大日本古文書 幕末外国関係文書 巻之五十三

本巻には、文久元年四月一日から同月十五日(西暦一八六一年五月十日~同二十四日)までの諸史料を収録した。
 この間、主要には対馬での対露紛争と、両都両港開市開港延期交渉のための幕府遣欧使節発遣の過程と、この二つの動向が進展している。
 まず後者からみてゆくと、四月四日に外国奉行の正使竹内保徳・副使桑山元柔に宛て、外国事情の探索を指令し、談判の必要な事項につき見込の取調も命じる老中書取(第一五号)が出される(桑山のほうは八月に松平康直に交替)。外国方にも同じく書取にて、交渉すべき事項の報告が命じられた(同号附収)。同日、遣欧両使より同行人数を万延遣米使節の時より増員する伺書が提出され、裁可を得ている(第一六号)。同八日、竹内の外国奉行兼帯が各国代表部に通知される(第四一号、勘定奉行からの兼帯は三月二十四日)。十一日には関連してハリスの蔵書借用につき照会がなされ、同十三日に公使館の善福寺より外国方まで洋書の貸与が認められる(第六八号)。同日、使節団に外国方出役からの英語学習志望者同行が老中伺として呈上され、裁可を得た(第八七号)。
 十五日には竹内らから神奈川奉行まで、同地滞在中のシーボルトとの面会について照会がなされている(第一〇三号、会談は四月十九日)。ちなみにこの間、ロシアの利益を顧慮して活動しているシーボルトは、八日に太平洋艦隊のリハチョフに宛てて書翰を送附(第四七号)、そこでは横浜での幕府奉行らとの会談内容を漏らしたうえで、子息アレクサンダーの露海軍への登用を改めて懇請している。
 なお桑山後任の副使として西欧諸国を歴訪した松平康直について、この間新出史料が得られ、本巻でも利用しているが、この松平康英(元治元年に棚倉藩当主を相続後改名)関係の本所購入史料について、本格的な収載は次巻以降を予定している。
 この他、列強の対応については、四月七日付でハリス弁理公使宛の米合衆国国務長官書翰が発せられ(第三六号)、共和党リンカーン政権に交替後の方針として、五か国(英仏露蘭孛)宛の通牒を同封して、条約諸国の結束により延期を阻止すべきとする新大統領の意向を明らかにしている(通牒の文面は駐米孛国公使宛のもの)。
 四月六日、仏代表のドゥシェーヌ・ド・ベルクール代理公使は、将軍国書および老中書翰(巻之五十二第四四・四五号)を本国まで転達するにあたり、延期要請の背後に「反動的」な諸侯による影響を看取し警告する内容を外相まで通知している(第三二号)。十一日、同公使はトゥヴネル外相に宛て、日本の政情把握についての情報を記した覚書四点を、報告として送附した(第七一号)。その情報源は、日本政府関係の「年鑑」(武鑑か)のほか、主要には蘭語通訳のブレッキマンの入手によるものといい、それらの内容についてベルクールは、横浜にてシーボルトにも確認した上で起草しているが、実際きわめて誤謬が多い点が留意される。内容は広範にわたり、日本政府の成立事情や幕政諸役職の解説、諸侯の身位や実力等々を述べているが、大君は諸侯選挙の推戴に基づく地位と述べるなど、甚だ誤解が多い。開国後の政情、また「政治分裂」の過程について記した覚書では、将軍徳川家慶・家定の父子や水戸藩の斉昭が次々と暗殺されたものと述べられる。総じて、日本の政体については多くの誤解を有していた点が興味深い。ただ、天皇の国政上の特権的な位置にもふれ、権力としていわば復古してくる可能性についても言及されている点は、特筆されよう。
 駐日代表についての問題としては、英公使オールコックらの陸路帰府の件がある。香港からの帰還(四月十五日に長崎着)に際して、条約規定を根拠にオールコックは国内旅行権を主張、蘭国総領事デ・ウィットと同行して兵庫より陸路にて東上したいとの要望を、既に三月二十七日付で公使館書記官代理マイバーグからも申告していたが(巻之五十二第七一号)、四月一日に外国奉行はこれを許可する旨、書翰で回答している(第二号)。また蘭総領事への回答の仕方については同日、長崎奉行に宛て老中書取が発されており(第五号)、当初デ・ウィットが医師ポンペの同行を希望していたことが窺える。翌二日、外国奉行支配組頭白石嶋岡らの兵庫出張が決定され(白石への老中申渡は四日)、十三日には外国奉行竹本正雅に大坂出張の命がくだり(第八六号)、翌日付で公使・総領事宛に通知された(第九四号・第九五号)。兵庫でオールコックらに京都を避ける行程を告知したのは、竹本である(五月八日)。兵庫到着後の対応については四月十四日、大坂城代本庄宗秀宛に老中
書翰が発給されている(第九四号附収)。本巻では、白石の一行にあって兵庫まで出張した、外国奉行支配定役格通詞の西成度による日録も収載した(第一一〇号)。
 中国で活動していた英国のプラントハンター、R・フォーチュンが三月に再来日し、横浜に滞在していたが、彼は四月七日に米公使ハリスに対し請願の書翰を送って(第八一号附収)、春季の江戸訪問について便宜の提供を得た。前年秋の初来日の際には、オールコックの協力を得てフォーチュンは東禅寺の公使館に滞在し、江戸の植木屋に通ったのだが、今回はハリスを頼った訳である。フォーチュンは四月十一日より善福寺に泊し、染井や団子坂などを訪れた。同十一日にマイバーグが江戸市中でフォーチュンに遭遇、これを当局無許可の江戸滞在として問題視し、マイバーグはその旨ハリスに抗議のうえ(第六九号)、老中までこれを通知し(第七二号)、外国奉行らとの対話でも条約違反として注意を喚起している(第九六号)。フォーチュンはこの抗議に接するや神奈川まで戻ったのだが、以上の経緯に関しては、その著作『江戸と北京』(ロンドン、六三年刊)からも知られるところである(第十二章)。
 次に三港の動静について挙げる。神奈川在勤英国領事代理ヴァイスは、神奈川奉行滝川具知による施政についての苦情を申し立てており、五日にこれをマイバーグが老中宛書翰に認めた(第二〇号)。英領事館への監獄新設、および横浜での海軍用資材置場の供与という要求が拒否されたことに対する抗議で、次いで英艦の乗員が四月五日に横浜運上所から拘束を受けた件に抗議して、マイバーグは九日にも老中宛書翰を発している(第四八号)。一方で九日、神奈川奉行滝川は、英人水夫の遺体が規定を無視して畑地に埋葬された事態を問題視し、ヴァイスに対してその改葬を要求している(第四九号)。以上の懸案事項等については、十四日に神奈川奉行松平康直らとマイバーグとの間で協議がもたれ(第九六号)、二十五日にも再協議がなされている。
 長崎では、既往の蘭国政府と長崎会所との間の勘定について、清算が進んでいる(第七〇号・第九三号)。
 箱館では、在勤奉行を務めた勝田充に替って村垣範正が着任し、五日に役職の引継を済ませ、八日に箱館市中を巡回した。それ以前に、英国領事代理のユースデンとの間で、港湾に設置すべき浮標(ブイ)の件が問題とされている(第四号・第八号・第二一号)。十一日、箱館奉行と露国領事ゴシケーヴィチとの面晤があり、将軍国書(巻之五一第七〇号)の引き渡しに続いて、病院建設や大町居留地割渡し方について協議されている(第六六号)。病院建設用地の貸与については、江戸伺に対し六月に老中書取で裁可があった(第八九号附収)。大町居留地の割合については、十三日に英米代表とも協議されており(第八四号)、翌日にも箱館奉行支配向と露領事とで(第九八号)、またユースデンとの間で(第九九号)、この件の調整が継続されている。
 北蝦夷地(樺太島)については、日露国境問題につき箱館奉行が上申書を提出している(第八八号)。村垣らは日露雑居を問題視しており、北緯五十度での分界交渉の線で、幕閣の承認をもとめた。許可を指令する老中書取は、七月二十六日にくだっている。なお本巻では、関連の絵図や評議書類を附収した。
 本巻所収の対馬事件関係史料であるが、ビリレフ麾下のロシア海軍による芋崎占拠以後の、対馬島における宗家とロシア艦隊との紛争は、四月中に重大な形勢の転機をむかえている。まず四月四日、露艦の端艇が大船越瀬戸を強行突破して島の東岸に進出し、測量を行って鴨居瀬村に滞泊、小船越を経て帰投した(第一九号)。同六日、幕府は外国奉行小栗忠順・目付溝口勝如に現地での露側との交渉を命じ、対馬差遣を決定する(第二八号)。これが府中城に報じられたのは、同二十四日のことである(第三五号)。六日には、宗家勘定奉行の平田庫之介が、藩庁より出府報告を命じられている(第三一号)。九日、対馬藩江戸留守居は、来島する小栗らに対する手当の仕方について伺を提出、幕府の回答は同十四日に附札でなされている(第五四号)。十日、江戸詰家老の佐須質行は、万延元年末に朝鮮国の訳官から入手した清朝情報について、風聞書を老中安藤信行の許まで提出した(第六〇号)。英仏連合軍による北京占領につき報知したもので、五月末にも同じく釜山倭館からのルートで太平天国関連の情勢についても風聞書を提出しており、併せて本巻に附収した。
 四月十二日、露軍の端艇がまた大船越瀬戸を突破するにあたり衝突が起き、被弾した百姓の安五郎が即死、また給人二名が露側に捕えられた(第八〇号)。これを藩庁の記録では、対馬藩側が空砲を発したことが端緒と記す。なお公儀への伺書上では、射殺された安五郎の身分は小者と記載されている。また同日のことだが、府内浦には英艦リーヴェン号(蒸気砲艦、艦長ネヴィット海軍少佐)が上海より来航、対馬藩に対しては、露艦隊偵察のための行動であると述べた(第七七号)。この日、藩庁はロシア水兵が府内浦に侵入した際の想定として、家中に対処の仕方を下知した(第七八号)。また、表目付小茂田貫介には長崎出張を命じ、翌日には長崎奉行への届出につき年寄中達を発給している(第九二号、出立は十四日)。四月十三日、大船越で再び露側との衝突が起きた。藩主宗義和は家中に対し、露軍と決戦の覚悟ではあるが、開戦には幕府の許可が必要であると達している(第九〇号)。十三日付で公儀への届書が作成され、郡奉行大浦作兵衛らが江戸に送致、文面が伺書に変更されて五月十一日に安藤老中まで提出された(第九一号)。この際に藩庁が大浦らに達した内容では、開戦時には九州への移封をもにらむものの、朝鮮通交の役儀は確保するよう指令している。この伺に対しては五月十三日、宗家に避戦方針および差遣の小栗らへの照会を命じる老中達が発給されている。その後、四月十五日付の宗家伺書が調製され、五月十五日に安藤老中まで提出された(第一〇五号)。
 四月十四日、露軍侵入時の対策につき家中に達が発せられ、以酊庵の移動および朝鮮人漂流民の移送も想定されている(第一〇一号・第一〇二号)。十五日には、藩主が以酊庵を訪問して住持と意見交換をおこなった(第一〇六号)。
 以上、対馬事件の緊迫する情勢について理解の一助とするため、本巻では受発信文書以外の記録類であっても、必要に応じて採録している。なお、同時期に江戸で流布していた対馬情勢関係の風説も収録した(第一〇七号・第一〇八号)。
 なお附言すれば、外国方関係で作成される幕政文書については、本巻の収録範囲の時期から、稟議に参加する部局として寺社奉行が加わったことが特筆される(第二〇号・第五五号・第五八号・第八三号)。大名役である寺社奉行らの回議をも経ることで幕府の決裁過程に変化が生じているのかどうか、注意してみてゆく必要があろう。
 (例言二頁、目次二六頁、本文三九七頁、本体価格九、六〇〇円)
担当者 小野 将・佐藤雄介・保谷 徹・横山伊徳

『東京大学史料編纂所報』第52号 p.44-46