東京大学史料編纂所

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刊行物紹介

大日本史料 第六編之四十九

 本冊には、南朝長慶天皇の天授二年=北朝後円融天皇の永和二年(一三七六)の年末雑載のうち、寄進・売買・譲与・貸借・年貢、および天授三年=永和三年正月~同年八月の史料を収めた。
 譲与の項の六二頁に収載した大東急記念文庫所蔵文書は、「久用 山川廿六坪」の田を中円から従渭に譲与した譲状で、梅津長福寺の旧蔵史料と考えられる。この土地は至徳三年(一三八六)正月二十九日に従渭から相阿弥陀仏に売却されており、その際の売券からその所在地が河内国田井荘八上郡野遠郷山川里廿六坪であることがわかる(石井進編『長福寺文書の研究』(山川出版社、一九九二)参照)。
 貸借の項の七九頁に収載した東寺百合文書は、『大日本史料第六編之四十七』の雑載・社寺の項に掲げた東寺百合文書の学衆評定引付に見える「実成僧都借書」(三六八頁)に対応する文書である。この借用状作成の契機となった全海の拝堂についても、同史料を参照されたい。
 年貢の項の一〇五頁、東寺百合文書の播磨矢野荘学衆方算用状で「国下用」として挙げられた項目の中に、「南方向夫」「高麗人警固」の語が見えるが、これらについては『大日本史料第六編之四十四』南朝天授元年・北朝永和元年七月二十五日条および同年十一月六日条に関連史料を収載している。
 天授三年=永和三年正月~同年八月の主な出来事は以下のとおりである。
 北朝では六月二十六日、後に後小松天皇となる、後円融天皇の第一皇子が誕生した。母は前内大臣三条公忠女、典侍厳子である。この件をめぐっては、公忠の日記である後愚昧記に詳細な記述があり、出産・誕生儀礼を伝える史料として貴重と思われる。誕生に先立つ二月二十八日に着帯の儀、誕生後は、御湯殿始(七月一日条)・御七夜ならびに御頸居の儀(同月三日条)・御著衣の儀(同月五日条)と諸行事が行われ、八月二十九日に、皇子は産所であった公忠邸から北山の離宮に移っている。ただし、公忠の「家門之躰毎事不具」という事情もあり「毎事沙汰外略儀」で行われた。出産にあたって、公忠は「公方之人不検知之、後日疑殆可有」と述べており、勾当内侍を産所に招請して、その確認を得るまで、臍緒を切ることを待ったという。
 一方、幕府では正月十二日、足利義満の室である日野業子が女子を死産し、天下触穢となっている。
 また幕府では、管領の細川頼之と前管領の斯波義将との対立が表面化する事件が発生した。六月に義将が守護を勤める越中国で守護代と国人との間で合戦が起こり、敗れた国人たちが頼之の所領である太田荘に逃げ込んだところ、守護方が太田荘に討ち入り、荘内を焼き払ったのである。これに対し頼之は、守護代との合戦のため太田荘の代官である篠本氏に、飛騨国で軍勢を集めた上で越中国に下向するよう命じた。これは当時、飛騨国の守護が頼之と連携していた京極高秀であったことによると考えられる。この事態は「可及天下重事」と取りざたされ(六月是月条)、八月にも京都で軍兵による騒動があり、火災の発生も相まって、両者の衝突が噂された(八月六日・八日条)。頼之が失脚して義将が管領となる、康暦元年(一三七九)の政変の兆しが明らかになった事件である。
 南朝では前年来の千首和歌詠進が目立った行事となり、宗良親王と花山院長親が詠進した(是春条)。また七月には吉野行宮で御楽が行われ、長慶天皇が和歌を詠じている(七月七日条)。
 京都では、二月に北小路室町から出火して仙洞御所などが焼亡し(二月十八日条)、三月には三条室町から出火し四条坊門万里小路までが被災した(三月二十日条)。また六月一日には吉祥院が焼け、筑前安楽寺も焼失した。二月に焼失した仙洞御所は、足利義詮の邸宅であったものを義満が崇光上皇に献じていたのだが、再建されず、同じく焼亡した隣接する今出川公直邸の敷地とともに義満が接収し、義満の室町邸(花の御所)が造営されることとなる(永和四年三月に移徙)。
 吉祥院火災に続いて、六月二十一日には北野社に怪異が発生した。これらの事件は「不祥之兆」とみなされ、北朝では御占が行われ(六月三十日条)、北野一社奉幣使派遣(七月十二日条)や内裏での北斗法(同月二十六日条)が行われた。また義満は、五大虚空蔵法の勤修を命じた(同月六日条)。これについては導師を務めた醍醐寺地蔵院僧正道快による記録を収めたが、辛酉年に除災のために修するとされる同法に関わる先例等も含む興味深い内容といえるだろう。仏事関係では、ほかに正月八日条の後七日法・太元法について、醍醐寺文書をはじめとする多くの史料が、多様かつ詳細な情報を伝えている。また二月十六日には入道尊道親王が山名義幸のために所労平癒の祈祷を行っている。尊道自身の手になると考えられる史料を掲載したが、この中で山名義幸が「当年廿一才」と記されている。山名義幸はこれまで生没年未詳とされてきたが、この記事から延文二年(一三五七)生まれであることが知られる。
 九州では南朝方と北朝方との合戦が続いている。正月十三日には今川頼泰が肥前の千布・蜷打で菊池武朝と戦ってこれを破り、筑後川を渡って高良山に陣を進め、六月までには今川貞世(了俊)が肥後の山鹿・志々木原に陣を進めた(六月十日条)。八月十二日には肥後の臼間野・大水山関で合戦となり、南朝方は稙田宮・菊池一族以下多数が討ち取られた。
 この間、円覚寺住持此山妙在、幕府管領細川頼之の母、北朝従三位勧修寺経量、天台座主二品承胤法親王、勧修寺報恩院公海、常陸楞厳寺大拙祖能らが死去している。頼之の母の死去は天下触穢とされた。また此山妙在については、その自筆と考えられる土岐市崇禅寺所蔵の墨蹟を挿入図版として掲載した。その他の花押については『花押かがみ 八 南北朝時代四』を参照されたい。
訂正・補遺
○目次五頁 南朝天授三年・北朝永和三年二月二十二日条
「征西府、使ヲ阿蘓社ニ遣ハシ、九州静謐ヲ祈ラシム、」→「征西府、使ヲ阿蘇社ニ遣ハシ、九州静謐ヲ祈ラシム、」(蘓を蘇に訂正)
○目次一七頁 南朝天授三年・北朝永和三年八月十二日条
「南党菊池武朝、北党今川頼泰・大内義弘等ト肥後臼間野大水関ニ戦ヒテ、敗績シ、稙田宮及ビ菊池武義・菊池武安・阿蘇惟武等、皆之ニ死ス、」→「南党菊池武朝、北党今川頼泰・大内義弘等ト肥後臼間野・大水山関ニ戦ヒテ、敗績シ、稙田宮及ビ菊池一族等、之ニ死ス、」
○一二八頁 南朝天授三年・北朝永和三年正月七日条
〔公卿補任〕「業定王」→「業定王(白川)」
○二五一・二五二頁 南朝天授三年・北朝永和三年二月二十二日条
〔綱文〕「征西府、使ヲ阿蘓社ニ遣ハシ、九州静謐ヲ祈ラシム、」→「征西府、使ヲ阿蘇社ニ遣ハシ、九州静謐ヲ祈ラシム、」(蘓を蘇に訂正)
〔阿蘓文書〕「阿蘓社衆徒中」(二ヵ所)→「阿蘇社衆徒中」(蘓を蘇に訂正)
○二六五頁 南朝天授三年・北朝永和三年三月五日条
〔愚管記〕「伯二位業定王」→「伯二位業定王(白川)」
○二七五頁 南朝天授三年・北朝永和三年三月十六日条
〔続史愚抄〕本文末尾「○迎陽記〈追〉、」→「○迎陽記〈追〉」(、をトル)
○二九二頁 南朝天授三年・北朝永和三年三月二十六日条
〔阿蘓文書〕「阿蘓乙丞殿」(二カ所)→「阿蘇乙丞殿」(蘓を蘇に訂正)
 なお、史料名としての「阿蘓文書」は固有名詞として「蘓」を用いている。
○三〇七頁 南朝天授三年・北朝永和三年四月九日条
〔梶井承胤法親王附法状〕「伝教大師」→「伝教大師(最澄)」
○三五七頁 南朝天授三年・北朝永和三年六月二十六日条
〔後愚昧記〕「家門之躰毎時不具」→「家門之躰毎事不具」
○三六九頁 南朝天授三年・北朝永和三年七月四日条
〔愚管記〕「予」→「予(近衛道嗣)」
○四一三・四一六頁 南朝天授三年・北朝永和三年八月十二日条
〔綱文〕「南党菊池武朝、北党今川頼泰・大内義弘等ト肥後臼間野大水関ニ戦ヒテ、敗績シ、稙田宮及ビ菊池武義・菊池武安・阿蘇惟武等、皆之ニ死ス、」→「南党菊池武朝、北党今川頼泰・大内義弘等ト肥後臼間野・大水山関ニ戦ヒテ、敗績シ、稙田宮及ビ菊池一族等、之ニ死ス、」
〔来島文書〕「隈本城(飽田郡)」→「隈本城」
〔史料蒐集目録〕「白木原・犬津山両所合戦」→「白木原・犬〔大〕津山両所合戦」
〔標出〕「犬津山合戦」→「大津山合戦」
 なお、本冊の編纂には、前冊までと同様、研究支援推進員鈴木久美の協力を得ている。
(目次二〇頁、本文四六六頁、本体価格一一、〇〇〇円)
担当者 本郷恵子・西田友広


『東京大学史料編纂所報』第51号p.38-40