って巻子の解体などが進み、本来の秩序を失ったとみられている(拙稿「『中院一品記』の史料学的再検討」『大和文華』一三〇号、二〇一六年参照)。これは中院家における蔵書管理が弛み、著名な人物の筆蹟を狙った相剝ぎや切断が屡々行われたことによる。幸い近世の早い段階で作成されたと思しき「当家代々御記目録」(史料編纂所所蔵、架番号S〇〇七一―一三―一四のうち)があり、当該時期における同記の巻編成が記されている。そこで今回の編纂にあたっては、同目録に従い秩序を復元することを基本方針とした。
 第一冊となる本冊には、建武三年二月から康永元年六月までを収録したが、底本の構成は次の通りである。
○建武三年二月記
 宮内庁書陵部所蔵改元部類記(写本、三条西本、四一五ー二七八)
○暦応元年秋冬記
 史料編纂所所蔵中院一品記、巻一(原本、S〇〇七三―一三―一)
○暦応二年春夏記
 史料編纂所所蔵中院一品記、巻二(原本、S〇〇七三―一三―二)
○暦応二年秋冬記
 史料編纂所所蔵中院一品記、巻三(原本、S〇〇七三―一三―三)
○暦応三年七月・八月記
 史料編纂所所蔵中院一品記、巻四(原本、S〇〇七三―一三―四)
○暦応三年自九月至九月記
 史料編纂所所蔵中院一品記、巻五(原本、S〇〇七三―一三―五)
○暦応四年正月記
 史料編纂所所蔵中院一品記、巻六(原本、S〇〇七三―一三―六)
 大和文華館所蔵中院一品記断簡(原本、洞院公賢書状、双柏文庫七一)
 国立公文書館所蔵中院一品記(写本、二冊本、一六二―〇一六三)
  神田喜一郎氏旧蔵中院一品記断簡(原本、洞院公賢書状、史料編纂所架蔵台紙付写真七七八―九六四四)
○康永元年秋冬記
 史料編纂所所蔵中院一品記、巻七(原本、S〇〇七三―一三―七)
 国立公文書館所蔵康永改元記(原本、古〇三四―〇五八二)
 国立公文書館所蔵法勝寺回禄注進状(原本、古〇三三―〇五五〇)
 京都大学附属図書館所蔵中院一品記(写本、中院/Ⅱ/三一)
 京都大学附属図書館所蔵中院通冬記裏書文書(写本、中院/Ⅱ/三二)
 なお校訂にあたっては、右に掲げた写本のほか、国立公文書館所蔵中院一品記写本(一冊本、一六二―〇一六二)を利用した。この一覧からも、暦応四年以降の巻が、激しく分離されて伝来していることが読みとれるだろう。また原本にあっては、そのほぼすべてに紙背文書が存するが、暦応元年秋冬記や康永元年秋冬記の紙背は、ほぼ全体にわたって相剥ぎがされており、わずかに墨痕のみを残すものが多い。こうした文書の読解にあたっては、近世段階で作成された中院通冬記裏書文書が、非常に有効であった。同書は、原本に即して紙背文書を精巧に臨写するのみならず、日記本文中に貼り継がれた原文書も書写しており、自筆原本が欠落する箇所においては、一部底本としても活用したところである。
 本冊が収載する期間は、通冬の二二歳から二八歳に相当する。この間、暦応元年(一三三八)に権中納言に任じ、同三年には権大納言へと昇進した。父通顕も未だ健在で、その後見を受けながら、活動の幅を広げつつあったと言えるだろう。権中納言に任じられて以降、様々な朝儀に上卿として参仕し、その詳細を日記に記している。とりわけ暦応三年十二月に春日社神木が入京し、藤原氏公卿が出仕を止めると、一挙に活躍の場が広がっている。同月二十七日に久我長通任大臣節会の内弁を勤めたのを皮切りに、翌四年正月になると、元日節会・白馬節会の内弁、踏歌節会の継内弁を連続して勤めたほか、さらに叙位の執筆や政始の上卿も勤仕している。行事の進行や自らの振る舞いなど、その詳細を漏らすことなく記しており、本冊でもっとも頁を割いた箇所となっている。暦応二・三年は、通冬も自ら認めるとおり、面目躍如の期間であった。このほか光厳上皇のもと頻々と開催される様々な行事に参仕する様子のほか、御会の撰に漏れたことを嘆き、参仕を辞した顛末なども記されていて興味深い。
 政治的に注目すべき記載としては、暦応元年七月の石清水八幡宮周辺における南北両軍の攻防と同宮の焼失、同二年八月の後醍醐天皇の崩御、同三年十月六日の佐々木導誉・秀綱親子による妙法院門跡の焼討ちと、それに続く両名の流罪などがある。また先にも言及した同年十二月の春日社神木入京や、康永元年(一三四二)二月の法勝寺焼失といった事件にも多くの記述が費やされている。
 中院家の動向としては、三条坊門邸を足利直義に譲ったため、叔父仁和寺成助の坊に寓居するのを余儀なくされていたこと(暦応元年十二月二十九日条)、康永元年四月に漸く土御門油小路に新邸を購入し、洛中に戻ったことが記されている。また暦応元年七月には重代相伝の知行国であった上野国が返付されており、通冬もその余禄に預かっている。血縁者の動向については、暦応元年五月に叔父成助が東寺一長者に還補されたことを記すほか、同年十一月七日の木寺宮康仁親王に嫁していた叔母南御方が産褥死したこと、翌二年七月二十七日、父通顕の養子となっていた従弟通数(通持息)が逐電・出家してしまったことなどが見えている。
 さまざまな記述に富んだ通冬記であるが、その筆致もまた区々としている。つとに山本信吉氏が指摘しているように(「『中院一品記』原本の書誌的考察」、『貴重典籍・聖教の研究』吉川弘文館、二〇一三年所収)、本記原本は後に整えられた浄書本ではなく、清書とも言うべき部分、草稿、その中間的なものが、あれこれと組み合わされて成巻されている。清書と見なしうる部分は、紙背文書も日記本文と密に関連するものが集まっており、意図的に配されたと推察される。本記は、様々な形で残されていたものを、後に日次に従ってまとめたと見てよいだろう。こうした分析は、史料編纂所所蔵分に限定したものながら、拙稿「『中院一品記』の史料学的再検討」(『大和文華』一三〇号、二〇一六年)にて検討したことがある。併せてご参照いただきたい。また「史料所蔵目録データベース」(http://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/)より本記の画像が公開されているので、実際にご確認いただければ幸いである。
 巻頭図版としては、①史料編纂所所蔵中院一品記巻一(原本)第一張、②史料編纂所所蔵中院一品記巻二(原本)第七張、③同第十七張・十八張、④大和文華館所蔵中院一品記断簡(原本)第一張、⑤法勝寺回禄注進状(原本)第一張の五点を掲げた。①は原本のうち最も遡る日条(暦応元年七月五日・六日條)である。②は暦応二年二月十八日条に挿入された釈奠指図の部分。図中の一部を切り取り、新しい料紙を宛てがって書き直したことが確認できる。③は同年五月十八日条に貼り継がれた光厳上皇の自筆書状。同上皇の宸筆はこれを含めて計三通が貼継がれている。④⑤は断簡となって伝来したものになる。④は暦応四年正月六日条の一部で、内容は叙位に関する記事である。紙背には洞院公賢書状があり、これを目的に切り出されたものと推測される。⑤は康永元年三月二十一日条中に貼りこまれた、同寺公文の注進状。康永元年秋冬巻は、多くの断簡に分離しているが、そのうちの一点である。
 なお本冊刊行後、人名比定につき小川剛生氏より以下のご指摘を頂いた。
* 六三頁の秀長・秀賢・秀治は、藤原北家魚名流藤成孫の一流で、祖父・父・
  子の関係にあり、累代中院家の侍を勤める。いずれも傍注として藤原を付
  す必要があり、かつ秀治は『尊卑文脈』には秀春と見え校訂を要する。同
  様に一二二頁の秀貞・秀経・秀冬も同族に当たり、全て傍注に藤原を付さ
  ねばならない。
* 一〇七頁の洞院故左府に藤原公守とあるが、藤原公泰の誤りである。
* 一八八頁の中院殿は、前後の文脈に鑑み、源雅定である可能性が極めて高
  い。
いずれについても次冊にて正誤を示すとともに、索引情報等に反映させることを約したい。氏のご指摘に深く感謝申し上げるところである。
 本冊の編纂にあたっては、古記録室員ほか多くの方々よりさまざまな協力を得たが、とりわけ宮崎肇氏(特任研究員)には原本調査等において多大な御教示をいただいた。原本の修理事業にあたりご協力いただいた株式会社文化財保存・奈良国立博物館の関係各位にも心より感謝の意を表したい。
 (例言六頁、目次二頁、本文二四二頁、巻頭図版四頁、本体価格一二〇〇〇円、岩波書店発行)
担当者 井上 聡

『東京大学史料編纂所報』第53号 p.54-56