東京大学史料編纂所

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刊行物紹介

大日本古文書 家わけ第十 東寺文書之十六

 東寺文書は、京都府所蔵・京都府立総合資料館保管の「東寺百合文書」ひらがなの函の翻刻・校訂を継続している。本冊には、前冊から掲載を開始した「れ函」の文書のうち、永享一二年(一四四〇)から康正二年(一四五六)までを収録した。「れ函」は東寺廿一口供僧方の文書を中心に保管した函であり、その中でも播磨国矢野荘例名供僧方および同公文名の年貢代銭送状・支配状、散用状、内検帳、そして代官職の競望に関する文書が本冊の大部分を占めている。東寺領矢野荘は、廿一口供僧方と学衆方とに分割支配されていた。そのほか湯方の算用状(六八号)、山城国植松荘内浄久庵の管領安堵に関する文書(八二・八六~八八号)、同荘内屋敷地の西寺三浦方作分に関する文書(八九・九七号)などが数通含まれているが、いずれも廿一口供僧方の文書である。
 本冊に収録した文書の年代、すなわち一五世紀の半ばの播磨国矢野荘では、供僧の評定引付や年貢散用状、そして内検帳などから、ほぼ毎年のように損亡・損免の記事を拾うことができる。藤木久志氏が指摘するように、こうした損亡の背後にある災害の実態と要因を把握するには、矢野荘周辺の関連史料の収集とそれらの比較検討、内検帳の記載を基に現地に即した損亡状況の分析など、具体的な考察が必要であろう(藤木久志「ある荘園の損免と災害」、『中世の紛争と地域社会』岩田書院、二〇〇九年)。
 その上で、損免記事を含む文書のひとつであり、本冊の多くの部分を占める散用状に目を向けてみると、荘園の所務をめぐる決算書でありながら、政治的な活動の所産でもある散用状自体の分析にも、さらに様々な観点が必要であると思われる。本冊九六号康正元年分供僧方年貢等散用状の冒頭部分に記された川成除分の中に「十石九斗二升九合三勺 自至徳二年川成」という記載が見える。康正元年(一四五五)に至っても、至徳二年(一三八五)頃の川成を控除しているのであるが、この記載はもともと「年々河成、大検注以後、至徳二年まで定」(「東寺百合文書」カ函八六、以下本冊以外の「東寺百合文書」の典拠については、京都府立総合資料館の整理番号を記す)とされていたもので、実施後長く東寺領矢野荘の土地制度を規定し「大検注」といわれた貞和元年(一三四五)の実検以後、至徳二年に至るまでの、いわゆる往古川成の累積を指している(九六号に「至徳二年より川成」とある文言と齟齬するようだが、それまでの川成を至徳二年に、ひとつの項目として固めたという意味だと考える)。往古川成は、近年の内検により定められた新川成除分を順に追加しながらも、依然として一〇〇年以上も一荘の土地制度の中で機能していたのである。それが荘園の土地制度の在り方であったといえる。帳面の川成除分と川成地の再開発・年貢興行の実際とについては、考察の余地があるだろう。
 毎年作成される一定の形式の文書の利用に際し、注意したい次のような点もある。やはり供僧方年貢等散用状の冒頭部分に記載される川成除分の中に、「五斗九升三合四勺(時に七勺と記載されることがある)五才 同(応永)廿四年川」と応永廿四年の川成分とされている記載が見える(六三号以下、内検によって年貢額が定められた年を除く供僧方散用状のすべてにこの記載がある)。これが、実は「応永卅四年」分の川成除分であったことは、応永卅四年前後の散用状を見ればわかるのであるが、毎年作成される帳面を一通のみで分析することのあやうさを示しており、いちいち校訂の傍注を付すべきであったかもしれない。
 そして貞和の大検注は、本冊で最も長大な文安二年(一四四五)の内検帳(七一号)の名田の枠組みにも生きている。名の名称と名田数、神寺田、井料田、田所給、番頭免、不作・川成・荒などの給免田数から田地の所在に至るまで、この文書の読解には、大検注の結果をまとめた貞和二年四月十日矢野荘例名西方実検并斗代定名寄帳(ロ函七号)が助けとなった。
 ところで、この文安二年の内検帳(七一号)に記された田積の単位に注目してみると、矢野荘では、町反歩と代を併用していることがわかる。このうち「町」「反」は自然数であるが、「代」は「反」の下の単位として一反未満の田積を表記するときに使用され、五代単位で表示される。そして「歩」は、さらに「代」の下で、代が自然数で表記し得ない田積を表わすのに用いられている。最小の単位は九歩であり、しかも九歩と十八歩以外は用いられない。一反=五十代=三百六十歩として、十八歩=二・五代、九歩=一・二五代であり、二十七歩=三・七五代は「十八歩九歩」のように「十八歩」と「九歩」とをそれぞれひとまとまりとして重ねて表記されるのである。例えば、吉守名内能下の田地一反廿五代については、当不十代を引いた残り一反十五代のうち、損四十五代十八歩九歩、徳十五代九歩となっている(一六八頁)。このような単位の表記方法は、下地を取る時(検注)の方法・精度、あるいは田積の計算方法などに拠っているのではないかと考えられるが、丈量単位の地域性は、その地域で行われてきた地割の方法に規定されているといわれており(歌川学「中世に於ける耕地の丈量単位」、『北大史学』二号、一九五四年)、検注による下地把握の方法も地割の慣習に規制されるのであろう。
 ついでに、前冊『大日本古文書 東寺文書之十五』に収録した矢野荘公文名散用状(十五のれ一〇・二四・二七・三六・四〇・四四号)の坪付部分にみえる地字名「ニシカツホ」は、この本冊七一号の内検帳の「中三郎名」内にひらがなで「ニれかつほ」と記されている坪辺(一七七頁)に当たると考えられるので、「ニレカツホ」が正しいと判断される。よろしく訂正をお願いしたい。
 さて、この時期の矢野荘例名供僧方・学衆方代官については、すでに『相生市史』第二巻(馬田綾子氏執筆、一九八六年)、榎原雅治「十五世紀東寺領矢野荘の荘官層と村」(『日本中世地域社会の構造』校倉書房、二〇〇〇年)、伊藤俊一「南北朝~室町時代の東寺領における代官支配」(『室町期荘園制の研究』塙書房、二〇一〇年)などが考察しており、室町期の矢野荘の代官には、第一に直務代官としての東寺の下級僧侶や俗人の寺家被官人、第二に京都の禅僧、第三に京都の商人、第四に守護被官人が補任されたとしている。ここではさらに気づいた点について、若干述べておくことにしたい。
 宝徳元年(一四四九)八月二二日に、京都梅津長福寺の塔頭富春庵正璨を請人として供僧方代官に補任された祖久禅師は(モ函七六号)、榎原氏が指摘しているように「長福寺文書」の中に散見する(『長福寺文書の研究』八六〇・八八二号など、山川出版社、一九九二年)。花押形状が一致することから矢野荘代官と同一人であると考えられ、矢野荘での動きや長福寺文書の内容から、長福寺の塔頭富春庵や清凉院の祠堂銭を元手として荘園の代官職を請け負っていた人物であると思われる。祖久はまた最長寿寺を名乗っているが(『長福寺文書』八八二号)、それは賀茂にあって、「大徳寺文書」(『大日本古文書 大徳寺文書之一』五一号)、「賀茂別雷神社文書」(『史料纂集 賀茂別雷神社文書』二七二・二七三号)などに見える最長寿寺であった可能性がある。そして祖久が代官に補任された宝徳元年分の所務を実際に担い、散用を行なったのは、祖久自身ではなく、慶雄・正林(八一・八三・八四・八五号)のふたりの荘主であった。
 その後宝徳二年の所務を最後に祖久が辞任したことから、同三年は供僧学衆両方一円に東寺僧加賀快増が所務を請け負い(天地之部三〇号)、翌享徳元年(一四五二)には、やはり東寺僧である越後祐算が供僧方代官職に補任された(モ函八〇号)。そして同三年一〇月になって、東寺僧乗観祐成が供僧学衆両方の代官正員に補任され、その又代官として普慶寺雲岳慶首座が所務を請け負うこととなった(『教王護国寺文書』一五四六号・モ函八一号)。実際の散用は清受という僧が行っている(九三号)。雲岳慶首座の享徳三年分の散用をめぐる記録を見ると、その荘園所務請け負いは、何人かでグループを作り、いくつかの所領を請け負いながら動いている様子がうかがえる(ち函一六号)。散用状を作成している清受は「留守の沙弥」と言われ、慶首座等が荘園現地に下った留守を預かっているほか、摂津国へ下向しているも うひとりの荘主がいて、共同で業務を行っていたようである。先の祖久禅師の場合も、散用を別の荘主が行うなど同様の様子が推測でき、禅僧の荘園所 務請け負いの組織化がうかがわれる。
 ところで東寺は、雲岳慶首座と直接に代官契約を結ばず、正員代官である寺僧を間に介した補任方式をとっていた。それはおそらく年貢収取の成果がなかった場合に備えて、請人だけでなく、代官正員にも責任を負わせるという二重の保障体制を選択したからであると思われる。
 最後に、この時期の荘園と武家との関係をみておきたい。享徳三年(一四五四)は、嘉吉の乱で没落した播磨守護赤松氏が再興を目指して再び播磨に入国した年であった。本冊九三号の供僧方年貢等散用状の「国方下行」の項では、それまでの守護山名方への礼銭や人夫役の負担にかわって、いち早く一一月七日より、まず播磨国赤穂郡山ノ里へ入国した赤松下野守方への礼銭の負担のことを記している。赤松則尚への正式な守護補任はなかったにもかかわらず、赤松方の現地掌握の速さと、それへの荘園側の対応の敏感なことに驚かされるが、翌享徳四年閏四月・五月の山名・赤松の合戦を経て、山名方が播磨を回復している(馬田綾子「赤松則尚の挙兵」『日本国家の史的特質』思文閣出版、一九九七年)。そのような経過の中で、九五号文書にみるように、播磨国赤穂郡を管轄した山名是豊配下の下見泰綱が、矢野荘の代官職を競望し、東寺が承知する以前に、所務の実質を作るために康正元年分の年貢として三千疋を送ってきたという事実は興味深い。
 京都でも、山城国葛野郡植松荘において、西七条から西九条辺に勢力を持っていた伊勢氏の関与が示されている(九七号)。本文書については、伊勢七郎右衛門貞煕の被官人が発給した文書であると考えたが、その根拠は、伊勢七郎右衛門尉貞煕の植松荘代官職競望を停止した室町幕府奉行人奉書(『大日本古文書 東寺文書之一』三〇号)が当文書と同年の康正二年(一四五六)六月七日に出されていること、差出の中村道吉について「西七条中村」とした文書があること(レ函一五七号(二))、西七条の中村一族はまた「伊勢七郎右衛門方代官」と見えること(レ函一五七号(三))、及び当文書の包紙と推定される文書(レ函三八二号)の表書に「植松庄内三浦作畠事、伊勢七郎左(右)衛門止綺支證正文」と見えること、などである。
(例言三頁、目次五頁、本文三九四頁、花押一覧一二丁、文書番号対照表一点、本体価格九、四〇〇円)
担当者 高橋敏子

 

『東京大学史料編纂所報』第48号p.39-41