東京大学史料編纂所

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刊行物紹介

大日本古文書 家わけ第十八 東大寺文書之二十三

 本冊は、東大寺図書館所蔵東大寺未成巻文書の1-24(雑荘)のうち、1-24-83から335までを翻刻する。
 東大寺未成巻文書の整理は、約百年前の中村直勝氏による。著名な「黒田荘」(1-1)から始まり、所領単位の整理を経て、本冊で扱う「雑荘」に至る。「雑荘」たる所以は小規模な荘園ごとのまとまりを目論んでものであったかに思われ、冒頭部はその実現を一定度果たしているが、進行するに従い、整理途上の文書の固まりの感が強くなり、続く1-25(雑)との境界は必ずしも明瞭ではない。
 つまり1-24は、いまだ十分に研究資源化されていない―その年紀やその属性が不明である―ことを意味する。もとよりこれまでの研究によって、明らかにされた点もあり、本冊ではその成果を吸収しつつ、より研究資源として利用できるための努力を払った。特に力点をおいたのは、前欠・後欠文書の復元、無年号文書の年次比定である。
 以下では、中世前期を中心に関心を引いたものを紹介する。
〔院政期の大和小東荘〕
 現在の北葛城郡河合町付近にあった。一一世紀中頃より大仏の仏前に捧げる大仏仏聖白米免田が設定され、やがて院政期には領域のある荘園として成立する。すでに未成巻文書1-19として部立てされ、前冊『大日本古文書東大寺文書之二十二』に収録した。
 本冊には、保延年間の荘内の大田犬丸名をめぐる東大寺大仏殿権堂司と春日社権年預との相論に関する文書を収めた(一九八六・一九九四・一九三六号)。摂関家氏院である勧学院を法廷として争われた相論の争点は、春日社供物と大仏供物を負担する田地の混在にあった。東大寺側は、春日社側が大仏白米免田の点定を不当と言い、一方、春日社側は、東大寺側が不当に免田範囲を拡大していると主張した。春日社が点定のため立てた榊を引き抜いた在地田堵の書状もある。春日社の人格支配のもと、春日社節供の過重な負担に耐えかね、東大寺と連繋して節供の免除を得たいとの思惑を示す。
 この他、小東荘は永暦元年においても、荘内に問題が発生しており、寺内有力三綱である覚仁への、相論の当事者たる僧侶書状がある(二一二三号)。差出の僧侶は、今回の悪事の根源は土民であるから、彼らを厳しく取り締まるよう提案する。保延年間の在地田堵は東大寺側であったが、ここで東大寺に従わない住民の存在も認められる。状況に応じて上級領主への対応を変えるしたたかさを見ることができるのではないか。
〔保元・平治の大和国内検注〕  信西主導の保元の新制は、知行国主関白藤原忠通による検注という形で、大和においてもその痕跡を残している。国衙領の回復によって、朝廷への富を増進させるためと言える。その具体例として一九三七・三八号に見える、大和国内東大寺領雑役免の諸荘への、一国平均役伊勢斎宮野宮役賦課がある。国衙検注の背景には、一国平均役賦課があったと推測できる。
 当初、国主忠通は、国衙よりの検注使者と、荘園現地の図師が共同して、現地で検注を実施することを指示している(二〇八〇号)。しかしその後、大仏仏聖白米免・同燈油免の東大寺領については、雑役免除が後白河院の意向として確認され、東大寺側は、寺領免田の確保に努める。寺領にむけて報告を命じている(二〇〇四号)。年未詳であるが、大和大宅・櫟・東羽鳥諸荘の坪付があり、あるいは平治の検注に関わるものかと思われる(二〇六九号、もしくは後述の氷馬役に関わるものか)。大和目代は、こうした東大寺の動きに対して、免除田地の確定に協力する旨を通知する(二〇〇九号)。
 なお大仏殿燈油領大和東喜殿荘に関する永仁年間と推定される二〇一〇号には、「宝元年中検注」と見えている。保元年間の検注と関連するものとして、「保元」の校訂注をつけた。
〔別当顕恵関連の文書〕
 顕恵は、後白河院の寵姫建春門院の母方のオジであり、平清盛・後白河との関係を背景に伊賀黒田新荘を獲得するなどの事績を残している。菅生荘に関する一九五七号については、別当顕恵に関連するとの先行研究の指摘がある(五味文彦「院政期知行国の変遷と分布」〔『院政期社会の研究』山川出版社、一九八四年〕)。本冊二〇四四号は、清盛と交換した越前大蔵荘の不入の宣旨を求める顕恵の解である。別当顕恵の領した菅生・大蔵両荘は、その後東大寺史にその痕跡を認めることができない。別当文書の本寺文書への流入と解釈できる。
 なお菅生荘は、現在上総国のそれに比定されている。奉者である惟宗忠行を上総国知行国主九条兼実の家司と判断したためと考えられる。しかし彼は播磨知行国主松殿基房の家司とみるべきである。同国には後に宣陽門院領となる菅生荘(島田文書)があり、これが本文書の菅生荘にあたると判断し、播磨の校訂注をつけた。本家建春門院・領家別当顕恵と考えられる。
〔寿永元年・二年の氷馬役〕
 氷馬役は、現在の氷室神社(奈良市)付近にあった大和の都祁氷室から京都への氷運送の役夫である。内乱の最中、寿永元年・二年での氷馬役をめぐる東大寺と朝廷とのやり取りに関する文書がある。
 朝廷・後白河は、東大寺領の氷馬役免を認め、今後氷馬催促の使者が荘内に立ち入った際は召し捕らえるよう東大寺に通知した(一九九九号)。
 しかし、免除対象をめぐって東大寺と、氷馬担当の朝廷主水正との間で意見対立が発生。造東大寺司弁官藤原行隆は、東大寺別当に坪付注文の提出を催促し、別当から東大寺執行に伝達された(二一四一・二〇六一号)。一方で主水正は、東大寺側による現地での妨害行為を弁官行隆に訴えている(二〇六四号)。この他、主水正を非難する後白河院近臣の高階泰経の書状(一九四三号)もあり、東大寺寄りの立場をとる、後白河・造東大寺司弁官行隆と氷馬担当官司との内部対立の様相が窺える。
 さらに内乱期の大和国内は、氷馬役のみならず兵粮米も課されていた。義仲軍が大和国内に兵粮米を課した際の事情を示す書状がある。在地側では義仲方の「郎従」に課したものの、東大寺領には課しておらず、また「大和国の習い、事を寺社に寄せて」兵粮米を逃れようとする「郎従」の虚偽の主張と述べる(一九四五号)。社会の混乱の一面を伝えている。
〔内乱期・鎌倉前期の伊勢斎宮野宮役〕
 前述のように平治年間に東大寺領には伊勢斎宮野宮役が課されており、その後も治承二年・文治二年・建保四年に課されている。
 治承二年の高倉天皇綸旨(二一二四号紙背)は、野宮役免除を要求する東大寺別当への回答。今回は、寺社・権門も平均の課役であるという方針を告げる。「公事の道は貴賎・親疎によらず」公平を旨とするとの文言は、内実はともかくも政治における公平性・公正性という観点から極めて現代的な意味を持つ。
 文治二年の文書(一九五〇・二〇四八・一九八一号)においては、東大寺は、天治年間の免除の先例と、再建事業進行中の現状を楯に、免除を要求している。すでに見た保元・平治については言及しておらず、翻ってこの二度については所課に応じたことを示す。なお文治二年は免除となっている。東大寺再建事業が優先された結果と見られる。
 建保四年も所課・免除となった。野宮担当奉行弁の平経高の書状(二〇四七号)では、証拠文書審査の結果、後鳥羽が免除の判断をする可能性を示唆し、その直後の別当房官書状は東大寺上座に対して「落着」の旨を伝えている(一九一七号)。
〔興福寺による課役 その一 摂政九条兼実参詣〕
 外部からの東大寺領への課役は朝廷によるものだけではない。特に大和の場合、興福寺関係の所課が難問であった。
 文治四年正月、興福寺金堂など上棟が行われた。これは平家による南都焼き討ちからの再建事業の一環であって、時の摂政九条兼実は氏長者として臨席。その用途が大和国の諸郡・諸荘園に課された(二〇二八号)。その免除を獲得するために東大寺諸荘園現地から、在家数・田堵人数が東大寺に注進されている(一九五六・一九六五~七・一九六九号)。
〔興福寺による課役 その二 土打・段米〕
 さらに東大寺を悩ませたのは、鎌倉後期以降の土打・段米役である(安田次郎「勧進の体制化と「百姓」」『中世の興福寺と大和』山川出版社、二〇〇一年)。土打は瓦用の粘土を突き固めるための労働力、段米は費用一般を賄うための米と考えられている(小原嘉記「正安二年興福寺供養会にいたるまで」〔『南都寺院文書の世界』勝山清次編、思文閣出版、二〇〇七年〕)。この問題は、建治~正安・嘉元・正和・嘉暦の四次に渡る。本冊に集中する第一次期にあたる弘安・正応年間の文書である。
 建治三年落雷により興福寺は多数の堂舎を焼失。その興福寺再建のために興福寺は大和国内に土打・段米役を課した。東大寺はその免除のために粘り強く戦う。全体的な構図としては、大和支配者として実力行使をする興福寺、それに対して朝廷を通して幕府にまで働きかけることで何とかそれを阻止しようとする東大寺となる。
 特に興味深いのは、正応二年七月から一一月にかけての申状案(土代)等である。東大寺別当の指示により、土打・段米としてではなく、勧進としてなら賦課に応じる旨を、奈良の年預五師は興福寺に伝達(二〇三九号)。しかし一方で、京都にいる訴訟担当東大寺僧に対して、この「勧進なら応じる」という提案が決して六波羅探題の耳には入らないよう念を押す。そして同時に、彼ら在京僧侶が執筆する朝廷宛の申状には、六波羅の介入なしにはこの問題が解決しないことを必ず盛り込むように指示している(一九七五号)。果たして関東の口入依頼を求める申状が出された(一九二七号)。生々しい交渉術が窺えるのである。
 この他、第四次にあたるものとして、年未詳の二〇〇二号がある。この文書では、一旦は律宗の沙汰となった興福寺造営事業が、興福寺沙汰へと変更されたとしている。律宗僧侶は高い修造能力を発揮したと考えられるのだが、同時に様々な軋轢も生じていたことを示すものであろうか。
〔末寺光明山寺と摂関家領古川荘との境相論〕
 土打・段米相論と同じく、鎌倉後期に数次にわたる相論があるものとして、南山城にあった末寺光明山寺と川を境に南に接する摂関家領古川荘との境相論がある(『山城町史』、畠山聡「中世東大寺の別所と経営―山城国光明山寺を中心にして」『鎌倉遺文研究Ⅰ鎌倉時代の政治と経済』鎌倉遺文研究会編、東京堂出版、一九九九年)。本冊では建長・文永・正応・延慶および応長の四次にわたる文書を収録した。
 二〇九二号は、年未詳文書であるが、文中に二年連続の上皇南都御幸に言及することから、文永七年のものと考えられる。文永の相論時の東大寺の具体的主張が明らかになる。
 正応二年六月古川荘の勝訴とする院宣(二〇三三号)が下ると、東大寺はこれを不服として越訴を行う。越訴をうけて一時的に古川荘の権利は停止され、東大寺より現地に神人などが派遣されたが、古川荘はこれに乱暴した。正応二年九月の東大寺の申状案(土代)はその処罰を願い出たものである(一九七三号)。しかしこの申状は提出されなかった。ほぼ同内容の文書がひと月後の一〇月に出されている(二一四六号)。これによれば、一九七三号は、親王の慶事、おそらくは後深草上皇の皇子久明親王が、鎌倉将軍として関東下向したこと、を遠慮して奏聞されなかったのである。下書きが下書きに留まる場合のあることを再認識させられる事例でもある。
 延慶・応長年間の相論では、光明山寺を勝訴とする東大寺別当宛の院宣が下っている(二〇三二号)。東大寺に残る案文には、「正文は光明山寺に遣わす」とあって、権利獲得者に正文が伝来するという中世文書伝来の原則に合致する事例となっている。
〔文書出納関連〕
 東大寺文書の特徴のひとつに文書管理文書が豊富であることが指摘される。文書目録、文書保管庫である印蔵(いんぞう)よりの出納簿、年預五師の文書引き渡し簿、そしておなじく出納に関わる書状類が多い。
 このうち印蔵よりの文書出納簿は、おおむね別当任期単位で記録されたもので、適宜料紙を補充のために貼り次いでいる。しかし近世以降の整理の過程で糊剥がれにより分散してしまい、その全貌が不明であった。これについては、森哲也氏が網羅的に復元研究を進めており、近年その成果は学位論文『東大寺文書の形成と伝来に関する基礎的研究』(九州大学提出、未刊行)にまとめられた。同氏より学位論文のご提供を賜り、その成果を活用することができた。森氏に心より感謝申し上げる。
 二〇七九号は、別当寛暁の代の出納記録で、出蔵は仁平三年六月より翌四年四月まで、入蔵は保元二年五月末・六月上旬に集中する。そもそも、文書出納は東大寺別当が京都において、朝廷との折衝に際して利用するためのものであった。それに関わる東大寺別当からの東大寺への御教書として、一九五九号・二〇二九号がある。二一〇八号も文書の進上を命じる。後欠のためその差出は不明であるものの、上司目代の帰寺後に印蔵を開くことあるいは公文所下文の発給などの指示のあることを勘案すれば、別当御教書とみるのが妥当であろう。
 鎌倉後期の出納記録は二点ある。二一二一号は別当道融の代のもの。前欠によりわずか建治二年分のみである。末尾に題簽軸が付いていた形跡がある。二〇八二号は別当聖基の代のもの。出蔵は建治三年三月より弘安三年一一月まで、返納は建治三年四月より弘安四年二月まで見える。適宜返納の印象が強い。院政期と同じく別当の要請によるものだけでなく、百口学衆や大勧進の要請による出蔵がある。寺内体制の多様化の反映である。
 印蔵よりの出納記録は、院政期と鎌倉後期に集中的に残っている。前者は東大寺領荘園の確立期、後者は復興期に当たっている。荘園経営との強い相関関係を示す。東大寺文書は平安時代文書を豊富に伝えるが、文書の利活用がそれを可能としたとも言えるだろう。
〔その他―既刊分の補遺〕
 前述の小東荘以外にも、既刊分で部立てされている所領・末寺の遺漏は多くある。
 美濃国大井荘では、鎌倉末期から室町後期の五点の帳簿類を収めた(二一一七・一九七四・二〇二二・二〇一五号)。従来断簡であったため性格が全く不明であった鎌倉末期の下司結解状を復元した。
 周防国衙領は、鎌倉後期から江戸前期にいたる一二点。このうち、二〇七七号は天正一六年七月二六日の毛利輝元上洛に際して、輝元以下重臣への贈答とそれに伴う使者滞在費そのほかの経費を書き上げたもので、奈良~京都の交通を考える上でも興味深い内容を含む。
 播磨国大部荘では、鎌倉後期と室町中期の現地荘官の書状がある(一九七〇・二〇一六・二〇八七号)。前者は旱魃、後者は造内裏段銭に関わる。また正長二年六月と考えられる二〇二三号も本荘に関するものと判断する。本文中の「徳政帳本」は、同年正月に起きた播磨国一揆に関わると見た。
 遠江国蒲御厨では、室町中期享徳・康正の書状が六点ある。いずれも戒壇院油倉伝来文書と考えられる。このうち、前後欠の二〇八八号については、康正三年頃の現地公文の書状かとした。守護絡みの軍事紛争状況下での御厨の困窮を伝える。本文中に「今川六郎」についてひとまずの人名比定を試みたが、さらに検討が必要である。
 筑前国観世音寺では、末寺領の碓井・金生封、把岐・二嶋荘関連として、院政期の二点、鎌倉後期・南北朝期初期の三点がある。このうち二一二六号は、暦応元年から同四年にかけて、借銭ないし立て替えにて財源を賄った寺内年中行事を書き上げる。書き上げられた行事名から判断するに東大寺執行が記したものであろう。これについては、三輪眞嗣「鎌倉期における鎮西米の基礎的考察―中世東大寺財政構造の研究のために―」(『九州史学』一七六、二〇一七年)を参考とした。
 冒頭に触れたように、1-24は研究資源としてはなお改善の余地が多い。幸い今回、JSPS基盤研究(B)「復元的手法による東大寺文書研究の高度化―『東大寺文書目録』後の総括・展望―」によって、本所ユニオンカタログデータベースの高度化、あるいは東大寺別当表など道具類の整備などが可能となり、これにも支えられて本冊は刊行にいたった(なおプロジェクトの概要は編纂担当者遠藤のHPを参照のこと)。大日本古文書東大寺文書を利用するに際しては、これらの成果もあわせて活用いただければ幸いである。
(例言四頁、目次二一頁、本文三二二頁、花押一覧六葉、本体価格八、八〇〇円)
担当者 遠藤基郞


『東京大学史料編纂所報』第52号p.46-50