東京大学史料編纂所

刊行物紹介

日本関係海外史料 イエズス会日本書翰集 訳文編之四

 本冊には、一五六〇年一月(永禄二年十二月)から一五六一年十月(永禄四年八月)までのイエズス会士による日本布教の記録(二〇点)の原文並びに訳文を収めた。また本冊より、従来、原文編と訳文編を別して刊行してきたスタイルを改め、各書翰の原文と訳文を同巻収載とすることで、読者が求める情報をより正確に提供することが可能になった。
 本冊では、イエズス会の日本各地における布教活動が本格化していく様が具体的に報告され、とりわけ一五五九年に始まった京都での布教活動、領主籠手田安経の改宗により、領民の集団改宗がおこなわれた平戸、生月、度島などの信仰形態に関する記述が目を惹く。これらについて詳細に語る二通の書翰をここでは紹介したい。
 「一五六〇年六月二日付、ミヤコ発、ロウレンソのゴアにあるアントニオ・デ・クアドロス宛書翰(一三一号)」では、イエズス会司祭ヴィレラに同伴して上京した元琵琶法師ロウレンソが、京都での彼らの活動について語る。彼らが上京するに至った背景には、比叡山の高僧心海からの上京と宗論の提案があったが、彼らが到着した頃、すでに心海は入滅しており、弟子の大泉坊乗慶に便宜を図ることを依頼するも、彼らが期待したようには運ばなかった。洛中に家屋を得て布教活動を始めたが、市中の人々からは嫌悪され、家主からも嫌われたために、住居を転々とせねばならなかった。しかし、将軍足利義輝への謁見が叶い、義輝が彼等に好意的に接したことが判ると、人々の態度は軟化し始め、その後は諸宗派の仏僧たちが彼等との宗論に訪れた。仏僧の多くは、最初は興味と揶揄いで訪問してきたが、宗論を交わした後に、キリシタンになる者も現れ始めた。同じく、賀茂在昌のような陰陽道関係の下級貴族の中にもキリシタンになる者が現れた。江戸幕府の禁教後も、宣教師が齎した医学と天文学は「南蛮流」「阿蘭陀流」という形で、知識人の間で継承されていくが、この頃すでに、彼らが宣教において天文学を説いていたことが、そこからも推測される。洛中の人々から嫌悪され迫害される一方で、当時事実上畿内を支配していた三好長慶の有力家臣の中にも教義を聴きに来て、キリシタンに改宗する者が現れ始めた。結果として、このロウレンソの書翰では、多くの仏僧の改宗が報告されている。
 「一五六一年十月一日付、日本発、ルイス・デ・アルメイダの、インドにあるアントニオ・デ・クアドロス宛書翰(一四七号)」では、豊後での布教活動に従事していた修道士のルイス・デ・アルメイダが、一五六一年六月、布教長トルレスの命令により、平戸地方での訪問布教活動に任じられ、その旅の様子が克明に記される。豊後府内を出発したアルメイダはまず博多に逗留する。博多には大内氏滅亡後、多くの関係者が移住してきており、そのうちの一人であった大内義隆あるいは義長の「説教師」であった老僧が、アルメイダとの一週間にわたる宗論の後にキリシタンに改宗した。博多にはすでに教会堂が存在したが、コスメ末次興膳の寄進により、新しい教会堂が造作されていた。末次興膳は宣教師らが博多に滞在する際、自宅を宿泊所として提供していた。平戸に到着したアルメイダは、当時すでに改宗していた籠手田安経らに迎えられた。アルメイダの訪問先は、平戸港周辺の中心部、春日、獅子、飯良、生月島、度島などであった。それぞれの地域のキリシタンの詳細が語られるが、これらの地域の教会堂には、元々仏教寺院であった建物が利用され、仏像などが取り払われて、キリスト教の聖画や十字架が掲げられていたことが、この書翰の随所から判明する。またそれらの寺院にいた仏僧らはそのままキリシタンとなり、看坊や同宿として、信徒の指導にあたったことが記されている。日本で最初の集団改宗がおこなわれた籠手田領内の改宗事業は、その後の九州などでの集団改宗のモデルとなったと考えられ、大変興味深い記録である。
 なお本冊出版にあたり、J. Ruiz de Medina, Documentos del Japón からの一部転載について快く承諾してくださったローマ・イエズス会歴史文書館に御礼申し上げる。編纂にあたっては研究支援推進員の大橋明子氏と松本和也氏の助力を得た。
 (訳文編―目次三頁、例言六頁、本文二二三頁、索引一五頁。原文編―目次三頁、例言三頁、本文一四一頁、索引八頁、本体価格一四、七〇〇円)
担当者 岡美穂子・岡本 真



『東京大学史料編纂所報』第53号p.60-61