東京大学史料編纂所

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刊行物紹介

大日本維新史料 類纂之部 井伊家史料二十九

 本冊には、文久元年八月~十二月、文久元年補遺、文久二年正月~七月の史料を収録した。直弼暗殺後井伊家の政治活動に密接な関係をもった二人の死去、すなわち文久二年七月二十日九条家侍島田龍章暗殺および同年八月二十七日彦根藩士長野義言処分を区切りとし、本冊をもって書目『井伊家史料』の本編は一応の完結とする。次冊は、既刊分の補遺編を予定している。
【和宮降嫁関係】
 親子内親王(和宮)は文久元年十月二十日京都を発し、翌二年二月十一日江戸城にて婚儀を行った。文久元年八月二十一日には、幕府は、親子の発輿を十月中旬と武家伝奏に達した。しかし九月四日、彦根藩京都留守居後閑義利は、下向が来年三月まで延期になるのではないかとの危惧を長野に伝えている(四号)。九月九日付長野宛島田書状で、発輿日程決定を知らせている (九号)。
 九月二十二日には、彦根藩主井伊直憲に将軍婚儀終了後の上使の内命も出た(一〇号)。上使としての上京には、付き添いとして北町奉行同心まで動員されている(八七号)。
 第二八号として納めた『和宮縁組一条留写』は、文久元年六月・七月の状況について、既刊史料集にも収録されていない関係記事を含んでいる。九条家側で留めたものを島田経由で長野が入手したものである可能性がある。京都所司代酒井忠義書状・書付案などが多数収められ、所司代・伝奏・関白九条尚忠間のやりとりの実際を窺うことができる。六は所司代から正式に武家伝奏を経て関白へ回達(七月二日)する前日に、九条が入手したものである。同様の例としては、第二十八巻第三五号七の所司代書取案も、正式に伝奏から関白に達する以前の内々に作成されたものであった。八~十によれば、趣意書通達時、九条限りで添書を作成しており、酒井へは両方に対して請書を要請している。
 文久二年正月十九日付酒井宛老中久世広周の書状では、入城後の和宮と将軍徳川家茂の仲睦まじい様子に安堵し、橋本実麗を通じ孝明天皇も承知との観測をしている(三一号)。
【江戸状況】
 文久二年正月十五日、坂下門外の変が勃発する。この時の「斬奸趣意書」及びそれに対する弁駁書(三四号・三五号)は、幕府要路にも一覧されるほど流布していた(四四号)。彦根藩執権職木俣守彝は町奉行石谷穆清にあてた二月二十五日付書状でこれに対して激しく批判している(三八号)が、江戸の彦根藩側役宇津木景福は時勢にそぐわないと判断し、これを握りつぶしたと考えられる。
 安政大獄処分者の復権の機運により関東でも反直弼派が台頭してくる(五〇号)。京都情勢とともに、徳川慶喜宥免の内定の報に、側衆薬師寺元真らは「一大事」と動揺を深める。長野から送付された、「慶喜を後見に任じ松平慶永を大老とし家茂を押し込める」という「悪謀」の内容を家茂生母実成院操子に上申する算段を相談するが、断念に至る(六二号付属四月二十九日付長野宛宇津木・彦根藩城使富田昌春書状)。
 五月四日付薬師寺書状には、島津久光建白が五月二日家茂に上呈されたこと、松平容保の登城の様子、大久保忠寛の大目付取り立てなどが詳しく報じられている(六八号)。これらの情勢の中で、宇津木らは、家茂小姓に任じられていた石谷倅などから得た、慶喜の人事が御用部屋ではなく海防をにらんだ家茂の決断によること、家茂の京情に動じない泰然とした態度や武勇、大目付・目付と相談するなど家茂の主体性の発揮に一縷の期待を寄せる(六二号・七五号・八九号・九〇号)。
【京坂状況】
 文久二年四月十六日、上京した久光は京都近衛邸に参殿し近衛忠房らに口上を述べ、慶永・慶喜らの登用など安政大獄処分者の復権や、近衛忠煕の関白就任他朝廷・幕府人事などを内容とする建白を行った。この件は、長野書状により同日付及び二十日の続報として宇津木・富田に報知され、木俣、彦根藩江戸家老、石谷、薬師寺にも伝達された(五七号・五八号・六二号)。五月六日、一旦勅使の江戸派遣が決せられたが、その後も朝議は二転三転し、当初五月十六日に予定されていた勅使の京発は遅延する。
 長野は、直弼の大老時代から緊密な政治的連携を続けてきた九条の関白罷免の提案に驚愕し、幕府により阻止すべきだと主張する(八八号=五月二十日付宇津木・富田宛長野書状)。しかし、九条辞任を阻止することはできなかった。文久二年六月二十三日付彦根藩京都留守居書状では、九条関白辞職勅許・近衛新関白の参内の様子を館入の京都東町奉行与力からの情報として知らせている(一〇六号)。
 長野が、武鑑によって鹿児島藩主島津茂久が久光の実子であることを確認した(八八号=五月二十日付書状別紙二)ことをはじめとして、彦根藩側は鹿児島藩の動向に関する多数の情報を収集して書写している(四三号・五七号・六四号)。
 文久二年四月二十日付の宇津木・富田宛長野書状では、久光の建白の様子や京都情勢を報じるとともに、久光の件で井伊家が周旋していることは極密にすべきと伝えたうえで、実成院操子への、久光建白書批判の上書案を送っている(五七号・六九号)。
 長野は、島田から勅使持参予定の勅書の写を極秘に入手した(七四号)他、勅使情報の収集に努め、その企図を阻止しようとする(六四号・六九号・九七号・九八号・九九号・一〇〇号)。長野は、和歌山や大坂でその工作に奔走する(七〇号・七五号・九四号)が、五月二十二日の勅使大原重徳・久光の京都発足を事前に察知することすらできなかった(九三号)。
 文久二年二月の萩藩士(中老所雇)長井時庸の建白や久光の動向による所司代酒井の動揺の状況に、彦根藩側は、京都守護の任の一環としての二番手の大津出陣まで検討していた(五九号=四月二十二日付長野宛宇津木書状)。五月十一日大津における島田と長野の会談では、鹿児島・萩両藩士が上京して陣を張り京情不穏のなか、孝明天皇の彦根城退避が話題に上ったこと、彦根城・彦根藩大津屋敷を修復して天皇の安心とせよとの九条の指示が伝えられたことを、長野から彦根藩側役・城使に報知している(八五号)。しかし、五月二十一日付宇津木書状によれば、井伊家の京都守護罷免の風説が流布していた(八九号)。
 この時期、酒井も苦境に陥っていた。勅使下向やその延期などの情報は、所司代から江戸の老中に報知されるのではなく、逆に老中が所司代にあて伝奏からの書札到来を知らせている(八六号)。酒井には、五月二十八日付老中連署奉書により参府召喚が命じられた(『所司代日記 下巻』四〇四頁)。六月二十一日所司代邸での九条加増などの達は、酒井病気につき、名代としての京都東町奉行から伝奏に伝えられた(一〇六号付属彦根藩京都留守居書付)。酒井は、六月晦日罷免となる。
【その他】
 和歌山藩領大庄屋であり江戸・横浜と商事取引をしていた堀内千稲(長野は堀内家から養子を迎えている)が、久光や毛利定広の上京で「異国貿易停止」の可能性があるのかどうか内密に教えてくれと使者を長野に送った(九四号)事例は、当時の商人の発想を伝え興味深い。
 本冊最後には、久光や将軍・幕閣を揶揄した文久二年七月「当世流行見立」 を収録した。
(目次一八頁、本文三三一頁、口絵図版一葉、本体価格一五二〇〇円)
担当者 横山伊徳・杉本史子・箱石 大


『東京大学史料編纂所報』第51号p.45-46