東京大学史料編纂所

47.兵庫県下の幕末維新期史料の調査

維新史料第一・第二室は、二〇一二年一二月一〇日から一三日に懸けて、
兵庫県下の幕末維新期の史料調査として、日本城郭研究センター(姫路市)
および公益財団法人山崎本多藩記念館(横井時成代表理事)において、姫路
藩・山崎本多藩の当該期史料の概要把握と幕政・外交関係史料の解読・摘記
を行った。姫路藩は、幕府最後の大老酒井忠績を輩出したが、今回は日程の
関係もあり、藩庁・藩邸の日記を中心に調査した。また、山崎本多藩は、大
阪城天守閣から大坂定番時代の史料(『大坂定番記録』一~四、徳川時代大
坂城関係史料集)が出版されていることから、それ以外の覚帳や長州戦争出
兵関係史料を中心に調査した。以下報告する。
酒井家文書(日本城郭研究センター)
259 (江戸留守居)日記 嘉永二年 竪一冊
「(表紙)嘉永二己酉年
  日記
 従正月」
 表紙は後から補修して綴じ直したものか。江戸留守居の日記。
「    正月朔日                   団右衛門
……
一、右為御礼御退出、懸り御用番阿部伊勢守様、西丸同久世大和守様御直勤
御帰八時過」
「一( 四月六日)、御達之儀有之候ニ付、御城中ノ口江罷出候様御呼出ニ付、御留守居神
戸四方罷出候処、辻掛御徒目付石田欣三郎左之通御達ニ付、御留守居同
人左之請書差出候旨ニ而、差出候ニ付、年寄衆江申立大目付巣鴨御屋敷
奉行江申達之
巣鴨新屋敷酒井雅楽頭頭取辻番所組合之内高三百石之内引高百石倉橋又
五郎相除候事
右之通被仰渡奉畏候、以上
嘉永二己酉年四月六日      頭取 酒井雅楽頭家来
神戸四方之助 印  
 御〻徒〻目〻付〻
  石田欣三郎」
「一( 閏四月八日)、於御用部屋御番頭壱人御小性頭壱人江左之御書付壱通、高須隼人殿ニ
相渡之
    毎々被仰出候通、勝手向御不如意之上、近く御手伝御上納金有之、其
上御吉凶打続……」
「一( 閏四月十日)、左之廻状御年番太田摂津守様衆より到来之旨御留守居申立候ニ付、大
目付江達之
神田上水神田橋御門内外樋筋御普請ニ付明十一日明け六時ゟ暮六
時迄一日限り水留いたし、尤
御成雨天は日送り之積此段組合中江不洩様通達可有之候、以上
御普請方 頭役  
御普請方 下奉行」
「一( 五月十四日)、夕九半時過、御用番阿部伊勢守様ゟ御連名之御奉書御到来……
  五月十四日 松平伊賀守  
戸田山城守  
牧野備前守  
阿部伊勢守  
  御名殿
 御請」
260 奥用人日記 嘉永二年 竪一冊    
「(表紙)嘉永二己酉年
  日記
 従正月 奥御用人」
江戸(上屋敷)での奥用人の日記。この年前半藩主は在府(五月就封挨拶)。
主要な記事をつぎに掲げる(以下同じ)。
「嘉永二己酉年(正月朔日)
 正月朔日、曇少々雪
総出 針谷九郎兵衛  
当番 服部類蔵  
岩松彦五郎  
一、朝御膳 御雑煮 二汁五菜六拾匁 夕二汁五菜五拾匁 夜同上
一、暁七半時御供揃ニ而、両御丸御登城有之、御退出、九半頃御住居江被為
入、御帰座、直ニ御祝之間江御二方御同座、当役并医師老女初御次迄罷出
御礼申上之」
「一( 正月十五日)、三宅土佐守様ゟ左之通申来候、為心得御用人小藤太殿ゟ申来候間、老
女迄為見置候
御在所表江此節御発足可被成候処、余寒御障御疝痛気、其上御持病之
御痔疾ニ而被成難儀候、依之暫御見合被成御養生少も御快被成御座候
ハヽ、早速御出立可被成段、今朝御用番頭様江御届被成御差出候間、
昨日之日限ニ而申来候」
「一( 正月十九日)、三宅土佐守様ニ而於勇様御事、御病気之処、今巳刻被成御死去候旨、
……於勇様御法号勇精院様御遺骸明十九日辰刻御出、於雑司ヶ谷本浄寺
へ御葬送、同日夕ゟ廿日朝迄、初七日御法事之旨御用人ゟ申来候、老女
ヲ以申上之」
「一( 正月二十三日)、三宅土佐守様ゟ御娘於章様御事御疱瘡之処、御養生不御叶、御暁子ノ
下刻御死去、御七歳之段、御用番様江御届被差出、且御法号章要院様御
遺骸明廿三日卯中刻御出棺、雑司ヶ谷本浄寺江御埋葬……」
「一( 二月二十日)、三宅土佐守様御暇後御疝積、其上御持病之御痔疾ニ而被成御難儀候ニ
付御発足御延引之処、此節別而不被成御勝御旅行難被成、依之御参勤御
時節迄御滞府御養生被成度段、被仰出候旨為御知申来候段、御用人小藤
太殿ゟ申来、老女ヲ以申上之」
「一( 閏四月八日)、前記之通今日一席三人御用ニ付九郎兵衛罷出候処、於而御広座敷年寄
衆連席、高須隼人殿左之通被申渡御書付壱通御渡ニ付、写置夫々江拝見
為致候事
毎々被仰出候通御勝手向御不如意之上、近く御手伝御上納金有之、其
上御吉凶打続御入箇不少候ニ付、無御拠江戸・大坂・姫路御新借相嵩
右御向米御差繰御六ヶ敷、依之此度三ヶ年御倹約被仰出
御手元を始御常用諸向厳敷御省略御家中御役料御手当金、且諸向褒美
等御減ニ相成、右都合ヲ以三ヶ所御新借御向米御差繰に相成候御儀、
右之御次第ニ付、御家中上米増も可被仰出之処、多年上米引続候御事、
且又
御家督已来御間も不被為在候御儀ニ付、此度は思召を以上米不被仰出
候条、難有相心得、御時節深奉恐察、兼々被仰出候通固相守、出格之
倹約相用取続御奉公専一相心掛可申候、且右等之御次第ニ付、格外之
御奉公等も可被仰付間、其旨相心得可申候、右之趣組支配有之面々に
は組支配江も可被申達候、已上
     閏四月 高須隼人  
(以下略)」
「一( 五月九日)、今日類蔵御用ニ付罷出候所、於御料理之間年寄衆連席、和次右衛門殿
左之通被申渡、御書付弐通御渡ニ付写置夫々拝見為致候事
……
一、近来
御目見已下之者共并小役人格之者ニ至迄心得違ニ而身分不相応之衣服相用
候者有之、向後は木綿可相用候、無拠節たり共太織紬已下之品可相用候事
……
一、学問諸芸事出精之者江夫々御褒美被下置候処、已来は前髪有之候者江計
御褒美被下置、前髪執候者江は不被下置、格段出精も相顕候節不時ニ御褒
称有之候事」
「一( 五月十四日)、殿様御用之儀御座候間、明十五日五時被成御登城候様、御老中様御連
名之御奉書被成御到来候、此段可被申上候、已上
   右之段年寄連名ニ而申来候ニ付、以老女申上之
  ……
一、明十五日
殿様被成御登城候様御老中様方御連名之御奉書御到来ニ付、諸向惣出御目
覚刻ゟ殿中染帷子麻上下着用被仰出候旨、大目付九郎左衛門ゟ申来候ニ
付、夫々江申達之」
「一( 五月十五日)、殿様昨日之依御奉書今日被成御登城候処、於御座之間御懇之為蒙上意
御在所江之御暇被仰出御鷹御馬被成御拝領従
右大将様も御巻物被成御拝領候、此段可申上旨、年寄中御連名ニ而申来
候ニ付、以老女申上之」
「一( 五月十八日)、殿様今暁七時御供揃ニ而六時過御機嫌能被遊御発駕候」
「一( 六月五日)、殿様益御機嫌克被成御旅行去月廿二日三嶋駅暁七時御供揃ニ而明六時
過御出立……」
「一( 六月十六日)、殿様益御機嫌能御旅行去る六日午ノ上刻被遊御城着候旨年寄衆ゟ申
来、老女を以申上之」
261 御休所日記 嘉永二年 竪一冊    
「(表紙)嘉永二酉年
  日記
 従六月 御休所」
 藩主在国時(六月~)の江戸の奥日記
「(五月十五日)五月十五日到来書状左之通
一、以手紙致啓上候、薄暑之節御座候処、愈御安祥被成御勤仕珍重奉存候、
然は当帰城之節被召連候女中并付添参候男子、左之通被仰付候間、為御心
得此段得御意候、已上
  五月二日 岩松彦五郎  
服部類蔵  
針谷九郎兵衛  
  福島市郎兵衛様」
「(六月十日)御休所掛り被仰付候 五十嵐昌左衛門  
福島市郎兵衛  
尾崎百度平」 
「一( 六月十二日)、奥女中先月廿日江戸表出立道中大井川川留ニ而延着に相成、昨十一日
加古川駅泊ニ而今夕八つ半時頃御休所江着……」
以下、特記すべき日についてのみ記事が続く。
262 (江戸留守居)日記 嘉永四年 竪一冊    
「(表紙)嘉永四辛亥年
  日記
 従正月」
 第一丁に、「か永四亥」と有り。表紙は別に付けられたものか。
 最初は
「   正月朔日              弥左衛門」
と記録日と記録者とが記される。
正月二日、記録者は、駒之助。
「一、( 正月二日)御退出後即刻御供揃、御熨斗目麻半御袴被為召之、左之通御勤有之、
御帰七時過
   大岡主膳正様 阿部伊勢守様
   細川越中守様 松平伊豆守様
…… 」
正月三日は、吉右衛門が記録者。以下例示する。
「明日(正月十日)御出書相違有之候処、心付不申、入御覧候段恐入差控相伺候処、御沙
 汰有之候迄平日之通相心得候様年寄勝左衛門申聞候
高須八左衛門  
同断
村田弥左衛門  
本多静之助  
山田惣右衛門」 
 いわゆる「大目付廻状」はここで留められている。
「一( 二月十四日)、左之御用廻状馬場先衆ゟ到来、和田倉衆江順達之
  御本丸当番
   松平隠岐守様 御留守居中     横井栄伯
東叡山
最樹院様御霊屋御法事…… 」 
「一( 三月十三日)、左之御用廻状、馬場先衆より到来、和田倉衆江順達之
阿部伊勢守殿御渡候御書付写壱通相達候間、被得其意無滞写壱通相達候間、
被得其意無遅滞順奉、従溜柳生播磨守江可被相通候以上
  三月十三日 大目付  
松平肥後守殿
松平讃岐守殿
松平隠岐守殿
井伊掃部頭殿
松平下総守殿
酒井雅楽頭殿
松平越中守殿
  右留守居中
 大目付江
去る丑年中諸問屋組合停止被
仰出候処、其以前問屋組合商法取締相崩、諸品下直にも不相成、却而不融通
之趣も相聞候ニ付、此度問屋組合之儀文化以前之通再興可被申付候、左候迚、
元十組之者共冥加金上納等之御沙汰は弥以無之候間、文化以来之商法ニ不流
諸商人共物価引下方之儀篤心懸実意ニ渡世相営候様、得と申諭取締方等精々
可被申渡候
  三月
右之通町奉行江申渡候間、向々江可被相触候
御用頼之御目付井戸鉄太郎」
「一、( 六月七日)左の御届書壱通御用番阿部伊勢守様江御留守居宮地加兵衛を以被差出
候処、被成御落手候旨、御取次を以被仰出候
   ホーイツスル  壱挺
    但三貫五百目
右之通大坂南瓦町仏具屋善兵衛細工場借受、雅楽頭家来諏訪兵作・深沢彦太
郎と申者差遣、此度新規鋳立申付候、此段御届申上候、以上
   六月七日 御名家来 宮地加兵衛」 
「一、(九月十四日)地震ニ付御住居江御機嫌御伺之御使者当席八左衛門相勤之」
「一、(十二月二十七日)左之御用廻状馬場先衆より到来御留りニ付返却
阿部伊勢守様御渡候御書付写壱通松平和泉守殿御渡候御書付写弐通相達候
間、被得其意無遅滞順従達留堀伊豆守方江可被相返候、已上
 十二月廿七日 大目付
松平肥後守殿
松平讃岐守殿
松平隠岐守殿
井伊掃部頭殿
松平下総守殿
酒井雅楽頭殿
松平越中守殿
  右留守居中
伊勢守相渡
 大目付江
去る丑年問屋組合仲間など停止之節菱垣廻船積来候諸品は勿論都而何国出候
何品にても素人直売買勝手次第たるへき旨、触置候処、今般問屋調之上再興
相成候分は、都而素人直売買不相成候間、従前々可相心得候
一、諸家国産之類其外江戸表江相廻候品にも問屋に不限銘々ニ出入之者とも
引受売捌候儀も勝手次第之旨触置候処、是又調之上問屋組合再興相成候分
は先々之通其筋問屋江相払可申候
右之通町中不洩様可被相触候
十二月」
263 新屋敷奥用人日記 嘉永五年 竪一冊    
「(表紙)嘉永五壬子年
  日記
 従正月 新御屋敷奥御用人」
 これは半紙判より一回り小さい。閏二月より藩主忠宝は在府する。
「(正月朔日)正月朔日 晴 惣出      当番 種村又右衛門
                惣出 大河原太郎右衛門
                   狩野源蔵
                   中沢長十郎
               添番 
                当番 太田資蔵
                惣出 井上紋太夫
                   早田和佐右衛門」
「(閏二月二十二日)殿様益御機嫌克九時次被遊御着府候旨可申上候、已上
   閏二月廿二日
右年寄衆ゟ申来候間、以老女申上候」
264 新屋敷奥用人日記 嘉永六年 竪一冊    
「(表紙)嘉永六癸丑年
  日記
 従正月 新屋敷奥御用人」
この年帰国の予定がペリー来航と重なり、忠宝は八月死去する。
「(六月九日)        助八・紋太夫  
近海海防二付御出馬之節御長柄奉行代被仰付候 西松隼馬
……
左之通年寄衆ゟ申来る
昨八日牧野備前守様ゟ御留守居御呼出ニ而異国船内海江乗込候ハヽ兼而
御内達之通御人数御差出之儀御達有之、引続被遊御出馬候様被仰渡候、
此段可被申候、已上
 六月九日」
「(六月十四日)六月十四日 暮六時一分土用ニ入 藤内・資蔵  
年寄衆より申来ル以老女申上候
一、昨夕牧野備前守様ゟ御留守居御呼出ニ而、浦賀表江異国船渡来ニ付内海
為御警衛御人数被差出候様御達之処、異国船及退帆候ニ付、御人数御引揚
可被成旨被仰達候、此段可被申上候、已上
同断
一、昨夕阿部伊勢守様ゟ御留守居御呼出ニ而、異国船渡来ニ付内海為御警衛
御人数被差出候間、西丸御普請ニ付御上納金被成御免候旨被仰達候、此段
可被申上候、已上
……
一、異国船退帆ニ付明日ゟ出番之旨届たく候 西松隼馬」
「(十一月二十日)一、今日壱役壱人御用有之候ニ付助八罷出候処、左之通
毎々被仰出候通、従来御勝手向不成一通不如意之処、当夏異国船渡来ニ
付、御固被為蒙仰、其後右御手当向追々御厳重被仰出、不少御物入有之
候上、度々御大凶引続家督御入箇是以莫大ニ候処、猶又当年稀成旱魃ニ
而御収納高大数之御損毛ニ付
公辺江御届被差出候事ニ候、然ル処是迄風損干損等之節ニ其年柄ニ寄御
家中夫々上げ米増被仰付候儀ニ有之候、尤当年之儀は格外之上げ米をも
可被仰付候処、是迄引続上げ米被仰付候上、前文之通御武備御厳重之御
時節ニ候間、銘々其手当別而厚心掛ケ可申候儀ニ付、出格之思召を以、
此度上げ米増不被仰付、其上拝借金当年上納之儀御延可被下置旨被仰出
候条、旁以御意之趣一統深難有奉伺、此上精誠倹約相守武備実用専一ニ
相心掛け可被申候、右之趣組支配有之面々は組支配江も可被申達候、已

高須隼人  
……」
265-1 新屋敷奥用人日記 嘉永六年正月元日~三月十六日 竪一冊
 表紙なし、265-2に続く。
「(正月元日)一例之通御口外一統惣出惣上下、
           御用人
             西松隼馬
           当番
             久保藤内
             松本助八
           取締り役
             大河原太郎右衛門
             大塚市兵衛
           当番
             長岡休五郎
             平久保六郎治
           御添番
             井上紋太夫
             早田和佐右衛門
           御医師
             横柴槑碩
             松野瑞庵
             吉沢玄祐
           御番方
             後閑伴七
             狩野宇之助
(頭書)「一今朝勢州江御代参相勤候、  太田資蔵」
             森田守之助
             金谷幸蔵
             飯野弥一右衛門」
265-2(新屋敷奥用人日記) 嘉永六年三月十七日~十二月晦日 竪一冊
表紙なし。265-1の続き。姫路藩新屋敷の奥向の日記か。ただし、奥
用人の日記かどうかは要検討。時々、将軍等の動静に関する記事が見られる。
「( 冒頭、三月十七日)三月十七日雨降
      六郎治(平久保六郎次)
      市兵衛(大塚)
  藤内(久保)
         御番方
          後閑伴七
 (中略)
一明十八日
 公方様六半時御供触ニて御浜御庭江
 御成被 仰出候旨申来ル、
  右ニ付大切手拾五人断、
         御門番」
「一(三月十八日)前之通御成有之、」
「一(三月二十三日)殿様明廿四日御老中様方御連名之御奉書御到来ニ付、
御目覚刻ゟ諸向当番限り服紗麻着用、久保藤内殿ゟ達しニ付、右之段御
番方仲番江達し候、」
「一(三月二十四日)前記之通り服紗麻上下着用之事、
一西丸御普請ニ付被成御上納金度段達御用御懇之御沙汰之上、壱万石ニ付五
百両之割合を以御上納被為蒙仰候、
  右之段可申達旨、年寄中被申聞可被得其意者也、
    三月廿四日            大目付
一当五月例年之通御暇被 仰出候ハヽ、御在所江被成御越候節、上州前橋龍
海院 御廟所江 御参詣、直ニ木曽路御旅行被成度段、御用番様江御願書
差出候処、御留守居御呼出ニ而御附札を以可為御願之通旨被 仰出候、…」
「一(三月二十六日)、明廿七日
  公方様五時過御供触ニて王子筋江
  御成被 仰出候旨、下目付申来ル、
   右ニ付大切手拾五人断、
            御門番」
「一(三月二十七日)前記之通御成有之、」
「一(三月三十日)明後二日
  公方様六時御供触ニ而駒場農江御成被 仰出候、
「一(四月朔日)前記之通御成ニ付、大切手拾五人断、」
「一(四月二日)今日駒場 御成有之、」
「一(四月十七日)明十八日六半時御供触ニて
右大将様橋場筋江 御成被 仰出候、例之通り大切手取替候、但し拾五
人断、
            近藤弥太郎」
「一(四月十八日)前記之通 御成有之、
   大切手拾五人出切ニ付、拾人断、
            近藤弥太郎」
「一(四月十九日)明廿日
  公方様五時御供触ニ而上野御規式
  御成被 仰出旨申来、
   右ニ付大切手拾五人断、」
「(四月二十九日)明晦日
 公方様五時御供触ニ而芝御規式
 御成被仰出候、」
「一(五月朔日)明二日
  公方様六半時御供触ニ而橋場筋江
  御成被 仰出候旨、下目付申来ル、」
「一(五月二日)今日 御成天気相ニ付御延引被 仰出候、依之高触有之、」
「一(五月五日)明六日五時御供触ニて
  公方様はし場筋江 御成被 仰出候、例之通り大切手取替候事、」
「一(五月七日)明八日
  公方様五ツ時御供触ニ而上野御規式
  御成被 仰出候旨申来ル、
   右ニ付大切手拾五人断、
           御門番
            篠原佐助」
「一(五月十四日)明十五日 御用召ニ付、
  殿様御目覚刻ゟてん〔殿〕中
染帷子麻上下着被 仰出候、但し御用人西松隼馬殿御達しニ付、御番方
へも当役ゟ達置候、」
「一(五月十五日)殿様
今日被為 召御登 城被成候処、
於 御座之間御懇之
上意之上、御在所江之御暇被為蒙仰
御鷹二裾、御馬壱疋被成御拝領、於西丸縮緬十巻被成御拝領候、右為恐
悦麻上下着用、御上屋敷江罷出、御帳ニ附可被申候、
   右之段可相触旨、年寄中被申聞候、可被得其意者也、
   五月十五日                    大目付」
「一(五月十九日)明廿日
  公方様五時御供触ニ而上野御規式御成被 仰出候旨申来、
    右ニ付大切手拾五人断、
            御門番
             桑名平吉」
「一(五月二十日)上野御規式御成、雨天ニ付御成御延引被仰出候、」
「( 六月九日)六月九日晴
  詰切
   市兵衛
        御番方
 助八(松本)  森田守之助
   異国船
   渡海ニ付          長岡休五郎
   御出馬之節御中小性代り
   被 仰付、御上屋敷之方江
   相引候、〔ここは新御屋敷か〕
   右同断ニ付
   鉄炮方江          平久保六郎次
   相引候、
       (中略)
一異国船万一内海江乗入非常之場合注進有之候ハヽ、老中ゟ八代洲河岸火消
役江相達、同所ニて平日之出火ニ不紛様早半鐘を打出し、右を惣火消屋敷
ニ而受継、同様早半鐘打唱らし可申候、
右之通火消役江相達候間、火消屋敷ニ而早半鐘打候ハヽ、諸向共御曲輪内
出火之節之通相心得、登 城又者持場々江相固候様可被致候、尤火事具着
用之積り可心得候、且又右ニ付而者万石以上火之見櫓有之面々、其節限早
半鐘打唱らし候様可被致候、
   別帋御触従
   公儀相渡り候間可相触旨、年寄中被申聞候、可被得其意者也、
     六月九日                  大目付
一明十日天王祭礼ニ付表御門上八番所江御惣容様可被為入之処、異国船騒キ
ニ付御見合ニ相成候、右ニ付御屋敷目付・下目付江御延引被仰出候儀達し
候、」
これ以後、将軍徳川家慶の出向記事なし。
「一(六月十四日)高輪江出張之御人数、今四時頃引揚、蠣殻町御屋敷江繰込、」
「 十五日( 六月十六日)前、
 一此度異国船渡来ニ付、早速固御人数被差出、御家来共迄一同骨折候段
  御満足ニ被 思召候、」
「一( 七月四日)此節普請・鳴物御停止中ニ付、御先格之通り文武稽古相休罷在候得共、
文武共専ら御引立之折柄ニ茂有之候ニ付、都而芸術筋之儀者大炮打試等
迄勝手次第致修行不苦段、従 公辺御沙汰之趣茂有之候、文武稽古共従
今日平日之通り相心得可被申候、
  右之通り申達候様、年寄中被申聞候、可被得其意者也、」
「一(七月二十一日)昨夜九ツ時御触、左之通り、
公方様御勝不被為遊候ニ付、此節万端相慎、火之元別而入念申付られへ
く候、
    右之段可相触旨、年寄中被申聞候、可被〔得脱〕其意者也、
                             大目付」
「(七月二十二日)公方様御不例被為在候処、御養生不被為叶、今巳下刻被遊
薨御候ニ付、鳴物・普請停止被 仰出候、日限之儀者追而可被 仰出候、
其外物騒敷儀無之様、火之元第一ニ相慎下々ニ至迄屹度可被申付候、
   右之段可相触旨、年寄中被申聞候、可被得其意者也、
     七月廿二日                  大目付」
「一(九月四日)殿様御大病ニ付、
鋭姫様御養女ニ被遊、
三宅対馬守様御弟勘解由様(のちの酒井忠顕)、鋭姫様江御聟養子ニ被成度
段、近々御願書被成御差出候旨、此段可被相心得様、高須隼人殿御達し有之
候、右ニ付壱役壱人罷出、当役平久保六郎次相勤ル、」
「一(九月八日)明九日夕
勘解由様御引移ニ付、於席々
御目見被 仰付候間、服紗小袖・麻上下着用可罷出旨、大目付星野乾八
ゟ達有之旨、奥御用人衆ゟ御達有之候、
一殿様御病気之処、御養生不被遊
御叶、今申ノ中刻被遊御逝去候、依之普請・鳴物停止被 仰出候、日限之
儀者追而可被仰出候、此節火之元別而入念可被申付候、」
266 (上屋敷)奥用人日記 安政元年 竪一冊    
「(表紙)嘉永七甲寅年
 安政改元 十二月六日
  日記
 従正月  奥御用人」
「(正月元日)(当番二名)伊崎五輔/泊り 服部類蔵」
「一(正月二十七日)今夕松平和泉守様ゟ御留守居御呼出ニ而、異国船渡来ニ付兼而御達有之
候御場所へ先一両手御人数被差出候様被 仰渡候旨、年寄衆ゟ言上有
之、老女ヲ以申上之、
一同断ニ付、永原(渕蔵)氏暮六時頃御人数出張被 仰出候付罷出候様
達し有之、」
「一(二月二十七日)今夕松平伊賀守様ゟ御留守居御呼出ニ而、亜墨利加船渡来ニ付数日御人
数御差出被置候所、弥平穏之趣候間、最早御人数御引揚被成候様、尤時
宜ニ寄猶又出張被 仰候義も可有之旨被 仰渡候、此段可申上旨、年寄
衆ゟ言上ニ付以老女申上候、」
「一(三月二十八日)昨日之依御奉書被成御登 城候処、於
  御座之間、左之通被為蒙
  上意候、
此度異国船渡来ニ付固之儀相達候処、早速人数及出張候段、兼而
申付方宜故之儀与、御満足ニ被 思召候、殊ニ家来共者数日相詰
一同骨折太儀之事ニ候、
右之通年寄衆ゟ言上、老女ヲ以申上之、大目付ゟも同断之趣達し有之、
新御屋敷・すかも(巣鴨屋敷)へも夫々達之、」
267(新屋敷)奥用人日記 安政二年 竪一冊    
「(表紙)
安政二乙卯年
  日記
 従正月 奥御用人」
朝夕の膳部記述がある。
「(三月二十七日)三月廿七日晴、治兵衛・五輔
一、朝御膳〔五拾匁・六拾匁〕・夕〔六拾匁・六拾五匁〕・夜〔三拾五匁・三
拾五匁〕
一、駒場野へ御成有之」
(前々日に公方様御供触あり)
「(四月二十七日)四月廿六日晴、治兵衛・類蔵
‥‥
一前条之通御用ニ付当役治兵衛罷出候処、於御広座敷年寄衆御列座隼人殿ゟ
御達、左之御書付御渡有之、……
御書付左之通
従来御勝手不一方御不如意之儀は毎々被仰出候趣も有之、……折柄異船近海
江渡来、俄ニ防禦御人数被差出打続、公辺被仰出之趣も有之候付、……御家
督御入箇幷海防為御手当大炮御鋳造御用途を初姫路より多人数在番等被仰付
……御不本意之至ニは思召候得共、無是非御決意ニ而、当卯五月ゟ来ル巳五
月迄二十五ケ月之間出格之御倹約被仰出候……
御達書左之通
御限月中左之通被仰出候
一上ケ米増五割ニ相成候事
一御人繰御弁利次第格外ニも可被召仕事
一年始麻上下着用之儀七種迄之処、表五ケ日御勝手三ケ日着用之事
(以下、全部で十七項目)」
「(五月十五日)五月十五日晴、治兵衛・類蔵
(城中にて在所御暇の上意)」
「(五月十八日)五月十八日 曇、昼頃少雨、 類蔵・治兵衛
(御発駕)」
「(六月六日)六月六日 五輔・治兵衛
(姫路着の御日取)」
記述は六月末までである。
「七月より九月迄之日記焼失ニ成」
(朱)「○印之分跡より外同分且手控等ニ而書加へ候事」
(七月から九月一杯はほとんど○印の略記)
「当役所日記御類焼之節持退候分左之通
天保十亥、此間三年分焼失、同十四卯・同十五辰・弘化二巳・同三午・弘化
四未・同五申・嘉永二酉・同三戌・同四亥・同五子・嘉永六丑・同七寅・安
政二卯、
〆拾四冊、治兵衛幷小使壱人ニ而持退ニ付、外帳面類不残焼失、外役印ハ持
退
右之外焼失ニ成」
「(十月二日)十月二日晴、泊五輔・治兵衛
 ……
一夜四時頃大地震奥御中門迄御立退被遊候処御住居下広敷辺より出火、追々
火広かり候付、直様巣鴨江御立退、御殿も大損ニ付御庭御茶屋江御二方様
被為入、右出火西北風ニ而御上屋敷過半御焼失、御添屋敷ハ御隣家ゟ出火
ニ而御類焼、尤御上屋敷に而相残候分ハ表御門・新御門・山倉稲荷社・御
住居御物見御茶屋・御同所西之方御土蔵壱ケ所残、其外両御屋敷御土蔵等
不残御焼失之事、震ひ崩れ候迄之火事ニ而防キ方も無之
 ……
(「長局潰れ死之上焼失之者」が女性一〇人など書上)」
この帳面は十二月末までで終わる。
268 (新屋敷)日記 安政二年十月 竪一冊    
「安政二乙卯年従十月 日記」
 十月二日から始まる。
「(十月二日)十月二日    駅之助・十左衛門・吉左衛門・伝助
        (本多)・(高須)・(大塚)・(酒井)
一、夜四時前頃大地震御上屋敷御殿[(虫損)]潰幷大破損、東側表御長屋不
残潰、門御長屋大損、或潰□模様之内、御住居辺ゟ出火、追々火勢相募、
御住居向幷御殿向初御焼失、御添屋敷も御隣屋敷ゟ出火、不残御類焼、尤
御上屋敷表御門・新御門・御土蔵三ケ所、御住居御物見御茶屋幷稲荷社銅
御門焼残申候……」
(地震被害に関する詳細な書上など、即死人五十八人・怪我人十九人)
「(十月三日)十月三日 右四人
……
一、御上屋敷仮板囲御出来迄之内中黒御幕打廻し御門ニは御紋付御幕打之、
御添屋敷之方ハ柿迄御幕打廻し、御門々ハ紋付御幕打之、両御屋敷共御
門々幷角々其外江夜分高張御桃灯之差出之、昼夜共所々江立番御足軽差出

……
一、御役所享保以来之日記其外書物類不残御焼失、漸日記八冊穴蔵江投込候
斗残申候、大地震之上之出火之儀故、人手無之、恐入候次第、天災々々誠
以前代未聞、戦場ハ斯やと申候、併勝軍とハ難申、大敗軍之姿、唯面々無
欲ニ相成、一同再誕生と笑を催申候、何ニも火事具之侭ニ而夜分ハ御幕之
残りを引掛ケ寒夜を当分相凌候事ニ候、後世為心得記置之」
270 (新屋敷)奥用人日記 安政三年 竪一冊    
表紙には「安政三丙辰年従正月 日記 奥御用人」とあり。奥の日記、一
年分。
271 (留守居日記) 安政三年七月~十二月 竪一冊    
表紙には「安政三丙辰年従七月至十二月 日記」とあり。留守居日記の手
留、七月一日~十八日、272と相互に照合し、朱で訂正が双方にみえる、
損壊大のところ裏打。
272 (留守居)日記 安政三年 竪一冊    
表紙には「安政三丙辰年従正月 日記」とあり。留守居日記。
「(二月二十九日)二月廿九日  小藤太
……
巣鴨下屋敷ニ而是迄炮術稽古幷貝太鼓相用空炮打放し人数調練為仕候処、
……何卒是迄之通砲術稽古幷調練為仕度奉存候、此段御内々相伺候、以上
 二月」
(前々の通りの指示、野備稽古・西洋流調練・御足軽備稽古の定日あり)
三月二四日、講武所開設の大目付回状。
五月二九日、地震被災で参勤猶予のところ、九月上旬参府。
八月一日、御用番阿部正弘へ御勝手にて留守居が公用人へ面会、内慮伺を出
し、落手される、翌日書付にて「内慮の趣不苦候事」
「(八月朔日)先般御警衛向段々手厚ニ被仰出も有之候処、去ル冬震災ニ而手当仕置候鉄
炮之内、相損用立不申候筒御座候ニ付、雅樂頭参勤之節
 鉄炮百拾七挺
  内四匁三分筒 百壱挺
   拾匁筒拾挺
   六匁筒三挺
   弐拾匁筒壱挺
   三匁筒壱挺
   五匁筒壱挺
右之通荷造ニ仕持参仕度不苦儀ニ可有御座候哉、此段御内慮奉伺候様在所よ
り申付越候、以上                 御名家来
 八月朔日                      神戸四方之助
 …… 」  
九月四日、殿様着府
273 (新屋敷ヵ)奥用人日記 安政四年 竪一冊    
「(表紙)安政四丁巳年
  日記
 従正月  奥御用人」
「安政四丁巳年
□□〔安井ヵ〕弥太右衛門   
  正月元日晴 久保藤内      
松□〔本ヵ〕助八      
御添番        
太田資蔵      」
大塚・長岡・平久保らの日記とは別系統。御機嫌伺いの対象は「御二方様」。
姫(同年四月二十一日、安部摂津守と婚姻、同月十六日結納、「房」と改名)
と鋼姫のことか。房姫婚姻後は、御機嫌伺いの対象が「御二方様」ではなく
なる。
「一(六月二十六日)年寄衆御連名ニ而、左之通申来候付、老女を以申上候、
今廿六日、御老中様方御連名之御奉書、御用番久世大和守様ゟ御到
来、左之通被為蒙 仰候、
大手御門番為戸田采女正代被 仰付候間、松平越中守被相談可
有勤仕候、
    右之段可被申上候、已上、」
274 (留守居)日記 安政四年 竪一冊    
日記274・275は、記録者が重複し、欠けている時期があること、二冊
とも小口書がないことから、ある時期に錯簡した可能性がある。
「(表紙)安政四[丁]巳年
   日記
 自六月 [  ]     」
六月から十月のあいだの記事無し。目録によれば、奥御用人によるものだが、
記録者名は、(河合か)小藤太、(高須か)十左衛門、伝助、(酒井)鋠重郎、
新五左衛門など、275と重なる。
「(十二月二十八日)  十二月廿八日              □(本多ヵ)駅之助
  (中略)
一、六半時、御供揃ニ而、服紗御小袖・麻半御袴被為 召之、御登 城、如
例年御居残ニ而、歳暮御祝儀被 仰上、御退出、九時位、
  (中略)
一、左之御用廻状、愛宕下衆ゟ到来、桜田衆江順達之、
     阿部伊勢守殿、御渡候御書付写壱通相達候間、被得其意、無遅滞順
達、従止□沢美作守方被可被相返候、已上
       十二月廿八日            大目付
    松平讃岐守殿
    井伊掃部頭殿
    松平肥後守殿
    松平下総守殿
    松平隠岐守殿
    松平越中守殿
    酒井雅楽頭殿
      右留守居中」
275 (留守居)日記 安政四年六月~十二月 竪一冊    
 表紙は後筆か。
「(表紙)安政四年六月ヨリ十二月迄
 日記          」
 記録者は、小藤太、伝助、新五左衛門、鋠重郎、駅之助、十左衛門、吉左
衛門。
「      六月廿六日 小藤太    
(中略)
一、七時過、御用番久世大和守様ゟ御連名之御奉書御到来ニ付、即刻 御居
間江 御着座、右御奉書御取次三俣惣太夫差出之御案詞奉行高須鑓之助罷
出、右御奉書御渡之相引き、同人又候罷出、右御請差出之、御直判被遊、此
節当席小藤太侍座、相済、御次ニ而御右筆「竹内鉸蔵(以上朱線にて抹消)」
上包仕、鑓之助差上之御使役星野惣九郎被 召出、御奉書御請、御直渡而者、
右御請、久世大和守様江被差出之、(朱書)「西〻ノ〻大手御門番為戸田采女正代 被」
  仰付候間、松平越中守被 相談、可有勤仕候、已上、
        六月廿六日           内藤紀伊守
                        久世大和守
                        牧野備前守
                        堀田備中守
「御名酒〻井〻雅〻楽〻頭〻殿〻」(以上朱書)
御請
  御連紙致拝見候、大手御門番為戸田采女正代 被仰付候間、松平越中守
江申談、可相勤候旨、奉畏、難懸仕合奉存候、恐惶謹言、
                         御名
   六月廿六日               御実名・御花押
  堀田備中守様
  牧野備前守様
  久世大和守様
  内藤紀伊守様 」
「       六月廿七日 伝助   
(中略)
一、昨日御伺相済候ニ付、左之御門々江御鑑札御留守居神戸四方之助・宮地
加兵衛両人ニ而、相納之、無滞相済、□時済、罷帰、
   塩見坂     御玄関前    中ノ御門
   百人番所    二ノ丸銅御門  食違中仕切二枚
   下梅林     平川      大手御門
   内桜田     上梅林     御天守下
   御切手御門
 西丸之方
   蓮池御門    紅葉山下御門  坂下御門
   西丸裏御門   西丸御玄関前  吹上御御門
   西丸中仕切  西丸大手
一、右鑑札納相済候段、御用番久世大和守様江、御留守居宮地加兵衛罷出、
口上ニ而御届致ス、
  但、右御鑑札納済言上之、年寄衆本〆、大目付江申達、板木内初致ス、
(中略)
一、右御交代相済候付、左之御届書、御用番久世大和守様江御留守居庄野滋
□左衛門を以被差出候処、被成落手候間、御取次を以被仰出候、
大手御番所、今日、戸田采女正より請取、私儀、致勤番候、此段御届申
候、以上、
   六月廿七日                  御名 」
276 新御屋敷奥用人日記 安政五年 竪一冊    
「(表紙)安政五戌午年
  日記
 従正月
       新御屋敷
        奥御用人」
 表紙裏に、大の月・小の月の記録あり。
「安政五戌午年
   正月元日晴        安井弥太右衛門
                久保藤内
                松本助八    
           御添番   太田資蔵     」
記録場所である新屋敷は、上屋敷・巣鴨下屋敷以外。二月二六日、御側女
中八百、「御男子様」出産、奥向総出仕。三月二日は「御出生様御七夜」な
ので、「御目覚刻より服紗・小袖・麻裃着用、諸向惣出之事」。大目付より達
には「去月廿六日御妾腹/御男子様被遊御出生候処、以/思召、此度は/公
辺御届不被差出、且御名稲若様と可奉称旨、被 仰出候」。稲若を、時々「御
休所」に連れて行く記事あり。
 新屋敷には、藩主以外が居住か。上屋敷から、情報がもたらせられている。
「(十月二十五日)年寄衆ゟ申来ニ付、以老女申上之、
一殿様、依昨日之御奉書、今日被成
 御登城候処、左之通被為蒙 仰候、
  今度
将軍 宣下相済次第、為御礼京都江御使ニ可被遣候間、可被用意候、宮
原民部大輔差添被遣之、
右於御黒書院溜、御大老・御老中様方御列座、中務大輔様御書付被成御
渡候、
右之段可被申上候、」
277 日記 安政五年 竪一冊    
277(正月~九月)と278(九月~一二月)はどちらも段ボールの外表
紙有り。
「(中表紙)安政五戌午年
  日記
 従正月
 至九月    」
記録は、駅之助・小藤太・十左衛門・吉左衛門・伝助・新五左衛門・九郎左
衛門・鋠重郎。
278 日記 安政五年 竪一冊    
「(中表紙)安政五戌午年
  日記
 従九月十五日
 至十二月     」
記録は、吉左衛門・駅之助・九郎左衛門・十左衛門・伝助・新五左衛門。
279 (留守居)日記 安政五年 竪一冊    
「(中表紙)安政五戌午年
   日記
 従九月十二月至」
 278と内容は同じだが、278が記録者ごとに筆が変わっていたのに対
し、すべて一筆。ところどころに朱書あり(「様」の字の崩し方の訂正)。本
冊は、中清書分か。「巣鴨御下屋敷」「蠣殻町御中屋敷」の記述有り。松平讃
岐守御留守居中様あての廻状多数収録。宛名は省略されている。
一(十二月二十九日)左之伺書、御掛太田備後守様江、御留守居宮地加兵衛を以被差出候処、被
成御落手候旨、御取次を以被 仰出候、
私儀為 御使者、京都江罷越候節、若於旅中、下総守殿江行逢候節、如
何相心得可申候哉、
一御同人在京中者、飛札等差出候節、御連名相除可申候哉
右之条、兼而心得罷在度、此段相伺候、以上
    十二月廿九日              御名」
(右伺い書上部余白に、以下記す)
「即夕御附札、旅中ならびに在京中、対話之儀、下総守江可被相伺候、飛札
除名之儀者、可為伺之通候」
280 留守居日記 安政六年正月~七月 竪一冊    
江戸藩邸のものであり、その性格上、政治関係の記事が多くみられる。具
体的には、開港関係(正月十七日条など)や上知された脇本村新田の取扱い
をめぐるもの(正月晦日条など)、鋼姫─松平勝成婚姻関係(三月二十七日
条など)、前年の将軍代替わりを受けた朱印改関係の記事(四月十八日条な
ど)が特徴的である。また、嘉永元年に漂流し、この年に米国船に乗って来
航した「治作」関係の記事も興味深い(五月二十二日・七月六日条など)。
五月二十二日条を次に挙げておこう。
「(五月二十二日)一、箱館御奉行堀織部正様より御呼出ニ付、御留守居同人、 御城中江罷
出候処、箱館御奉行御支配組頭新藤鉊蔵を以左之御書付被成御渡候、
      酒井雅樂守留守居江
       達之覚
                      御領分
                      播州加古郡本庄村
                        百姓
                         治作
                         未三十七歳
右之もの儀、此度箱館表江渡来シ、アメリカ商船江乗組相越候付、及吟味候
処、嘉永元申年と覚、摂州郡名不知大石村松屋八三郎手船栄力丸水主ニ被雇、
沖船頭加東郡宮西村万蔵、水主岩蔵・亀蔵、其余名前不覚都合拾六人乗組、
同年月日不覚、兵庫湊出帆、御当地江相越、帰帆之砌、逢難風於洋中異国船
ニ被助、数年来北亜米利加国ニ居留、罷在候趣申立候、右は御領方人別之も
のニ相違無之哉、否相糺早々可被申聞候、
      未五月」
281・282留守居日記 安政六年八月~十二月 各一冊    
同内容であるが、後者の方がより大型で一筆、清書に近いものと考えられ
る(前者は複数人の筆)。内容の面でいえば、台場引渡し関係(十月十四日・
十五日条など)や、江戸城大火(十月十七日条など)が特徴的である。
283 新御屋敷日記 安政六年正月~六月、284御休所日記 同年七月
~十二月 各一冊    
政治関係の記事は少ないが、前者(「新御屋敷日記」)についていえば、病
弱のため出生を届け出ていなかった「稲君」を幕府に届け出たこと(正月五
日条など)、松平隠岐守と鋼姫の婚姻関係の記事(四月二日・九日条など)
が多くみられる。また、鋼姫が嫁いでからは、ご機嫌伺いの対象が彼女から
「稲君」に変化していることが興味深い。
287 御休所日記 万延元年四月~十二月 竪一冊    
藩主参勤中、国許での奥御用人の日記。四月十六日条より年末晦日まで記
録する。巻末に「奥御用人 五十嵐昌左衛門・吉田孫右衛門・福嶋市兵衛」
と記載あり。
・四月十六日
「一(四月十六日)殿様益御機嫌能被遊 御發駕候
 一御休所女中左之通出立之事并附添之者名前左之通」
以下、女中として「老女・若年寄・御側・御次・御仲居、外ニ下女」が、ま
た「附添」として「目付・奥目付・御休所目付・御番方代・仲番代・下目付」
の名前が書き上げられる。
・七月二日、酒井家に女子が出生し、九月五日、「淑(よし)姫」と命名さ
れる(同日、報知の家中触も発令)。
・十月二十日、藩主忠顕発病との江戸よりの急報が記され、十二月一日条に
て酒井仁(じん)之助(忠績(ただしげ))の相続が、大目付(家中)の通報として留められる。
十二月七日、仁之助の跡目願書を老中が受領したことが記され(同十四日
条)、同八日に殿様逝去の普請鳴物停止が大目付申達として出される。同十
五日条にて、先代院号の決定(顕徳院)、さらには九日に登城した仁之助が
家督相続を許され、「溜詰格・四品之格被成御心得」も許可され、引き続き
内海警衛役も命じられたことが記される。
・十二月十八日(大目付よりの発令)
「一殿様 』御名之文字、仁之次じんと唱候名・実名共相改可被申候
一御実名奉称 』忠績君与候間、績与申しげと唱候名・実名共相改可被申
候」
286 日記 文久元年上巻 竪一冊    
(表紙)
「萬延元(ママ)辛酉年
 日 記
 従正月至六月    」
 表紙の年記は誤記で、下小口にも「萬延元酉上巻二月□文久改」と見え、
いずれも万延二年の誤記である。年頭より四月二十日条までを収め、表紙記
載からすれば後欠か。江戸日記で、正月の当番にあたる筆者は六名(傳助・
苫蔵・大之丞・太久麿・新五左衛門・驛之助)。
・正月十九日
「一( 正月十九日)久世大和守様御勝手江御呼出ニ付、御留守居福嶋敬右衛門罷出候処、公
用人三宅甚兵衛を以、左之御書付被成御渡候
明後廿一日、品川沖江英佛軍艦渡来之節祝砲打放候間、仁之助御
預御臺場ニおゐて合砲打放候様可仕候、發数等委細之儀者外国奉
行より相達ニ而可有之候事」
同文の達は、外務省引継史料「祝砲事件」及び『続通信全覧』類輯之部では
「祝砲雑件 英佛軍艦著港祝砲一件」にも所収、「酒井仁之助家来呼可達覚」
とする(『幕末外国関係文書』巻之四十八第五号附収文書参看)。なお老中久
世は、翌二十日も酒井家宛に書取を渡している。
・正月二十日
「一昨夜久世大和守様ゟ御達ニ相成候御書付写壱通、今朝御用番安藤對馬守
様御勝手へ御留守居福嶋敬右衛門持参、差出候處、公御用人川□助之丞
ヲ以御落手被成候旨被 仰出候
 一 右同断ニ付、江川太郎左衛門様へ、御心添且御高弟十人程御差出萬端御
差圖被下候様御頼、御留守居手紙被差出之
 一同断ニ付、御相備様方江為御知御留守居手紙被差出之
 一 外国御奉行小栗豊後守様ゟ高井丹波守様御宅へ壱人罷出候様御呼出シニ
付、御留守居庄野慈父右衛門罷出候処、丹波守様於御宅豊後守様ゟ左之
通御直達有之
    一 昨夜大和守様ゟ御達御座候明日合炮打放之儀、精々心附、不發等
無之様可致事
    一 明八時頃異船入津可致、左候而上陸致シ、夫々宿寺江相越、右宿
寺ニ而国旗相立候ヲ相圖ニ合炮打放し候事、尤御場所江御支配之
者被遣、諸事御差図御座候由、御奉行様御出之有無者未治定ニ不
相成、御治定次第尚又御達ニ相可成由
       但本文国旗相立候得とも、万一相分兼候節者、海岸ニおゐて炮
發有之、右ヲ相図ニ炮發致候事
    一合炮打放数、廿一挺御筒ニ而折返四十二發ニ相成候事」
・正月二十一日
「一(正月二十一日)一昨十九日、久世大和守様ゟ御達有之候通、於御臺場炮發、七時過外国
御奉行之御支配調役蜷川藤五郎様御出役、同同心村上金七郎出役、藤五
郎様御差図ニ而御居筒之内二十一挺、八十斤・二十四斤御筒取交、二十
一發ツヽ両度打放シ、此節御陣屋詰御番頭両人、其外御物頭、右目付・
御使番・御鉄炮奉行・大炮役出役、爰許ゟ年寄柴田伊右衛門殿・御留守
居福嶋敬右衛門・同下役小島林物相越、七半時過無滞相済候旨申越候ニ
付、言上之、 但爰許より御馬乗罷越居、早乗ニ而申越候事
  一右ニ付何等之御届向無之
  一 右同断ニ付、江川太郎左衛門様御手附、教示方御頼ニ而、左之面々御
臺場江相越
山田 熊蔵」
(他に八田篤蔵・山田山蔵・中村小源次・安井晴之助・田野村直二郎・長澤
房五郎・中村鍾次郎・岩嶋信三郎・市川米吉・中村清八の名を列挙す)
・正月二十六日
「一(正月二十六日)左之廻状松平大和守(直候、川越藩主)様衆ゟ到来
以廻状致啓上候、各様弥御安恭被成御勤仕珍重奉存候、然者今日松平出
雲守様・神保伯耆守様・設楽八三郎様ゟ 御城中之口江御呼出ニ付、弥
五八召出候処、吟味方改役渡邊八三郎殿・御勘定斎田橋太郎殿・御徒目
付塩野谷善次御出席ニ而、別紙之通御達御座候、右之趣一・二・三御臺
場御預之御方様江御通達致し候様被 仰渡候間、御通達申候、此段可得
御意如此御座候、以上
    正月廿二日 原 弥五八
小笠原源次
 御次方に付
  木戸 環様
  牧野嶋之丞様
  伊藤作之右衛門様
  神戸四方之助様
  庄野慈父右衛門様
  福嶋敬右衛門様
猶以御臺場江罷越候日限之儀者、追而被仰達候旨被 仰聞候、此段茂得
御意候、以上
   申達
松平肥前守ゟ献上之大炮、壱・弐・三御臺場江据附相成候ニ付、同人家来
右御臺場拝見之儀不苦旨相達候間、可被得其意候
 右者松平出雲守・神保伯耆守・設楽八三郎申達」
・正月二十九日
「一(正月二十九日)左之御届書、御勘定所江御留守居神戸四方之助持参差出候処、御勘定出
役斎田橋太郎様被成御落手候
     御臺場年番之儀、一同申合之上左之順ニ相心得申候
       酉年 松平大和守様 
       戌年 小笠原信濃守様
       亥年 松平阿波守様 
       子年 真田信濃守様 
       丑年 松平下総守様 
       寅年 酒井仁之助様 
     右之通御座候、此段御届申上候、以上
御名家来
       正月廿九日 神戸四方之助」
・二月二十七日
「一左之廻状到来
以廻状致啓上候、…然者昨夕御目付神保伯耆守様・黒川備中守様
ゟ御呼出ニ付、今日四時 御城中之口迄弥五八罷出候処、御徒目
付大久保弥助を以別紙御書付壱通被成御渡候、御帰便江も可及御
通達旨御達御座候間、則写を以及御通達候、此段可得其意如斯御
座候、以上
      二月廿六日 原 弥五八
小笠原源次
 御五軒
  主居様
   写
内海東西海岸測量為致旨、御軍艦奉行ゟ被 仰渡有之候付、御軍艦操練教
授方之者等、御預り御臺場近辺并御臺場之模様并巨細測量可致候間、右教
授方之者罷越候節之御臺場御(衍)臺場おゐて差支無之様可被取計候」
・三月十九日
「一(三月十九日)左之御達書到来
江戸内海東西海岸測量為御用御軍艦操練教授方其外之者、御用ニ
付海岸附屋敷々々江立入取調候儀も有之候間、差支無之様可被致
候、以上
      三月十九日 神保伯耆守
伊澤美作守
 酒井勘解由殿
    御留守居中
 追啓、披見之上御徒目付當番所迄可被相返候、以上」
288 (奥御用人日記) 万延二年正月~文久元年十二月 竪一冊   
 表紙は後補であり、正確な原題は不明。この年の十二月二十一日条の記事
までが収載される。
 忠績の後嗣となる筈であった稲君がこの年発病し、六月以降は蘭医柴田方
庵(忰の昌吉ヵ)の診察を受けていた。以下に、十月二十一日の稲君死去ま
での記事を拾う。
・十月十二日
「一(十月十二日)稲君様御容躰為御診、明日大槻俊斎様御招ニ相成候旨、御守役志水三九
郎ゟ申聞候…」
・翌十三日、大槻は来診に来ている。
・十月十四日
「一(十月十四日)大槻俊斎様八時過御越…
一 稲君様御容躰ニ付伊東玄朴様御頼ニ相成、明十五日御越ニ可相成候間、
大槻様御同様ニ取扱候様、大目付左平并御守役三九郎ゟ達有之…」
・同二十一日には蘭医竹内玄洞および林洞海も来訪するが、稲君は危篤に陥
り死去する。二十四日、桃源院と諡される。
289 留守居日記 文久元年六月 竪一冊   

(表紙)文久元辛酉年
  日記
 従六月
 至十二月」
「一(六月十五日)、左之廻状和田倉衆ゟ到来庄内様衆江順達之
追啓、早々御順達留より御返却可被下候、以上
以廻状致啓上候、然は内藤紀伊守様ゟ御勝手江唯今御呼出ニ付、小森久太郎
罷出候処、御用人川上龍之助を以別子御書付弐通御渡被成候、則及通達候、
右得御意度、如此御座候、以上
六月十五日 石沢民衛  
小森久太郎  
 神戸四方之助様
 ……
  猶以下総守様・越中守様江は別紙廻状差出候、以上
折表に    
松平肥後守江  
別紙之通水戸殿家老江相達候間為心得相達候御府内其外江洩出候者可有之哉
も難計候間、時宜次第早々人数差出捕押、若手に余り候ハヽ打捨、又は玉込
等用候而も不苦候間、兼而厳重ニ手筈可被申付置候、尤松平下総守・松平越
中守・酒井雅楽頭・酒井左衛門尉・小笠原信濃守江も通達候様可被致候事
御領内残党之者之儀ニ付、是迄寛大之御処置に相成居候処、今以兎角折合兼
候趣ニ付、今般厳重御手配有之、悉御召捕被成候様被仰出候、就而者此上徒
党ケ間敷儀相企候者、於有之は御人数御差向御領内ニ而御取鎮、若不法之働
是相候者は、速ニ御討取可被成、万一及御遅滞候節は御沙汰之品も可有之候
間、此段可被申上候事」
以下内藤からの水戸藩対策・東禅寺対策令つづく
「一(六月二十一日)、速烏丸御船明廿二日出帆ニ付、左之証文出来、本約江相渡之
酒井雅楽頭スクーネル形手船壱艘、船頭、水主拾四人乗為積登申雑荷物之事
 一、家来雑荷物百箇
 一、油百五拾樽
 頭書 〆二口
               荷数合弐百五拾
                     但武具馬具不入
右之通従江戸播磨国宝津迄為積登申候、浦賀御番所無相違被成御通可被下
候、自今以後右雑荷物ニ付出入之儀御座候ハヽ、私共申訳可仕候、為後日仍
如件
  文久元辛酉年六月廿二日 御名内 福島敬右衛門 印  
庄野慈父左衛門 印  
神戸四方之助 印  
相模国浦賀御番所
   御当番衆中
……
一、夜五時頃神奈川御奉行松平石見守様ゟ左之御書付壱通、御使者を以被仰
越候旨、御留守居申立候ニ付、年寄衆江申立之、大目付江申達す、尤言上
之儀ハ竹末於兎蔵請取之上可致候
折表張紙
 酒井雅楽頭殿
  留守居               折表 神奈川奉行
御家来       
傳五郎忰     
竹末於兎蔵  
右之もの旅行先おいて紛敷風聞相聞候ニ付、神奈川表おいて差押相糺候処、
書面肩書之通ニ而学問修行として水野和泉守殿家来塩野谷甲蔵方ニ入塾罷在
候旨申立、外不埒之筋も無之候間、右傳五郎忰ニ無相違候ハヽ引渡候ニ付、
請取として御家来壱人同断御役所江早々可被差出候、以上
  酉六月
……
一、久世大和守様ゟ八半時頃御達之儀有之候間、今日中御留守居一人御勝手
迄罷出候処、去る二日差出置候御書付江御書取相添、御差図有之、公御用
人羽太平助を以被成御渡候、尤御挨拶之御使者御留守居同人立戻相勤之
    御書取左之通
書面内意之趣向後白木綿類其筋問屋共江家別払之儀は、永年仕来候儀ニ付、
雅楽頭方ニ限取捌、其余諸家国産之品は家別支払難相成旨、町奉行所おいて
問屋共江申渡候様相達候、且今般松平隠岐守領分産物之縞木綿は品柄も違ひ
候間、問屋家別払之儀承置候、尤右白木綿類ニ不相混様可取計旨隠岐守方江
相達候間、其段相心得候様可仕候」
「一(六月二十三日)、町御奉行石谷因幡守様より御達之儀有之候ニ付、明日九つ時罷出候様、
昨日御呼出申来候ニ付、御留守居神戸四方之助罷出候処、与力高橋吉右
衛門を以左之手形写為心得御渡有之
大伝馬町組    
木綿問屋行事  
白子組      
木綿問屋行事  
酒井雅楽頭領分産物白木綿類其筋問屋共江家別払之仕法同様追々他領国産之
木綿類家別売相増候而は、置下げ値段糴上げ、自然相庭及にも差響可申哉ニ
付、向後白木綿類は永年仕来候儀ニ付、雅楽頭方ニ限り取捌、其余諸家国産
之品は家別払難相成候間、其旨可存
但松平隠岐守領分産物縞木綿は品柄も違候儀ニ付、家別払聞届候得共、
以来は国産木綿類取捌方右同様之仕法不相殖儀と可心得
 右之通被仰渡候、仍如件
            大伝馬町組
             木綿問屋行事
            大伝馬町壱丁目
             源蔵地借
           次郎左衛門勢州住宅ニ付店支配人
文久元酉年六月廿三日              佐兵衛
            同町五人組持地借
             佐太郎幼年ニ付後見
             七左衛門煩ニ付代
                        万兵衛
            白子組
             木綿問屋行事
             本町四町目
           家持甚右衛門京都住宅ニ付店支配人
                        新兵衛
             本石町四丁目
           家持三郎兵衛京都住宅ニ付店支配人
   治兵衛煩ニ付代
                        金兵衛 」 
「一(七月朔日)、左之趣会津衆ゟ申来
以手紙致啓上候、然は只今久世大和守様御勝手御呼出ニ付、助役荒川登
罷出候処、御談申度御用御座候間、明日四時御登城被成候様、尤御同席
様方并御格序様方江も御登城被成候様、御通達可被成、井伊掃部頭様江
は不及通達、松平讃岐守様御不快御快御座候ハヽ御登城被成、松平下総
守様にも御登城被成候様に御通達可致旨、御用人羽太平助ヲ以御口達被
成候、依之御銘々様江格通を以及御通達候、此段宜及御通達肥後守被申
付如此御座候、以上
    七月朔日
尚以本文ニ付五半時供揃ニ而登城被致候、右為御知をも被申述
候、以上
一、八丁堀衆より到来、馬場先衆江順達之
……
   大目付江
   異風之筒袖異様之冠物は着用不相成趣、兼而相触置候処、近頃密に着
用致し候族も有之哉之由、如何之事に候、以後心得違無之様可致候、尤御軍
艦方其外大船乗組之者且武芸修行之者筒袖ニ無之而差支候分、船中又は稽古
場を限り外国人之服に紛敷無之様仕立相用候儀は不苦候、且又皮覆之儀も御
軍艦方等船中を限り相用候儀は不苦、百姓町人共之儀も職業筋商売躰に寄、
筒袖着用雪中皮覆相用候儀、是迄在来之品は苦からすといへとも、外国之製
ニ紛敷相仕立候儀は不相成条、心得違無之様其筋々より堅可申付候
右之通可被相触候
  六月 」   
291 (留守居)日記 文久三年 竪一冊    
(中表紙)
「文久三癸亥
日記
[ ]至九月   」
「(五月十三日)五月十三日                 弥五右衛門
一左之御用廻状差付到来、馬場先衆江順達之、井上河内守殿御渡候御書付写
一通相達候間、被得其意無遅滞順達、従止酒井但馬守方江可被相返候、以上
     五月十三日                大目付
  松平肥後守殿
  井伊掃部頭殿
  松平讃岐守殿
  松平越中守殿
  酒井雅楽頭殿
  松平左膳殿
   留守居中
    大目付江
  尾張前大納言殿御事、
  公方様御登 京 御滞在中、御政事向輔翼被在之候様、
  叡慮を以被 仰出之、
  右之通於京都被 仰出候間、向々江可被相触候、
   五月                         」 
徳川慶勝(前権大納言・前名古屋藩主)に対する天皇による任命を、大目付
廻状で周知している。
(5月14日)
「一従京都去ル八日附御便到着、寺田慎吾ゟ左之通申越、  
三条中納言様ゟ御呼出ニ付、昨七日罷出候処、右御内御守衛掛り丹羽筑
前介を以、左之通御達書壱通被成御渡候旨、
  御書付
此度攘夷期限中決定ニ付、何時兵端相開ケ候事も何計・・・各藩・・・
先伍長壱人・・・可用意有之候事、
   五月 」   
295 御休所改奥御用人日記 文久四年正月~元治元年十二月 竪一冊
「(表紙)文久四甲子年改元
 元治二月二十一日
  日 記
    御休所改
     八月十九日ヨリ
      奥御用人  」
元日より十二月二十九日条までを収める。藩主忠績は将軍家茂とともに上
洛中の時点から、この年ははじまる。
・八月二十一日
「一昨日之依  御奉書今日 』殿様 若殿様御登 城、 御目見無御滞被
   仰上、  殿様ニ茂右御禮無御滞被 仰上候
 一 殿様御儀、松平大膳大夫為 』御征伐 御進發被遊候ニ付、 御留守被
為在、折々 御登 城被成候様被為承 』仰候、此段可申上候様、年寄
衆連名奉札来ル
 (中略)
 一 若殿様御実名忠惇君与奉称 』御新造様御名鉉(はる)姫様奉称候、依之御家中
之男女 惇并鉉(はる)与申文字、とふ并はる与唱候名・実名共可被相改候
 一御新造様、今日御上屋敷江被遊御引移候…」
本史料では、世子忠惇の諱は〝ただとう〟と読まれている。
・九月五日には若殿=忠惇が江戸発駕、同十七日にその女子が誕生してい
る。同二十日条では、「若殿御廻京」として、「松平越中守様并傳奏野
(ママ)々宮中納言様江被為 』入、   天気御伺相濟、夫ゟ飛鳥井中納言様・松平肥後
守様江御廻勤無御滞相済、夕八時過伏見驛江御止宿」と記す。同月二十四日、
忠惇は姫路城に着。十一月十八日、忠惇の河内守改名の記事が見える。本冊
の末には、「千秋万歳」との書き入れがみられる。
296 (国許の日記) 元治元年 竪一冊    
「(表紙)日記
 従元治元年 」(後表紙か)
 元治元年分の記事は七月二十九日から十二月十日まで。元治二年(慶応元
年)分の記事は正月八日から九月二十六日まで。なお、元治二年分の記載形
式は、ほとんどが姫路藩大目付から「御家中衆」宛ての達書を書き留めたも
のとなる。国許の日記か。
「(冒頭)去ル八日・十一日
殿様被成御登 城候処、以御書付別紙之通被為蒙 仰候由申来候間、為承
知申達候、尤組支配有之面々ハ組支配へも可被申渡候、
   右之趣申達候様、月番本多意気揚殿ゟ被申聞候付申達候、已上、
   七月廿九日
 八日御達、
   非常之節外桜田御門外江出張御警衛相心得、半蔵御門外并一橋御門外寄
場へ相詰候寄合之面々、指揮有之模様ニ寄、小普請之面々月桂寺・伝通
院屯所ニ相詰罷在候者江も相達、諸事差図致し御警衛厳重可被取計候、
尤右ニ付平日兼而打合置候様可被致候、」
(十一日の達は略す)
「一(八月二十九日)殿様依御奉書当廿一日
  被御登
  城候処、松平大膳大夫為
  御征伐
  御進発被遊候ニ付、 御留守ニ被為在、折々被成御登
  城候様、御老中阿部豊後守様被仰渡、右相済、於
  御座間被為蒙
  上意候、猶又御用談として日々西丸江御出仕、
  御用部屋江も被成御通候様可被成、尤
  御進発御留守中茂御同様被成御心得候様
   被為蒙 仰候由申来、恐悦之事ニ候、此段為承知申達候、組支配有之
面々者組支配江茂可被申渡候、右為恐悦御用場江罷出、御帳ニ附可被申
候、
    右之趣申達候様、月番内藤半左衛門殿被申聞候付申達候、已上、
      八月廿九日 」   
「一(二月十三日)殿様依御奉書当朔日被成
  御登 城候処、於
   御座間御大老職被為蒙 仰候由申来恐悦之至ニ候、此段為承知申達候、
尤組支配有之面々者組支配江茂可被申渡候、右為恐悦麻上下着用、御用
場江罷出、御帳ニ附可被申候、
     右之趣申達候様月番松平孫三郎殿被申聞候ニ付申達候、已上、
    二月十三日    大目付
      御家中衆 」   
「一(五月二十一日)五月廿一日、左之通御触達有之、
  当四日
  若殿様依御奉書被成御登 城候処、於
  御座間 御進発御供被為蒙 仰候付
   御目見重キ 上意之上御召之御陣羽織被遊御拝領候旨申来、恐悦之至ニ
候、右為恐悦麻上下着用、御用場へ罷出、御帳ニ附可被申候、此段申達
候様、月番高須隼人殿被申聞候付申達候、已上、
    五月廿日                    大目付
      御家中衆 」   
「(五月二十二日)当十五日
若殿様依御奉書被成御登 城候処、於
松溜侍従被為蒙 仰候由申来、恐悦之至ニ候、此段為承知申達候、尤組支
配有之面々者組支配江茂可被申渡候、右為恐悦麻上下着用、御用場江罷出、
御帳ニ附可被申候、右之趣月番高須隼人殿被申聞候ニ付申達候、已上、
   五月廿二日                    大目付
……
若殿様益御機嫌能 御進発為御供、当十五日九ツ半時過江戸表被遊 御発
途候由申来候、此段為承知申達候、尤組支配有之面々者組支配へも可被申
渡候、右之趣申達候様、高須隼人殿被申聞候ニ付申達候、以上、
  五月廿二日                    大目付」
「(閏五月五日)公方様益御機嫌能、去月十六日為
御進発 御発途被遊候段、従江戸申来候、此段為承知申達候、尤組支配有
之面々者組支配江茂可被申渡候、此段申達候様、高須隼人殿被申聞候ニ付
申達候、已上、
   閏五月五日 」   
「(閏五月二十七日)公方様為
 御進発一昨廿五日被遊
 御着坂、
 若殿様益御機嫌能被遊御供、
 同所御蔵屋敷江被遊
 御着候旨申来、恐悦之事ニ候、
 此段為承知申達候様、高須隼人殿被申聞候ニ付申達候、
 已上、
  閏五月廿七日                 大目付
 御家中衆 」   
「( 六月二十二日)御書付両通之通、
 若殿様於大坂表被為蒙
仰候間可被得其意候、尤組支配有之面々者組支配江茂可被申渡候、此段
申達候様、月番本多意気揚殿被申聞候ニ付申達候、已上、
  六月廿二日                  大目付
 御家中衆
 一御在坂中別紙之通
   御取締筋相達候ニ付而者、召連候人数供廻之分而已残し置、可成丈彼地
江差遣御取締向厳重相心得候様、無急度相達候事、
 一 御在坂中者播州路取締筋別而厚く相心得、通行之旅人改方等厳重ニ可被
申付、就而ハ取締筋為指揮姫路表江往復いたし候儀可為勝手次第旨被
  仰出候事、」
「(六月二十九日)若殿様爰許御取締筋為御指揮、来月二日 大坂表可被遊 御発途旨被
仰出、御旅中御滞無之候得者、三日加古川御泊にて、四日被遊 御城着候
由申来候、且此度ハ中ノ御門大名町通、直東御屋敷江被遊御着候、尤其節
麻上下着用、別紙書付之場所江自身者ハ勿論、前髪執候惣領分之内初而之
御目見相済候者并隠居之面々茂可被罷出候、
    右之趣申達候様、月番本多意気揚殿被申聞候付申達候、已上、
大目付 
   六月廿九日
      御家中衆 」    
297
-1 (留守居日記ヵ) 慶応元年 竪一冊    
本来は一冊のものを、297-1と297-2の二分冊としたもの。筆者
は酒井伝二郎・永田祖武助ほか。記事は、元治二年正月朔日から同月晦日(三
十日)まで。
「(表紙)     元治二乙丑年
       四月慶応改元
      日 記
       従正月
       至五月    」
297-2 (留守居日記ヵ) 慶応元年 竪一冊    
記事は、同年二月朔日から五月二十五日まで。
298-1・2 奥用人日記 慶応元年 竪一冊    
「元治二乙丑年従正月、改元慶応四月十八日ヨリ、日記 奥御用人」
2冊目にも新筆で同名の書名をつける、治兵衛・彦左衛門・修蔵らによる
もの。
299 竪一冊    
「元治二‥‥従正月 奥御用人」
 別系統の手留。
301 (奥用人)日記 慶応元年閏五月~十二月 竪一冊    
「慶応元乙丑年従閏五月至十二月 日記」
 別系統の殿様御用日記か、記主は、伝二郎・(永田)祖部助・苫蔵のうち
交代で一名、閏五月一日~、祖部助は御用人
「(六月二十二日)六月廿二日  苫蔵
‥‥
一、今度於川口野戦筒御製造ニ付鋳立方為見分、今廿二日・明後廿四日年寄
衆被相越候付、勝手次第見物相越候様昨廿一日御達有之、今日年寄帯刀殿太
右衛門殿被相越候ニ付、当席祖部助・大之丞罷越‥‥」
「(六月二十五日)六月廿五日 苫蔵
一、六半時前御供揃ニ而御乗切ニ而深川越中島江調練為御見分御出有之、御
帰九時過、右ニ付今日之御登城無之」
このころ、スクーネル船の記事などあり。
・十月十三日、家来厄介の弟横井銀次・家来厄介の倅長尾金太郎、出奔・行
方知れずにつき家族・親類一同久離、帳面へ記置くことを町奉行所へ届け出。
・十月十六日、火盗改組与力から無宿浪人長尾金太郎・横井銀次両人を召捕
の報知、「御鉄砲玉類盗取逃去り、売払候旨申立」、問い合わせ)
「(十月二十日)     右両人申口   
一去子年十月中旬と覚、暮六時頃両人申合鉄炮方役所錠前ニ而〆り有之戸尻
を押明ケ、手元ニ有之
一ライフル弾と唱候鉄玉 十六 
 盗取
一当二月中旬ゟも以前追々申合
一ラヰフル弾 百弐拾玉
一ホーホーイツルト唱候鉄玉百三十五
盗取、一同逃去候旨申立候付、相違之儀無之候哉、御問合御座候
此段其筋江申達取調候処、‥‥雅樂頭巣鴨下屋敷内鉄砲方役所ニおゐてラヰ
フル弾と唱候鉄玉其外玉等紛失仕候儀ハ無御座候、同所下屋敷内高嶋流炮術
稽古場脇物置ニ有之候玉之内
ライフル玉 百四十九
ホートホウヰツスル・ヘルクホウヰツスル玉之内 百四十九
右之内紛失仕候処、十月何日頃ゟと申儀其辺詳ニ取調中之儀ニ付未聢相分兼
申候‥‥ 」    
火盗宛の回答あり。のちに、一三六玉、代銀六貫一八八匁、後者は一三五玉、
二貫九九匁九分と申告。
302 奥用人日記 慶応元年六月 竪一冊    
「慶応元乙丑年従六月、日記 奥御用人」
 奥用人四人
304 奥御用人日記 慶応二年 竪一冊    
元日から十二月晦日まで一年分の記録。
・四月二十三日
「一 若殿様御儀、去ル十七日於大坂表別紙之通被為蒙仰候旨、年寄衆ゟ取次
言上相濟
若殿様御名
    毛利大膳家来南郡屯集之内百四・五十人、當月四日夜脱走致候由、大
膳家来より申出候旨、松平安藝守ゟ届出候、右者去ル十日備中倉敷御
代官所江及乱妨、其後近郷横行致居候趣ニ付、夫々被仰付候得共、此
後賊勢増長候而者討手不容易儀ニ付、御暇被下候間、早々發足可被致
候、尤姫路城之義者兼而
 』御宿城ニ茂被 仰出候事故、御警衛筋夫々
及差図、人数者早速差出、其後賊之形勢ニ寄り其方儀茂出張、諸家討
手之家来江も致指揮、速ニ討取候様被仰出之」
・五月六日
「一 若殿様為御帰坂去月廿七日姫路 御發途被遊候旨被仰出候處、於大坂表
板倉伊賀守様ゟ御留守居御呼出ニ而、別紙之通御達有之候付、 御發途
御延引被仰出候旨、年寄衆ゟ取次両奥江申上之
若殿様御名 
   備中倉敷御代官所江乱妨之徒、鎮静ニ相成候儀ニ者候得共、兼而被仰出
候通、姫路城御泊宿ニも被仰出候事故、其方儀姫路表ニ罷在、御警固筋
夫々及差図、此後 』御動座ニ茂相成候ハヽ、其表ゟ御中軍御供之儀、
最前被仰付置候通可被心得候、模様ニ寄相達候ハヽ、早々登坂可被致候、
尤此度出張之人数之内、分配倉敷表迄差出置候家来共之儀者、當分之事
故引拂方者追而相達ニ而可有之候間、可被得其意候」
その後稲葉老中より登坂の達が指令され、忠惇は五月二十三日に着坂、倉敷
での人数は岡山藩と交替となる。また、六月二十一日の板倉老中の指令によ
り、大坂では島之内より木津川までが姫路藩の持場とされている。年末の十
二月二日、忠惇は江戸に着府となった。
山崎本多藩史料(公益財団法人山崎本多藩記念館)
 覚帳とその他に分類して、適宜年代順に報告する。また同館には大庄屋・
庄家文書があり、日記等を含んでいる。
110【覚帳】江戸日記 安政二年 竪一冊    
「(表紙)安政二乙卯年
 覚帳 百十
正月ヨリ年中」
 江戸藩邸日記。
「一(二月二十八日)、二条表去る十八日出之九鬼様御定便着之由、壱封公用方差出候……
一、幸田兵太夫此度二条表江立帰御供被仰付候処、兼而奉願置候通、大坂表
於天王寺父墓所江参詣仕、五拾回忌相当ニ付法事修行仕度、依之大坂表ニ
三日逗留夫ゟ御在所表先祖墓参并親類共江久々対面不仕候ニ付、幸程近之
儀にも御座候間立寄参詣、且対面仕度可相成義■■(虫損)候ハヽ大坂ゟ出入之外
七日之御暇先達而相願候之趣達御聞候処、被聞届、其段以御横目申達候、
右ニ付本月二日三日両日之内、出立被仰付候段も申達候」
「一(四月二十四日)、鵜野忠七兼而奉願砲術為稽古御船手頭別所主膳様江罷越、荻野流・種
ケ島流修行仕候、然る処此度表高家織田謙次郎様江も西洋流砲術為稽古
御番御用之透ニ猶又罷越修行仕度段、以頭中先達而相願達御聞候処被聞
召届候」
「一( 六月五日)、五日鵜野忠七来る七日武州徳丸原におゐて砲術師範之御方様丁打御稽
古御座候ニ付、右為手伝罷越申度旨以中相願承届候」
「一(六月二十九日)、御在所表江六日限幸便差込状出ス」
「一(七月二十九日)、西洋流砲術稽古之儀従公儀追々被仰出有之候ニ付、御与力同心にも致
稽古候様被仰付候処、是迄此方様儀にて西洋流心掛ケ候者も無之ニ付、
此後表高家織田謙次郎様江鵜野忠七ゟ頼込候処、御承知ニ付御出候被仰
聞候趣ニ付、塚内弼桑田新横井菊蔵江入門致稽古候様被仰付候、尤樽井
久右衛門儀も砲術稽古は不致候得共、駈引等之儀も可有之候間、罷越心
掛候様以御横目申達候
一、鵜野忠七にも兼々同流も御同所様江罷出心掛居候儀には御座候へとも、
猶精々罷越修行致候様被仰付候段、以頭中申達候
……
一、此度西洋流稽古致し候様従
公儀被仰出も有之候ニ付、御同心江右稽古被仰付、久貝因幡守様御家来本多
翁輔と申者に御頼相成候間、稽古木銃拾挺御拵相成、代料六十五匁之由公用
方申立承届候」
「一(八月朔日)、御下屋敷ニ鉄砲御用場新規御取建ニ付、去月三日御用番久世大和守様
江白鳥清御使者ニ而被差出置候処、一昨七日従御同所様御留守居御呼出
ニ付、則罷出候処、御伺書を以御付札御伺之通御差図相済候之段、罷帰
申聞候、右御伺書御付札共左之通
    本所林町五町目下屋敷ニ鉄砲角場新規一ヶ所取建申度此段奉伺候、以

     七月二日 本多肥後守  
可為伺之通候、玉目之儀は五拾目を限り稽古候様可被致候」
113 【覚帳】江戸日記 安政五年 竪一冊    
江戸藩邸日記。
・正月二十日
「(正月二十日)一御用頼御勘定奉行川路左衛門尉様・御目付岩瀬肥後守様ニ茂京都江御出
立ニ付、右同断干鯛一折・御樽代弐百疋ツヽ被進、岩瀬様御用人江も金
百疋被下候段、御用人中被申聞候」
・正月二十三日 御用頼与力更新の記事。
「(正月二十三日)一御頼御与力東條初太郎組替被 』仰付候間、同人跡安藤源五右衛門与申
仁、依頼御頼ニ相成候付、御頼印金弐百疋被下之儀、御留守居申立、承
届候」
・三月十一日 御用頼大目付更新の記事。
「一十一日、御用頼大目付堀伊豆守様此間御轉役ニ付、跡御頼土岐丹波守様
江被仰込候處、御承知ニ付、御頼印一種弐百疋、御用人江弐百疋、御贈
被成候段、御用人中被申聞、承届候」
・四月二十七日 条約勅許拒絶の勅書等が廻状にて到来。藩主からは、とく
に意見は無いとの答申を上げている。
「(四月二十九日)一御同席御席上之御方様ゟ御直廻状を以、勅答之御書付写壱通、傳 奏・
議 奏備中守様御旅宿江御持参之御書付写壱通、御達書写一通、掃部頭
様・御老中様方御列座備中守様被成御達候は、御銘々存寄之有無、尤存
寄有之向ハ御封書を以備中守様御勝手に可申上旨、存寄無之向も以後者
其段可申上旨、御廻状向ニ有之候□ 』若殿様ゟ御答書御留守居御使者
ニ而被差出候与公用人中被申聞候、依之御書付并御答書とも左之通認置

(中略)
      去ル廿五日於 』殿中同席之者江御達之趣、篤与勘弁仕候処、別
段何之存寄茂無御座候、此段申上候、以上
      四月廿九日 本多肥後守」
・五月十八日 御用頼大目付更新の記事。後任に付け届ける金品は「御頼シ
ルシ」とでも呼ばれたらしい。
「(五月十八日)一十八日、御用頼大目付土岐丹波守様御轉役ニ付、跡御頼遠山隼人正様江
被仰込候處、御承知ニ付、御頼験一種弐百疋、御用人江弐百疋御贈被成
候段、御用人中被申聞、承届候」
・七月十八日 御用頼目付更新の記事。岩瀬忠震の後任が黒川盛泰。
「一是迄御用頼御目付岩瀬肥後守様御轉役ニ付、跡御頼黒川左仲(ママ)様江御留守
居御使者を以被仰込候處、御承知ニ付、御頼印左之通被進候旨、御用人
中被申聞候
   一干鯛 一折与
御樽代弐百疋 一金百疋御同所様  
 御用人中江」
154 【覚帳】国許日記 安政五年 竪一冊    
国許藩庁日記。日ごとに筆者が代わる、日帳の性格を有する記録。
・正月元日条 本多忠鄰の叙爵・受領成の記事。
「(正月元日)一江戸旧臘十九日出之差込状、大坂ゟ廻達有之候、右者此間大坂江立帰罷
登候御中間、同所旧臘廿八日出立、右差込状・四郎右衛門殿ゟ之書状共
壱封持参、昨夜遅く帰着差出候
一 旧臘十五日八時過、御用番久世大和守様ゟ御老中様御連名之御達書御到
来、 』若殿様御用之義御座候間、同十六日四時御登 城被成候様申来、
右ニ付同日朝六時過之御供揃ニ而御登 』城被成候処、御叙爵被為蒙 』
仰、同日御官名御伺之通 』肥後守様与被遊御改候段申来候ニ付、左之
觸書認、御横目江相達候…」
155 【覚帳】国許日記 安政六年 竪一冊    
「(表紙)百五十五
覚帳
 安政六未年正月ゟ年中」
小口にも「安政六未百五十五」と書かれている。綴じひもは近代のもの。国
許日記か。「御奉行」へ指令する役職であり、家老の日記と思われる。月別
に改行されているが、日別の記載ではなく、日付順に書かれている。竪帳の
一葉を横に二つ折にし、それを三つ折りにしたあとあり。毎月二十日頃、日
記を月別に追い込み記述にまとめものを送付し、国元・江戸・大坂の情報共
有を図った可能性があり、本冊もその一冊か。
 内容は、江戸・大坂からの書状の到着、講釈を行ったこと、大坂へ出立す
る家来のこと、町方への触の内容、町方火事の火元吟味、出石御蔵で籾米摺
りたてのため徒士目付立会を奉行に命じそのことを横目に達する(7月26
日)、諸役からの連絡(例:大坂御払い方勘定済み、勘定所に差し出したの
と連絡が本庄権平から連絡がきたことを、横目に申し聞かす(7月27日))、
横浜村庄屋年寄より未進分村弁の連絡が来たことなどを「御奉行申聞、承届
候」(8月2日)、「御領内ニ而御仕法講」企画のため、大坂表から銀主三人
来訪(10月20日)、領地朱印改記事など。
114 【覚帳】江戸日記 安政六年 竪一冊    
「(表紙)安政六巳未年
 覚帳 百十四
 正月ヨリ年中  」
小口に「安政六未年百拾四」の記載有り。月別追い込み記事。表紙・各丁真
ん中に折り跡あり。下屋敷御組合辻番所の件、頼みの数寄屋坊主、当分頼み
の老女に関する記事、暑中献上物の調達、若殿婚儀などを記す。
115 【覚帳】江戸日記 万延元年 竪一冊    
「(表紙)安政七庚申 万延と改元
  覚帳 百十五
 正月ヨリ年中」
「(正月)一、井伊掃部頭様旧臘被叙正四位上候御歓、水野出羽守様被叙四品候、
……」
「(正月二十八日)一、御本丸御普請ニ付、御上納金納方之儀御懸り松平和泉守様江左之通御
伺書御差出被置候処、御呼出候ニ付、今朝留守居罷出候処、左之御付紙
を以御差図相済候段四郎兵衛罷帰り申聞候
御本丸御普請ニ付内願之通金五百両上納被仰付、難有奉存候、依之三ヶ
年に割合上納仕度、此段奉伺候、以上、
   正月廿八日 御名  
 御付紙
    伺之通可被
    相心得候
 別紙
 金 五百両
  内
 金 弐百両  当申年十二月上納
 金 百五拾両 来る酉年十二月上納
 金 百五拾両 来る戌年十二月上納」
「一(三月四日)、四日昨日井伊様御登
城掛け、桜田御門外ニ而多人数右御駕籠江向不法致し、双方刃傷即死
余程怪我人等も有之井伊様にも右場所ゟ御招御登
   城無之、右ニ付
公辺も御心配其外不穏向も有之趣に相聞候間、当分之内何も洗湯之外
猥に外出は見合候様可致旨、当御屋敷之向々江相達置候様にと御横目
江申達候事
一、内藤紀伊守様被成御渡候由、左之御書付大御目付触ニ而御到来之旨、公
用方申聞候付、例之通写し、奥書等為致両御屋敷御徒目付に為触候様可
有之、御横目江相達候
   覚
御持主頭 内藤若狭守  
豊田藤之進  
御先手  大久保喜右衛門  
太田運八郎  
其方共組与力同心とも当分之内、江戸中昼夜相廻り少々も怪敷躰之もの見受
候ハヽ召捕可申候、其方共も相廻り武家屋敷江入候とも付込候而召捕月番之
町奉行江可被相渡候事」
「一(六月)、御内用御頼御側平岡丹波紙様江暑中御見廻交御肴一折代料金三百疋御
用人江同百疋之分之儀、御用人中被申聞承届候」
「一(九月二日)、砲術稽古連中惣代鵜野忠七ゟ於御下屋敷角場砲術稽古之面々合薬之
儀、先年迄従御上被下候得共、昨年ゟ不被下候段被仰出候ニ付、自分ニ
而相調且拝借等も仕稽古可仕居候処、此節最早遣切候間、相調稽古可仕
筈之処兼而貧窮者之儀甚難渋仕候間、何卒合薬又は金壱両弐歩両様之拝
借被仰付被下候様仕度、奉願候、金子拝借被仰付被下候ハヽ、合薬合調
夫々配当仕稽古可仕と難有仕合奉存候、上納方之儀は御差図次第連中一
同より奉願候段、以御横目相願候ニ付、稽古之儀承届、尤合薬は最早御
武器方にも無御座候ニ付、金壱両弐歩拝借被仰付候間、上納之儀は追而
被仰出候段以御横目申達候」
「一(十二月朔日)、昨日御城御中之口江御勘定奉行様御目付様ゟ御留守居御呼出ニ付、四
郎兵衛罷出候処、御勘定奉行様ゟは先達而御上納金日限御伺書被仰出候
付、右日限等之儀御差図有之候由、御目付様ゟは今度
和宮様御道順御領分有無取調書出可申旨御達ニ付、明日右御道筋ニ御領
分無之旨御届差出候旨、同人申聞候」
156 【覚帳】国許日記 万延元年 竪一冊    
 表紙を欠く。他流試合・鉄山開発の記事など多し。以下例示する。
「一(正月二十八日)、廿八日大坂昨廿七日出之間便着」
「一( 二月二日)、二日先達而御本丸炎上ニ付、御上納金之儀大坂表ニ而御改役様被仰合
之上、旧臘以御自書被成御伺候処、去月十五日御内願之通金五百両御上
納被成候ハヽ、御普請御用途之内江被差加可相成段、御用番松平和泉守
様より御達有之候段、申来候ニ付、右御上納金精々心配いたし候様元〆
方江申達候」
「一 、廿日、姫路御家中より吉村久之丞と申仁釼術為稽古相見へ候ニ付、試
合仕候段、セ話方申出候旨、御横目申聞候ニ付、例之通御横目出席之儀
申達候」
「一 、外国交易ニ付、貨幣之釣合不宜候間、追而改鋳被仰付候迄、左之通可
致通用、尤引替之儀は追而御沙汰可有之旨御書付写江戸表ゟ相廻候ニ
付、例之通奥書認御家中郷町相触候様御奉行御横目ゟ相達候
  一保字小判壱両    金三両壱分弐朱
  一同壱歩判      同三歩壱朱
  一正字小判壱両    同弐両弐分三朱
  一壱分判       同弐歩三朱
  〆 」  
「(三月)一、御本丸炎上ニ付御上納金御上納方之儀御伺之処、当暮弐百両来暮来々
暮百五拾両つつ三ヶ年御上納被成候様被被仰出候段、江戸表ゟ申来候、
右は郷町江上納被仰付候段、此間申達置候付、心得之儀御奉行江申達候」
「(三月二十七日)一、廿七日姫路御家中ゟ六人剣術為稽古相見へ候ニ付、今日終日試合仕候
段、申出候旨、御横目申聞、例之通出席之儀申達候
一、剣術セ話方ゟ所々ゟ修行者毎度相見候ニ付堅炭壱俵申立有之、是迄も承
届候例も有之義ニ付承届候」
「(閏三月十六日)一、十六日伊予宇和島御家中二宮無二三と申仁小野流一刀流剣術為修行相
見へ候ニ付、試合仕候段、世話方申出候旨御横目申聞、例之通出席之義
申達候」
「( 閏三月)一、信州松本之御家中郡奉行真木仁右衛門御代官下条徳太夫手代矢沢半十
郎と申仁相見へ宿屋江止宿之義申聞候へとも、此節武家止宿之義は容易
ニ相留兼候趣ニ付、大年寄方江参り差宿相頼、且鉄山之儀ニ付御当家掛
り御役人ニ面会之上折入而相頼申度儀有之候間、其段も申上呉候様申聞
候ニ付、相糺候処、松平丹波守様御家来ニ相違も無之趣ニ付、不取敢宿
は申付置候旨申出候へとも、重掛り武間玄八郎容易ニ面会も致兼、併丹
波守様御家来ニ相違も無之遠方罷出候儀堅く面会之儀断にも及がたく、
右ニ付玄八郎ハ不快ニ候ハヽ先手付之内差出可申旨申聞、則庄丈右衛門
差出候処、面会之上玄八郎不快ニ而急ニ面会いたし兼候段申聞候処、右
御同家様にても御領内ニ而鉄山被為稼候処、新規之儀一向様子相分兼、
甚当惑心配罷在、右ニ付、面会之上委細折入相頼申度候段、出勤まて幾
日ニ而も相待居、是非共面会いたし呉候様、段々被相頼候趣、丈右衛門
引取申聞、弥丹波守様御家来ニ相違も無之遠方被罷出、且御同席之儀に
も有之候へは、断にも難及一応面会可致哉之段玄八郎申聞、其通ニ而可
然旨及挨拶置候処、玄八郎・松井連両名庄丈右衛門・永井左藤治召連罷
出、町会所ニ而及面談候由申聞候」
「(四月六日)一、此間信州松本之御家中と相見へ居候仁武間玄八郎松井連応対之処、鉄
山之儀段々頼談有之候ニ付、元〆方付之者も罷出応対いたし候由、然る
処猶又鉄山江罷越様子見申度旨も被相頼候ニ付、玄八郎連之内にも可罷
越処、御用多ニ付、元〆方付庄丈右衛門・永井左藤治両人同道差遣度段
申立有之候間、明日乍大儀右両人罷越候様元〆方を以申達候、右ニ付御
中間両人申立有之、其段吟味役江申達候」
「(四月九日)一、庄丈右衛門此間鉄山江罷越候処今夕引取候之段相届候」
「一、永井・左藤此間松平丹波守様御家来同道にて庄丈右衛門と一所ニ罷越
候処、左藤治居残今夕丹波守様御家来と一所ニ引取候段相届候」
「(四月十七日)一、安政二卯年江戸大地震之節郷町江調達金被仰付、夫々相納候ニ付、右
為御挨拶町方之分去る巳年御屋敷江御呼出、御意申達候上御酒御肴御吸
物御赤飯被下相済、郷中之分は少し取障も有之、其節相延居候ニ付来る
十九日廿一日都合三百拾七人之内、弐両金以上相納候分呼出、右同様被
下弐両金以下相納候分は御酒料壱匁被下、右は大庄屋ゟ相渡可申旨相達
候様、御奉行元〆方江申達、尤右仕出方は都而元〆方賄に候へとも、御
屋敷江御呼出当役罷出候間、御横目吟味役元〆方付等も罷出、御代官も
出席候様夫々可相達之旨御横目御奉行元〆方江申達候」
「(四月)一、先達而ゟ相見居候信州松平丹波守御家来彼ノ国ニ而も新規鉄山取稼、
右は不案内ニ付、稼方之儀段々折入而被相頼候ニ付、武間玄八郎・松井
連応対心得有之丈ハ伝達いたし、猶又鉄山方様子為見元〆方付之物同
道、同所ニ而も支配人并職人共も応対、追々伝手等相済、此間下山永井
左藤治同道ニ而、当方迄被引取候、然る処、何分ニも新規空ニ不案内之
儀伝達而已ニ而一通会得之様には候へとも、甚無覚束、右ニ付何卒職人
共両三人借用致度段、被相頼候得共、此儀は及断、職人共も及断呉候様
申聞、夫レニ彼ノ国より持参之鉄砂はあしく迚も鉄には相成間敷、自然
克鉄に相成不申節は、職人の名折にも可相成候間、立而及断候へ共、無
体ニ被相頼、彼表ニ而も丹波守様并御家中郷町迄右は国益にも相成義ニ
而、殊之外之存込ニ付右御家来衆会得而已之咄ニ而承知不致、職人より
直話、猶又製方ニ掛ケ候上ハ、成や成共夫ニ而一同得心可致候間、是非
借用申度もの義ニ候へとも、当方之鉄山御領分ニ而も無之、公領之儀内
実は
  御上様ニ而表向徳久酒原九郎稼人ニ候へは、容易ニ取計可致義ニハ無之
候間、当役ニ而ハ、堅及断方可然旨ニ申候へとも、段々之頼、夫レ是迄
も右稼方之儀ニ付様子見ニ信州辺之者参り候儀も有之由、且以前之庄辺
之者稼居候節職人近郷ニ住居ニ付、自然是ニ掛り示談いたし候儀も有之
候而ハ、後々当方鉄山之為にも不相成入(ママ)刻有之由、元〆方申聞、無拠向
ニ相聞候ニ付、立而之義ニ候へは、無拠克キニ示談之上取計候様及挨拶
置候処、堅ケ条を以村下職両人山子壱人都合三人出入、百日借を可申旨
及約諾候処、殊之外之歓ニ而引取候上ハ、委細丹波守様其外江も夫々可
申聞候間、宜御祈申呉との事ニ而、早速出立大坂ニ止宿、尤下人残し置、
職人ハ明日出立、右下人之者大坂まで引纏同所ゟ右御家来衆引纏可被引
取旨被申聞候段、元〆方申聞候、尤右鉄山ハ川向陣屋支配所ニ付、右之
趣及談候処、存寄も無之、自然故障等之義も有之候ハヽ、陣屋之引請取
捌等可致旨申聞候由も申聞候、扨又右鉄山稼方之義頼ニ付而は、夫々土
産等も有之候間、酒飯被下之義申立度候へ共、俄に出立差掛候儀ニ付、
旁以何卒為御餞別郡奉行御代官ニ而縮緬一反も下役にも下品之処一旦
御上ゟ被下候様致度段申立、無拠義ニ付承届、尤此度右御家来衆相見え
候ニ付而は、丹波守様江之御口上も有之義ニ付、当役も可罷出可及応対
処、最早出立ニ付無其儀候間、其段なども元〆方ニ而取繕相達候様申達
候」
「一(七月十二日)、此度葡萄呀ゟ使節差越、条約取結之儀ニ付而之御書付面、大坂表ニ而
御城代より御達之趣書抜面ニ相見へ候ニ付、写相認為心得一同も承知候
様御広間江御差出置可申旨、御横目申達相渡候
今般葡萄呀より使節差越条約取結之儀申立候ニ付、英吉利等之振合
を以仮条約為取替相成、去十九日退帆致し候旨為心得老衆ゟ申来候

      六月 」   
「(八月六日)一、当四月中松平丹波守ゟ御家来御差図鉄山稼方一条之儀懸り方江段々頼
談有之、其節別段之頼ニ而当方鉄山職人借用被申度、無拠向ニ付用立、
則職人両三人右御在所江召連帰られ候処、最早約定日限にも相成、先月
十五日彼の表出立、小人壱人差添被相返、此間帰着之由、尤挨拶之書状
持参差出、猶又玄八郎連名為挨拶目録三百疋ツツ、丈右衛門・左藤治江
弐百疋ツツ被差贈候間、受納之儀如何可仕哉と伺ひ出候付、受納いたし
挨拶之返書に及ひ可然旨挨拶いたし候」
「(八月十八日)一、竹原左太夫・児島茂左衛門も、人参作之義五六ヶ年以前ゟ御元〆方ニ
而玄八郎始メ皆々評議も有之出来候ハヽ余程之益も相見へ可申との義ニ
付、色々と取調へ見候趣ニ候へ共、是迄にて丸尾順次と申者江右参作之
義玄八郎ゟ咄しも致し候ニ付、其後同人も右作之致し方等段々取調へ五
六ヶ年も骨折心懸、作方之義委敷心得候由ニ付、同人江右一条何角承合、
先両三年処参作試致見候ハヽ可然哉、弥淳治咄之趣にも参り候へは、
往々
御上余程之御益にも相成候事ニ可有之と地方懸之儀にも有之ニ付、御奉
行方并三人連江右懸り被仰付候間、左太夫・茂左衛門も地方懸り之義同
様右掛り被仰付候間、御元〆方御奉行申談精々御為筋取計可申旨申達、
御奉行元〆方江も右掛り被仰付候段申達候、且又元〆方付庄丈右衛門・
永井左藤治江も掛り被仰付候段、元〆方を以申達候」
「(十月十七日)一、明日御祭礼之節調練ニ付御法令書其外心得方等之達書合渡候、左之通
練兵書法度之事
 一、頭奉行を始軽率小者に至迄専守法令進退堅可随下知事」
「一(十月二十七日)、当年々柄悪敷候ニ付而は、世間不穏趣に風聞有之候、右ニ付自然近郷
其外共騒動いたし候節は御人数被差出候間、其節左之面々一番手出張被
仰付候、兼而相心得居候様夫々申達候」
116 【覚帳】江戸日記 文久元年 竪一冊    
「(表紙)萬延二辛酉年文久与改元
  覚 帳 百十六
 正月ヨリ年中     」
 江戸藩邸日記である。
・正月中の記事
「一九日、久世大和守様旧臘御加増被蒙 』仰候御歓日繰ニ付、田沼様衆打
合之上、賀札并一種三百疋被進、今朝御留守居御使者ニ而被差出候之旨、
公用方申聞候」
「一十一日、水野和泉守様旧冬若年寄被蒙 』仰候ニ付、右御悦日繰ニ而、
明日御留守居御使を以一種弐百疋被進、且御側御用取次平岡丹波守様旧
冬御加増被蒙 仰候ニ付、是又兼々御頼之儀ニ付、□御肴一折代料金三
百疋被進候者、御用人中被申聞、承届候」
・二月
「一七日、松平伯耆守様此度大坂御城代被蒙 』仰候ニ付、御両敬被仰合無
御座候而者御不都合之趣ニ付、田沼様衆打合之上、先日被仰進候處、御
承知相成居、今日御双方御使者為御取替相濟、干鯛一箱御目録斗、御留
守居御使を相勤、御續書・御家内書・御同姓書・御精進日書・御役人名
前書等為御取替相濟候段、御用人中被申聞候、右ニ付御家中一統承知罷
在候様、例之通觸書認、御横目江相達候」
・六月十七日、東禅寺事件を周知する大目付廻状に基づき、家中触が作成さ
れている。
「一本多美濃守様被成御渡候左之御書付写、大目付様御廻状ニ而到来之由、
公用方申聞候間、写奥書認、御家中相觸候様、御横目江申進候
    大目付江
    當五月廿八日夜、高輪東禅寺外国人旅宿江乱入致し、不届之仕業ニお
よひ迯候者之内
      姓名書
(中略)
   勿論等閑ニ致置、脇より相知候ハヽ、可為曲事もの也
   右之通可被相觸候
    六月」
・八月二日、御用頼大目付更新の記事を留める。
「一是上御用頼大目付平賀駿河守様御轉役ニ付、右跡大沢豊後守様御頼被成
候処、御承知之旨、右ニ付御頼申、左之通御留守居御使者ニ而被進候与
御用人中被申聞候」
・九月十五日、相役の定番交代関連の記事。名嶋は公用方を勤む。
「一京極周防守様昨日大坂玉造口御定番被蒙仰候ニ付、以御使者、御一件帳
御借用且御家来之者江御傳達之儀御頼被 仰進候与公用方申聞候、尤昨
日御留守居御招ニ付、名嶋四郎兵衛罷出候處、御料理御目六等頂戴致候
之由申聞候」
157 【覚帳】国許日記 文久元年 竪一冊   
「(表紙)百五十七 二月文久与改元
  覚帳
 萬延二酉年正月ゟ年中  」
 国許の藩庁日記である。政治・事件の情報は少ない。
・四月十七日 幕府達が大坂城代より下付され、播州山崎に廻達されたその
写を藩庁達としても出している(書面は別帳に記載とある)。
「一公儀ゟ御條約之儀ニ付而之被 仰出且文武御教育筋之儀ニ付而之御書付
共、大坂表ニ而御城代様ゟ御達有之、此写相廻し候付、猶又両様とも写
し為致、一統も承知居候之様ニと可相達旨書付、御横目江相達候、尤御
書付面別帳ニ有之、爰ニ略ス」
【覚帳】(国許日記か) 文久元年 竪一冊    
表紙欠、仮綴じ、文久元年二月九日~三月のもの、ほか数種錯簡あり、国
元日記か。
117 【覚帳】江戸日記 文久二年 竪一冊    
内容は、御膳米や扶持米の買入れ、商人からの借用金に関するものなど藩
財政関係(正月二十一日・三月二十八日条など)、日光禅智院からの「惣普請」
につき助成願い(二月二十八日・三月十三日条など)、金森主殿らとの交際
(正月晦日・八月三日条)、武器の購入(九月一日条、「拾匁玉鉄砲出、相応
之品ニ付、代料弐両三歩ニ而可調ニ相成、御武器方渡置候、尤代金御積金之
内より差出置候事」)などである。とくに、藩財政については、五年間の半
知借米が再度命じられたことが重要であろう(十月七日条)。また、文久の
改革に伴い、諸事が変更され、それによって問題が生じている様子も垣間見
え、興味深い。たとえば、十月二日条には、
「(十月二日)一、先月中、例年之通、御役ニ付、栗御献上可被成処、御変革被 仰出候
ニ付、御献上相止候、然ル処、請負上州屋藤八より右御品最早用意仕、
御不用相成候而ハ、甚難渋ニ付、何卒御買上被成下度段、願出候ニ付、
京極様衆申談、右代金之内九両御下ヶ、御品も其儘御下ヶ被下候向ニ取
計候(後略)」
とある。ほかに十一月九日条の「重陽御献上御時服」のことなどもあり。
118 【覚帳】江戸日記     文久三年 竪一冊    
 表紙の前に一丁付けられている。
   「(表紙)文久三癸亥年
     覚 帳  百拾八
    正月ヨリ年中    」
小口書き「文久三 亥 百十八」。記事は、文久三年正月元日から十二月晦
日まで。
「一(正月十六日)十六日、 殿様(本多忠鄰)御参府伺御機嫌年延之儀、猶又左之御伺書
今朝御用番井上河内守様江御留守居代名島蔵太御使者ニ而被差出候旨、
公用方被申聞候、
私儀為伺御機嫌昨秋冬之内参府仕度段、一昨年十一月相伺候処、伺
之通被
仰出候ニ付参府可仕処、其頃田沼玄蕃頭儀若年寄被 仰付、跡御役
京極備中守被 仰付候ニ付、登坂仕候得者伝達等茂御座候間、先此
地在勤仕、追而可奉伺参府之時節旨、昨年十月中御届申上置候、依
之当年中ニ茂可奉伺参府之儀筈之処、御城代在府等ニ而延引仕候
間、来春夏之内参府之儀奉伺度奉存候得共、
御上洛被 仰出茂御座候ニ付、来秋冬之内為伺御機嫌参府仕度、此
段奉伺候、以上、
     十二月廿八日              本多肥後守」
「一(正月二十五日)殿様御参府御延引御伺書、去ル十六日御用番様江被差出置候処、同廿三
日夕右御伺書江左之御附札を以被成御渡候旨、公用方申聞候、
      可為伺之通候、〔下が空いた枠で囲む〕」
「一(三月五日)五日、井上河内守様御渡之御書付写、酒井但馬守様御達、
      大目付江
此度神奈川表江英国軍艦数艘渡来、重大之事件書附を以申立候、来
ル八日迄ニ御決答無之候者〔ハヽ〕船将之職掌を尽し可申旨申立候、
右者不容易義故、応接之模様ニ寄可開兵端も難計候間、差図次第出
張之心得を以人数等手当可致候、御固場所之儀ハ猶相達ニ而可有之
候、尤
     御留守中之儀ニも有之候間、猥ニ動揺無之様、末々迄精々可被申付
置候、右之趣万石以上之面々江可被相触候、
      三月
   別紙
    同文言之内差図次第出府与有之、
    右之趣関八州万石以上之面々江可被相触候、
      三月
 一右之趣従
  公儀被 仰出候ニ付而者、御武器類取調置候様、預り方江申達候、」
「一(三月七日)七日、御武器預り桑田乗橘・鵜野忠七両人之処、忠七義者此節御下屋敷
火之廻り引切候ニ付、乗橘壱人ニ而差支之趣ニ付、当分之処岩崎秀之助
江取調助被
  仰付候段、以御横目申達候、
   (中略)
 一 此度神奈川表江英国ゟ軍艦数艘渡来之処、不容易儀ニ付自然之節者御屋
敷内之固、且乍御人少従 公義御差図次第御人数御差出被成候義も可有
之候間、兼々心得罷在候様、夫々相達可被置旨、御横目頭支配を以申達
候、」
「一(五月十九日)大坂表去ル八日出之問便着之処、
   殿様御義、御用之儀被成御座候間、同日四時御登 城可被成旨、同七日
夕板倉周防守様ゟ御奉書御到来ニ付、御登 城可被成処、御疾ニ付御名
代京極主膳正様御登
  城被成候処、御役(大坂定番) 御免、如前々帝鑑間御席被蒙
   仰、御拝領物被成候段、尤御上屋敷其外御番所向、御跡役保科弾正忠様
被蒙
  仰、御同所様江即日御引渡相成候旨申来候、
  右ニ付左之触書認、御横目江相達候、
    於大坂表
殿様御儀、去八日被為
召候処、御疾ニ付御名代京極主膳正様
御登 城被成候処、御役
御免、如前々帝鑑間御席被蒙
仰、御拝領物被成候段申来候、依之明廿日一統五半時揃御殿江罷出、
御帳ニ而御歓可申上候、此段両御屋敷可被相触候、以上、
      五月十九日」
「一(五月二十三日)廿三日、於大坂表御書付を以御達相成候趣、猶又左之御届書、今朝御用
番井上河内守様江、名嶋四郎兵衛御使者ニ而差出候、
      私儀今八日御役
      御免、如前々帝鑑間席被
仰付候付、参府年割之儀、板倉周防守様江奉伺候処、以御書取
摂海最寄之儀ニ茂有之候間、一ト先在所江罷越御警衛之人数備
置候様可仕旨、参府年割之儀者追而御達被下候段被仰渡候、此
段御届申上候、以上、
        五月八日             本多肥後守
      今八日、板倉周防守様ゟ家来之者江以御書付外夷拒絶被
       仰出候間、期限以後夷船摂海辺江渡来可致茂難計候付、此度
摂・泉・紀・淡州海岸等
      御巡見防禦向手厚ニ被
       仰付候事ニ候、就而者畿内近国諸家之儀者、摂海最寄ニ茂有之
候間、別紙之通人数・銃器等急々大坂表江出張御警衛向相心得
候様可仕、残人数之儀者在所表江備置、非常之節
       御沙汰次第早々馳着候様可仕旨被仰渡候間、別紙書付相添、此
段御届申上候、以上、
       五月八日                 御名
   別紙
      摂海人数出之面々、人数・銃器等割合、
        壱万石ニ付
         人数四拾人程
            士分七人程
            足軽三拾人程
              小者勝手次第
               五六百目
              大炮  一門
              小銃弐拾挺程
      右之割合ニ可被相心得候、」
「一(六月五日)五日
殿様去月十八日御在着被成候ニ付、左之御届書、今朝御用番松平豊前守
様江御留守居代名島蔵太御使者ニ而差出候、
      私儀先達而御役 御免ニ付、参府之儀於大坂表板倉周防守殿江奉
伺候処、摂海最寄之儀ニ付、一ト先在所江罷越御警衛人数備置、
参府年割之儀者追而可被 仰出旨被仰渡候ニ付、去十六日大坂出
立、今日在所到着仕候、此段御届申上候、以上、
      五月十八日               御名
   (中略)
 一御上洛御留守中鳴物之儀御家中相慎候之様被 仰出置候処、追々
   還御も長引候義ニ付、稽古之儀者不苦候旨被相達置候様、御横目江申達
候、」
「一(六月十五日)十五日、去月十六日水野和泉守様被成御渡候御書付写、大目付松平対馬
守様ゟ御達相成候之趣、於御在所御承知日繰ニ付、左之御届書、今朝御
用番松平豊前守様江御留守居代名嶋蔵太御使者ニ而差出候、
      丹波・丹後国之儀者京師衝要之儀ニ而沿海守備専要之儀ニ付、直
ニ援兵相心得、警衛厳重ニ相心得可申旨、水野和泉守殿御渡御書
付之趣、松平対馬守ゟ去月十六日相達候ニ付、此段御届申上候、
以上、
      六月朔日                 御名」
「一(六月十六日)十六日、御軍艦奉行木村摂津守様より左之御達書御留守居方江到来ニ付、
明日御請書差出候、
     肥後守殿儀、日本船并西洋形船共所持被致候ハヽ、右江相用候船
印・帆印とも絵図面美濃紙江相認、弐枚ツヽ明十七日四時御軍艦操
練所江可被差出候、尤所持無之候ハヽ、其段可被申聞候事、
     六月十六日             木村摂津守
      本多肥後守殿
            留守居
    別紙御届書、左之通、
      肥後守義、日本船并西洋形船共所持仕候ハヽ、右江相用候船印・
帆印共相認差出可申旨御達之趣奉得其意候、然ル処所持不仕候
間、此段御届申上候、以上、
      六月十七日              本多肥後守家来
                             名嶋蔵太
 一公方様去ル十三日大坂
  御発駕之由ニ而、今日八半時頃俄ニ
   還御之御沙汰ニ付、早速名嶋四郎兵衛、御用番松平豊前守様江罷出伺御
機嫌相勤候、尤蒸気船ニ而御浜沖迄 御着岸、同所ゟ川御船ニ而小網丁
通、
  御通船ニ而御座候、」
「一(七月三日)大坂御警衛出張旅宿又左衛門殿ゟ去月廿四日出之間便着之処、於京都表
御用達上柳次郎九義、西町御奉行様ゟ御呼出ニ付罷出候之処、野之宮様
(野宮定功、武家伝奏)罷出候様御達ニ付罷出候処、御取次中川兵部方
を以、左之御書付写御渡被成候由ニ而、同人ゟ大坂表江差越候旨申来候、
    攘夷期限之儀、先達布告ニ相成、既於長州遵奉
     叡慮断然及掃攘候間、此後外夷渡来候ハヽ無二念打払可申候、尤警
衛之諸藩互相援尽力防禦可有之候様被 仰出候事、」
「一(七月八日)去月廿一日、伝奏野之宮宰相中将様より大坂詰御警衛出張罷在候御家来
之者江御渡被成候御書付之趣ニ付、左之御内慮伺書、今朝御用番水野和
泉守様江名嶋四郎兵衛御使者ニ而差出候処、即夕御呼出御附紙を以御渡
被成候、尤別紙御書付写ハ前ニ有之故爰ニ略ス、
    去月廿一日
     伝奏野之宮宰相中将殿ゟ大坂詰御警衛出張罷在候家来之者江別紙之
通御書付を以御達御座候趣申越候、然ル処兼而被
     仰出候趣与茂相違仕候間、心得方之儀奉伺、在所表江申遣度、依之
別紙写相添、此段各様迄
    御内慮奉伺候、以上、
                       御名家来
     七月八日               名嶋四郎兵衛
   御附紙
      書面之趣者当時鎖港談判中ニ付、猥ニ兵端ヲ開候而者以之外之儀
ニ候、弥手切ニ相成候ハヽ相達可申候間、夫迄之処無謀之所置無
之様可仕候事、」
「一(八月十七日)十七日、一昨日御目付様ゟ大坂御固場所書出可申旨御達ニ付、則左之御
届書、今朝 御城御当番所迄、名嶋四郎兵衛御使者ニ而差出候、
                  本多肥後守固場所
                     大坂備前嶋
    右之通御座候、此段御届申上候、以上、
                       御名家来
     八月十七日              名嶋四郎兵衛」
「一(九月七日)七日、於大坂表御城代様ゟ左之御書付写被成御渡候由ニ而相廻候間、御
書付写相添、左之伺書、御用番有馬遠江守様江一昨五日差出候処、御書
取を以、今日御差図有之、左之通、
     外夷掃攘之儀ニ付而者諸藩江伝
      奏衆ゟ再応達有之候儀ニ者候得共、鎖港談判中ニ付未御手切不相
成候間、猥ニ兵端を開候而者
      御国辱を引起候ニ相当り以之外之儀ニ付、弥御手切相成候ハヽ
早々達越可申積、
     尤今般京師江被
      仰立候 御旨も有之候間、旁方今之処平穏ニ取計候様可及御達
旨、去月中老衆より被申越候ニ付、則及御達し候義之処、当今之
御場合、いまた江戸表ゟ何等被 仰立も無之哉ニ及承候、右者自
然行違候義ニも可有之哉、然処外夷掃攘之儀ハ兼々被
     仰出候義も有之、殊ニ方今追々被 仰出候
     勅諚之趣者最以攘夷御一決被遊候御儀、元来爰許之儀者
      京都御程近別而枢要之海岸ニ而、旁最早切迫之御時勢御因循難仕
御場合ニも相趣候上者、差向援〔沿ヵ〕海ハ勿論右ニ差続候近海
之儀者、此後外夷渡来候者無二念打払可申与之
      勅命弥以尊奉仕、最前及御達候趣ハ取消之積御心得可被成候、依
之此段御達申候、
       八月
   御伺書
     去六月廿一日
      伝奏野々宮宰相中将殿ゟ大坂詰家来之者江異船渡来候者無二念打
払可申旨被
      仰渡候ニ付、同七月八日御用番水野和泉守様江心得方之儀奉伺候
之処、鎖港御談判中者猥ニ兵端を開候而者以之外之儀ニ付、弥御
手切ニ相成候者御達可被成候間、夫迄之処無謀之所置無之様、御
書取を以被仰渡候、然ル処去月十九日大坂御城代松平伊豆守様ゟ
別紙之通御書付を以被仰渡候段、大坂詰家来之者より申越候、右
ニ付兼而御差図之趣与茂相違仕候間、心得方之儀奉伺、在所表江
申遣度、依之別紙写相添、此段各様迄
     御内慮奉伺候、早々御差図被成下候之様仕度奉存候、以上、
                     御名家来
      九月五日             名嶋四郎兵衛
   御書取
      鎖港之儀ニ付而者当節既ニ談判ニ相成候事故、いまた手切与申訳
柄ニ無之、弥手切ニ相成候節者急速相達可申候間、無謀之所業無
之様、大坂御城代江猶又相達置候間、右之心得ニ而可有之候事、」
「一(九月十三日)十三日、大坂表ニおゐて去月廿七日御城代様より、左之通被仰渡候ニ付、
右写相添、左之御届書、今朝御用番有馬遠江守様江御留守居代名島蔵太
御使者ニ而被差出候、
     去月廿七日大坂御城代松平伊豆守様ゟ別紙之通被仰渡候間、右写相
添、此段御届申上候、以上、
                      御名家来
     九月十三日              名嶋蔵太
   別紙
     外夷渡来之節者出張之人数備前嶋御警衛之儀、先達而御達置、同所
御警衛辺者勿論ニ候得共、此節堂上方□〔御ヵ〕達之由申唱、浪士
躰之者召連所々及乱妨其余不容易所業致し候趣風聞有之候ニ付、召
捕方之儀夫々申達候ニ付、当分之内人数等差出有之、尤京橋口外ニ
屯所出来御引渡可申候間、同所をも御警衛有之候様存候、依之此段
御達申候、
      八月 」  
「一(十一月五日)五日、御在所表町方去月十五日、浪士躰之者五人罷通候由、御在所より
者何等之義も不申参候得共、大坂表武間玄八郎ゟ委細申越候、且小笠原
幸松丸様ニ而も右等之儀御届被差出候由ニ付、左之御届書認、今朝御用
番様江御留守居代名島蔵太御使者ニ而被差出候、
      生野御代官所江及乱妨候浪士之余党ニ茂御座候哉、去月十五日夕
刻、播州宍粟郡肥後守在所江浪士躰之者五人罷通候旨、町役人共
届出候間、早速人数手配差出候処、最早森伊豆守様御領分江逃去
候趣申越候間、此段御届申上候、以上、
                    本多肥後守家来
      十一月五日             名嶋蔵太」
159 【覚帳】国許日記 文久三年 竪一冊    
    「(表紙)百五十九
       覚帳
     文久三亥年正月ゟ年中」
「一(三月十二日)十二日、大坂表ニおゐて大炮鋳立ニ付、先年寺方ゟ御引上ニ相成候梵鐘
打砕、急々相廻し候様ニと吟味役江申達候、」
「一(五月十九日)近郷御家老中江御着座為御知奉札之義、先格大坂廻りにて差出候得共、
此度ハ大坂表御定番御役 御免、御拝領物等被成候而御在着ニ相成、且
攘夷期限以後夷船摂海辺江渡来可致も難計候付被 仰出之向有之候ニ
付、不取敢御人数出坂出張御取計ニ相成候段認込、左之通差出候ニ付、
中間刀差使ニ而今朝夫々差出候事、
     一筆致啓上候、然者肥後守儀、今般大坂京橋口御定番御役
     御免、以前之通帝鑑之御間席被
      仰付、拝領物被致、去ル十六日出立、道中無恙、昨日被致在着、
難有被奉存候、且攘夷期限以来夷船摂海辺江渡来可致も難計候ニ
付、防禦手厚被 仰付候事ニ付而者、畿内近国諸家之儀者摂海最
寄ニも有之候間、人数等急々彼ノ表江出張致し御警衛向心得、残
り人数ハ在所表ニ備置、非常之節御沙汰次第早々罷出候様被 仰
出候、依之不取敢人数出坂為致候様取計候、右之趣各様迄宜得御
意旨被申付候条、如斯御座候、恐惶謹言、
      五月十九日            岩崎又左衛門
                       横井半左衛門
                       馬場勘左衛門
        近郷
         御家老中 」  
「一(六月四日)摂海御警衛被蒙 仰候ニ付、自然之節御沙汰次第 殿様も御出張被成候
ニ付、左之面々御供被 召連候之段申達候、尤弥御出張与申節ハ夫々御
手当金も可被下旨申達候、左之通、
武者奉行心得
御旗奉行   
秋田 貢
    御物頭     片桐伝左衛門
使番兼            小荷駄奉行
御円居奉行  
堀内 弼
    陣場奉行心得  
尾関 伝
御徒士頭   小野源太夫   使番
               大目付     横井外衛
作事奉行兼          組頭      
多賀五百治
大目付    
板元武左衛門
          
樽井九右衛門
吟味役兵粮方 伊藤文左衛門
小荷駄支配兼 大野静衛
   番士一          番士二
     磯部斧太郎        佐藤要人
     武間源三         藤平市郎右衛門
     武間秀雄         浅井 職
     岡松尚衛         香川武雄
     (以下、略) 」  
「一(六月二十二日)大坂表武間玄八郎ゟ昨廿一日出之当役宛之書状到来披見候処、京都西町
御奉行ゟ御用達御呼出之処、上柳治郎九折節下坂ニ付、名代之者罷出候
処、御与力熊谷市太夫方ゟ野々宮御殿ニおゐて御用之儀有之候間罷出候
様御達ニ付、直ニ罷出候処、御家来中川兵部方を以左之御書付壱通御渡
之由差越候旨申越候書状ニ付、何茂披見之上御書付柄之義、早速
  御前江四郎右衛門罷出申上候、右ニ付御請等之儀者御警衛之御方様被仰
合之上御取計相成可申事、
   攘夷期限之儀、先達布告ニ相成、既於長州遵奉
    叡慮断然及掃攘候間、此後外夷渡来候ハヽ無二念打払可申候、尤警衛
之諸藩宜相援尽力防禦可有候様被 仰出候事、」
119 【覚書】江戸日記 元治元年 竪一冊    
 「(表紙)文久四甲子年
   覚帳  百拾九
  正月ヨリ年中」
「一(正月八日)板倉周防守様ゟ御留守居御呼出ニ付名嶋四郎兵衛罷出候処、旧臘五日御
拝借金御上納年延之儀、左之嘆願書差出置候処、御書取を以御渡被請取
帰候、御書取之分左之通
(三千両拝借、拾年賦のところ、「当亥上納之儀御差延被成下候様奉嘆願仕
候」)
御書取
 内意之趣は難被及御沙汰候事 」  
「一(二月二十二日)御下屋敷御組合辻番例年‥‥、(本所林町本多肥後守頭取辻番組合)」
「一(八月朔日)朔日御用番牧野備前守様江左之御届書御留守居代名嶋蔵太御使者ニ而被
差出候、右ニ付御頼大小御目付様江は御留守居ゟ以奉札御届書写相添差
出候
肥後守儀昨年より大坂京橋口御警衛被仰付、兼而御達之通人数出張罷在
候処、此度上方辺不穏趣ニ付、去月六日在所出立、‥‥同十九日京都表
不穏趣ニ付、京橋口柵木戸江出張昼夜御警衛罷在候段大坂表出張家来之
者ゟ申越候‥‥
御名家来         
    八月朔日 名嶋蔵太」        
「一(八月十五日)十五日昨朝御用番牧野備前守様江左之伺書差出置候
(肥後守は京橋口柵木戸警衛を仰せつかっているが)昨夜家来之者被召
呼、肥後守江御渡ニ相成候御状箱中之儀は相分不申候得共此度長州征伐
被仰出候付、自然右出張ニ而も被仰付候儀ニは無御座候哉、‥‥(大坂)
御警衛御免も不被成下候而は小家之儀迚も人数相揃申間敷と心配仕候、
‥‥
                  御名家来
   八月十四日 名嶋四郎兵衛」   
「(八月十六日)   本多肥後守     
松平大膳大夫追討被仰付候面々江応援被仰付候ニ付、摂海御警衛幷京橋口柵
木戸御警衛被成御免候」
・九月一九日、在所より報知の件、内願書差出す。大坂警衛御免の件につい
て大坂城代松平伊豆守から
「唯今御免ニ相成候而は御不都合ニ付、長州追討之儀は御免ニ相成、矢張大
坂表御警衛相心得候様被仰付候方ニ急飛を以此表江被仰上候間、矢張是迄之
通相心得可申旨被仰渡、今以惣人数百三四拾人も出張罷在、‥‥早々御差図
御座候様仕度、‥‥」
その夕御書付にて
「書面大坂表警衛之儀は最前相達候通被成御免候間、毛利大膳大夫父子始追
討援兵之儀格別勉励候様可仕候事」
・九月二七日、人別調査:播磨国宍粟郡のうち本多肥後守領分、人数八六九
三人、五歳以上、うち男四五八三・女四一一〇
120 【覚帳】江戸日記 慶応元年 竪一冊    
 「(表紙)元治二乙丑年
   覚帳 百弐拾
  正月ヨリ年中」
 江戸藩邸日記、殿様は芸州表、若殿在府か。
「一(正月二十八日)廿八日、御在所去ル十二日出之早便着之処、殿様御儀、旧臘廿八日尾張
前大納言様ゟ陣払之儀被仰渡候ニ付、去朔日芸州表御発途被遊候処、同
十日無御滞御在着被遊候段申出候
一右ニ付明廿九日御用番様江左之御届書被差出候
私儀毛利大膳追討被仰付芸州表江出張罷在候処旧臘廿八日尾張前大納言殿ゟ
陣払之儀被仰渡、去ル朔日同所出立、今十日在所到着仕候、依之此段御届申
上候、以上
       正月十日                 御名
一 廿九日、今朝御用番水野和泉守様ニ御届書御留守居代名島蔵太御使者ニて
被差出候
一右ニ付大小御目付江右御届書写相添、御留守居方より奉札ニて被差出候」
「一(三月朔日)牧野備前守様ゟ御留守居御呼出ニ付則名島藤太罷出候処、旧臘左之御内
慮伺書被差出置候処、御書取を以年延被成下候段被仰渡成被下候旨罷帰
申聞候
肥後守儀安政四巳年大坂御定番被仰付、其節金三千両拝借被仰付難有仕合奉
存候、拾ケ年賦上納被成下候ニ付、去酉年迄は年々上納仕候処、‥‥(大坂
城代定番の役替で毎々出府の間は多分入費かかり、摂海警衛、京橋御固など)
莫大之入用相掛り必至と差支候ニ付、拝借金上納延納仕候、‥‥毛利大膳追
討被仰付此節多人数出張罷在候付而は不容易入用有之、其上作方実入不宜多
分之損毛御座候ニ付ては、‥‥(一昨年から当子年まで)三ケ年分は上納之
儀御差延被成下候様嘆願仕度旨肥後守当時追討出張中ニ付嘆願可仕旨申付越
候之間此段各様迄御内慮奉伺候、以上
                       御名家来
      十二月十四日               名嶋四郎兵衛
御書取
書面願之通去子年壱ケ年延被成下候事 」  
「一(四月六日)名嶋蔵太ゟ大炮為稽古御鉄炮方江川太郎左衛門様江御用之透ニ見合筋修
行仕度と先達て以御横目相願候趣達御聞候処被聞届其段以御横目申達候」
【覚帳】(国許)日記 慶応二年正月から五月 竪一冊    
 表紙欠、慶応二年正月~五月覚帳とあり、在方日記か。
「一(三月二十一日)今朝六時御供揃之殿様益御機嫌能被遊御発駕勘次殿初御供之面々末々迄
無滞御供出立いたし候‥‥
一殿様御機嫌能船元御渡船相済候段御奉行引取申聞候ニ付御役所引取申候」
 二十四日着坂の報知、二七日来る。
 家中より温泉療治の願書など目立つ、城崎温泉など。
【覚書】日記 慶応二年 竪一冊    
 表紙欠、慶応二丙寅年三月二二日から五月朔日まで、大坂日記か。
「 慶応二丙寅年三月
「一廿二日名嶋庄大夫始早立之面々無滞致着坂候
一 廿四日御旅宿御玄関御道具之類今朝飾置候ニ付御広間ゟ泊り番両人罷出候
様正大夫ゟ申達候、‥‥
一 今日九ツ半時、殿様益御機嫌能大坂御本陣江為入候、御途中江樋口栄太郎
幷御用聞町人とも罷出候」
 本陣は天川屋栄太郎ともあり。京橋門外・玉造門外屯所を分担、後者はす
ぐに別に引き渡す。
・四月一七日、倉敷代官所襲撃の件、目付小笠原摂津守・田沢対馬守から書
付で達す、在方へ回され、在方日記にも載る。
・四月二二日、城代からの人数取調べの指示、回答出す。
「(四月二十二日)御城代様ゟ之御書付
各々方御家来炮士人員御取調今夕迄ニ御差出可被成候、此段御達申候
  家来稽古人名前
   大炮
    杉山 晋
    小野 源大夫(ら、四五名、うち五名を主取と別途記載)
    ‥‥
   右之通御座候、以上
    四月               本多肥後守
一御城代様ゟ左之御達書一通‥‥
後城内内外各々方持場江御据付相成居候大炮打方手前今日ゟも直取懸稽古
可有之候、尤其場所々々江講武所大炮世話役之者出張、夫々教授可致候間
可其意候
   四月
‥‥
一 今日大炮打方稽古為御見分四ツ時過講武所御世話方与力衆之内宮部昨之助
と申仁相見候ニ付、昨日相達置候通、稽古人何も罷出稽古有之候事、‥‥
稽古相済夕七ツ時前引取候趣被申聞候」
・連日稽古あり、炮隊司令士の書上などあり。
「(四月二十六日)一廿六日此度江戸表ゟ御廻しニ相成候大炮御城内御土居通ニ据付相成候
由、右之方今四時陸軍奉行様幷役々之衆御土居為御見分被成御出候旨
‥‥」
【覚書】(大坂)日記 慶応二年 竪一綴    
 仮綴じ。最初の部分は明治の御用留が錯簡、ついで慶応二年七月半ばから、
大坂日記。
「(八月十九日)一明廿日御在所江出便定日之処、同所去十二日出未タ着便無之候ニ付、来
ル廿二日迄延引候間御家中之面々心得之義相達候様大納戸江申達候」
一九日の条の最後に「△是迄申達候」とあり、国元へ送付した日記記載の切
れ目にあたる、ここで丁替えになっている。同様に、七月は二八日で「△是
迄」、九月は一九日で「△是迄申達候」)、一〇月一九日で「△是迄申達候」、
一二月一五日で「△是迄之趣申達候」)、すべて国元送付の大坂日記では丁替
え。
「(八月二十日)一公方様御不例之処追々御危篤ニ被為至、右ニ付在坂万石以上以下共今日
惣出仕被仰出候段、昨夜御城代様ゟ御門継を以御達相成候段公用方申聞

 一右ニ付四時御供揃ニ而御登城被成候
‥‥
一 今日惣御出仕ニ付御登城大広間二ノ間江相詰被成候処、御城代様ゟ御口達
之上、左之御書付御渡相成候由ニ而御持帰り相成候
公方様御不例被成御座候処、御養生不被為叶、今廿日卯上刻薨御被遊奉絶
言語候、‥‥
  八月廿日
‥‥
 一御目付様ゟ左之御書付御渡相成候由
兼而被仰出候通り一橋中納言殿御相続被遊、今日ゟ奉称上様と候、弥以精勤
励可申候段被仰出」
「(御中陰中(八月二十四日)ながら銃隊調練)
一 長崎表ゟ同所産物会所江英国出来之ミニーケヱーヘル筒此節相廻り居候由
ニ而御買入被成度、(金子の心配はあるが)当時之形勢要用之御品無御拠
義と奉畏、則御買入取計申候、尤代料壱挺ニ付金拾七両壱分壱朱ト永 三
十挺代金五百二拾壱両弐分三朱ト銭五百十文ニ而御買上相成申候、尤右御
筒御武器方へ御預ケ相成候ニ付、則相渡帳面ニ記し置候様申達候」
「(八月二十五日)一居付き中間安兵衛と申者之倅竹中庄之助と申者保科様へ歩兵ニ御抱相成
居候処、此節御暇御手切レニ相成居候由、右之者銃隊工者之由、‥‥御
足軽ニ御召抱相成候て可然と思召候段被仰出候ニ付、今日ゟ御足軽ニ御
召抱被成候、‥‥御給金三両弐分御扶持方二人分塩噌代月々五百文被下
候段御横目へ申達、大納戸江も申達置候
(その後、ミニー筒稽古、在所へ十五挺輸送)」
以上、活字ありか。原則二〇日が国元への出便定日か。
【覚帳】大坂日記 慶応二年 竪一冊    
 表紙欠、慶応二年五月分から年末。ひと月単位で大坂で清書して国元へ
送ったものか、縦半分に折り目、さらに三つ折りの跡あり、七月は二八日、
八月・九月・一〇月は一九日、一二月は一五日で改丁、ただし行の最後がな
るべく丁尻に来るように清書しているか、日付が独立行にならず、最初の条
の冒頭に入る形式。
「(八月十九日)明廿日御在所江出便定日之処、同所ゟ之着便無之ニ付来ル廿二日迄差延候
之間夫々相達候様大納戸へ申達候」
【覚帳】大坂日記 慶応二年五月 竪一冊    
表紙欠、慶応二年五月分。薄いもの、清書して国元へ送ったもの、五月一日
の途中から一八日まで
大阪日記 明治元年 竪一冊 
「(正月二十日)正月廿日夜四つ半時頃相廻
 会計事務に拘り候儀、都而会計事務裁判所江申出候様申達候事……
 正月十九日               参与役所
次座不同
戸田大和守殿
松平駿河守殿
松平大蔵少輔殿
松平内膳正殿
松平摂津守殿
柳沢伊勢守殿
柳沢彰太郎殿
本多伊勢守殿
本多肥後守殿
本多能登守殿
本多紀伊守殿
 家来中
(戸田大和守と松平大蔵少輔の承付はある)
安志様ゟ借写
正月十八日備前様ゟ御使者被達御口上左之通り
春寒之砌愈御無異珍重存候、将又今般坂兵於伏水兵端相開候後、徳川内府公
浪華御退転ニ相成、已に追討之
朝命被仰出有之、就右而は去就為尋問総督家老池田圖書介人数召連姫路表江
差向候、素より於弊藩は勤
王之外無他候、貴藩之御去就如何に候哉、承度存候、右御同意候は先鋒之御
人数御差出にも相成候ハヽ、万事同人江御懸合可有之と存候、右之趣為御知
申入度、猶委細死者同断申含候
右御答書左之通
今般坂兵於伏水兵端相開候後、徳川内府公浪華御退転に相成、已に
御追討之
朝命被仰出有之、右ニ付而は去就為御尋問御総督池田圖書介殿御人数被召連
姫路表江
被差向候趣、於尊藩は
御勤
王之外無御他旨、依之於私も去就如何御座候哉被成御承知度、御同意ニ候
ハヽ、先鋒之人数差出之儀万事圖書介殿江掛合可申旨、以御使者被仰下候御
口上之趣承知仕候、此段圖書介殿江申入置候通り、勤
王之外多年無御座候、委細御同人ゟ御承知可被下候、尤人数之儀は乍少人数
差出置申候間、此上万端御心添可被下候、右責答申上候
今般徳川慶喜反状明白既に兵端を開き奉恐入候、是迄譜代之儀には御座候得
共、素ゟ向後
王事に勤労仕候外、他念無御座候、猶従天朝何分之御沙汰被為在候迄之為実
効領地不残御預け申上げ候、就而は乍少人数御差図次第差出、御用途に相加
可申候、依而証書如件
年号月日
池田圖書助殿
一、領地目録添差出申候事」
参与役所沙汰については、
「一 、左之廻状を以参与御役所ゟ之御達書朽木主計助衆ゟ戌上刻到来、即刻
加藤出雲守様衆江順達
急廻状ニ付弐通ニ致し得御意候、以上
以廻状得御意候、然は唯今太政官代書記御役所より大急御廻達可申旨ニ而、
別紙御書付壱通到来ニ付、則写壱通以刻限御廻申候間、早急御順達被下御留
ゟ拙者方江御返却可被下候、以上
二月三日申中刻過        戸田釆女正内 吉田団平
御次第不同
本多肥後守様
能勢日向守様
朽木主計助様
加藤出雲守様
織田摂津守様
御留守居中様
猶以御留り之御方より急々御返却可被下候、尤御留守居ならび御用達衆御名
前御所書共御記可被下候、以上」
 二月朔日から筆も紙も代わる。
「一( 二月十六日)、左之廻状森美作守様衆ゟ到来写留小笠原幸松丸様衆江順達
池田備前守内沢井宇兵衛より松平兵部大輔様など御留守居中宛、
(四日の御親征大総督以下の名簿)」
 廻達方法は屡々変わり、「二月廿六日森対馬守様ゟ到来、丹羽長門守様へ
順達」となる。
「(二月二十九日)以廻状致啓上候、然は太政官代ゟ御呼出ニ付罷出候処、別紙之通御渡ニ相
成諸藩江可相触旨被仰出候間、則写三通相廻し申候、早々御順達之上御廻
納ゟ御返却可被下候、以上
   二月廿七日 池田備前守内 沢井宇兵衛  
御次第不同
 御名前略之
猶以、本文之外ニ太政官日誌相廻候間、御銘々之壱冊宛御取納可被成候、勿
論御返却ニ及不申候、以上」
 岡山藩経由のもの、参与役所京都留守居組合経由のもの、が混在している。
四五月は岡山藩経由に整備されている。触頭制へ。
「 此度在所表に五拾人之兵士備置、京師に残置候人数之儀は一切御取消に相
成候段、被仰出奉畏候、依之在所に人数厚ク相心得備置候儀ニ付、是迄京
師に残置候人数追々引払候様仕度、此段奉伺候、以上
   六月七日 本多肥後守家来 樽井八九郎  
軍務
 御役所
御付紙
高壱万石ニ付国許に残置五十人之内三分之一京師に残置、其余ハ引払可申
事」
【覚帳】大阪日記 明治二年 竪一冊    
 京都公用人での留。
「 以回章致啓上候、春寒御座候処、各様弥御壮健被成御奉務珍重奉存候、然
は此度勝手ニ付鴨東 高野新田邸中江引移申候間、甚隔離ニ御座候得共、
御用等右之場所江御申達被下度、不相変宜被次合可被下候、兼而奉嘱候、
右御案内可得貴意申候、如此御座候、以上
   二月 林田   石井藤六   
 播国不残公御用人中様 」
 公用人同士の書状の留めが間々見られる他は、太政官よりの布達を留めた
もの。但し、公用人の組織も段々岡山藩を頂点として組織されていく。
「廻状例文ニ付略ス、御達書一通雛形三通と有之
   二月十八日 備前 沢井宇兵衛  
御名充略候
猶以太政官日誌百三十九百四十百四十四百四十五同代十二号十三号東京城日
誌十四毎之通御取廻し可被下候、以上
……
(行政官達)
領地租税録の雛形など提出」
第一次長州戦争関係
 現状では、封紙と本文に錯簡がみられるものがある。以下、『幕府征長記
録』(日本史籍協会、一九一九年)から、本来の状態が判明するものについ
ては、元の状態に復したかたちで記述する。仮に、元治元年八月・九月・十
月・その他に分けた。
【八月段階】
封紙「本多肥後守殿 水野和泉守・牧野備前守・阿部豊後守・諏訪因幡守」
本来、①~③が同封されていたと思われる。
①折紙  八月十三日 水野和泉守忠誠・牧野備前守忠恭・阿部豊後守正
外・諏訪因幡守忠誠(花押) ↓本多肥後守殿「・・・其方、右面々(先鋒)
援兵・・・岩国城を攻陥、夫より山口表・・」
②切紙1 「陸路芸州より岩国、夫より山口江攻寄候面々江・・・右之通、
軍目付被差遣候間、可被得其意候」
③切紙2 「陸路芸州より岩国、夫より山口江攻寄候面々・・・右之通被 
仰出候間、陣中之儀、万事尾張前大納言殿御指揮ニ従ひ、速ニ遂成功候様被
仰出之」
【九月段階】
横帳「元治元子年九月 長防御出陣御供人数行列帳 表御用部屋控」
【十月段階】
1.十月六日
①折紙 十月六日 尾張前大納言慶勝(花押)→本多肥後守御宿所
指揮を命じられた旨を達する内容。 ※封紙なし
②切紙1 十月(六日演説書)
 「・・・諸藩家老衆、来る廿日迄ニ右表え罷出候様・・・」
③切紙2 (十月六日、用人より演達)
 「・・・一御軍令ハ関東ゟ着次第可相達事・・右ハ大坂御軍議之上、可相
達事」
2.十月十一日
切紙 十月 「・・・諸軍持口江来月十一日着至可被致事、・・・」
3.十月二二日、大坂城にて軍議
将軍黒印状(封紙)「御軍令」、本文「条々」、竪紙、元治元年十月。
老中下知状(封紙)「下知状」、本文「覚」、竪紙、元治元年十月。因幡守・
豊後守・伯耆守・美濃守・備前守・和泉守

宛名なし
【十一月段階】
横帳「広島御宿陣中 日記 子十一月十日」(十一~十二月)
【その他】
*切紙 本文前宛名「本多肥後守」 「・・・早々攻掛け候様可致旨、被仰出
之」
*切紙 本文前宛名「立花飛騨守」 「・・・速ニ殲滅可致候」
*切紙 本文前宛名「松平越前守」 (九州へ出張するように)
*切紙 「敵地江攻寄候期日、凡来月十五日頃之内調ニ候事」
(小野 将・佐藤雄介・杉本史子・箱石 大・保谷 徹・横山伊徳)


『東京大学史料編纂所報』第48号