大日本史料 第五編之三十五

本冊には、後深草天皇の建長三年(一二五一)正月から七月までに関する
史料を収録した。
 宝治三年(一二四九)二月一日に焼亡した閑院内裏は幕府の援助により再建成り、建長三年六月二十九日に後深草天皇が仮住いの西園寺実氏の冷泉富小路第より遷幸した。第二十九冊の建長元年二月一日の第四条に、閑院内裏焼亡のこと、同年四月四日の第二条に、幕府、閑院の造営を奏すること、第三十三冊の建長二年三月一日の第二条に、幕府、閑院造営の雑掌を奏すること、同年四月五日の条に、造閑院行事を仰すること、同年七月十三日の第一条に、閑院造営次第日時定及び事始のこと、第三十四冊の建長二年十二月二十九日の第一条に、幕府、名士の子弟を簡選し、閑院内裏遷幸の滝口衆に充てることを収めたが、本冊では、正月十日の第一条に、閑院上棟のこと、五月二十三日の第一条に、閑院遷幸御祈御読経日時定のこと、六月五日の第一条に、閑院遷幸の御祈として、大神宮以下八社に奉幣あること、同月十三日の条に、新造閑院に於て、御読経・安鎮法あること、同月二十一日の条に、幕府、閑院の築壇の未役を沙汰すること、又、閑院造営の用途として、仏神田を除き、地頭の加徴に応じることを命じること、同月二十七日の条に、後深草天皇、西園寺実氏の冷泉富小路殿より新造閑院内裏に遷幸することを収めた。閑院内裏遷幸の後の政始と御祈始については、七月七日の第一条と第二条にそれぞれ収めた。また閑院造営の賞により、将軍九条頼嗣は従三位に、執権北条時頼は正五位下に加階した。ここに頼嗣は政所開設資格を得るが、頼嗣、三位加階の後、始めて、政所下文の儀を行うことは、七月八日の第二条に収めた。
 建長二年正月の入道道覚親王の薨去により青蓮院門跡に復帰した慈源は、同三年、勅願により大成就院修正会と大懺法院修二月会を再興した。大成就院修正会は承元二年(一二〇八)に無動寺より移して始修され、大懺法院修二月会は同三年に常行堂より移して始修されたが、いずれも承久三年(一二二一)以後中絶していたものである。大成就院修正会は正月二十九日に、大懺法院修二月会は二月一日に続けて行われたが、典拠史料に共通する部分があるため、正月二十九日の条にまとめて掲載した。両会の再興は「勅願」であるが、院使も派遣されている一方で、大成就院修正会の方は上卿について「卒爾」のために「領状之仁」無しと記録されているので、後嵯峨上皇の意志によると判断した。なお嘉禎三年、慈円の十三回忌に当たって始行された大成就院灌頂も建長三年より勅願とされたが、その記事は次冊の建長三年九月二十五日の条に収めることになる。
 一方、醍醐寺では、建長三年六月七日に座主が勝尊から憲深に交替した(六月七日の条)。新たに座主に就任した憲深は八月二十四日に拝堂を行ったが、拝堂の記事まで合わせて六月七日の条に収録した。
 第三十三冊の建長二年の八月二十七日の条より、鎌倉幕府執権北条時頼の妻の妊娠に関する記事がしばしば見られるようになるが、本冊では、正月八日の第二条に、平産祈願のために時頼が鋳造させた金銅薬師如来像の供養が行われたこと、また長日薬師供と信読大般若経が修されたこと、同月十七日の条に、放光仏像の供養と如意輪護摩が行われたこと、同月二十一日の第二条に、百日泰山府君祭が行われたこと、五月一日の第二条に、産所甘縄第において祈祷が始まったことが見え、五月十五日の第二条に、時頼の子時宗の誕生記事を収める。また五月二十九日の条には、時頼の妻の産後の痢病により鶴岡別当法印隆弁が加持を行ったこと、七月八日の第三条には、時頼の妻が産所甘縄第より本第に戻ったことが見える。
 幕府は建長元年十二月に三番の引付を置いた(第三十一冊同月九日の条)が、建長三年六月には二回の編成替えが行われた。すなわち六月五日に五方引付が改められて六方とされた(同日の第三条)が、同じ月の二十日に六方が改められて三方とされた(同日の条)。建長元年十二月に引付頭に任ぜられたのは、一番北条政村、二番大仏朝直、三番北条資時であったが、そのうち資時が建長三年五月五日に卒した(同日の第三条)。六月五日の番編成は資時の欠を受けてのものと思われるが、一番頭政村、二番頭朝直は変らず、三番頭に名越時章、四番頭に中原師員、五番頭に伊賀光宗、六番頭に二階堂行盛が任ぜられる。二十日の編成替えでは一番・二番・三番の頭人は替わらず、師員が一番、光宗が二番、行盛が三番に組み入れられた。ただしこのうち師員は十五日に病により出家し、二十二日に卒している(十五日の第一条)。師員の出家と卒去の記事および伝記は十五日の出家に掛けて立条しているので、綱文の師員の肩書には「四番引付頭」を加えているが、師員は出家の五日後に引付頭の地位を喪い、その二日後に卒したことになる。
 七月二十四日の第一条には、法勝寺において、同寺阿弥陀堂及び蓮華王院の御仏始が行われた記事を収めた。法勝寺阿弥陀堂焼亡のことは宝治元年八月二十八日の条(第二十二冊)に、蓮華王院焼亡のことは建長元年三月二十三日の条(第二十九冊)に収めた。また法勝寺阿弥陀堂供養のことは建長五年十二月二十二日の条に、蓮華王院供養のことは文永三年(一二六六)四月二十七日の条に収めることになる。本条に収める「岡屋関白記」によると、蓮華王院仏千体のうち二十体の造進が後嵯峨上皇より摂政近衛兼経に仰せ下されたが、兼経はまず十体を造進することを復命している。本冊に伝記史料を収めた者としては、上記の北条資時、中原師員のほかに、式乾門院利子内親王(正月二日の条)、前東寺長者前僧正厳海(四月二十五日の条)、入道前参議正三位藤原資経(七月十五日の第一条)等がいる。資経は吉田為経・同経俊・万里小路資通等の父で、前年六月に所領・記録等の処分を行っている(第三十三冊建長二年六月二日の条)。
 なお、西田友広は二〇〇六~〇九年度に古代史料部門編年第五室に所属し、二〇一〇年度より中世史料部門編年第六室に移ったが、第五編の前冊および本冊の原稿作成に加わっている。
(目次一六頁、本文四〇三頁、本体価格九、一〇〇円)
担当者 近藤成一・本郷和人・西田友広

『東京大学史料編纂所報』第49号 p.34-35