東京大学史料編纂所

刊行物紹介

大日本近世史料 廣橋兼胤公武御用日記十三

 本冊には、宝暦十三年(一七六三)八月より明和元年(一七六四)十一月までの「公武御用日記」と、宝暦十四年正月より五月までの「宝暦十四年東行之日記」を収めた。
 宝暦十三年の兼胤は四十九歳。官位は前冊と同様、権大納言・正二位である。
 本冊では所司代の交代があった。宝暦十四年五月一日に所司代阿部正右が老中へ昇任し、六月二十一日に大坂城代阿部正允が所司代に任じられた。新所司代阿部正允は八月二十二日に上京し、二十七日に引渡老中阿部正右とともに参内している。
 本冊における兼胤の年頭勅使としての関東下向は、宝暦十四年四月六日から五月九日までの間である。この年の勅使は、後桜町天皇即位の祝儀勅使と親王使を兼ねており、即位祝儀の女院使と准后使も同行した。下向の時期については、年頭の所司代への挨拶の際に相談するのが通例だが、この年は改元の日取りが未定であり、改元後に下向するようにとの摂政の指示があったため、年頭挨拶の時には改元後の下向でよいかを問い合わせるに留まっている。正月二十四日、勅使の下向は改元が済み朝鮮通信使が京都を通過した後にするようにと老中から返答があった。その後、下向の時期について四月と五月のどちらとするべきか、所司代に問い合わせている(正月二十九日の条)。三月二十八日には、四月十六日に着府すべきことを所司代から伝達されたが、通信使の京都通過を避けるため日程が変更され(三月三十日・四月二日の条)、実際の旅程は四月六日の京都出立、十八日の着府となっている。登城は十九日であり、まず殿上間にて御台所への即位祝儀を老中に伝達し、次いで白書院へ移動して将軍と対顔し、将軍・世子への年頭・即位の祝儀を伝達している。二十二日に将軍・御台所からの返答・賜暇があった。在府中は例年通りに、能見物の登城や御三家・輪王寺門跡への御使を勤め、二十一日には在府中であった知恩院門跡を訪ねている。二十七日に帰京の途につき、五月九日には京都に到着、将軍などの御請を奏上している。この時、阿部正右の老中昇進により所司代が不在であり、人馬朱印などは京都町奉行へ返納している。
 本冊における朝廷の人事としては、まず近習の増員があげられる。近習が不足しているために増員することとなり、武家伝奏・議奏に人選が命じられ(宝暦十三年十二月十二日の条)、四辻公亨・千種有政・富小路与直・錦織従房・岩倉広雅・勧修寺経逸の六人が加えられている(十二月十九日の条)。また、宝暦十四年八月一日には廣幡輔忠・油小路隆前が近習に追加されている。
 ほかに、倉橋有儀女の美子の青綺門院中﨟への召し出し(宝暦十三年八月二十一日の条)、鴨脚秀胤女の下﨟への召し出し(八月二十四日の条)、樋口冬康男の友丸の英仁親王小児への召し出し(十月三日の条)、土山武真男の武匡の取次役見習いへの就任(十二月二十二日の条)などがあった。また、万里小路韶房女が御内儀の傭として召し出される予定であったが(十月六日の条)、これは延引となっている。(十月十二日の条)。
 人事とは少し異なるが、宝暦十三年十二月十三日に近衛内前の嫡男経熙の着袴があり、兼胤が取持を勤めている。
 本冊で最も注目されるのは、後桜町天皇の即位式である。宝暦十三年八月一日、即位の日取りは十一月下旬とすることが治定された。同日中に堂上家と地下官人へ仰せ出され、所司代へも伝達された。即位伝奏・奉行のことも仰せ渡されている。九月二十七日には、即位式が十一月二十七日と内々に治定され、堂上家・門跡・地下官人へ仰せ渡された。十一月に入ると、将軍や御三家そのほかの諸大名などからの即位祝儀の使者参内の日程や勤め方(十一月七日・二十四日の条)、女院・親王・准后への勤め方(十一月十三日の条)が定められた。十九日には将軍からの使者が京都に到着している。即位に関わる儀式もつつがなく進められており、十一月八日に由奉幣使が京都を出発し、十一月十七日には即位後の天曹地府祭のことが仰せ出されている。即位に用いる諸道具の準備も進められており、渡金・上水・歯黒付の外箱(八月十二日の条)、屏風七双(九月二十四日の条)の用意が仰せつけられている。即位式に向けて、御殿の整備も進められた。宝暦十三年八月六日に諸大名からの使者の参賀に備え内侍所の襖の破損箇所を早急に修復することを禁裏附へ求めた。これは関東へは申し入れず、通常の修理として取り扱うことにされたが(十月二十九日の条)、即位前には完了しないだろうとの見込みも禁裏附から伝達されている(十一月一日の条)。十月十三日には内侍所玄関の勝手替えを、禁裏附へ求めている。十月二十日には清涼殿御帳・台盤所・殿上調度のうちで損傷の激しい箇所の仮修理が命じられた。清涼殿上段・常御殿琴碁書画間の翠簾の掛け替えについては、両所が同年六月・七月に落成したばかりであり(前冊宝暦十三年六月二十七日・七月七日の条)、享保二十年の桜町天皇即位時に掛け替えを省略した先例もあるため、今回も同様とすることを所司代が求め、交渉が行われている(宝暦十三年八月九日・十二日・十五日・十六日の条)。ほかに、女院への諸大名からの使者への対応のため、緋宮御殿の玄関などを移設することも所司代へ求めているが、所司代の判断では決定できないこと、老中へ問い合わせたならば即位式へ間に合わないことなどを理由に拒否されている(八月十一日・十三日・十四日・十九日の条)。こうした事前の準備・交渉を経、十一月二十七日、即位式が挙行された。儀式は午刻前に始まり、天皇は午刻過ぎに高御座へ登り、申斜には入御した。十二月一日・二日・四日・五日には、将軍や御三家そのほかの諸大名からの使者が参内し、即位の祝儀を申し入れている。その後、宝暦十四年二月一日には、軽罪の者の赦免が所司代から申し入れられている。
 次いで、宝暦から明和への改元が行われている。これは桃園天皇から後桜町天皇への代替わりの改元である。当初、改元は宝暦十三年十二月上旬を予定していたが、朝鮮通信使の来朝に関連して翌年の正月下旬に変更されており(前冊宝暦十三年五月六日・九日・六月五日の条)、十一月二日に正式に仰せ出され、伝奏および奉行が任じられた。その後、改元が正月二十八日で差し支えないかを所司代へ問い合わせている(十一月四日の条)。十二月二十日には新年号の候補が勘進された。候補とされたのは、明和・大応・万保・天明・嘉享・天亀・文化の七号である。候補の年号と訓付は、二十二日に所司代へ伝達された。その際、候補の中では明和もしくは天明がよく、特に明和を希望しているとの天皇の意向も伝えられている。宝暦十四年正月四日には朝鮮通信使の来朝時節が不明であるため、改元の時期を延引するようにと所司代から申し入れがあった(詳細については、『東京大学史料編纂所報』第五十一号の「出版報告」を参照)。十一日、新年号は明和が適切であるとの将軍から返答が伝えられた。三月八日になると、改元は五月とするように幕府から申し入れがあり、それを受けて年頭勅使下向の時期が決定された後に改元の日取りを治定することになった。四月に入って五月二十七日の改元で支障ないかを幕府へ問い合わせたが(四月二日の条)、六月二日とするように返答があり、その通りに治定された(五月十五日・十七日の条)。その後、六月二日に条事定・改元定が行われ、明和に改元している。
 次いで、明和元年十一月には大嘗祭が挙行された。七月六日、日程についての天皇の御内慮が所司代へ達せられた。女帝であるため、ひとまず先例通り十一月の初の卯の日に取り決めたうえで、月の障りがあったならば後の卯の日に変更するようにとされた。また、豊明節会の際の大歌再興についてもこの時所司代に達している。二十五日には御内慮の通りと所司代から申し入れられた。八月一日に、摂家以下へ十一月八日の挙行が仰せ出され、悠紀・主基の抜穂の候補を吟味するよう京都代官へ申しつけている。抜穂候補として近江・丹波の幕領から四か村を京都町奉行が選定し、そののち国郡卜定が行われている(八月八日・二十日・二十四日の条)。大嘗宮の準備もすすめられ(八月十六日・十七日の条)、九月二十八日には荒見川の祓が行われ(九月八日の条)、十月二十二日には忌詞が示されている。十月二十九日に御禊が行われ、十一月二日に由奉幣が発遣されている。十一月八日から三日間大嘗祭が挙行され、十一日の豊明節会まで支障なく執り行われている。なお大嘗祭に関わって、祈祷を各所に命じた結果、財政が逼迫し、千両の取替金を幕府に求める、といった事態も生じている(十月五日・六日・十日・十七日の条)。
 そのほかの朝廷内での主な出来事としては、(イ)英仁親王の深曽木、(ロ)非蔵人藤野井家の改号・改姓、(ハ)慈光寺家の堂上取り立て、(ニ)桃園天皇三回聖忌などがあげられる。
 (イ)の英仁親王深曽木は宝暦十三年十一月十六日に催され、外祖父である前関白の一条道香が鬢親に任じられている(十一月二日の条)。この年、親王は六歳である。
 (ロ)については、社家の庶流ではない非蔵人が三家だけであるため差し支えがあるとして、非蔵人藤野井四家が近衛家諸大夫の斎藤家の庶流とされ、藤嶋への改号および藤原への改姓を仰せつけられた(宝暦十三年十二月十九日の条)。
 (ハ)については、六位蔵人を四十年間勤めた功績により慈光寺澄仲を堂上に取り立てたいとの沙汰があり、宝暦十四年二月三日その旨を所司代へ申し入れている。その後、慈光寺家の先例や、今後代々全員が堂上に取り立てられるのかという点について、所司代との間でやりとりがあり(三月十日・十三日・十五日・十六日・十七日の条)、五月九日に幕府としては差し支えない旨が所司代から伝えられている。
 (ニ)については、宝暦十四年五月十九日に摂政から執行が仰せ出された。経費的な支障がないかを確認したのち(明和元年七月五日の条)、明和元年七月二十一日に執り行われている。
 朝幕間での主な出来事では、(ホ)将軍代替わりにともなう領地判物・朱印状の発給、(ヘ)宝暦暦の不備をめぐる交渉、(ト)徳川家光の御台所と吉宗・家重・家治の生母への贈位、(チ)桑原家の相続についての交渉、(リ)徳川家康百五十回忌に向けた交渉などがあげられる。
 (ホ)については、まず宝暦十三年九月、領地判物・朱印状は九月十八日・十九日に渡される旨が所司代から伝達された(宝暦十三年九月十三日の条)。親王家は享保四年の徳川吉宗襲職時の例に基づいて摂家と同日に受け取りたいと願ったが、摂家は寛延元年の徳川家重襲職時と同様に別日の受け取りを主張した。所司代からは寛延の例に準じるようにとの申し入れがあったため、別日の受け取りを望むのであれば関東との交渉が必要であり、その場合は領知判物などの受け取りが遅くなってしまう旨を武家伝奏より有栖川宮へ申し入れている。その結果、親王家は別日の受け取りを承諾し(九月十四日の条)、当初の予定通りに十八日・十九日に摂家以下へ交付された。
 (ヘ)について、宝暦十三年九月一日、暦に記載されていない日食が発生したために陰陽頭土御門泰邦を召し出して尋ねたところ、実際に暦を作成した幕府天文方の渋川光洪・山路主住に問い合わせなければ不明であると返答したため、所司代へ関東の状況を問い合わせた。その後、渋川と山路の不手際であり、両者へ遠慮を申しつけた旨が、所司代から連絡されており(明和元年十一月二十九日の条)、それをうけて土御門を処罰するか摂政と相談している(十一月三十日の条)。
 (ト)については、宝暦十二年六月八日の徳川家重法会後、徳川家光の御台所と吉宗・家重・家治の生母への贈位の希望が関東から申し入れられ(十一冊宝暦十二年四月六日の条)、宝暦十三年四月十六日に宣下の儀式が行われたが(前冊同日の条)、その御礼の使者が関東から遣わされている。御礼使は宝暦十三年十二月十八日に参内し、同日中に女院・親王・准后へも将軍からの口上を申し述べている。
 (チ)について、宝暦十四年二月、桑原爲彬の病気危急を受けて、高辻家長末子の俊丸による相続願いを所司代へ申し入れている。この際、桑原家は後西天皇により取り立てられた新家ではあるものの、本家並として扱うようにとの霊元天皇の仰せがあるため、断絶しないようにしたいとの後桜町天皇の思召も伝えている。その後先例の調査などを経て、願い通りの相続が決定している(宝暦十四年二月三日・十七日・十九日・三月八日・九日の条)。
 (リ)について、徳川家康の百五十回忌は明和二年に執り行われるが、それに向けた交渉を確認できる。享保七年に将軍年忌の万部供養の断りを幕府が申し入れた際の朝廷側の状況はどのようなものであったのか、朝廷では将軍の年忌供養を千部・万部のどちらと考えているのか、家康の遠忌供養を千部供養とした場合に公家・門跡の関東下向は減員となるのか、などの点について、所司代とやりとりがあり(宝暦十四年二月十七日・十八日・十九日の条)、最終的に万部での勅会法事と決定した旨が老中奉書で伝達されている(三月二十四日の条)。五月には参向する公家・地下官人が仰せ出され(五月十九日の条)、呪願文・願文・諷誦文の作進が五条為璞・山科敬言に命じられている(五月二十四日・二十五日の条)。九月十三日に贈経使などが仰せ出され、十六日には贈経の品の先例が幕府から申し伝えられている。
 右のほかの朝幕間の出来事としては、妙顕寺紫衣願いの取り扱いに関する交渉(宝暦十四年正月二十日・二月八日・十一日・三月七日の条)、禁裏や諸御所での臨時支出増大に対する所司代から節約の申し入れ(二月二十四日・二十七日の条)、泉涌寺への寄付金貸し付けの世話についての京都代官への申し入れ(三月六日の条)、朝鮮通信使の京都通過と日光例幣使の出発の時期が重なったことに関わる所司代との間での調整(三月二十八日の条)などが挙げられる。
 そのほかの出来事としては、下北面子息の官位小折紙提出に際しては、社家と同様に実際の年齢を記すことが定められたことや(宝暦十三年八月二日の条)、伏見稲荷社と執奏家である白川家の対立(宝暦十三年十月二日・六日・十一日・十四日の条)、兼胤の相役である姉小路公文の八十宮旧邸の拝領願い(宝暦十三年十月廿四日・宝暦十四年正月二十九日・五月九日・明和元年十一月十九日・二十五日の条)などが見られる。
 (例言一頁、目次二頁、本文三一七頁、人名索引四三頁、本体価格一〇、〇〇〇円)
担当者 松澤克行・荒木裕行



『東京大学史料編纂所報』第53号p.47-50