東京大学史料編纂所

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刊行物紹介

大日本史料 第十二編之六十一

本冊には、前冊の最後に収めた元和九年(一六二三)年二月十日条「秀忠、越前北荘城主松平忠直ノ所行ヲ譴メテ隠居ヲ命ジ、子光長ヲシテ跡ヲ継ガシム、尋デ、忠直ヲシテ豊後萩原ニ隠居セシム、」の続きとして、同条の〔参考〕および〔附録〕を収めるとともに、その便宜合叙三件を収めた。
 〔参考〕では、その内容を、①武家補任等ニ於ケル記述、②徳川実紀ニ於ケル記述、③津山藩編纂物ニ於ケル記述、④福井藩越前世譜等ニ於ケル記述、⑤越前世譜等以外ノ福井藩内ノ伝書ニ於ケル記述、⑥其外ノ諸史料ニ於ケル記述、⑦事件後ノ松平忠直旧臣ノ消息ニ関スル記事、⑧越前陣ニ関スル記事、⑨其他ノ記事、の九テーマに分割した。
 このうち①は、武家補任類および「元和年録」、「御当家紀年録」、「東武実録」、「藩翰譜」等の中から、近世前中期以前の武家社会の中で、ある程度共通の認識としてオーソライズされていたと考えられる忠直事件関係の記事を拾った。②は、一九世紀段階に幕府が編纂した徳川実紀における事件の記述がどのようなものであり、どのように作成されていったかを示す史料を収めた。②の記述は、後出の③における津山松平家の見解を強く反映しているものとなっている。
 ③は、忠直の長男光長の系統である津山松平藩の修史事業による編纂物(「津山松平家系譜」等)における事件の記述、④は、忠直の弟忠昌の系統である福井松平藩の修史事業による編纂物(「越前世譜」)における事件の記述を収めた。③と④は、互いに共通する情報を交えつつも立場による違いがある。たとえば、忠直が越前を去った直後から翌年の忠昌の越前入部までの越前の領主がだれであるかについて、近世中後期以降、光長であったとする③と、そうではなかったとする④で、明確に見解が分かれるようになっている。⑤は、福井藩領内において、④に収めた福井藩の正式の修史事業とは別に、様々な主体により作成されていた種々の伝書を成立順に集めた。所謂「一国女」の言説は、⑤では天明初年ころ成立の「越藩史略」に初出するが、④の系統には入ってこない。また、③・④・⑤ともに一八世紀以降の成立である。
 次に⑥は、①~⑤以外の、全国で成立・伝来した諸史料における記述を集めた。いずれも当事者とは離れた第三者の立場から、各人が耳にし目にしえた忠直事件の言説を記している。もっとも早い万治三年成立(忠直歿の十年後)の「石川正西覚書」では、忠直は「御機むら」であり、「御内大身衆切腹之時、侍衆をおほく御ころし」「其上江戸御参勤遅々」したので、「此御科しめ」のために「流人」になったと記している。以下、各地で、事件に関連した言説が「夜話」等の場で語られ、様々な写本に書き記されて流布していく。
 ⑦は、事件の起こった時に忠直に仕えていた旧家臣のその後の消息について、処罰されて他家に預人になった例や、牢人の後、他家に仕官した例を中心に、諸家の史料から拾い出した。預人の事例としては、他の史料では処刑されたとされていることの多い小山田貞重が、承応三年の死去まで、館林榊原家や米沢上杉家に預けられていたことが、「上杉年譜」で確認できる。また、隣藩加賀藩前田家家臣の「先祖由緒幷一類附帳」では、忠直旧家臣の前田家への御預や仕官の事例が二一件確認できる(当該史料では、加賀藩家臣先祖等の越前松平家との関係を示す記述のあるものは、他にも多数あるが、ここでは、忠直事件との関係が明確なものに限定した)。
 ⑧は、忠直事件に関連して、全国で軍役動員が準備された所謂「越前陣」の記憶に関する記事を、彦根井伊家、久保田佐竹家、津藤堂家の史料から拾った。とくに元禄期に佐竹家の家臣が提出した元禄家伝文書には、多数の「越前早駈御陣」等の記述がなされている。
 ⑨では、忠直が越前を去る直前の敦賀滞留時に、北荘孝顕寺住持に送った書状を収めた。
 次に、一件目の便宜合叙は、「松平忠直ノ越前退轉前後ヨリ越後高田城主松平忠昌ノ越前入部迄ノ間ノ越前仕置等ノコト」として、事件前後の越前領主としての仕置きの様子を示す発給文書を収めた。元和九年正月から二月当初ころまでは、忠直自身の印判が用いられているが、その後、本人の発給文書は見られなくなる。かわって、四月二日の豊原寺宛の文書や六月十二日の勝山神明別当興福寺宛のものには、光長の母親である勝子の関与を示すと解釈できる別の印判が捺されている。興福寺宛のものには、同時に本多冨正等四名の家老たちが連署を据えているが、彼らは、勝子関与の印判が見られなくなったあとも、引き続き翌年初頭まで、連署状発給や、領内仕置きの主体となっていることが確認できる。一件目の便宜合叙の〔参考〕としては、越前鳥羽野の開発と忠直の関係を記す史料等を収めた。忠直が、事件の最中に 鳥羽野を自らの「御在所」としたとする由緒を持つ山森家の史料と、それが幕末以降の「越前世譜」に反映されていく過程を示す史料が中心である。
 二件目の便宜合叙は、「松平忠直ノ豊後滞在中ノ身邊ニ関ハルコト」とした。丸岡齊家文書では、豊後入り直後の忠直の生活関連の算用を窺うことができる。豊後岡藩中川家の史料では、豊後に同行した忠直の娘たちが寛永二年に江戸に戻される際の緊迫した状況や、寛永四年の萩原から津守への移徙前後の様子等を確認できる(以上は、入江康太氏「松平忠直の居所移轉時期にいての一考察」〈『大分県地方史』二一〇号、二〇一〇〉「「萩原御姫様」の江戸行―寛永二年の松平忠直娘の居所と移動―」〈『大分県地方史』二二六号〉を参照した)。熊野神社文書には、津守において忠直が崇敬した同神社等への祈念の記録が記されている。他に、豊後府内藩家老岡本家文書、豊後国正保郷帳からは、忠直領村々の構成について、一次史料に基づいた情報を得る事が出来る。正保三年の土佐山内家御手許文書には、晩年の忠直の様子について、江戸に伝えられていた情報が記されている。豊後における忠直およびその一行の医者であった小野家に残された小野文書には、豊後滞在中の忠直の肉声が自筆で記されている。この便宜合叙分への〔参考〕には、豊後現地で作成された編纂記録等を収めた。これらの記録の中には、豊後でも流布するとともに、近世後期から幕末、明治初年にかけて、福井藩や津山藩関係者による調査の際に写本が作成されたものもある。
 三件目の便宜合叙は、「松平忠直ノ豊後移轉ニ伴フ豊後岡城主中川久盛トノ替地交渉ノコト」とした。忠直の萩原移轉に伴い、萩原村を取り上げられることになった岡藩中川家と幕府の間の替え地交渉は、「中川家記事」等で細かく跡づけることができる(この部分については、前冊に引き続き、入江康太氏「松平忠直配流に伴う岡藩の替地交渉について」〈『大分県地方史』二〇四号、二〇〇八〉に負うところが大きい)。
 以上の本冊本条の編纂に関連して、二〇一二年~二〇一五年度科学研究費補助金基盤研究(B)「十六~十七世紀の日本海地域における情報と大名」(課題番号二四三二〇一二五)の成果報告書『近世初期の大名と情報』(東京大学史料編纂所研究成果報告 二〇一五―一 二〇一六年三月)において、関連する複数の研究報告を収めている。併せて参照されたい。
 忠直隠居に関わる本條は、前冊より続いてきたが、本冊をもって終了する。
(目次二頁、本文三七一頁、本体価格八、二〇〇円)
担当者 佐藤孝之・小宮木代良・及川 亘


『東京大学史料編纂所報』第52号p.42-44