大日本近世史料 細川家史料二十六

収載範囲・底本
 「細川忠利文書 十九」の本冊では、寛永十七年(一六四〇)正月七日から同年八月二十八日までの幕府老中・役人・諸大名等諸方宛書状案二七七件と、原書に添付される細川忠興書状案一件を翻刻・校注した。底本は公益財団法人永青文庫所蔵・熊本大学附属図書館寄託「公儀御書案文」寛永十七年正月~六月(整理番号十―廿三―十三)と「公儀御書案文」寛永十七年六月~十二月(整理番号十―廿三―十四)のうち前半である。
 なお、原書に収録されていない諸方宛の忠利文書として、熊本県立図書館所蔵「相良文書」に相良頼寛宛の書状二通がある(七八号・六月二十三日付、八三号・七月十二日付)。いずれも相良騒動に関するものである。このような未収録文書の存在は、「公儀御書案文」の性格を理解する上で避けて通ることはできない。今後の検討課題である。
記載の内容
 忠利は江戸にて越年する。二月二十八日には家光の鷹狩に扈従し、自らも家光の鷹にて雁をとり、家光より鷹も雁も拝領している(五五五九)。この年は家康の二十五回忌であることから家光は日光社参を行い、還御ののち忠利も四月二十八日より日光に向かう。五月四日に江戸に戻ると、暇を賜り、五月十八日に江戸を出立する(『綿考輯録』)。
 途中、六月一日に京都吉田にて忠興を見舞う。忠興は不食気味で痩せてしまっており、忠利は八代での療養を勧め、老中への取り成しを柳生宗矩まで申し入れる(五五八四)。
 六月十二日に熊本着。道中は、「今度之様成暑き旅ハ覚不申候」(五六一三)と経験したことのないような暑さで、ようやく夜ばかり歩いたと述べている。病身の忠利には堪えた旅路であった。熊本到着後も酷暑がつづいており、忠利は諸国の作柄についても情報を集めている(五六六二)。
 熊本での忠利は、三の丸の内の坪井川の浚渫と、白川―川尻間の井溝の拡幅について老中に希望を申し入れている(五六六四)。八月十三日から十六日にかけて大雨が降り、八代城では石垣が今にも崩落しかねない状態になり、熊本城も石垣が膨れているという。忠利は、八代城は水堀に崩れ混むと修復が難航することが予想されることから、緊急対策の許可を老中等まで願い出る(五七七八・五七七九)。
 幕府政治においてはいくつか重要な事件が起こる。そのひとつがポルトガル船来航禁止後の動向である。前年七月の申渡しに対して、天川(マカオ)より使者が詫言のために、武器も持たず、貿易品も積まず、小舟にて来航し、日本へのキリシタン渡航を厳禁するとして通商再開を要望する(五六一二)。家光は、上使として加々爪忠澄・野々山兼綱を長崎に派し、乗員のうち十三人は小舟で戻らせ、残りの六十余人を成敗し、断固として通商を行わないことを表明した(五六三九)。その後、九州の諸大名は黒船来航に警戒を続けることになり、忠利は「事之外九州之よはり」で、「きりしたん程日本をなやまし候者、又と無之」と述べている(五七五九)。
 また、御家騒動が複数起こっている。播磨山崎の池田家・讃岐高松の生駒家では家中の物頭らが大勢退去し、人吉相良家では当主の頼寛が老臣相良頼兄の専横を幕府に訴え出る。幕府はそれぞれの関係者を江戸に召し寄せる。
 池田・生駒両家の問題は、七月二十六日に判断が下され、生駒高俊は国を没収され、出羽由利にて一万石に、池田輝澄については子の政直に一万石が与えられ、池田光仲領分に召預けとなる。そして、退去した池田家中の者十八人、生駒家中の者十三人に切腹を命じる(五七六二)。「理非ニかまわす主人と一所之分ハ御免、其外ハ親子一類迄御成敗」という処分であった(五七八二)。また、妻子・道具の預け先や、宿を貸した者までに穿鑿が及ぶという徹底したものであった(五七八五)。
 かかる裁決を伝えられた忠利は、「日本之上下之不作法、是ニ而なをり可申と存候」と述べ、「有難御仕置哉となミたをなかし申候」と書状に認めている(五七一七)。家中統制を志向する大名家の当主にとっては都合のよい判断が示されたといえよう。もっとも忠利は、永井直清宛の書中に、「内之者遣悪敷者、うつけたる人ハ、事之外まんそく之躰ニ而候由、察申候」とも述べている(五七五九)。
 相良家については、老臣の相良頼兄が江戸に招致されると、人吉に残された養子犬童頼昌が七月六日の晩に屋敷へ楯籠り、七日にかけて留守居と交戦し、討果されるという事件が起こる(御下の乱)。この件について、忠利は積極的に情報収集につとめ、幕府や周辺大名に報じている(五六七三・五六八一)。その後、家光からは人吉へ上使として能勢頼隆・三上季正が派遣される(五六九六)。江戸へ呼び寄せられた頼兄は、箱根の関所にて家臣と分かたれ、大小も取り上げられ、稲葉正則に預けられる。忠利は、この一件は当主頼寛と家中の不和ではなく、不届きな老臣を排することが目的であることから、池田・生駒の場合とは異なり、相良家自体が処罰されることはないだろうと認識している(五七一八)。
 これらのことで忠利は、「此中打続上使衆、又相良清兵衛事ニ御六ケ敷候て、気之やすむ隙無之候つる」と嘆息している(五七五三)。さらに、長崎に井上政重と柘植正時が派され(五六六三)、幕府船手衆が西国巡視に向かっており、それらの対応にも追われるのであった(五六八二・五七三〇)。
 政治に関する話題以外では、沢庵宗彭に関する同時代の興味深い言行が記される(五五二一・五七五八)。特に五六八七号の能役者梅若玄祥(氏盛)宛の書状は長文で、忠利の沢庵に対する帰依や、仏教に対する認識を伺うことができ、たいへん興味深い。本文書については、京都大学文学部古文書室架蔵「古文書纂」に「一、理庵物語にて」以下の部分の原本が影写されており、次いで梅若玄祥の返書の案文と思われる文章も貼り継がれている(史料編纂所影写本七冊目六〇~六六丁目、大正五年影写)。
 また、国許の真宗寺院の順正寺と西宗寺の本末相論に関する書状もみられる(五五八五・五七四四)。近世前期の真宗寺院と藩・本山の関係を考える上で興味深い一件である。この問題は次冊の範囲まで継続することになる。
  (例言二頁、目次二一頁、本文・人名一覧三三五頁、本体価格一〇、五〇〇円)
担当者 山口和夫・林 晃弘

『東京大学史料編纂所報』第53号 p.45-47