東京大学史料編纂所

刊行物紹介

大日本史料 第九編之二十七

 本冊には、後柏原天皇の大永四(一五二四)年三月二九日から同年七月ま での史料を収録した。
 三条西実隆は、四月一九日に京都を出立し、住吉社・天王寺・高野山に詣 で、後柏原天皇の爪を高野山に納め、五月三日に帰着した。これを、実隆が 天皇から依頼を受けた四月一六日に懸けて綱文を立て、史料としては、いず れも実隆自身の手になる日次記「実隆公記」・日次詠草集「再昌」・別記「高 野詣真名記」・仮名書きの紀行文「住よし紀行」を採録した。 「高野詣真名記」は、日次記四月一九日条に「自今日事在別記、詣住吉・ 天王寺・高野等、」とある別記と思われ、四月一九日の進発から五月二日の 住吉社参詣までの記事を有する(日次記は四月二〇日から三〇日までの記事 を欠く)。宮内庁書陵部所蔵桂宮本「再昌草」(特函一号)のみに見られるも ので、本冊もこれに拠った。
 「住よし紀行」(別称「高野参詣記」「高野山道の記」等)は、四月一九日 から五月三日までの記事を有する。「再昌」と共通する記述も多いが、四月 一九日に天王寺金堂で実隆が詠んだ歌は異なり、詞書の記述がより詳細であ る一方、天王寺に奉納した五首、住吉社に奉納した十首を欠く(実隆の家集 「雪玉集」には、それぞれ「天王寺五首」「住吉十首」として別に収録されて いる)など相違点も多いため、両者をともに収めることとした。いくつかの 系統の伝本のうち、『私家集大成 七』(明治書院、一九七六年)は、寛文一 〇(一六七〇)年刊行板本「雪玉集」所収本に拠って翻刻している。「群書 類従」巻第三三八や『続紀行文集』(博文館、一九〇〇年)・『国文東方仏教 叢書 紀行部』(国文東方仏教叢書刊行会、一九二五年)は底本を明記せず、 詳らかにし得ないが、「雪玉集」所収本に近い本と思われる。また、『実隆公 記 巻九』(続群書類従完成会、一九六七年)は、宮内庁書陵部所蔵「扶桑 拾葉集」所収本に拠って翻刻している。本冊では、書陵部所蔵本とは文字の 異同を有する未翻刻の写本である内閣文庫所蔵紅葉山文庫本「扶桑拾葉集」 (二〇四函一四六号)所収本に拠って収めた。同書の書誌事項は以下の通り。 料紙楮紙、袋綴(四ツ目)の三三冊本。各冊の表紙・裏表紙は肌色と黄土色 の市松模様で金砂子が見られる。貼題箋に書名「扶桑拾葉集」および冊次を 記し、第一丁に紅葉山文庫本であることを示す「秘閣図書之章」の方形朱印 二種各一顆を捺す。
 本年七月二〇日は、後柏原天皇生母贈皇太后庭田朝子の三十三回正忌にあ たり、七月一七日から二一日までの五日間、清凉殿において法華八講が修せ られた。宮中での法華八講勤修は、明応三(一四九四)年二月二四日、後土 御門天皇生母嘉楽門院の七回忌以来、三〇年ぶりのことであり、三条西実隆 や大乗院経尋等の日次記の他、参仕の僧俗等によって複数の記録が作成され た。また、本年以降、宮中での法華八講は長く途絶し、復興されるには、文 禄三(一五九四)年一二月二一日、正親町天皇の三回忌を待たねばならず、 そのため、後の部類記等にも多くの記事が採られることとなった。本冊では、 これらのうち、同時代の記録および関連文書を中心に採録し、概ね、公家に よる記録、僧侶による記録、次で用脚請取状や指図等記録以外の史料の順に 排列した。
 採録史料のうち、講師の一人として参加した東大寺密乗坊英憲の記録「禁 中御八講見聞記」について、底本は東大寺図書館所蔵史料一四一函六一四号 としたが、末尾一丁分のみは京都大学所蔵東大寺文書中に伝来しており、収 録にあたってこれを復元した。また、「大永四年御八講記」は、惣在庁威儀 師隆契が八講の執行にあたって発給した文書を収め、本文のみならず、料紙 の種類や使い方、書止文言や名前の書き方等の書札礼についても記録してお り、貴重である。行事上卿久我通言作成の「贈皇太后源朝子三十三回忌八講 次第」は、東坊城和長によって「今度内府(久我通言)雖被進御次第、於進 退以下者悉相違之条、有名無実之作法也、」(「菅別記」)と評されているよう に、あるべき次第を記したものであって、今回の八講の記録ではないと考え るべきである。実際、度者の例示が前回の明応三年と前々回の延徳二年(一 四九〇)の御八講のものになっている以外は、『大日本史料 第八編之三六』 延徳二年四月二八日条所収の嘉楽門院三回忌法華八講行事上卿徳大寺実淳作 成「禁中御八講次第」とほとんど変わるところがない。さらに、文禄三年正 親町天皇三回忌法華八講の行事上卿今出川晴季作成「八講次第」(「京都御所 東山御文庫記録」甲二八二)は、度者の例示が応安と応永の例になってる点 も含め、延徳二年の「禁中八講次第」と一致しており、「次第」であって記 録でないことは明らかであろう。同じように、参仕者の名前等が全く記され ていない「僧名定次第」も「次第」であって記録ではない可能性があり、検 討を要する。
 七月二三日、延暦寺衆徒が集会し、日蓮宗徒の弾圧を求めた。史料として、 この時に発給された同日付の「集会事書」三点を収めた。一点は、妙法院庁 務の沙汰として、天台座主妙法院覚胤法親王に対して、日蓮宗徒の大僧正・ 大僧都を改易し、以後の任官を停止するよう、天皇へ執奏することを求める もの(「仁和寺文書」)。一点は、山門奉行の沙汰として、幕府に対して、日 蓮宗徒を洛中洛外から追放することを求めるもの(「田中穣氏旧蔵典籍古文 書」)。一点は、同じく洛中洛外からの追放について、将軍に意見するよう細 川高国に求めるもの(「阿刀家伝世資料」)である。従来、改易・任官停止の みが注目されてきたが、同時に洛中洛外追放も要求されており、かつ、要求 の内容に応じて、宛先・伝達経路が選ばれている。併せて収録した「実隆公 記」八月六日条によれば、覚胤の執奏に対して、改易は認めないものの、今 後の任官は停止する旨の回答がなされたことが知られる。
 徳川家康の祖父安城松平清康は、岡崎松平信貞(昌安)の支城山中城を攻 略した後、信貞と和し、岡崎城を明け渡させてこれに移った。この事件が起 こった時期については、大永三年~六年の諸説がある。柴田顕正氏は、大永 三年は清康が家を嗣いだ年なので早すぎ、また、信貞の死が同五年七月二三 日であるため、五年・六年では遅すぎるとして、大永四年説を採り(『岡崎 市史別巻 徳川家康と其周囲 上』岡崎市役所、一九三四年)、現在は概ね この説が支持されている。これに対して、『史料綜覧』は、「三松録」に拠っ て本年五月二八日とする(「史料稿本」当該日条参照、「大日本史料総合デー タベース」から閲覧可能)。しかしながら、「三松録」は、先に触れた信貞の 死を享禄四(一五三一)年七月二二日とする等、史料としての質に疑問が残 り、その記述のみに拠ることは躊躇せざるを得ない。よって、本冊五月二八 日条への収録は見合わせ、是歳条に収めることとした。
 本冊には卒伝として、四辻季経(三月二九日)・文叔智光(五月七日)分 を収めた。なお、『史料総覧』においては四月二日に筒井順盛、五月一二日 に島崎忠幹、六月八日に成田親泰が卒した旨が立項されるが、これらは年末 雑載の死没条にまわすことにした。ただ検討の余地の残る点もあり、補遺と して立項収録することも視野に入れている。
 四辻季経は、筝の家として知られる四辻の傍流に生まれ、極官は正二位権 大納言、大永三年に出家し、大永四年三月二九日の未明に七十八歳で中風に より死亡した。父は季春、母は不詳。室は上賀茂社の社家の出身と確認され る。長男に四辻本家の実仲の跡を継いだ公音、二男に大日本古記録に収めら れる『二水記』の記主鷲尾隆康がおり、そのほか高倉南家を継いだ高倉範久 など、合計六人の子に恵まれたが、全員養子に出すか出家させて家は残って いない。その生涯は概して平穏で、このころから多く見られるようになる地 方下向はしていない。生涯一番の遠出は伊勢神宮への参拝であり、主要な事 蹟は後柏原天皇への筝曲伝授である。日々近臣として番に候じたほか、恒例 臨時の内侍所御神楽や宮中を始め各所の御樂では筝を弾くのをこととし重ん じられた。少し年下となる三条西実隆とは若いころから交流があり、筝曲を 教えたりもしている。
 季経の自筆としては、『実隆公記』の紙背や『言国卿記』の紙背に数点、 勘返状や書状が残るが、本冊では『北白川宮旧蔵手鑑零存』(本所所蔵)所 収の山国荘の経営に関わる書状を挿入図版として収録した。季経は永正七年 (一五一〇)四月に、白川忠富に代わって禁裏御領丹波山国荘代官に任じら れ、以後没するまで山国代官の地位にあった。もっとも晩年は老耄のため四 男の高倉範久が代行しており、季経死後の大永六年九月、範久が改易されて 万里小路秀房がこれに替わっている(『御湯殿上日記』大永六年九月一一日 条)。本書状は長橋局に充て、山国代官としての職務を遂行するにあたり、 二郎左衛門なる人物を下使に任命しようとしたところ辞退してきたが、現地 の支配を円滑に行うにはやはり自分の青侍に加えて、彼を下使にするべきだ と思うがどうだろうかと述べたものである。永正七年二月に焼失した丹波一 宮の造営の件が触れられているところから見ても、任命間もなくの永正七、 八年頃のものと推定される。二郎左衛門なる人物は加田次郎左衛門に比定さ れる。加田は白川忠富が代官を務めていたときにも現地役人として見えてお り(『忠富王記』文亀三年(一五〇三)五月一五日条)、万里小路が代官を務 めた時期には、山国荘の材木売買をめぐり処罰されるなど(『実隆公記』享 禄元年(一五二八)閏九月一六・一九・二〇日条)、現地に精通した人物で あることがうかがえる。季経はこうした人物を取りこんで職掌を円滑に遂行 しようと試みたものとみられ、筝の達人という雅な一面とはまた別の、実務 的な意味でも手腕を期待された季経の一面を示す史料と言えよう。
 文叔智光は、東福寺一九八世、永正一五年七月二六日に入寺し、大永元年 の冬節までと、大永三年の冬節には住持を務めていたことが確認される。宝 渚派に属し、山城真如寺にも住持した。俗系及び生年は不詳である。なお一 九五三年発行の『大日本史料第九編之八』では、文叔の東福寺入寺関係史料 として『自肯集幷自庵清規』から山門疏と諸山疏を引く。文叔は別号として 「自肯」と称したというから、『自肯集幷自庵清規』は彼の文集であった可能 性が高いが、本冊の編纂においては当該史料を見出すことがついにできな かった。江湖の示教を乞うものである。
(目次八頁、本文三七〇頁、本体価格八、五〇〇円)
担当者 渡邉正男・須田牧子


『東京大学史料編纂所報』第50号p.39-41