大日本古記録 齋藤月岑日記 十

本冊には日記原本第三五冊と第三六冊、明治七年(一八七四)と同八年の二年分を収めた。月岑七〇歳・七一歳(満年齢)である。明治四年から六年の間は日記原本欠であり、また明治九年以降の日記も知られないので、本冊が『大日本古記録 齋藤月岑日記』の最終冊となる。明治維新後数年を経て、東京の町方行政の制度や町(ちょう)役人としての仕事内容には変化が大きい。淡路町・今川小路・神保町・千代田町・美土代町(みとしろちょう)など、明治になって成立した町名・地名も頻出するようになっている。なお、明治六年の新暦切り替えに対応して、本冊収載の日記は太陽暦で記載されており、「正月」ではなく「一月」を使用している。まず公務関係、次いで社会関係の記事を取り上げ、その後家族・親戚関係、文化的活動等を紹介していく。
 明治七年一月、月岑は東京府第一大区四小区戸長であった。この年は年間三百日以上多町二丁目の町用取扱所(扱所)へ出勤している。もっとも、午後の早い時間に引いていることが多かったようである。仕事の中心は土地取引の記録で、そのほかに上からの指示による人力車曳調・兎調・隠売女調・戸籍調・徴兵調・宿屋調等を行っている。扱所での事務処理のほか、戸長には交代で幸橋門内の東京府庁へ出る「当番」があり、海運橋警視出張所での「会議」も月二回ほど設定されていた。江戸期に多く見られた「寄合」は激減しており、それも他小区との間で意見調整が必要な場合に、扱所で行ったものに限られる。同年一二月一二日、第一大区長の星野と尾崎に相談の上で、月岑は戸長御免願を提出し、翌明治八年一月二四日に許可された。同職は当面岡村政郷(第一大区十一小区戸長)が兼帯し、その後三月一七日に第一大
区四小区年寄だった田上光矩が戸長に任命された。この田上の願いにより、月岑は五月一九日に四小区年寄に任命された(一〇月一三日に区費調掛りと名称変更)。これにより、月岑は明治八年も二百日以上扱所に出ることになった。ただ、御用繁多ではなかったようで、「徒然酒呑ミ暮らす」(明治八年二月一七日)、「来賓なし、用事なし、酒のミくらす」(同三月二日)、「昨今酒のミくらす」(同一一月四日)など、自宅で寛ぐ記事も見られる。なお、右の岡村は元小柳町名主岡村庄之助、田上は元多町二丁目名主田上定五郎である。このほか、月岑に近しかった町名主で行政に残っていたのは、元松永町名主の片岡(宗容、第五大区長)、元小網町名主の普勝(政信、第一大区五小区戸長)くらいであった。明治八年六月二二日、月岑は自宅で急な足痛に見舞われ、漸く外出できるようになったのは七月一四日からであった。前冊では貧窮人の記事が多く見られたが、本冊では明治八年一〇月九日に「夕方又(第一大区)六小区寄合候由、三井ニ而貧困之子供養育方之儀申出付、相談之由」がある程度である。
 災害関係では、「火事」(少火、遠火等含む)の記載は両年で約百箇所にのぼるが、なかでも明治八年二月一六日の浄心寺後東平野町から出火し木場まで焼いた火事は「深川大火」として記される。また同年七月三日深夜の内務省火事(息子喜之助の勤務先である大蔵省が類焼した)や同年一二月一二日の吉原いせ六火事はやや詳しく記載される。「開帳」記事は両年で七〇箇所ほどある。
 祭礼関係では、神田神社で明治七年の祭礼を前に平将門を祭神から外すことになった経緯が記される。「平親王御同殿を境内ニ移し、本社へ大己尊の御合殿ニ少彦名尊を勧請し奉るへき」(明治七年七月二五日)、「常州大洗磯崎社より神田御社二の宮御神体御引移り賑ひ候由」(八月一七日)「〇神田社御祭礼、当年少彦名尊御相殿ニ相成、神輿も渡御有之、二基也」(九月一五日)といった記事が見られるが、月岑はとくに感想を記していない。ほかに明治七年に特有の事例として「招魂社祭礼有之、是ハ佐賀県戦死之招魂合祭せられし祭也、競馬・花火」(明治七年八月二八日)がある。
 社会関係では、まず月岑宅周辺の変化を示す記事として、筋違広場整備関係がめだつ(明治七年索引、一月一五日、三月五日、九月二三日)。万世橋(明治六年旧筋違橋西隣に架橋)は場所柄ゆえ日記への登場回数も多い(明治七年一月三一日、三月二一日、三月三〇日、七月一一日、九月二六日、一一月三〇日、一二月七日、明治八年四月三日、四月七日、五月一二日、六月二〇日、一一月三日、一二月三一日)。このほか、「さへ木丁新町や」(明治八年一一月一二日)、「八月より(外神田)七曲り先の方ハ蔵前への新道出来る」(明治七年索引)、「土井様新道」(明治八年九月一九日。佐柄木町・連雀町向いにある元越前大野知藩事土井利恒の屋敷を縮小して通した道)などの記載があり、美倉橋(明治八年索引、九月八日。江戸期は新し橋として記載)、左衛門橋(明治八年索引、九月二七日、一〇月二九日、一二月三〇日)が新しく登場する。また、両国橋の掛け替えには関心が高かったようで、何回も記載がある(明治八年索引、四月二八日、六月二一日、一〇月二〇日、一一
月二五日、一二月一五日、一二月一九日)。また、左のように明治期ならではの語が見られることが特徴である。「人力車」六七箇所、「鉄道」八箇所、「ステイション」四箇所、「瓦斯燈入費」(明治八年八月二四日)、「エレキテル電信機」(明治七年一月二一日、但しこれは浅草奥山見世物)、「煉瓦石」三箇所(明治七年六月四日、八月二日、九月九日)。
 家族関係では、息子喜之助が明治六年冬に浅草三筋町江原氏の娘おいとと再婚したらしく、七年二月二三日に送籍があり、四月二六日に婚礼祝儀の赤飯を配っている。七年六月二七日条にはおいとの挿絵がある。喜之助は慶応三年に村上嘉六娘おとせと結婚しており、明治三年一二月にはおとせ不快の記事も見えるが、明治七年・八年におとせや村上氏の記事はなく、その後の経緯は不明である。喜之助は七年一〇月に大蔵省直の御雇鑑定役に任命され、翌八年五月には月岑から「暮方(くらしかたカ)勘定」を任された。息子松之助は、明治七年七月二一日に元大番三浦喜多之助のもとへ養子送籍をしているが(明治八年六月に戻している)、明治八年五月二五日には材木町の山田屋新七方へ養子に行った。しかし七月一日に無断帰宅し、八月に離縁となった。仕事面では、明治七年一月には大蔵省への再勤を命じられ、二月に大蔵省紙幣寮へ出仕した。しかし一年後の八年二月、紙幣寮御用の停止で鑑札を返上している。同年一一月には再び紙幣寮に出るようになり、一二月には刷板局試験職工に任じられた。両年の間、直接家族の死亡はなかったが、おいとの姉である森おちよが明治八年四月一一日に、雉子町地主の桶屋宮二郎が明治八年四月二四日に死亡している。また、明治七年一〇月二〇日に「尚善院十七回忌并幸道居士廿三回を兼」(月岑母・養子亀之丞)、明治八年二月七日に「妙詠大姉七回忌」(妻おまち)の法事を行った記事がある。
 文化的活動に関連して。元肴役所書役の関根只誠(松屋七兵衛、孔年)の名は前冊から時折見えていたが、明治七年・八年にはしばしば見られるようになる。月岑から只誠への本の貸与が中心だったようである。「武江年表後扁(篇)」「里寉(鶴)風語」(明治八年二月七日)「操筆(巷談操筆カ)」(同四月三〇日)、「漫筆」(同一一月一七日)などが見える。右の「武江年表後扁」は続編の草稿であろうか。このほか普勝政信の姉おまさには「愛護若」「北越奇談」「安積の沼」を貸しており(八年四月一九日、五月二二日)、元三十五番組添年寄明田清之介(清八郎)には「勧進能巻物」「沿海紀聞」「歴代炎上鑑」「町奉行名録」を貸している(明治七年三月七日、三月一六日、八年五月五日、六月二八日)。また一箇所だけだが、「報知新聞作者へへ(衍)福沢諭吉加ハり可申由、新聞や話也」(明治八年六月一九日)とあって福沢諭吉の名前が見え、月岑が郵便報知新聞を購読していたこともうかがえる。明治八年の月岑はこの頃流行し始めた写真(写真絵、写真画、写真鏡絵)
の収集に精を出している。同年索引には「五月淡路町より九段の下迄写真絵を商ふ家十九軒程になりたり」とあり、三月二日条には「昨今集る所の写真鏡画百五十餘枚に成り、目録の序文拙きながら艸稿認る」とある。明治八年に没した写真師内田九一の名前も四箇所に出てくる(二月二八日、三月二一日、四月五日、四月二八日)。この年一二月には収集写真は六百枚近くになっていた(「今日ニテ写真五百九十枚ニ成」一二月三日条)。
 この後月岑は、明治九年二月に年寄(区費調掛り)御免となり、文政元年(一八一八)家督以来六〇年近くに及んだ公務から完全に引退した。明治一〇年には『沿海紀聞』と『慴怕操筆』を外務省に献本し、『百戯述略』の編著を進めた。明治一一年一月には『武江年表』続編(嘉永二年~明治六年)をまとめて脱稿したが、その刊行を見ることなく、同年三月六日に没した。
(口絵一葉、例言一頁、目次一頁、本文一八〇頁、解題一三頁、略年譜二二頁、索引二三六頁、本体価格一一、〇〇〇円)
担当者 鶴田 啓・杉森玲子

『東京大学史料編纂所報』第51号 p.57-59