東京大学史料編纂所

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刊行物紹介

大日本近世史料 細川家史料二十五

収載範囲・底本
 「細川忠利文書 十八」の本冊では、寛永十五年(一六三八)十二月一日から翌十六年十二月二十九日までの幕府老中・役人・諸大名等諸方宛書状案四五三件を翻刻・校注した。底本は公益財団法人永青文庫所蔵・熊本大学附属図書館寄託「公儀御案文」寛永十五年十一月~十二月(整理番号十─廿三─十一)と「公儀御書案文」寛永十六年正月~十二月(整理番号十─廿三─十二)である。
 なお、本冊収録分のうち、底本の成立・性格を考える上で興味深い材料に以下のものがある。寛永十五年の冊の末尾に留められた十二月二十七日附有馬豊氏宛(五一四〇)は、「此御案、正ノ十四日ニ出申ニ付、爰ニ書申候」と注記があり、後で補われたことが知られる。江戸幕府老中宛の五三〇二号・五三三一号は、本来ならば「御奉書御請之御案文」に収録されるべきもの。六月十一日附斎藤利宗宛(五三七九)末尾の貼紙で抹消された部分は、同日附の家老松井興長・有吉英貴・米田是季宛書状(『松井文庫所蔵古文書調査報告書』十四─二五四四)の冒頭である。五四五五号は本紙が届けられずに熊本から戻されたため、案文抹消を指示されたこと、本紙の署判が奥で抹消されたことが注記されている。
記載の内容
 忠利の動向と細川家の出来事。寛永十五年末、在国中の忠利は玉名郡へ鷹野に行くなど緩々と過ごす。熊本にて越年し、正月五日に八代の父忠興のもとを訪れる。その後、参勤の準備に入り、近隣の大名に出立時期を照会する。幕府は忠利に、早く出立したならば他の九州衆も急ぎ参勤することになるとして、諸大名の出立後に発足するよう指示した(五一二八)。
 二月二十六日に熊本を出立、三月二十三日に江戸に着く。諸大名の参勤は四月一日に家光に報告され、忠利のもとへは同日上使として阿部忠秋が遣わされた。四月三日に登城し御礼、家光より側近くに召され島原での功績を賞された(五三二四)。
 十六年に細川家で生じた最大の問題は、忠興の証人交替・隠居領処置であった。忠興は長く七男の細川興孝を江戸に置いていたが、関係が悪化しついに絶交するに至る。忠興は替りに五男の立孝を江戸へ下し、家光に目見得させ、最終的には隠居領を中心に別家を立てることを希望する。その交渉は忠興の思いのままに進まないところがあり、堀田正盛に対し腹を立てた。六月七日に一旦解決し、忠利は関係した懇意の旗本や大名に礼を述べるとともに、父忠興の態度を詫び釈明している(五三六七~五三七四)。立孝は道中にて煩い江戸への下向が遅れ、九月二十日に家光に目見得した(「江戸幕府日記」)。(忠興の息男の数は、「熊本藩世系」東京大学史料編纂所架蔵謄写本の記載に拠った)。
 幕府政治の動向。家光の病状は回復に向かい、正月には諸大名を引見する(五一八六・五二三〇)。四月には「三年め」に月代を剃った(五三二四)。四月二十二日、家光は諸大名を招いて能を興行し、その後、奥にて「上下共于今おこりなをり不申候間、弥々つゝしミ可申由、又きりしたん于今方々ゟ出申候(中略)弥念を入可申との事」を直に厳命した(五三三六)。キリシタンの問題は忠利もかなり気にしており、有馬豊氏や日根野吉明らと改めの方法について情報交換をしている(五一七〇・五三六三)。夏には仙台で潜伏中の宣教師ポルロらが捕縛され、江戸で僉議がなされた(五三九五)。
 幕府人事について。正月二日、土井利勝が中風に倒れた。忠利は見舞状のなかで「天道ニ御叶候御人にて候間、御本復と存候」と述べている(五一九五)。正月五日に老中松平信綱・阿部忠秋はそれぞれ加増され、川越・忍を与えられた(五二三六)。
 十六年七月、幕府はポルトガル船来航禁止を決定する(山本博文『鎖国と海禁の時代』校倉書房、一九九五年に詳しい)。同月四日に申渡しがあり、忠利は同日島津氏へ情報を伝えている。長崎へ上使として太田資宗が遣わされ、熊本からは家老米田是季が同地に出向き指示をうけた(五四五四)。八月九日には在江戸の九州有力大名に対し、ポルトガル船来航時は江戸・長崎へ注進するよう、「日本へたいしふさほう成儀」があった場合は適切に対処し、長崎奉行と高力忠房の指示を仰ぐようにと命があり、忠利は西国の大名等へその旨を伝達している(五四三三)。
 この他、幕府に関する大きな出来事としては、八月十一日の江戸城本丸火災、九月二十一日の千代姫祝言があり、それぞれ関連する書状案がある。
 島原・天草一揆後の状況。閉居を命じられていた鍋島勝茂・板倉重矩・石谷貞清は赦免される(五一七三)。また、板倉重矩は亡父重昌の遺領相続を認められた(五二五九)。島原・天草の復興は遠く、幕府は高力・山崎に寛永十五年の物成不足分を銀で与える(五一七二)。一部は細川家が立替えた。その際、山崎家治に、「公儀への様子高力殿能御存知にて可有御書」として高力忠房の請取状写を送付している(五一八八)。また、島原には五千石の城詰米が企画され、周辺大名から購入されている(五二二一)。天草富岡城の普請は捗らず、同地のキリシタンが山あがりをしたとの風説も流れた(五三三六)。
 諸大名家の動向。いくつかの家中で内紛の取沙汰がある。大きなものでは会津加藤家の家老堀主水が一族郎党百人ばかりを引連れ、「道筋之橋なとやきおとし」退去した(五三八二)。津山森家では老臣森可春が仕置きのあり方に不満を募らせ当主長継と対立する。この件においては忠利も間に入り、ひとまず無事に収まった(五四七一・五四九〇)。
 その他、文事など。忠利は淀屋言当から「原人論」を送られ、波多中庵に講じさせている。原人論は沢庵が後水尾上皇に講じた書物である。また、「清水物語」も入手し、「此中無之面白草紙にて候」と感想を記している。「明心宝鑑」も「面白キ」本であると聞き、一覧したいと述べる(五一〇八・五一九一)。
 十六年六月下旬、小堀政一に「こいたしきの掛物」を表具するよう依頼する。「此事ハ何へも頼可申かた無御座事ニ而候間」と頼み込んでいる(五三九四)。「こいたしき」とは「千載和歌集」所収の源雅重の歌で、この掛物は藤原定家の筆と伝わり、表は忠利没後、裏は光尚没後に家光に進上された(『綿考輯録』忠利公(下)・光尚公)。
 曽我古祐からは、沢庵へ墨蹟揮毫の取成しを頼まれる。忠利は、所持している「寂然不動之掛物」は「只壱ツならてハ頼申間敷由和尚へ申入」書かせたものであったが、ひとまずそれを譲り、首尾よく古祐の分が調うようであれば返却されたいと述べる(五一六〇)。
 また、酒井忠朝の阿蘇社への書物奉納を取り次ぐ(五三五一・五四〇八)。このとき妙心寺大梁の墨蹟が奉納された(熊本大学附属図書館「松井家文書(一紙)」)。忠朝は同時期に尾張熱田社や土佐竹林寺にも妙心寺僧の墨蹟を献じている(熱田神宮文書宝庫文書・『山内家史料忠義公紀』)。
 この他、肥後の一向宗取次について、忠利は懇意の旗本平野長勝の女婿で本願寺の家臣下間仲虎に任せようとする。当該期の本末関係や領域的編成を考える上で示唆的である(五三〇五・五三一〇)。
人名比定
 既刊分と同様に巻末に「人名一覧」を付した。なお、半井成信は没年を『寛政重修諸家譜』等により寛永十五年四月十一日としてきたが、大徳寺真珠庵の墓石銘によれば寛永十六年四月十一日没である(銘文は小瀬玄士氏の調査による)。したがって、前巻四七九一号の「通仙院」は半井成忠ではなく成信で訂正を要する。
(例言二頁、目次三五頁、本文・人名一覧四二八頁、二〇一六年三月二八日発行、東京大学出版会発売、本体価格一三二〇〇円)
担当者 山口和夫・林 晃弘


『東京大学史料編纂所報』第51号p.40-42