大日本古記録 碧山日録 下

最終冊たる本冊には、前冊に引き続き寛正四年(一四六三)正月から応仁二年(一四六八)十二月までの記事を収め、解題、東福寺塔頭一覧、索引、および史料編纂所所蔵「恵日山東福禅寺末寺簿」とその解題を附載した。
 本文の底本は、前冊と同じく前田育徳会尊経閣文庫本(本冊では第五・六冊)を用いた。第六冊は、第五冊までとは異なり、誤字の訂正に際し小紙片を貼付けて書き直す箇所が多く、写本作成の作法をやや異にするようである。ただ、本冊の本文翻刻にあたっては、かえって読解の煩となることをおそれ、当該訂正を明示することは控えた。
 「解題」に記した通り、尊経閣文庫本には「附属故紙」一紙がともに伝わるが、これは中国の金代の詩の総集「中州集」の抜書である。「中州集」はいわゆる五山版として室町時代の五山禅林に流布しており、『碧山日録』にも「中州集」所収詩が引用されている(長禄三年四月十二日条、寛正三年七月二十九日条)。
 本文の内容ではまず、本文の大半を占める応仁二年記の、応仁の乱の経過・戦況や戦災に関する記事が注目される。洛中および近郊での戦闘の経過、足軽の跳梁、足利義視の上洛、地方(摂津、近江、加賀、丹波、播磨など)の軍事情勢や、寺社の罹災、戦乱の中での民衆の生活の様子など、比較的正確な情報を記している。また、太極自ら東軍の鞍智高夏の陣を訪れる機会があり、乱のさなかの室町殿御所、周辺の東西両軍諸将の布陣の様子を実見している(同年十一月六日条)。
 だが、大乱の中にあっても、記事の大半は、筆録者太極個人の学芸・信仰・生活に関するものであり、自らの詩作の記事、先人の詩文などの筆録の多さは乱の前と変わらない。応仁二年前半には、戦火はまだ太極の住まう東福寺にまでは及んでおらず、この頃にはまだ、太極は戦乱の行く末について楽観的であったらしい。南荒国から足利義政に白雉が献上されたことを、間もなく天下が太平に復する予兆だと述べており、この出来事を「泣麟之時」だと評した(至治の世に現れるはずの麒麟が乱世に出現したことに、孔子が衝撃をうけたという故事を想起)「客」の態度と対照的である(同年二月四日条)。
 この年、太極は、後藤某と新たに親交を結び、彼との文化・文芸上の交流を示す記事が増えている。後藤は、入明の経験があり、放逸の禅僧南江宗沅とも交友のあった人物で、彼から得た知見を太極は興味深げに書き記している。
 やがて戦乱は東福寺および太極の周辺にも及ぶ。応仁二年八月十三日、太
極は木幡へ赴き同地に滞在するが、同十八日、東福寺に西軍の兵が駐屯する。
以後、少なくとも年内には太極は東福寺に戻らず、木幡でいわば避難生活を
送ることとなった。この地で彼は、唐代の詩人杜甫の詩に次韻あるいはそれ
を模倣した詩を何首か作っている(同年閏十月二十七日、十一月二日・三日
条)。当時、五山禅林で杜甫の詩は盛んに享受され、太極もまた、何度も杜
甫詩の講義を行なうなど、その熱心な享受者であったといえる。木幡に戦禍
を避けていたこの時期、戦乱に翻弄された杜甫の人生を想起することいかば
かりであったろうか。
 本冊でも漢籍や仏典などからの引用が多く、能う限りその出典を注記したが、全体のごく一部に過ぎないうえ、出典の詮索と提示方法も不十分かつ便宜的なものにとどまっている。例えば、『唐詩選』は十六世紀の成立とされるから、この書からの引用でないことは明らかだが、読者の便宜を考え、同書所収の唐詩にはその旨を注記することとした。
 現存する『碧山日録』の記事は応仁二年十二月までだが、太極は、少なくとも文明四年(一四七二)にはまだ存命していたことが知られる。その旺盛な筆録意欲からみて、おそらくは示寂の直前まで筆録を続けていたと推測される。
 本冊の「附載」について補足しておく。『大日本古記録』収録古記録の最終冊では、筆録者の略年譜を掲げるのが通例であるが、『碧山日録』の筆録者太極には、他の関連史料が乏しく、その生涯を詳らかにし難いため、略年譜の作成は断念せざるをえなかった。筆録者および登場する禅僧たちの法系についても、現在では玉村竹二『五山禅林宗派図』(思文閣出版、一九八五年)という優れた工具があることに鑑み、法系図の掲載は省略することとした。
 索引は、近年の『大日本古記録』の索引の体裁とは異なるが、人名と事項とに分けて作成した。人名比定のできなかった登場人物、正しい読みを確定できず、便宜的な読みで採録した語の多いことは遺憾である。なお、人名比定に関して、前冊では、桂昌庵および少林庵主「七沢」に「□什」(「什蔵主」のこと)と傍注していたが、両者は別人であり、本冊の本文および人名索引ではこれを改めたことを記しておく。
 「東福寺塔頭一覧」、および、史料編纂所所蔵「恵日山東福禅寺末寺簿」の本文翻刻・解題は、本文に頻出する東福寺の塔頭・末寺の参照・理解の一助となればと収録した。「恵日山東福禅寺末寺簿」は、江戸時代、元禄四年(一六九一)を大きく遡らない時期の成立と推定されるが、詳細については、解題を参照されたい。
 最後に、前冊に引き続き本冊の原本校正に際して御高配を賜った、公益財団法人前田育徳会尊経閣文庫の関係各位にも、この場を借りて深く深謝の意を表したい。
(例言一頁、目次一頁、本文二一二頁、本体価格九、二〇〇円、岩波書店発行)
担当者 山家浩樹・榎原雅治・前川祐一郎

『東京大学史料編纂所報』第52号 p.53-54