大日本近世史料 細川家史料 二十四

収載範囲・底本
 「細川忠利文書 十七」の本冊には、寛永十五年(一六三八)七月二十日から十一月二十八日までの諸方宛書状案三四二件を、公益財団法人永青文庫所蔵・熊本大学附属図書館寄託「公儀御書案文」寛永十五年六月~九月(整理番号十─廿三─九)・「公儀御書案文」寛永十五年十月~十一月(整理番号十─廿三─十)・「公儀御案文」寛永十五年十一月~十二月(整理番号十─廿三─十一)を底本に、翻刻・校注し収載した。
 この期間において忠利は熊本に在国した。上方から招いた鍼医師坂以策の投薬・鍼灸のもと、原落城後再発したという前年来の煩いの療養に努めた。病状は徐々に回復し、八月三日には川狩を行い(四七四一)、九月下旬以降には折々鷹狩に出掛けている(四八九七など)。
 本冊に収載した書状案の内には、在江戸の細川光尚が判紙を用いて調えたため、国元へ戻された旨を注記し、抹消されたものが含まれる(四七五七など)。また、松平忠利宛の十月二十四日・二十八日付の二通の書状は、同便で発信し、京都の佐藤正之のもとから数日の間をおいて届けるよう指示を与えている(四九八六・四九八七)。当時の書状の遣り取りの具体的な様相が知られる。また、実際に発給された書状に加えられた修正を右筆岩男嘉入が見届けなかったため、草案とは一致するが案文としては正確ではない旨を注記するものがある(四八二四)。「公儀御書案文」の成立や性格を考える上で
興味深い。
記載の内容
 前冊まで同様、宛先・内容とも多彩である。在国期間であることから、江戸・上方の懇意の大名・旗本からの情報提供と、周辺の大名との情報共有・交際、領国経営という点に特色がある。
 天草・島原一揆の戦後処理関係。一揆勃発の原因を作った松倉勝重は七月十九日に切腹を命ぜられ、弟二人は保科正之・内藤忠興に召し預けられた(四七四七)。松倉勝重の所持した火器と船舶は島原・天草に入った高力忠房・山崎家治に与えられた(五〇三二・五〇三七)。島原・天草は地域への被害が大きく、領国経営は困難な状況となっており、忠利もその様子を案じている(四八〇六・四九七六)。また、松平行隆は家光に状況を報告するために派遣されておりながら、「自分之働を仕候段曲事」とされ改易となる(四七三六)。榊原職直・鍋島勝茂は未だ閉門のままであったが、処分は軽く済んだとの所感が示されている(四七二七)。勝茂については国替か父直茂の隠居領召上によって赦免されたいと願い出たとの噂もあった(四七四四)。
 忠利は家中への論功行賞を行い、それに対して縁者・知音から礼を受けている(四九一五・四九三三など)。しかし、恩賞は思うようにならず、牢人衆の召し抱えには消極的とならざるを得なかった(四七九三)。
 幕府のキリシタン禁制強化。島原・天草一揆を受け、幕府は訴人奨励と褒賞銀について布達した。忠利は既に寺請や組により堅く改めを行っており、別に有効な方法もないと述べている(四九三七)。「制札之文言も書にくゝ、其上制札ニ立可申由も御老中ゟ不被仰越候間」(五〇一四)と制札に書き建てるか否か判断に迷う忠利は、周辺の大名に問い合わせ様子を窺う。まずは「制札にてハよミ候ものも不読者も候へハ」(四九七七)として男女残らず触知らせる方法をとり、その後、有馬豊氏とも相談しつつ制札の準備に入る(五〇二一)。
 九州各地の牛疫病死。寛永飢饉の序章となる牛の大量死がはじまる。まず、八月十七日の書状に「近国牛馬多ク死申候由申候」とある(四七七九)。この状況に対して百姓は踊りにより疫病を抑えようとした。八月二十二日の書状によれば豊前の牛はほぼ死滅、筑前・筑後・肥前でも被害が拡大、肥後でも筑後との国境で牛死が確認されている(四七九八)。九月三日の書状では豊後でも全滅、豊前・筑前もほぼ残らず、肥後も半ば死んだと報じている。忠利は馬場利重に「何とそ国主穏便ニ構候様ニ有度事候」と述べ、薩摩から馬を取り寄せることを検討している(四八二七)。十月上旬になると肥後でも大略病死、忠利は家中の侍を在所に遣わし百姓の助力をさせる対応をとった(四九三七)。忠利の領国では牛に替え馬による耕作が試みられたが捗らず、そのため人手を要し薪が滞った。やむなく忠利は家臣を近辺の山へ派し薪の調達に当たらせている(四九五四・四九六七)。十月二十四日、坂以策から牛薬を教示された際の返答は、「我等国中不残牛死申候故、右之薬をかい可申様も無之候」というものであった。また、牛死は薩摩へも広がっていると報じている(四九八四)。
 幕府人事。江戸からは家光の体調が回復し、七夕・八朔の儀礼は例年通り行われ(四八四〇)、諸方への御成りや鷹狩を催したことが報ぜられている(四八八三・五〇六五)。幕府の行政は、老中の不和から捗らない状況にあり(四八五〇)、十一月七日に幕府機構・組織の再編成が行われた。酒井忠勝・土井利勝がそれまでの役を免除され、式日と「御用」の時のみ登城することとされた。同時に酒井忠朝・土井利隆も「自然越度も候へハ、親々の為と思召候」として役儀を免ぜられた。老中には松平信綱・阿部忠秋に阿部重次が加えられ、三浦正次・朽木稙綱は旗本番衆を支配することとされた(五〇六二)。
 細川家では光尚の縁辺に問題が生じる。忠利は心安い間柄にある小笠原忠真の息女との縁組を望み酒井忠勝まで内々に申し入れていたが、八条宮智忠が妹を嫁がせようと忠利への事前の相談もなくその旨を忠勝に申入れた。忠利は八条宮方に事情を説明し、忠勝へも再確認を行い、八条宮家との縁談が進展しないよう、またこの件について家光から仰せが出されないよう手を尽くしている。「人持」との姻戚関係形成を忌避しながらも、親王家との縁辺も迷惑がり、既に姻戚関係にもある小笠原家との関係を強化しようとする点に細川家の特色があるように思われる(四八五九・四八六五・五〇〇六)。九月七日、江戸に在った細川忠興は家光から茶を賜り、暇を得(四八九九)、上洛。十一月四日に熊本に着し、忠利と久々に面談。口切を行い、八代へ向かった(五〇二〇)。また、忠利は江戸下屋敷の隣の大島義豊明屋敷を拝領した(五〇四七)。
 在国生活。数寄屋を新造し、松平直政から贈られた墨跡を用いて茶湯を楽しむなどして過ごすも(四七三九・四七七〇)、「客無御座候」と無聊を嘆いている(四七八三)。他家との交際は、鷹の贈答が多くみられ(四七八三・四八一二・四八二九・四九五一)、立花忠茂へは鹿犬を贈る(四九〇四)。馬場利重の脇差の細工は忠利直属の職工に命じた(四七三八)。金森重頼から肥後国焼の水差を所望されるが「今程やき物仕候もの相果候而、能焼申もの無御座候」と謝絶している(四八五二)。小幡景憲から甲陽軍鑑要説本所望の衆について報じられており(四八一一)、軍学書の流通・受容の一端が知られる。
人名比定
 人名注については、巻末の「人名一覧」を参照願いたい。なお、前冊までの坂崎清左衛門とその養子内膳(のち清左衛門とも名乗る)の人名比定・注には混乱があったため、発給文書・侍帳・「先祖附」(永青文庫蔵)等を再検討し訂正した。
(例言二頁、目次二六頁、本文三六三頁、二〇一四年三月三一日発行、東京大学出版会発売、本体価格一一、七〇〇円)
担当者 山口和夫・林晃弘

『東京大学史料編纂所報』第49号 p.41-43