大日本古記録 愚昧記 下

最終冊である本冊には、寿永元年(一一八二)七月より建久六年(一一九五)三月までの分及び本文補遺を収めた。記主藤原実房三十六歳から四十九歳にあたり、この時期、寿永二年四月に権大納言から大納言に転じ、文治二年十一月には右大将を兼ね、同四年十月左大将に転じ、翌年七月に右大臣、建久元年七月には左大臣へと順調に昇進し、朝儀に活躍する。
 この後、建久七年三月に五十歳で病のため官を辞し、翌月には出家(法名静空)、嘉禄元年(一二二五)八月に七十九歳で薨去した。現在知られる『愚昧記』の記事は建久六年三月記が最後であり、出家以前のこの頃に日記を擱筆したものを思われる。
 翻刻の底本には、原本の残る寿永元年秋記(東京大学史料編纂所所蔵)・元暦元年正月記、同年秋カ記断簡・文治三年六月記断簡(以上、公益財団法人陽明文庫所蔵)についてはそれを用い、原本を欠く部分については、宮内庁書陵部・国立国会図書館・京都御所東山御文庫及び東京大学史料編纂所所蔵の写本によった。
 寿永元年秋記原本は、現状の全六〇張のうち、第一張より第四九張までは「承安二年広田社歌合」を翻して記されており、第五〇張紙背は白紙であるが、料紙の寸法や紙質から判断して、元来は歌合の表紙であった可能性が考えられる。この歌合は藤原俊成を判者とし、道因の勧進により催されたものであるが、実房自身のほか、異母兄の実綱・実国をはじめ実房周辺の人物が多く作者となっており、実房の手許にもその写本が存在したことがうかがえる。作者総数は五十八人で、「社頭雪」「海上眺望」「述懐」の歌題それぞれ二十九番からなる。現状では、相剥ぎにより歌合の面の表層が剥離された料紙が九張(後補白紙一張を含む)あり、このうち「述懐」二十三番の部分のみ、判詞の途中までの剥ぎ取られた歌合面が「広田社歌合切」として別に存在し、小松茂美『古筆学大成』二十二巻所収の写真により面影をうかがうことができる。また、特に第一八張から第二八張まで、日記の記事では八月十三日条途中から十四日条途中まで、歌合では「社頭雪」二十七番途中から「海上眺望」二十二番途中までの部分は、料紙の左右が大きく破損しており、欠落が多い。この寿永元年秋記は亮子内親王立后記というべきもので、写本も数多く知られるが、残念ながら全て現状と同じく破損後の本文である。このほか、表紙の紙背は検非違使問注記断簡で、仁安二年十月記原本第一六張と接続する(上冊一〇〇頁所収)。第五一張より第六〇張までの紙背は書状で、第五二張・第五三張など、表紙と同じ検非違使庁関係文書が含まれる。これらは仁安二年十月記・同十一月十二月記原本紙背と同じく、実房の父公教や祖父実行が検非違使別当であったことにより、実房の手許に存在した文書と考えられる。
 元暦元年正月記原本は正月二十一日条途中までの残闕本で、元来の構成を知ることはできない。料紙の傷みもひどく、近世の修補の段階で錯簡が生じている。大日本古記録に収載するに当たっては錯簡を正し、一日条・七日条については東京大学史料編纂所所蔵三条家旧蔵新写本第二九冊及び京都御所東山御文庫収蔵本第一九冊の『愚昧記』節会部類により欠損文字を補った。この節会部類は諸節会において内弁を勤めた際の記録からなるが、元暦元年記について「此巻為雨漏破損了、然而其以前書写了、可謂高運也、」という注記がある。また、宮内庁書陵部所蔵の柳原紀光編『砂巌』六所収の「愚昧記目録」では、「寿永暦」一巻に「内弁事、但折損」という注記が見える。この目録は十五世紀末に三条西実隆が三条実香から『愚昧記』原本一合を借りた(『実隆公記』明応四年九月十二日条)後に、三条西家において作成されたものである可能性が考えられ、それ以前から雨漏りのため破損していたことがうかがえよう。なお、節会部類にはこの後の十一月記の記事も含まれており、これも元来は正月記と一揃いのものであったことが想定し得る。
 元暦元年秋カ記断簡は僅か七行の残闕原本であるが、天地に界線が約二六糎の間隔で引かれている点や書風などの体裁が元暦元年正月記と共通しており、両者は同年のものと考えられる。記事に「勢州有反逆之輩之由風聞」と見え、『玉葉』元暦元年七月八日条の「伝聞、伊賀・伊勢国人等謀叛了云々、」という記事に対応すると思われることから、元暦元年秋某日のものと判断し得る。
 文治三年六月記断簡は七日条冒頭の一紙のみであるが、記事の内容は亮子内親王女院号宣下に関するものであり、先述の『砂巌』所収「愚昧記目録」に見える「院号定一巻」に該当する可能性がある。
 このほか本文補遺として、同じく陽明文庫所蔵の仁安二年十月・十一月記原本断簡を収載した。これは史料編纂所所蔵原本第一巻(仁安二年十月記)・同第二巻(同年十一月・十二月記)の間に入るもので、大日本古記録上冊では該当箇所を国立国会図書館所蔵三条西家旧蔵古写本(抄出本)によっていたが、上冊刊行後、この断簡が原本断簡であることを確認したものである。
 原本を欠く部分では、まず元暦元年十一月記・文治五年正月記は先述の節会部類より収載した。記事の内容は元暦元年十一月二十日の大嘗会巳日節会と翌日の豊明節会、文治五年正月七日の白馬節会で、全て実房が内弁を勤めた記録である。
 文治五年二月~四月記は永正十五年三月七日三条西実隆書写奥書のある古写本(宮内庁書陵部所蔵)によった。奥書によれば原本から書写したものであるが、原本の裏面にあった指図を省略した箇所がある(四月十三日条)。内容は実房がこれまで師事していた藤原経宗の追善仏事に関するもので、二月二十八日の薨去から四月十六日の中陰仏事結願にまで至る。
 同年七月・八月記は前掲三条家旧蔵新写本第二五冊により、東山御文庫本第二二冊・陽明文庫所蔵新写本第二〇冊を以って校訂した。内容は実房の任右大臣記(及び藤原兼雅任内大臣記)で、七月五日の召仰から八月十一日の着陣までの詳細な記録である。
 同年九月記と建久三年三月~五月記はそれぞれ上西門院と後白河院の仏事記で、中冊収載の建春門院・高倉院仏事記と同じく、国会図書館所蔵十一冊本(合本五冊)第八冊(合本第四冊)によった。新写本ではあるが、その体裁から三条西公条らによる書写本からの転写本と考えられ、今のところこの部分の唯一の伝本である。
 文治五年十月記・建久元年正月記、同二年十二月記は、東山御文庫本第一八冊の『愚昧記』御元服部類により、三条家旧蔵新写本第一六冊や公益財団法人前田育徳会尊経閣文庫所蔵三条西家旧蔵古写本等を以って校訂し、一部の本文を三条家旧蔵新写本第二九冊節会部類により補った。東山御文庫本は新写本ではあるが実房による本文推敲の痕跡をそのまま書写しているのに対し、尊経閣文庫本は三条西実隆・公条周辺で書写された古写本であるが修正後の本文になってしまっている。内容は、それぞれ文治五年十月七日の後鳥羽天皇御元服定と翌建久元年正月三日の御元服から五日の後宴、七日の白馬節会を経て二十七日の朝覲行幸までと、建久二年十二月二十六日の守貞親王元服の記録である。なお、この御元服部類の建久元年正月三日条より七日条までの部分は、所々に本文の一部を線で囲っている箇所がある。『愚昧記』においてこのように文字を線で囲む場合、抹消を意味していることが一般的であるが、ここでは建久元年正月七日条の後の「懸勾之所等、借右府(実房女婿の藤原公継)本除之、依無指事也、」という承久四年識語に見えるように、単純に削除すべき衍字を示すものではなく、重要度が低いため削除してもよい文字、というような意味である。今回の翻刻に際しては、このような箇所には直ちに抹消符号を付すことはせず、線で囲っている旨を注記するに止めた。また、『愚昧記』から守貞親王元服記を収める『親王御元服部類記』があり(東山御文庫・宮内庁書陵部などに写本が所蔵される)、『続群書類従』巻第二九七としても流布しているが、この本文は文意が通るように原文を改変しており、注意が必要である(一例を示すと、加冠の後の勧盃のところ、『愚昧記』原文に「次予起座、経本路着殿上座、右府在座、仍言談、次一献、」とある箇所が、『親王御元服部類記』東山御文庫本では「次予起座、経本路着殿上、右府在此座、次有勧盃事、一献、」となっている)。
 本冊に収めた記事の全般的内容は、亮子内親王立后・院号宣下、諸節会、藤原経宗・上西門院・後白河院追善仏事、実房任右大臣、後鳥羽天皇・守貞親王御元服、東大寺大仏殿上棟・興福寺供養・東大寺供養、といった特定の事柄についての詳細な記録であり、日々の出来事を書き付けた日次記というよりも個別の別記を並べたものと評価できよう。これは壮年期の実房の日記筆録態度の特徴として指摘できる点である。
 巻頭図版には、①寿永元年秋巻(原本)巻頭、②同巻紙背広田社歌合冒頭、③元暦元年正月巻(原本)十日~二十一日条、④文治三年六月記断簡(原本)、の四点を掲げた。①は二〇〇八年度に解体修理を終えた姿である。料紙に界線は無く本文推敲の痕跡も多く見られるが、基本的に行頭・行間をよく揃えて記している。②は①の紙背で、解体修理の際、一時的に裏打紙を除去した機会に撮影したものである。③は天地に界線のある原本の例で、傷みがひどいが、源義仲の獄門梟首に関する記事の部分である。④は現在知られる『愚昧記』原本の最下限のもので、残念ながら断簡一紙のみであるが、③と同じく天地に界線があるなど、この時期の『愚昧記』原本の様子を伝える貴重なものである。
 『大日本古記録 愚昧記』の編纂は本冊を以ってひとまず完了した。史料編纂所所蔵の原本八巻や底本・対校本として利用した三条家旧蔵新写本の画像は、東京大学史料編纂所ホームページの所蔵史料目録データベースより公開されている。また、大日本古記録全三冊の本文は、同じく古記録フルテキストデータベースより公開されており、一字検索も可能である。併せてご利用されたい。
 本冊の編纂においても、これまで通り多くの所員から部室の枠を超えてさまざまな協力を得たが、特に遠藤珠紀・宮﨑肇両氏には原本調査において、今井泰子氏には実房略年譜の編纂において、川合奈美氏には索引の編纂において、それぞれ多大な御協力を頂いた。また、原本の修理や寄託をお願いした株式会社文化財保存・奈良国立博物館の関係各位にも心より感謝の意を表する。
 (例言一〇頁、目次三頁、本文二二八頁、本文補遺一頁、解題九頁、略系二頁、略年譜四四頁、補訂表四頁、索引四二頁、巻頭図版四頁、本体価格一二、〇〇〇円、岩波書店発行)
担当者 尾上陽介

『東京大学史料編纂所報』第53号 p.51-54