東京大学史料編纂所

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刊行物紹介

大日本古文書 家わけ第十 東寺文書之十七

 東寺文書は、京都府所蔵・京都府立総合資料館保管の「東寺百合文書」ひらがなの函の翻刻・校訂を継続している。本冊には、前々冊から開始した「れ函」の文書のうち、長禄二年(一四五八)から天文一五・一六年頃(一五四六・四七)に至るまでのものを収録して同函を終了し、続いて「そ函」に入り、康和二年(一一〇〇)の丹波国大山荘の国司収公にかかわる文書より文亀元年(一五〇一)の山城国久世上下荘の文書に至るまでを収録した。
 「れ函」は、基本的に東寺廿一口供僧方の文書を保管した函であり、本冊には播磨国矢野荘例名供僧方および同公文名の年貢内検帳・納帳・送状・支配状(一〇〇~一〇二号、一〇七~一〇九号)、山城国植松荘と西山最福寺との相論文書(九九号)、室町幕府の料所である山城国日吉田代官職に関する奉行人奉書(一〇五号)、東寺造営料所であった山城国女御田鳥羽方にかかわる文書(一〇三・一〇四・一〇六号)、大和国河原城荘の文書(一一〇号)などがみえる。また、東寺鎮守八幡宮領山城国久世上下荘の年未詳文書も少数収納されており、それらは、次の「そ函」の山城国久世上下荘の年未詳文書と深くかかわっている。
 「そ函」は、やはり廿一口供僧方の文書(若干の十八口供僧・最勝光院方文書を含む)およびその管轄下にあった造営方・湯方の文書と鎮守八幡宮供僧方の久世上下荘の文書が大部分を占めている。具体的には、丹波国大山荘(一号)、肥後国鹿子木荘(二号)、若狭国太良荘(三・四号)、播磨国矢野荘(五号)、備前国福岡荘(八号)、尾張国大成荘(一五号)、山城国上桂上野荘(五四号)などの荘園文書がばらばらに存在するほか、公武祈祷・法会関係文書、灌頂院御影供関係文書、造営料所であった巷所・東西九条女御田の算用状、巷所の領有相論文書、南大門修造関係文書、湯方算用状などが廿一口方とその管轄下の組織にかかわる文書であり、久世上下荘に関しては、公文職相論関係文書、年貢・公事用途算用状、未進注文、段銭等配符などであり、文亀元年(一五〇一)九月の細川政元による上久世荘公文分没収以前の文書を収めている。
 次に、函ごとに、いくつかの文書について触れておきたい。以下既刊『大日本古文書』に未収録の「東寺百合文書」は、京都府立総合資料館の目録に従って函名と文書番号のみを記載する。
 れ九八号西院文庫文書出納注文に記載された文書はいずれも、東寺西院文庫保管文書の、享徳元年(一四五二)閏八月から長禄四年(一四六〇)二月に至るまでの貸出・返却の記録簿である文書出納日記(あ函四三号)の中に見え、訴訟のために寺僧組織の奉行や幕府奉行のもとに貸し出されたことが記されている。しかし、記録簿の他のおおよその文書に見えるような、文庫に返却された旨の注記が付されていない。西院文庫の文書は廿一口供僧方によって厳密に管理されており、貸出・返却の旨を記した注記には二人の僧侶が署判を添え、未返却文書については別に目録を作成して返却を督促したことなどが明らかにされているが(黒川直則「中世東寺における文書の管理と保存」、『記録史料の管理と文書館』所収、北海道大学図書刊行会、一九九六年)、この九八号文書も、返却督促のために作成された注文であると考えら れる。文書名にそうした機能を示すべきであったかもしれない。
 次の、れ九九号長禄二年(一四五八)四月日東寺雑掌陳状は、東寺長日尊勝陀羅尼料所山城国植松荘と西山最福寺との田地知行をめぐる訴訟の中で出されたものである。その端裏書「東寺雑掌支状 長禄弐 四」は、筆跡がこの件を裁定した長禄四年三月二六日足利義政御判御教書(『大日本古文書 東寺文書之一』い三一号・い函二九号)の本文と同じであると思われることから、この陳状が要件に足るものであるとして受理された日付を奉行が記した端裏銘であることがわかる(山家浩樹「端裏銘の日付」、『鎌倉遺文研究Ⅲ 鎌倉期社会と史料論』東京堂出版、二〇〇二年)。
 れ一〇一号長禄四年九月日播磨矢野荘公文名内検帳は、原本ないしその精細な画像を「東寺百合文書WEB」で観察し、墨色の違いを認識することによって、その作成について示唆を与えてくれる文書である。まず、やや濃い墨色で基準となる土地台帳から公文名田地の所在地と田積を上方に、下方にその田地の請人の名を写し取り、料紙の真ん中を空けておく。次に実際の作毛を検分して、真ん中の空白部分にやや薄い墨色で損得状況を記していく。スペースが足らず、文字が詰まってしまった行も見える。土地台帳から写し取らなかった小字名「ヌマ」の田地については、最後に二行分、田積・請人を含めて薄い墨色で書き加える。そして末尾に新しい紙を継いで、納入された年貢の合計や支出給分の散用を記す、という内検帳の記載順序つまり検分作業と取りまとめの仕方がうかがえるのである。
 れ一一〇号明応六年(一四九七)一月二八日十輪院某書状は、大和国河原城荘に関する文書である。河原城荘は大和国山辺郡にあり、東寺末寺弘福寺領として長く東寺長者の管領のもとにあったが、大覚寺金剛乗院俊尊が長者の時、足利義満の重厄の年にあたる応永六年(一三九九)二月に、義満の無事を祈祷する講堂仁王経読経の料所として東寺に寄進された(「東寺文書」五常 信九)。寄進当初の、東寺僧を給主に補任して知行する方式に失敗して以後、この荘の経営はほぼ代官請負に終始し、何人もの代官が交代して年貢を請け負うことになるが、代官職の変遷とそれをめぐる問題については、黒川直則「東寺領大和国河原城荘の代官職」(京都府立総合資料館『資料館紀要』二七、一九九九年)が詳細に考察している。
 本号の年紀である明応六年の代官は大和国人の豊田春猶であった。同年と推定される次の豊田春猶書状が、本号と直接かかわる文書であると思われる。
 (明応六年)一月二八日豊田春猶書状(切紙)(「東寺百合文書」し函一九二)
     (端裏切封墨引)
   尚々、毎事重而御年貢運上之時、可申入候、
  御状委細令拝見候、仍河原城庄御年貢之事、早々可致運上候之処、不私
取乱子細候之間、聊遅引、背本意存候、必々近日従是可令運上候、次去々
年御未進之事を承候、皆済御請取給候、委細従十輪院可申候、目出可然
様可預御披露候、恐々謹言、
   正月廿八日 豊田春猶(花押)
 東寺公文所法眼(駿河聡快)御坊
 両文書から考えると、十輪院は代官豊田の請人として東寺との間の年貢納入の仲介をしており、ここに「去々年」とみえる明応四年分の年貢についていえば、豊田には既に皆済の請取状が届いているのに、なお十輪院のところでは未進進済が完了しておらず不足分の進納を約束した請状を出したままの状況であったらしい。一五世紀後半の河原城荘では、春猶一族の豊田(豊岡)氏がしばしば代官を務めているが、年貢は豊田から直接東寺へ運送されるのではなく、請人であった海住山寺や大乗院のもとに一旦納められ、そこから東寺へ納入されるという形がとられていたことと同様の状況を示しているとともに、請取状の扱いについても興味がひかれる。
 さて、十輪院の校訂注に「海住山寺カ」と付したが、これは、宝徳二年に当荘代官に補任された豊田香恩坊の年貢取次ぎに海住山寺住心院と宝篋院とがかかわっていた前例(黒川論文参照)に引かれ、春猶の請人も同じく海住山寺の十輪院ではないかと推測したものであった。しかし、これはおそらく誤りであって、本文書に見える十輪院は南都の十輪院であると思われる。南都十輪院は醍醐寺末寺であったが、明応三年正月二三日の十輪院書状に上醍醐に滞在していたという記述が見えることが(ツ函一八八号)、その根拠のひとつである。本号文書による十輪院の署名の判読は困難であるが、京都府立総合資料館編『東寺百合文書目録』および『東寺百合文書』ニ函二六三号では、十輪院の署名を「玄寿」「玄寿カ」としている。南都十輪院の僧が玄良、玄円など「玄」を通字とした僧名をもつ場合があることは『大乗院寺社雑事記』からわかることであり、十輪院が南都のそれだとした場合の僧名比定に示唆を与えてくれる。ここではまず「海住山寺カ」とした傍注の削除をお願いしたい。
 なお東寺百合文書中には、本号と同じ十輪院の書状がほかに八通見られ、そのうちの年未詳の三通について、先の黒川論文と京都府立総合資料館編『東寺百合文書 七』が年紀を比定している。すなわち、ツ函一八八号およびケ函二二〇号は明応三年、ニ函二六三号は明応七年のものと推定されているが、ニ函二六三号は越智が河原城荘知行に関与しようとしている内容や、十輪院の花押形状の経年変化の流れから見て、明応三年のものとみるのが妥当なのではないかと考えている。
 ひ一一七から一一九号は、細川晴元・氏綱両陣営の対立を背景にした天文一五年(一五四六)の山城国上久世荘の状況を示す文書である。この年、河内の遊佐長教と結び、堺をはじめ河内から摂津にかけての地域で優位に立った氏綱に呼応して、氏綱方武将細川国慶が同年九月より京都支配を開始し、それまで晴元配下にあった上久世荘前公文寒川分の知行地(公文給の全得分と公文名のうち本所年貢を除く分だと考えられる)をかわって配下に置いた。その久世公文分は、十月初め頃、氏綱から遊佐方の平盛知(三郎左衛門尉)にあてがわれた。久世荘現地では、国慶配下に入った事態は認識していたが、当初平盛知の知行については受け入れようとしなかったようである。国慶自身も情報をはっきりつかんでいなかったかもしれない。そこで盛知は、氏綱に国慶宛ての書状を発給してもらい(一一七号)、その写を現地に示して所務を開始したのであった(一一八号)。一一八号の頭注は、文書中の「被相構」を適切に解釈しておらず、支配下に入ったというような意味に修正が必要である。ご容赦願いたい。細川国慶の動きからみた上久世荘公文分知行をめぐるこの一連の状況については、馬部隆弘「細川国慶の上洛戦と京都支配」(『日本史研究』六二三、二〇一四年)が、関連史料を含めた詳しい分析をしている。馬部氏は、上久世荘のこの事例から、所領安堵への見返りとしての強引な礼銭徴収の実態を引き出し、それが確固たる所領基盤を持たない国慶の京都支配の特徴のひとつであるとみている。国慶については、自身の知行関与よりも、氏綱の京都代官としての役割を見ておくべきではないかと思うが、結局、この年は東寺に収納されるはずの本年貢分も、公文分に混じて平盛知に押領される事態が継続し、東寺は松田守興を通じて遊佐方との交渉に乗り出していくが、それは次のそ函に関連文書が見えている(そ函一六八~一七〇号、一七三~一七五号、一九二号)。
 れ一二〇号の十河一存書状は、端裏にある差出書の読みが難しく、天野忠幸氏のご教示に預かった。「十河」を「そかわ」「とかわ」と読んで「麁皮」「砥 河」という宛て字を用いた例があることから類推し、文字の形と音の近い「十瘡」(とかさ)という文字を宛ててみたものである。自署としては異例かもしれない。あるいは「十左衛門」と読めるかもしれないが、この時期、一存はすでに民部大夫と呼ばれている。東寺に巻数の礼状を遣わすべきなのであるが、あるトラブル以後直接の音信不通となっているので、松田守興に礼の取次ぎを依頼したいという内容で、ニ函二九四号がその松田守興の取次ぎの書状であろう。
 もう一通、天文一五年のものと考えられる、て函一三号(二八)の東寺宝菩提院亮恵(仮名少将)に宛てた九月二日松田守興書状が、本号に関連する内容を含んでいると思われる。この書状は、「阿州・淡州衆、近明可有渡海候、安宅自身(冬康)ハ、去(八月)十七日より在津候、人数儀、今明可罷着候、三豊(三好実休/豊前守)も可有渡海にて候つる、足弱就歓楽延引候、何も人数ハさきへ可有渡海候」との記述が、細川晴元方に立って堺へ出兵した三好長慶の援軍として阿波・淡路の軍勢が渡海しようとしていることや、病気のために遅れて一〇月に堺に入った三好実休の事情など、天文一五年の情勢に合致している(『戦国遺文三好氏編』一巻五三七号では、年紀を永禄元年と比定しているが、このように推定した。なお、もしこの推定が妥当であれば、三好実休(当時之虎)が豊前守を称する最も早い年月日の史料となる)。この守興書状の主旨は、東寺の寺官衆と十河一存方との訴訟を取次いだものと思われ、ニ函二九四号に、この訴訟が去年のものであるとの記述があることとあわせて、れ一二〇号の年紀を天文一六年頃と推測したものである。ただし、このほかにも、天文一九年秋以前と思われる一連の文書に、西九条の所務をめぐって十河一存方の上使と東寺寺官衆との間に争いが起こっていることがわかるものがあり、十河方と東寺との間の争いはひとつに限らない。本号文書の性格付けにはなお追究が必要である。
 ところで、このれ一二〇号文書ひとつをとってみても、この頃、まだ若かった十河一存の松田守興に対する甘えともとれるような信頼には厚いものがあったと思われるが、特に天文一八年一二月一九日十河一存書状には(『戦国遺文三好氏編』一巻二六四号、九条家文書)、守興の働きに対する一存の気遣いがあふれていて、心温まるものを感じさせる。
 次に「そ函」に移る。比較的まとまって残っている文書グループからみてみると、まず、応永一五年(一四〇八)八月一六日に、北山青蓮院で行われた足利義満百箇日忌七僧法会の出仕僧に関する文書がある(二八~三八号)。本冊に収載した文書のほかに、れ函一七・一八号(『大日本古文書 東寺文書之十五』れ一八・一九号)、ア函一二六・三二五・三二六号、そして「廿一口供僧方評定引付」(く函四号)「東寺執行日記」の記事とあわせて、修僧公請と東寺での選出の様子がわかる。実は、リ函二六一号の(年未詳)四月一二日付とされている相淳書状も、僧綱の従儀師から東寺廿一口供僧方年預金蓮院杲淳に宛てて出仕僧の注進を求めた文書であって、正しい日付は(応永一五年)八月一二日である。
 そ五三号の永享一一年(一四三九)分以降、本冊に八通を収載した湯方算用状については、文明十五年(一四八三)分の、そ九四号に至るまで、キ函や『教王護国寺文書』中に残存する分も含めて、この時期に集中的に現れる形式の算用状である。東寺湯の経営については、橋本初子「大師信仰と東寺の湯」(『中世東寺と弘法大師信仰』思文閣出版、一九九〇年)および首藤善樹「中世東寺の湯結番について」(『千葉乗隆博士還暦記念論集 日本の社会と宗教』同朋舎出版、一九八一年)に詳しい。東寺では一年を通じて焼湯(現湯)の日が定められており、湯料を負担する頭役の結番に、供僧、三聖人、主な所領の荘官、仏事湯料所などが組み込まれるのであるが、実際には湯を焼かなかった場合(止湯・留湯)の料足を別の用途に充てることがしばしば行われていた。本冊の湯方算用状でみれば、湯方奉行の給分のほか、時期によって西院常燈料や夏衆への配分などに使われているが、最終的な残り分は造営方に繰り入れることになっていたようである(橋本初子氏は先の論文で、蓄財されたと述べている)。止湯料足を造営方の収入とする仕組みはすでに南北朝期から見えているが(例えば、ヒ函六二号康暦三年二月二一日造営方散用状)、しかしながら、それらは造営方算用状の収入の項に記されるだけであって、ここに見るような現湯・止湯の回数と使途とを明記した算用状を特に作成するようなことはなかった。
 一五世紀前半になって、そうした状況が変わったことは、例えば次の史料からうかがうことができる。廿一口供僧方評定引付の永享二年(一四三〇)閏一一月三日条(く函一三号)には、「止湯足、自今已後、必当番日可有其沙汰、万一雖一日、令延引候者、十疋別加五銭充利平、供料支配之時、於公文所可押留之由衆儀了」という記事が見え、たとえ止湯となった場合でも、その料足については当番日に必ず出すべきこと、遅れた場合は利子を付けて、供料から強制的に徴収することを衆議で決定しており、止湯料足の重要性・必要性が示されている。さらに、れ五六号の宝徳元年(一四四九)八月日湯方算用状の奥には、同年九月、おそらくこの年の造営方奉行であった東寺宝泉院快寿の花押が据えられており、造営方の主体的なかかわりがうかがわれる。湯方算用状の出現は、室町期の東寺の財政状況を反映したものであると考えられるだろう。こうした変化の要因のひとつは、少し後の永享一一年八月の足利義教の東寺御成に要した莫大な費用の返済に代表されるような赤字体制への対処の方策であって、造営方を中心とした動きであったと考えられるのではないだろうか。
 造営方が東寺の財政上に果たした役割については、金子拓「室町期東寺造営方の活動とその変質」(『史学雑誌』一一三─九、二〇〇四年)の分析が参照される。金子氏は、造営方の財政状況が段銭収入により赤字から黒字に転じた康正年間を画期として惣寺の財務体制が変化し整備されたことを明らかにし、寺内他組織に資金を無利子で融資する大きな財政規模をもつ組織であるという、従来考えられてきたような造営方のあり方は、この黒字転換後の姿であると論じている。康正年間以前の造営方の性格については、ここに止湯料足に即して見てきたように、さらに検討が必要であると思われるが、黒字転換への画期という点から湯方算用状を見てみると、康正年間までは一〇貫文以上の止湯料足が造営方に繰り入れられていたのに対して、長禄年間以降は、夏衆への七貫文という比較的多額の配分を新たに設けるとともに、造営方への繰入額を次第に減じてゆき、文明年間中には止湯用途は財政補填の役割を終え、算用状も消えることになるのである。
 次に、個別の文書について少しふれておきたい。そ二五・二七号は、伏見宮栄仁親王を施主として、毎年正月一七日に鎮守八幡宮に於いて行われた仁王護国般若波羅密多経修法の巻数に対する返礼で、二五号は栄仁に仕えた四条隆躬の奉書、二七号は隆躬死去後の女房奉書形式のものである。鎮護国家・玉躰安穏の秘法である仁王経修法が、持明院統の中でも皇位に就けず不遇な位置にあった栄仁に対して執行され続けたところに、彼の社会的地位の高さがうかがわれるが、そうした祈祷関連文書から見た伏見宮の位置づけについては、富田正弘「中世東寺の祈祷文書について」(『古文書研究』一一、一九七七年)が詳しく述べている。富田氏によれば、東寺供僧は、巻数の中で栄仁を「禅定太皇」と呼び、また巻数副状の宛先である四条隆躬を「大宮宰相殿」としている(追加之部三号)。実際、二七号の奥に記された注記でも隆躬は「大宮宰相」とされている。しかし栄仁は法皇ではなかったし、また隆躬も死去した時まだ参議ではなかった。栄仁の父である崇光上皇に仕えた隆躬の父隆仲は、参議にのぼって「大宮宰相」と呼ばれていたから「大宮宰相家」であったことは確かであるが、ここは「禅定太皇」に合わせ、副状も法皇にふさわしい地位の人物という形式を整えたものであろう。栄仁のための鎮守仁王経読誦に関する巻数や巻数返事についてのこれまでの翻刻史料の多くが、人名比定を誤っているのは、こうした歴史的意図に気づかなかったためであり、既に富田氏が指摘するところである。仁王経修法の国家的意義、それを求める施主の側の政治的意図とそれに形の上で応え続けた東寺供僧との関係、また東寺供僧側の国家的役割意識にあらためて注目したいと思う。
 そ二六号は、山城国下久世荘内の寺庵大慈庵領に対する地頭東寺の課役賦課の禁止を幕府に求めた申状の写である。京都近郊荘園内の一寺庵が、相国寺雲頂院末寺に位置づけられ、足利義満が寄進本主の意向にそって一山派の禅僧希古彦音の領知を安堵したことがわかり、五山禅院の末端の所領経営に目が向く史料である。『大日本史料』第七編之四(六月五日条)は、彦音を彦竜とし、同第七編之七は、本号(一)大慈庵申状を応永一二年(十月是月条)に置いているが応永一〇年のものであって、ともに誤りであろう。
 さて、真言宗の重要行事であった東寺灌頂院御影供の費用を負担する執事役は、僧綱の巡役であった。執事役を差し定める手続きは、まず東寺執行が前例を取り調べ、臈次にしたがって真言宗僧綱の中から選定し、それを寺務に注進する。寺務は選定された僧侶宛てに差文を発給し、執行の注進状と一緒に執行に返し渡す。執行はそれらを取り次ぎ、執事役の請文を取るという段取りを踏むものであった(黒川直則「東寺執行職の相伝と相論」『(科研報告書)東寺における寺院統括組織に関する史料の収集とその総合的研究』、二〇〇五年)。ところが、長禄四年(一四六〇)は四月に至るまで寺務が補任されず、執事役差定の手続きに支障をきたしたため、執行栄増から廿一口供僧方年預に対して同役の差配伝達を依頼した書状が、そ七〇号である。このころの執事役は二人おり、増長院厳忠は東寺供僧一臈、もう一方は大覚寺性深であった。そ七〇号は、一方の厳忠に関するものである。「東寺長者補任」長禄四年条と「東寺執行日記」同年正月二六日条に同内容の関係記事が掲載されているが、結局、大覚寺には年預宝輪院宗寿が、供僧厳忠には灌頂院預が、この執行から年預に宛てた書状を持参して巡役勤仕の領掌を得たのであった。天理大学附属天理図書館所蔵の「東寺記(東寺執行日記)」末尾に付いている「東寺灌頂院御影供執事注進并差文請文案」は灌頂院御影供執事役差定の際の一連の文書を書写集成した記録であるが、その中の長禄四年分には、以上のような事情を反映して両方執事についての執行書状のみが書写されている(貫井裕恵「中世後期における御影供執事役について」参照、『中世荘園の環境・構造と地域社会─備中国新見荘をひらく─』勉誠出版、二〇一四年)。
 最後に、幕府の東寺奉行の働きを示す史料について触れておきたい。応仁二年(一四六八)三月、東寺供僧は、寺奉行清貞秀から一条家領久世荘代官職補任に関する裁許にかかわって「号一条殿御領久世代官職石井次郎三郎・中居孫太郎申給奉書之間、若寺領事歟否云々」(ね函一〇号)という問い合わせを受けた。この奉書に、相奉行として連署の判形を求められたので、東寺領久世荘とかかわりがあるかどうか確認しておきたいという意図であった。東寺では、こうした事情を把握していなかったので、早速久世上下荘公文に尋ね、その結果を清貞秀に伝えている。そして貞秀からは、れ九〇・九一号に見えるように、状況を説明し、さらに東寺領下久世荘辺での今後の動きに注意が必要なことを記した書状とともに、一条家領代官補任を安堵した奉書、さらに一条家方の奉行斎藤種基あての一条家雑掌の書状正文まで入手したのであった(『教王護国寺文書』六─一七八九)。当然のことではあろうが、別奉行が、幕府に集まる情報入手の窓口であることがここに示されている。
 また、そ一〇一・一〇二号は東寺造営料所であった大巷所のうち、相国寺法住院領とそれに接していた八条猪熊と堀河との間の巷所の領有をめぐる相論関係文書である。幕府の東寺奉行は、この頃飯尾清房(加賀守)と松田数秀(対馬守)の二名であったが、東寺供僧は飯尾清房に取次ぎを依頼し(一〇二号㈣)、敵方の法住院春岩周玲の清房宛て書状(一〇一号)を入手したほか、訴陳状の交付や(一〇二号㈠㈡)、指図(同㈢)の検討についても、清房と折衝していた。おそらく清房は敵方相国寺の寺奉行も兼ねていたため、情報はそこに集約されていたものであろう。延徳三年(一四九一)五月初めに法住院雑掌の訴状が清房から東寺に届けられ、五月四日という日付を端裏書にもつ指図も同時に持ち込まれた。東寺では、五月九日頃、指図に自らの主張を記入して修正しつつ、陳状を用意して同月二九日に清房に提出し たのであった。指図も清書の上、提出されたかもしれない。訴論における東寺側訴訟担当奉行は松田数秀が担ったようであるが、裁許は明らかではない。幕府訴訟における別奉行との情報の遣り取りが想像される一件である。ここに見える法住院の来歴については山家浩樹「相国寺法住院と法住寺」(『禅文化研究所紀要』二八、二〇〇六年)参照。なお、二六五頁に掲げたトレース図は、史料編纂所技術部技術専門員村岡ゆかり氏の制作になるものである。
(例言三頁、目次一四頁、本文二八三頁、花押一覧九頁、文書番号対照表三頁、本体価格七、一〇〇円)
担当者 高橋敏子

 

『東京大学史料編纂所報』第51号p.46-52