東京大学史料編纂所

刊行物紹介

大日本古記録 陽明文庫本 勘例 上

 本冊に収めた公益財団法人陽明文庫所蔵『勘例』は、近衛家歴代当主の日記など近衛家伝来本のうち、自筆本『御堂関白記』などの最重要資料を含む「近衞家記録十五函文書」に収められ、「勘例」ほかの以下に示す①から⑦の標題が付せられた巻子本七巻と、そこから離脱した若干の断簡(「一般文書目録」収載)から構成される。
①『勘例賭弓之事』 〔第十三函十六号〕 一巻
②『勘例始終位階越階等之例』 〔第十三函十七号〕 一巻
③『勘例御薬・朝賀・小朝拝』 〔第十三函十八号〕 一巻
④『勘例自前大納言任大臣以下諸叙任例』 〔第十三函十九号〕 一巻
⑤『勘例納言以下諸例』 〔第十三函二十号〕 一巻
⑥『除目旧例』 〔第十三函二十一号〕 一巻
⑦ 『勘例拝礼・列立等之事 次二宮大饗、次卯杖、次女王禄、次行幸・朝覲行幸之事』
                          〔第十四函八十三号〕 一巻
 本書は、十三世紀前半から正中元年(一三二四)の間に外記(局務)中原氏や左大史(官務)小槻氏等により作成された勘文などをもとに政務の先例集としたもので、年紀が知られるものでは、暦仁元年(一二三八)十二月二                         十四日・宝治二年(一二四八)六月二十三日・嘉禎四年(一二三八)八月二日・寛元二年(一二四四)六月二十四日(以上①)、嘉禎四年八月十三日(左大史小槻季継・④)、暦仁元年閏二月二十二日(備後守中原師季・⑥)などがある。勘文などを進めた人物としては、大外記または掃部頭中原師光(三二回)、大外記中原師兼(一九回)、備後守中原師季(一三回)、大外記中原師右(二回)、大炊頭中原師為(一回)・備前守中原秀氏(一回)、左大史小槻季継(四回)・主殿頭小槻淳方(三回)などが見える。
                            このうち、最も多く『勘例』に登場する中原師光(一二〇六~六五)は、四位大外記中原師重(一一六六~一二二一)の男で、中原師季の養子となり、鎌倉中期に太政官の実務を担当した外記局の長である大外記、中でも首席大外記(局務)を務めた。『地下家伝』によれば、師光は師兼の弟で、嘉禄元年(一二二五)十一月七日に掃部頭、寛喜三年(一二三一)三月二十五日には直講に任じられており、勘文に「掃部頭」とあるのは、この約五年半の間である。同寛喜三年十一月十八日には、「殿下家司」(関白九条教実の家司)に補され、仁治四年(一二四三)二月二日には大外記に任じられた。この間、宝治元年(一二四七)三月十五日には、「殿下文殿」(摂政近衛兼経家の文殿衆)に任じられている。また、文応元年(一二六〇)三月二十九日に大外記を辞するも、弘長二年(一二六二)十二月二十一日に還任した。文永二年(一二六五)二月に大外記を辞し、翌月十七日に六十歳で亡くなった。近衞家の家司、院司を務めた鎌倉中期の官人で、著作に日記『(大外記)中原師光記』・年中行事書『師光年中行事』・故実書『局中宝』の他、現在は伝わらないが、「続新抄」(『本朝書籍目録』)がある(遠藤珠紀「尊経閣文庫所蔵『局中宝』解説」(前田育徳会尊経閣文庫編『局中宝』尊経閣善本影印集成五二、八木書店、二〇一二年)。
 また大外記中原師兼(一一九五~一二五三)は、『地下家伝』によれば、師重の男で、寛喜二年(一二三〇)正月二十九日に大外記に任じられた後、延応元年(一二三九)八月二十九日に河内守に任じられるまで、その任にあった。
 備後守中原師季(一一七五~一二三九)は、中原師綱(一一四八~一一九一)の男で、文治五年(一一八九)十一月十三日に清原頼業の卒去の替として大外記に転じたが、同年十二月三十日に父師継が助教を辞したため直講となり、建暦元年(一二一一)正月十八日に助教に転じ、井上幸治編『外記補任』(続群書類従完成会、二〇〇四年)や『地下家伝』によれば、建保六年(一二一八)十二月二十二日には、掃部頭も兼任しながら大外記を務め、承久三年(一二二一)八月二十九日には、大外記・掃部頭のまま筑前守に任じられ、貞応二年(一二二三)正月二十七日には博士も兼ね、嘉禄元年(一二二五)十一月七日には掃部頭を息師光に譲り、同三年十月四日には備後守に遷任され、「備後殿」と呼ばれた。『民経記』寛喜三年(一二三一)二月十日条に「前大外記師季」・「大外記師兼」(同年正月二十九日任)と見えるので、これ以前に大外記の職を辞し、安貞二年(一二二八)二月一日には博士も辞しているから、備後守を名乗るのは寛喜三年正月二十九日以降で、降っても没年の延応元年八月二十六日と推定される。
 一方、小槻家の左大史季継・主殿頭淳方は、大宮流と壬生流の分立の動きが見えた時期の人物で、左大史(官務)として弁官局を統率し、ほぼ交互に官務の任についた(橋本義彦『平安貴族社会の研究』〔吉川弘文館、一九七六年〕、遠藤珠紀『中世朝廷の官司制度』〔吉川弘文館、二〇一一年〕ほか)。まず、大宮流の左大史季継(一一九二~一二四四)は、算博士小槻公尚の子で、子に秀氏らがいるが、貞応二年(一二二三)七月二十日に亡くなった小槻(壬生流)国宗の後を継いで左大史になっている。『平戸記』寛元二年(一二四四)九月二十七日条には、「今曉寅刻、左大史季繼卒去、生年五十三、局〔官ヵ〕務廿一年、煩二年來宿病一、臨終正念云々、可二隨喜一々々々」とみえる。壬生流の主殿頭淳方(一二〇二~五三)は、國宗の孫、通時の子で、『地下家伝』によれば、某年、正五位上に叙され、主殿頭に任じられ、小槻季継の後を襲って、寛元二年十月四日に左大史を兼ねている。主殿頭は左大史を兼任する寛元二年十月四日より以前のことであろう。
 このように、陽明文庫本『勘例』は、十三世紀前半の局務・官務の官人によって勘申された先例が中心になっているが、書風や料紙等からは南北朝期の書写と推定される。紙背文書が③『勘例 御薬・朝賀・小朝拝』〔第十三函十八号〕を除く六巻にあり、平信兼(参議・正三位。弘和元年〔一三八一〕没。桓武平氏の平信範の子孫。西洞院流)に宛てられた、延文二年(一三五七)の年紀のあるものが見られるので、当時、蔵人少納言であった平信兼によって再編集された政務の先例集とする見解がある(「解題」山口県編・刊『山口県史』史料編・古代、二〇〇一年)。最終的には十四世紀後半に編集されたことになるが、今後、紙背文書の解読や各巻の書写の筆跡などの研究によって、本書の編纂過程の解明が俟たれる。
 その内容は、四方拝・御薬・朝賀・小朝拝・元日節会・宴会楽・隼人・白馬節会・踏歌・節会間雑例(③)、関白家拝礼・院拝礼・女院拝礼・二宮大饗・卯杖・女王禄・朝覲行幸(⑦)、叙位・加階・叙爵・女叙位(②)、射礼・射遺・賭弓・列見・定考・政・結政請印・内印・着鈦政・官奏(①)など、四方拝から下官奏までの恒例の年中行事および、大臣・中納言・参議以下八省などの任官例(④)、近衛中少将・将監以下武官、検非違使・下官(受領)・蔵人などの任官例(⑤)、除目の日次などの旧例(⑥)などの任官例が記されている。
 現存の『勘例』七巻には、年中行事では五月の着鈦政や四月一日の官奏までしかないが、①『勘例 賭弓之事』〔第十三函十六号〕には、「内印 鹿嶋符事見二彼使部一、在二諸社祭内一、」とあり(二一五頁)、「鹿嶋使部」に関する記述が「諸社祭」の項に含まれているという。現存しない「諸社祭」に関する部分もあったことから、現在伝えられている『勘例』は全体の約半分くらいで、また恒例の年中行事部分と、任官の例(任官部)・諸社部などの政務部分に分かれていた可能性も想定されよう。
 時代的には十世紀から十三世紀の記事を中心に全部で約一四〇〇条収載され、古いものでは、応神天皇十九年などを除けば、七世紀後半から九世紀後半までの史料も収録され、中には佚書の逸文も引かれる。これまで『大日本史料』第一(補遺)・二・三の各編や『山口県史』など一部の自治体史に引用され、宮崎康充編『国司補任』一~五でも利用されるが、大部分は未翻刻で全容が紹介されていなかったため、学界待望の史料であった。
 本書の刊行は上下二冊を予定し、上冊には、正月からの年中行事の式日に従って、③・⑦・②・①の順に四巻を収めた。さらに内容から錯簡と判断される②『勘例 始終位階越階等之例』〔第十三函十七号〕の冒頭の第一張(「関白家拝礼」「院拝礼」)を、⑦『勘例 拝礼・列立等之事 次二宮大饗、次卯杖、次女王禄、次行幸・朝覲行幸之事』〔第十四函八十三号〕の前に移した(六一頁)。加えて、巻子本七巻から脱落した断簡を陽明文庫所蔵資料より探索し、原位置を推定できるものはその箇所に収載した。これらの断簡は、「近衞家記録十五函文書目録」とは別分類である「一般文書目録」に著録される。上冊では、②『勘例 始終位階越階等之例』〔第十三函十七号〕に「一般文書目録」二五五九九号「叙位勘例断簡」(九五・九六頁)・同二五六〇〇号「同断簡」(九六・九七頁)を、①『勘例 賭弓之事』〔第十三函十六号〕に「一般文書目録」五一九〇九号「賭弓勘例断簡」(一六五・一六六頁)・同五一九一二号「同断簡」(一六八頁)・同二五五九六号「同断簡」(一六八~一七〇頁)・五一九二八号「同断簡」(一七〇・一七一頁)を補入して翻刻した。
 なお、解題及び索引(全体の編年史料索引・人名・引用典籍など)は、④・⑤・⑥の三巻と共に下冊に収録予定である。
 口絵では、各巻から少なくとも一点の図版を掲げた。局務・官務による勘文の引用がわかる箇所(②『勘例』第十三函第一七号 第三十二・三十三張、①『勘例』第十三函第十六号 第四十八・四十九張)は上下二段に並べた。また、院政期の日記の逸文が多く引用される箇所を掲げた(⑦『勘例』第十四函八十三号 第二・三張)。この部分は、元日または二日か三日に年頭の賀礼として、諸臣が院に参入し、庭上に公卿・殿上人・六位がそれぞれ一列に並び拝舞に礼を行う「院拝礼」の箇所で、それに関する先例として、権中納言藤原季仲(一〇四六~一一一九)の日記『季仲卿記』嘉保二年(一〇九五)正月一日条、権中納言源師時(一〇七七~一一三六)の日記『師時卿記』(『長秋記』)と某(藤原伊通カ)の日記及び、藤原為房の子藤原朝隆(一〇九七~一一五九)の日記『朝隆卿記』の長承元年(天承二年・一一三二)正月三日条が引用される。『季仲卿記』と『朝隆卿記』とはもともと逸文でしか伝わっておらず、『長秋記』長承元年記は五月からまとまって残るので、全て逸文である。従来、前太政大臣で「大殿」と呼ばれていた藤原忠実や関白藤原忠通が鳥羽上皇に対して行ったこの日の院拝礼に関しては、日次記では藤原宗忠『中右記』に記事がある。
 このほか、引用資料の詳細やその引用の仕方に関して、既に部分的に研究があるが(黒須友里江「陽明文庫所蔵『勘例』十三函十八号における先例記事の特徴」田島公編『禁裏・公家文庫研究』第六輯、思文閣出版、二〇一七年)、詳細に関しては下冊に収載予定の解題や索引を参照されたい。
 なお、『大日本史料』第一編より以前の記事に関して、口絵に掲げた③『勘例 御薬・朝賀・小朝拝』〔第十三函十八号〕の第十二・十三張の「国栖事」と第四十六・四十七張の「踏歌」について述べておく。
 まず國栖とは、大和国吉野川の上流に住み、大和政権から異種族と見做されていた非農耕民である。『日本紀』誉田天皇(『日本書紀』応神天皇)十九年十月戊戌朔条が引用されているが、応神天皇が吉野宮に行幸した時に、「國樔人」が「醴酒」を献じた故実に因み、元日節会などで笛を吹き、口鼓を打って風俗歌を奏し、贄を献じたことが記され、次いで「弘仁宮内式云、凡供奉節会吉野国栖・御勝笛工、……」と見える。引用される式文は、新出の弘仁式逸文で、「延喜宮内式」59国栖条に対応する条文である。両者の違いは、(ⅰ)弘仁式では、本文で国栖と笛工とが列挙されているのに対して、延喜式では国栖と一括され、「供奉」の内容が、「献御贄、奏歌笛」と具体的に示されていること、(ⅱ)笛工のうち二人が山城国綴喜郡在住であると記されていること、(ⅲ)録を支給される節会が年二回であったものが、十一月新嘗祭のみに減じられていることが指摘されている(小倉慈司「陽明文庫所蔵『勘例 御藥・朝賀・小朝拝』所引弘仁宮内式逸文」田島公編『禁裏・公家文庫研究』第五輯、思文閣出版、二〇一五年)。「御勝」は、「御贄」に関連するとすれば、「御膳」の誤写の可能性もあるが、不明である。今後の弘仁式・延喜式の比較研究に資する貴重な逸文である。
 一方、「踏歌」は中国から伝わった集団で足を踏み鳴らして歌い舞うもの。正月十四日には男踏歌、十六日には女踏歌が行われた。ここでもいくつかの文献が引用されている。『朝野僉載』は、唐の張鷟が、則天武后の頃に、朝廷と民間とで見聞した事柄を書き留めた随筆集で、『新唐書』・『旧唐書』の列伝に現れてこない人物の伝記や逸話の中に、当時の風俗習慣が記載されている。引用記事は、睿宗の先天二年(七一三)正月十五日・十六日の夜に唐・長安城で行われた踏歌の模様を記す。福田俊昭『朝野僉載の本文研究 付・『耳目記』考』(大東文化大学東洋研究所、二〇〇一年)所収の現在知られている『朝野僉載』の本文と比べると、異なる部分もあるが、『年中行事抄』(『続群書類従』巻二五三)にもほぼ同文がある。『本朝月令』は十世紀前半から中頃の明法博士惟宗公方が、正月から十二月までの年中行事の由来・由緒を説明するため和漢の典籍・文書を引用して撰した現存最古の年中行事書。全六巻とも四巻ともいう。四月から六月までの一巻のみ現存する(清水潔編『新校 本朝月令』皇學館大學神道研究所 二〇〇二年)。引用記事は『本朝月令』巻一の逸文だが、『年中行事秘抄』(『群書類従』巻八六)にほぼ同文がある。『官曹事類』は延暦二十二年(八〇三)に菅原真道ら撰の官撰書。『本朝法家文書目録』によれば三十巻で同書に「序文」と目録が見える。序文によれば、『続日本紀』の「雑例」で、文武天皇元年(六九七)から延暦十年(七九一)までの事項で、官司に備えて執務の参照にすべきと思われる記事、『続日本紀』撰修の際に、「米塩砕事、簡牘常語」を集めて部類別に集めて、参照しやすくした古代の政務記録書と言われている。『政事要略』などに逸文が残るのみである。『年中行事抄』で既に知られている内容だが、本条も逸文。
 なお口絵では割愛したが、③『勘例』第十三函第十八号第二十四~二十六張の「隼人事」にも注目すべき記事が引用される。隼人は薩摩・大隅に住み、大和政権に従わなかった異種族と見做された人々で、五世紀後半以降、次第に服属し、八世紀初頭にほぼ完全に服属した。中央に上番して、宮門の警護や儀式の際に参列し、犬の吠声のような声を発したり、風俗の歌舞を行ったりするなど、服属儀礼をおこなった。清寧天皇四年八月癸丑条から平城天皇大同三年十二月壬子条まで、『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』の記事を十一条引用するが、『類聚国史』巻百九十・風俗・隼人と配列などが同じなので、正史からの直接的な引用ではなく、先に述べた「国栖」と同様に(『類聚国史』巻百九十・風俗・國樔、参照)、『類聚国史』からの引用であろう。現存の『類聚国史』は同条が抄録本なので、『類聚国史』の逸文でもある。
 正誤については下冊に補訂表を加えることになるが、これに先だって一箇所を掲げておく。四十五頁一四行目割注の二文字分の作字は、入れるべき字形が誤っており、実際は「侍従」の写し崩れのような形である。お詫びして訂正をお願いする
 なお、原稿作成や校正に際して使用した高精細デジタル画像は、二〇〇七年度~二〇一一年度科学研究費・学術創成研究費「目録学の構築と古典学の再生」の経費により撮影したものである。翻刻に際してご許可を賜った、公益財団法人陽明文庫及び、様々な便宜をはかっていただいた同常務理事・文庫長の名和修氏、同事務長の名和知彦氏に感謝申し上げる。
 (例言四頁、目次二頁、本文二五九頁、口絵図版四頁、本体価格一三、〇〇〇円 岩波書店発行)
担当者 田島 公・藤原重雄


『東京大学史料編纂所報』第53号p.56-60