大日本史料 第十編之二十九

本冊には天正三年(一五七五)三月一三日条から、長篠の戦いの前日にあたる五月二〇日条までを収めた。
 本冊における朝廷関係記事では、三月一四日条の徳政が注目される。織田信長はこの日、廷臣たちに対し身分に応じて米を支給し(たとえば中山孝親は五石、同親綱は三石、中原師廉・壬生朝芳は各二石)、くわえて門跡・公家衆の借物等を棄破する徳政を発令した。
 この徳政については、下村信博氏の包括的な研究(『戦国・織豊期の徳政』吉川弘文館)があり、編纂にあたっては、この下村氏の研究に依拠するところ大であった。下村氏が同書において引用・言及した史料の全文を収めるように努めたほか、この徳政により借物棄破などの恩恵を蒙った公家中御門宣教の日記『宣教卿記』の関係記事や、関係する紙背文書を収めた(前冊に引きつづき『宣教卿記』・同紙背文書は早稲田大学図書館所蔵の自筆原本を底本とした)。
 また、この徳政に端を発して、その後問題となる所領返付や新寄進に関わる史料を便宜合敍として収めた。下村氏の研究以降に見出された関係史料としては、「相国寺本坊文書」所収の信長朱印状写や、丹羽長秀・太田信定(牛一)が媒介した、曲直瀬道三による賀茂別雷神社老者田の寄進に関わる算用状・年貢米定書などがある。
 本冊における信長の動向のうち、もっとも分量が多いのは、武田勝頼の軍勢に包囲された三河長篠城支援をめぐる一連の条であるが、それらはひとまずおき、長篠関係以外の記事から先に述べることにする。
 長篠城支援とも密接に関わることがらであるが、この時期信長は大坂本願寺を攻めるため河内・摂津に出陣していた。関係史料は、出陣して河内高屋城の三好笑岩(康長)を攻め、これを降した四月八日条、帰陣する同二一日条、京都から岐阜に帰る同二八日条に分けて収めた。
 それらによれば、三月の上洛(前冊三月三日条)直後に、四月六日出陣という陣触れが出されていることがわかり、そのとおり六日に出陣している。なおこのことを示す根拠となる文書のうち、『於曽文書』三月十五日付大和孝宗書状(穴山信君宛)は、本文書を紹介した須藤茂樹氏「穴山信君と畿内諸勢力―武田外交の一断面・史料紹介を兼ねて―」(『武田氏研究』四六、二〇一二年)では天正二年と比定されているが、他の史料で確認できる信長の上洛日や河内出陣日が一致することにより、三年のものと判断し四月六日条に収めた(この点は和田裕弘氏のご教示にもとづく)。
 信長はこの出陣に先立ち、長岡藤孝に対して、丹波船井・桑田両郡の武士たちを動員して、秋に予定する本願寺攻めのための合城(付城)構築を命じている(三月二二日条)。
 そのほか信長の動向として注目されるのは、塙直政の大和国守護兼任(三月二三日条)、養女と権大納言二条昭実との婚姻(同二八日条)がある。
 後者については、朝廷・公家側の日記三種(『御湯殿上日記』『宣教卿記』『大外記中原師廉記』)の書き方が微妙に異なる。総合的に判断すれば、足利義昭の上﨟佐子局に祗候していた播磨の国衆赤松某の娘を、信長が養女の扱いで昭実に嫁さしめたものと思われる。
 『言継卿記』永禄一二年二月二〇日条に、「今日武家へ播州宇野下野女小上﨟に祗候云々」という記事があり(十編之一所収)、ここに見える宇野下野息女がこのとき養女となった女性に該当するようにも思われるが、確証はない。
 さて、武田氏の三河攻撃関係の史料は、四月一五日・同二九日、五月一三日・同一八日・同二〇日各条に分けて収めた。武田軍が三河に侵入したのは、『信長記』によれば三月下旬のことだとされる。このとき勝頼が徳川氏を攻める決断をしたきっかけのひとつは、岡崎の町奉行であった大岡(大賀)弥四郎が内通したことによるという説が、『新編岡崎市史』二(新行紀一氏執筆)以来とくに注目されている。
 もともと『史料綜覧』でも、この事件は四月五日条として立項されていたが、検討の結果、右の見解を受けて、武田軍侵入の前提と位置づけ、同一五日条のなかに大岡の一件をめぐる史料を収めた。
 このとき武田軍の先勢が三河足助城を攻撃したことなどを記す文書について、従来は元亀二年に比定され、一部は同年四月一九日条(十編之六)としてすでに収められていた。しかし近年、鴨川達夫氏がこれらを天正三年に比定し直す研究を公表している(『武田信玄と勝頼』岩波新書、二〇〇七年)。
 本冊ではこの鴨川氏の見解に従い、元亀二年四月一九日条既収の史料も、重複をいとわずあらためて天正三年のものとして収録し直した。
 先勢が足助城等を攻略するいっぽうで、勝頼率いる本隊も三河に入り、同国二連木・牛久保・吉田城等を攻撃し、さらに兵を進め長篠城の包囲、攻撃を開始した。これに関わる史料は四月二九日条に収めた。
 ここでは、近年『正福寺文書』として紹介されることが多い(『戦国遺文武田氏編』『山梨県史資料編4』)卯月二八日付勝頼書状(杉浦紀伊守宛)について、『正福寺文書』のほうは写と判断し、原本に拠った影写本が『武田勝頼書状』(田中義成氏所蔵)として別にあるので、こちらを採録した(なお元亀二年四月一九日条でも同じ底本により採録されている)。
 また、『徴古雑抄』五六所収文書(四月朔(晦)日付武田信豊書状写)の閲覧については、丸島和洋氏の格別なるご高配にあずかった。記して感謝申し上げたい。
 本冊では、とくに奥平家側に残る史料について重点的に調査を行い、関係記事を採録している。中津城所蔵『奥平家世譜』、中津市立小幡記念図書館所蔵『御家譜編年叢林』などがそれにあたり、これらは奥平家(中津藩)において編まれた史書である。
 また、奥平信昌の子家治・忠明が立てた別家にあたる忍藩松平家(いわゆる奥平松平家)家中の由緒書上をまとめた『勤書』『旧忍藩士従先祖之勤書』から、このとき戦功をあげた奥平家家臣たちの事跡を収めた。
 これらの由緒書上は、丸山彭氏の研究(『烈士鳥居強右衛門とその子孫』長篠城址史跡保存館、一九七三年)により、鳥居強右衛門尉の末裔に関する部分のみ一部紹介されていたが、このほど全体を調査し、このときの籠城戦に関わった家臣たちの記事を収めることができた。これらの史料は、現在行田市郷土博物館所蔵・寄託にかかり、閲覧にさいしては同館副館長鈴木紀三雄氏のご高配にあずかった。記して感謝申し上げたい。
 五月一三日条には、長篠城を支援するため三河に出陣した信長の動向、また、四月二九日条に引きつづき、同城に籠城した徳川方奥平信昌の兵と武田軍の交戦の様子、および包囲された同城から信長および徳川家康に支援を要請した信昌の臣鳥居強右衛門尉に関する史料などを収めた(なお強右衛門尉の死没日は、三河甘泉寺の位牌では一六日と伝えられている)。
 強右衛門尉の死をめぐる文献史料として早い時期に成立したのは、『三河物語』および『甫庵信長記』である。ただし『甫庵信長記』の場合、慶長一七年の奥書がある古活字版に強右衛門尉の記事は見えず、その後寛永年間に板行される板本において増補されている。このことを鑑みて、本条では関係部分について双方を採録した。
 強右衛門尉の死をめぐっては、後世の史書・軍記により差異が見られるため、他と異なる記事のある史料は可能なかぎり収めた。強右衛門尉没後の鳥居家は家治に付属し、そのまま松平家家臣となったため、前記忍藩の由緒書上中にも記事が見られる。それによれば、子息は関ヶ原の戦いにおいて安国寺恵瓊を捕える功をあげ、さらに大坂の陣にも参陣した。それらの功により大坂町奉行などを勤め、最終的に一二〇〇石を給されたという。
 史料編纂所には、この強右衛門尉が磔にされたときの姿を描いたとされる「落合左平次道次背旗」(以下「背旗」とする)が所蔵されている。これを制作した落合道次については、没した元和六年にかけ、その伝記史料が十二編之三十五(元和六年雑載・疾病死没条)に収められ、背旗のモノクロ写真が「落合左平次指物」として掲載されている。
 この背旗については、丸山氏の研究を受け、近年史料編纂所特定共同研究において、道次末裔落合家に伝えられた史料を調査した結果、同家に系図・覚書などの文献史料、および道次以降代々新調された旗指物が所蔵されていることを確認し、これらの撮影・分析などを行った。それによって「背旗」は初代道次が制作したものであることが確定的となった(金子「落合家所蔵の旗指物と「落合左平次道次背旗」」『東京大学史料編纂所附属画像史料解析センター通信』五六、二〇一二年)。
 これら調査の成果を受け、史料編纂所に寄せられた寄付金を財源とした「背旗」の修理が行われた。これまで掛幅装であったため旗の片側しか見ることができなかったが、解体の過程で裏面にも同様の図柄が描かれていることが判明し、また落合家に残る文献のとおり、血痕が付着していることも確認された(高島晶彦・山口悟史・市宮景子・金子「東京大学史料編纂所所蔵「落合左平次道次背旗」の保存修理について」『東京大学史料編纂所附属画像史料解析センター通信』七一、二〇一五年)。このため修理後は表裏両面を鑑賞できるよう衝立状に仕立てられた。
 本冊では以上のような編纂にともなう研究成果を示すため、史料編纂所写真室において新たに撮影された背旗表裏両面のカラー図版に加え、背旗に関する落合家の史料、および同家から主家であった紀州徳川家に対し明治二四年に出された背旗等の献上願(十二編之三十五既収)、江戸時代後期にこの背旗が写され、流布してゆくさいに付けられた兵学者平山兵原(潜・子龍)による賛文などを収めた。
 以降五月一八日条では、援軍としてやって来た信長・家康の三河有海原への布陣、同月二〇日条では、これを受けての勝頼軍の渡河布陣に関する史料を収めた。とりわけ二〇日条では、この日付での勝頼書状二通(『武田勝頼書状』『桜井文書』)、信長黒印状一通(『細川家文書』)が存在し、長篠の戦い前日段階における双方の総大将の認識がうかがえ、興味深いものとなっている。
 つづいて織田領以外の諸国に関するものを見ていく。まず東国の武田氏関連では、勝頼が三河に向けて軍勢を出したこともあり、内政に関するものは、一族の穴山氏のものを含めても安堵状ほか五通と減少している(三月二一日条・四月一日条)。その一方で隣接する北条氏関連では、海上交通に関するもの(三月二五日条・四月四日条)のほか、江戸城将の交替指示や小田原城城門に関する詳細な規定、あるいは北条氏邦による陣番の指示など、軍事・城郭関連のものが続いている(三月一六日・二〇日・二二日条)。前年閏十一月の関宿合戦を受けて、なお軍事体制の見直しを継続していたことになろう。その関宿周辺では復興事業として、簗田持助が不入権を認める文書を出し(三月一五日条)、北条氏政が総寧寺を建立している(五月二〇日条)。
 また、関宿が陥落したことで、北関東で反北条の立場にあった諸氏は攻勢の矢面に立つこととなり、小山氏は「乱中」「籠城」するほどの危機的状況に陥っている(三月一五日条・四月一六日条)。こうした状況に、彼らの盟主的存在であった上杉謙信は、北条氏政の殲滅を多聞天に祈っているが、軍勢を出すまでには至らなかった(四月二四日条)。
 目を西国に転じてみると、小山氏らと同様の危機を迎えていたのが、備前の浦上氏や備中の三村氏である。本年正月に備中に侵入した毛利氏は、着実に三村方諸城を攻略した。毛利氏に同調した宇喜多直家もまた、三村氏や三浦氏・浦上氏への攻撃を繰り返し、各地で戦火を交えている(三月一五日・一六日条、五月一日条)。ちなみに『史料綜覧』で五月九日条、五月一七日条、六月四日条で立てられている浦上氏関連の条文は、一連のものであるため、五月一日条でまとめて採録をした。
 なお、この備中兵乱に関して、三村氏や浦上氏が広範な諸氏と連携していたことが、近年、森脇崇文氏によって指摘されている(「天正初期の備作地域情勢と毛利・織田氏」『ヒストリア』二五四、二〇一六年)。本冊でもこれに従い、毛利氏侵攻に窮した三村元親が阿波の細川真之に援軍を求めた文書や、信長による浦上―宇喜多間の和睦介入を示す文書を天正三年のものと比定し、それぞれ採録した(三月一八日条・四月五日条)。
 四国では、長宗我部元親が土佐東部の計略を進めるだけでなく(三月是月条)、京都の策彦周良とも交流を深めるなど(四月是月条)、その存在感を徐々に高めている。
 九州北部では、大友氏と龍造寺氏との対立が続き、大友氏方の原田氏と龍造寺氏方の神代氏が衝突している(四月一五日条)。龍造寺隆信は、松浦氏と盟約を結び、肥前西部での足場を固めつつあった(五月六日条)。九州南部では、島津義久の代始め行事として、犬追物が張行され(三月一五日条)、琉球国王尚永から家督相続を祝う使節が鹿児島に到着している(四月一〇日条)。いずれも『上井覚兼日記』が残されており、義久の意向に島津家中が一致団結して従っていなかった事実や、島津氏と琉球との力関係の変化などが詳細に記されており、じつに興味深い。なお三月二二日条で、島津義久が叔母にあたる樺山忠助母に所領を宛行う文書を採録したが、本文書の原本は、本所で二〇一六年度に開催した第三七回史料展覧会「史料を後世に伝える営み」において展示した。
 本冊には、卒伝として、四月六日条に、同日に薨じた久我通堅(通興・通俊)に関わる史料を集録した。通堅父久我宗入(晴通)が前月の三月一三日に薨じて(卒伝は前冊収録)から一ヶ月も満たないあいだに、父のあとを追うようにして薨じたことになる。
 父宗入は、もともとの出自である近衛家との関係から室町将軍に近く、政治的な活動が見られある程度の発給文書が確認できるのに対し、子通堅はそうした活動は史料上確認できず、発給文書としては、彼が出した書状一点を『言継卿記紙背文書』に見出すことができたのみであったので、この図版を掲載した。
 通堅は右記のような人物であり、既往の綱文にもその行動が収められがたいこともあって、本条収録の史料によって通堅の公家としての活動が示されるように努めた。
 それらを見ると、彼はとくに奏楽に長けていたようであり、禁裏で催される御楽のさいなどには、箏の奏者として名前を連ねることが多かった。歌道では、公家としてそれなりの嗜みがあるといった程度で、山科言継らとともに催す月次和歌会の一員であったようであり、『言継卿記』中にその記事が散見する。
 しかし通堅の名を歴史に残すことになったもっとも大きなできごとは、永禄一〇年一〇月に発覚した、禁裏女官目々典侍との密通事件という不名誉な事件であった。この事件については、近年神田裕理氏の論考「戦国~織豊期の朝廷運営に見る武家権力者の対応」(『研究論集歴史と文化』創刊号)でも触れられ、注目されている。『大日本史料』では永禄一〇年一一月二三日条での立条が予定されているものの、刊行計画などを考慮し、通堅の卒伝記事として、本冊に関係史料を先に収めることにした。
 この咎により、通堅は勅勘を蒙り解官されて洛中からの出奔を余儀なくされ、和泉堺に逼塞する。その後父宗入の奔走により、廷臣や織田信長らを仲介とした勅免奏上がなされるものの(十編之四・元亀元年三月一日条)、正親町天皇はこれを赦すことはなかった。
 とはいえ、通堅はしばしば京都に滞在し、久我第の近所に住んでいた旧知の山科言継らと対面していることが、『言継卿記』からうかがえる。元亀二年四月には落馬負傷したことが同記に見え、しばらくその傷は癒えなかったようである。
 『言継卿記』の欠落による偶然なのか、この負傷が彼の身体に影響を及ぼしたのかはわからないが、その後史料上で彼の動向を追うことができなくなり、四月六日に堺において薨じたことが『公卿補任』によって知られるのみである。『久我家譜』によれば、没後の天正九年にようやく勅勘を解かれている。
 また本冊の期間中、東からは今川宗誾(氏真)が、西からは島津家久が相次いで上洛し、それぞれ紀行文としての性格も持つ『今川氏真詠草』『中務大輔家久公御上京日記』を残している。
 前者は、おそらく遠江浜松城にあったとおぼしき宗誾が出立し、この詠草を起筆した正月以降、三河の情勢が緊迫化しているという噂を耳にし、四月下旬に京都をあとにしてから、長篠の戦いが決着してその後落武者狩りが行われ、駿河方面まで戦火が拡大したという噂を記す五月下旬までの記事を収めた(三月一三・二〇日条)。
 今川宗誾に関連して、『信長記』をもとに、三月二〇日条として、宗誾を招いての相国寺における蹴鞠の記事を収めた。しかし日付については、谷口克広氏によって疑問が提示されており(「太田牛一著『信長記』の日付についての考察」、金子編『『信長記』と信長・秀吉の時代』勉誠出版、二〇一二年)、注意を要する。
 『今川氏真詠草』は基本的に彼がこの間詠んだ歌を記すのみだが、それぞれの歌に添えられた詞書と、歌の内容などから、彼が主に東海道を経由して京都に到着するまでの道のりや、洛中洛外のどこを見物して回ったかなどを詳細に跡づけることができる。京都滞在中、宗誾は相国寺において信長と対面し、百端帆という釣花入を献上したり、公家たちと蹴鞠に興じたりしている。
後者は前冊二月二〇日条に続く記事を収めた(四月一五日条)。この間、筆者の家久は、兵庫津から畿内に入り、宗誾と入れ替わるかのように四月二一日京都に到着した。その後彼は京都だけでなく、近江・伊勢・大和などの名所を見物して回る。その見物ペースは非常に精力的で、たとえば四月二八日には、信長の出京を見送ったあと、四条から六波羅蜜寺・清水寺・鳥辺山と回り、泉涌寺から三聖寺を経て三十三間堂に抜けるという強行軍をこなしている。夏場の日が長い時期とはいえ、詰め込み式の物見遊山は、前出の『今川氏真詠草』とあわせ、当時における地方教養人層の洛中洛外観光の様子を具体的に示すものとして興味深い。
 家久は、本願寺攻めから信長が帰京したさいにも、洛中で寄宿していた連歌師里村紹巴の弟子心前と一緒にこれを見物し、信長の幟の紋について「黄礼(永)楽といへる銭の形」であると記していたり、母衣衆二〇人・馬廻衆一〇〇騎のように供衆の数を記すほか、馬上の信長の扮装は皮衣であり、眠りながら洛中を通っていったことなど、興味深い観察が見られる(四月二一日条)。
 紹巴の案内で五月に近江を訪れたさいには、坂本城の明智光秀と交流し、城内の倉や薪の蓄えなどに驚嘆している。信長らが武田軍と対峙するため三河に向かった留守中における光秀の動静を知るうえでも、貴重な史料である。
 編纂にあたっては、二〇一〇~一五年度史料編纂所特定共同研究「関連史料の収集による長篠合戦の総合的研究」、二〇一六年度同特定共同研究「戦国合戦図の立体的復元」、および二〇一二~一五年度科学研究費・基盤研究(B)「中世における合戦の記憶をめぐる総合的研究―長篠の戦いを中心に―」・史料編纂所附属画像史料解析センター「長篠合戦図屏風プロジェクト」による調査の恩恵を受けた。これらの共同研究にご参加いただいた所内教員・技術職員各位、また所外の共同研究員各位に厚く御礼申し上げる。
(目次一二頁、本文五二一頁、本体価格一〇、三〇〇円)
担当者 金子拓・黒嶋敏

『東京大学史料編纂所報』第52号 p.38-42