東京大学史料編纂所

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刊行物紹介

大日本古記録 碧山日録 上

 『碧山日録』は、室町時代の東福寺の僧太極(道号、法名は不明。一四二一─?)の日記であり、長禄三年(一四五九)から応仁二年(一四六八)までの記事が断続的に伝わっている。本冊には、長禄三年正月より、寛正三年十二月までの記事を収めた。『碧山日録』は原題で、「碧山」の語は、記主太極の居所が「碧山佳処」と称されたことにちなむ。記主太極が、臨済宗聖一派、桂昌門派の僧であることは、玉村竹二「『碧山日録』記主考」(『日本禅宗史論集 下之一』思文閣出版、一九七九年に所収)に詳しい。
 『碧山日録』の書誌について述べると、自筆原本は現存しないが、公益財団法人前田育徳会尊経閣文庫には、六冊からなる古写本が所蔵されている。他にも、国立公文書館内閣文庫本(五冊、一八七八年に修史局の作成した写本)、東京大学史料編纂所本(五冊、一八八四年に内務省地理局地誌課の作成した写本)、抄写本である金沢市立玉川図書館本などがあるが、ほぼ全てが(金沢市立図書館本のみ親本不明)この尊経閣文庫本からの転写本である。これまで、『続史籍集覧』『改訂史籍集覧』『増補続史料大成』と、何度か翻刻刊行されたものの、いずれも底本は尊経閣文庫本ではない。また、室町時代研究の基礎史料の一つとされながらも、人名・地名・寺院(塔頭)名などの判別や比定が容易ではなく、禅僧独特の難解な語彙を用いた文体も読解困難であることから、従来必ずしも十分に研究に活用されてきたとは言えな かった。今回の出版では、尊経閣文庫本を底本とし、人名・地名・寺院(塔頭名)の他、典籍などにも可能な限り傍注を付すとともに、内容につき適宜標出を施し、史料としての活用の利便性向上を図った。
 本冊の底本とした尊経閣文庫本は、袋綴冊子、茶色表紙の六冊本で、
  第一冊 長禄三年正月~十二月
  第二冊 長禄四(寛正元)年正月~閏九月
  第三冊 寛正二年正月~四月、十月~十二月
  第四冊 寛正三年正月~八月、十月~十二月
  第五冊 寛正四年正月~四月、寛正六年正月~二月
  第六冊 応仁二年正月~十二月
という構成である。表紙には、全冊、綴じ代部分に小さく冊次が記されているが、ほとんどの冊には題がなく、あたかも仮の表紙のごとくである。第五冊の第二丁表に「此巻以下ハ寛正四六両年記ノ残篇ナレバ、次ノ冊寛正午三年ノ後ニツクヘキモノナレバ、別ニ一冊トシテ保存スベキモノカ」と記した貼紙がある。この記述は、第三冊が寛正二・四・六年、第四冊が寛正三年という錯簡の見られる内閣文庫本の構成と符合するから、尊経閣文庫本は、ある時期まで内閣文庫本と同じ錯簡のある五冊本であったのが、錯簡を正して六冊に仕立て直されたのではなかろうか。前述の仮のもののごとき表紙も、このことと関わりがあると思われる。なお、前掲玉村氏論考も指摘するように、元来はおそらく各月ごとに冊分けされた体裁であったと考えられ、今回の翻刻にあたっても、原則として月ごとに頁を改めた。
 本文は、半葉十行で、見せ消ち符号による抹消字がままあり、中には親本の抹消字を忠実に写したかと思われる字もある。人名・地名・典籍名などに朱線がほどこされていて、中には読解の助けとなるものもあるが、翻刻にあたっては省略した。なお、第一冊の冒頭部分を巻頭図版として掲げ、写本の様子が分かるようにした。
 さて、『碧山日録』を読む者を圧倒するのは、記主太極の、特に漢籍や仏典を中心とした教養知識の広さ、博覧強記ぶりである。例えば、客人の詩が誤って故事を引くことを指摘した記事(寛正元年五月十七日条)、多賀高忠の所蔵する閻立本の宮女図につき解説して、高忠を驚かせた記事(寛正元年七月二日条)、炊き出しをうけた飢民が次々に死ぬ理由は、飢民の発病とその蔓延であって、鍋の向きの吉凶ではないと、『宋史』の富弼の故事を引いて客人に力説した記事(寛正二年二月二十五日条)など、いささか衒学的にすら見える教養知識を周囲に披瀝する記事が散見される。ただ、右の二番目の事例では、その後高忠と大いに談笑したと記されるように、こうした教養知識に理解のある者が当時の武家社会にも存在したことを示すし、三番目の事例は、教養知識の単なる羅列的暗記ではなく、ある種の「合理的」思考態度の形成をもうかがわせる。
 こうした太極の知識教養は、中国典籍由来のリテラシーとして、詩文などの作成にいかんなく発揮されていた。『碧山日録』には彼の作った漢詩が数多く引かれるが、当時彼が詩作に堪能と評価されていたことは、詩の代作の記事の多さがよく示している。また、彼は長文の文章もよくし、当時流布していた様々な説話を見聞すれば、格調ある漢文にして日記に記している(『碧山日録』に記された様々な説話については、徳田和夫「室町時代の言談風景─『碧山日録』に見る説話享受」〈『お伽草子研究』三弥井書店、一九八八年〉に詳しい)。例えば、仮名文で書かれた因幡堂縁起を一見するや、その日のうちに漢文で長大な縁起を作成して日記に記している(長禄三年十二月十四日条)のはその一例である。やや細部を異にする二つの渡唐天神伝説を漏らさずに記していること(長禄三年二月二十二・三日条、なお渡唐天神伝説については今泉淑夫「天神信仰と渡唐天神伝説の成立」〈今泉淑夫・島尾新編『禅と天神』吉川弘文館、二〇〇〇年〉を参照)なども、説話・伝説についての彼の関心の高さを示すと言えよう。のみならず、日本書紀、元亨釈書や各種の僧伝、史記・漢書・宋史・資治通鑑など、和漢の史書に広く接していた彼は、どうやら一種の歴史書(特に日本仏教に関する)の執筆を企てていたとおぼしく、日記中に何度か登場する「編年之書」とは、その草稿ではなかろうか。彼は一種のノート(日記中に何度かみえる「朽冊」)に、日頃から文章を書きためていたようであり、旺盛な執筆意欲がうかがえる。
 太極の父方の出自は正確には分からないが、一つの手がかりは、日記中に登場する「春公」こと鞍智高春である(鞍智高春および佐々木鞍智氏については、清水克行「ある室町幕府直臣の都市生活」〈『室町社会の騒擾と秩序』吉川弘文館、二〇〇四年〉を参照されたい)。太極と高春の間の往来は極めて頻繁かつ親密で、高春はその父鞍智高信の臨終にまで太極を請じ(寛正元年七月六日条)、太極は高信の中有仏事を営む僧衆の一人として、四十日余り鞍智家に詰めている。また、鞍智氏のみならず同じ佐々木一流の京極氏やその被官とも交流が深く、佐々木大原氏の系譜を尋ねられた際には、宇多源氏佐々木氏の系譜関係を諳んじるように述べていること(寛正三年二月一日条)などからも、太極の父方の出自は、おそらくは佐々木鞍智氏か、少なくとも佐々木氏一流のいずれかの家であった可能性が高いと思われる。
 右のような事情から、佐々木鞍智氏や京極氏など、室町幕府の中枢近くにいた人々を通して、幕府の政治情勢に関する良質の情報が太極にもたらされている。例えば、長禄三年十月九日条は、逼塞していた故畠山持富の子息が足利義政に召し出され、「政久」と偏諱をうけた事を伝える。一族の内訌に敗れた畠山弥三郎(持富の子)は流浪の身となったが、『大乗院日記目録』同年六月一日条が伝えるように、この記事よりも前に死去していたとおぼしい。だが、『大乗院寺社雑事記』同年九月二日条が「弥三郎」の上洛を伝えるように、彼の死をまだ知らぬ者による誤情報も存在した(大乗院尋尊は、後に事実を知って『日記目録』で補訂したのである)。それに対し、『碧山日録』の記事が「弥三郎」とは書かずむしろ初耳の人物のように記すのは、この日義政に偏諱をうけたのは、当時まだ無名に近かったもう一人の持富の子(すなわち畠山政長)であると、おそらく太極には正しく伝わっていたことを示している。ただ、一般に、『碧山日録』中の人名(実名)表記にはまま不正確な箇所がみられるから、「政久」が本当に彼の最初の実名か、それとも「政長」の誤記かは、この記事のみからは判然としない。
 また、主に侍所頭人の京極氏とその周辺からの情報により、室町幕府の法制、特に侍所の検断や「獄」についても詳しく記されている。寛正二年三月二十二日条にみえる南禅寺僧の放火事件では、幕府による無名判(落書起請)の様子、逮捕された容疑者への侍所の「水問」(水責めの拷問)の具体的な方法(同月二十八日条)が記されている。太極の弟子周勤の伯父が土一揆与同の容疑で侍所の「獄」に収監された事件(寛正三年十一月十四日条)では、鞍智高春より釈放を懇願された侍所所司代多賀高忠が、直ちに釈放すれば他の囚人たちが動揺するから十数日待たれたしと回答しており、侍所の「獄」における囚人管理の様子が垣間見える。
 さて、太極と武家社会の人々との交流をみると、例えば、鞍智高春とも交流の深かった細川勝元の叔父持賢(法名道賢)は、登場回数こそ少ないものの、太極とは肝胆相照らす所があったようである。次冊収録予定の彼の葬儀を伝える記事(応仁二年十月十四日条)には、両者の親しい交流が記され、太極は彼の遺徳を褒め称えその死を心から悼んでいる。このことは、持賢が禅宗に帰依し、また銭選の絵画を高春に贈った記事(長禄三年七月二十一日条)が示すように、彼が中国由来の文物や教養に理解があったことと無関係ではなかろう。さきの多賀高忠もそうだが、太極はこうした人物とはやはりウマが合ったといえる。一方、例えば山名宗全(持豊)は、日記中に何度か登場し、太極は彼と間近に接したこともあったはずだが、親しく言葉を交わしたという記述はない。長禄三年の暮、持賢と宗全が高春邸に年末の挨拶に訪れたが、持賢だけがしばらく居残って、ちょうど居合わせた太極とも酒を酌み交わしたという記事(長禄三年十二月二十五日条)は、太極とこの二人との関係を実に端的に示している。
 この他、『碧山日録』には、門派や学芸上のつながりを通した禅僧たちとの交流はもちろん、清原業忠をはじめとした公家社会の人々との交流も記されており、興味深い記述も多いのだが、前述の玉村氏の論考などに既に明らかにされている点も多いので、ここではふれない。
 ところで、『碧山日録』は、太極自身が実際に見聞した、当時の社会・経済の実態を示す興味深い記事も多いことでも知られる。本冊では、いわゆる寛正の飢饉に関する記述がことに有名である。河内からの流民の母子との遭遇(寛正元年三月十六日条)や、願阿の飢民救済活動(寛正二年二月の条)、洛中の死者の数の記述(同年二月晦日条)などは、太極自身の見聞が含まれることもあって、非常に具体的で生々しく、また飢餓に苦しむ人々に同情的である。と同時に、飢饉のさなかに遊興にふける高位高官者には手厳しい(寛正二年二月十八日条など)。また、当時頻発した徳政一揆の蜂起に関しては、「是庶民為逆違天大徳之謂乎」(長禄三年九月十日条)、「求有徳政之令、其実便虐政也」(長禄三年十一月九日条)などの極めて批判的な見解や、「徳政之盗」(寛正三年十月二十一日条など)といった罵倒など、彼らの行動の具体的客観的記述よりも、批判・蔑視の表現が目立つ。当時の上流階級の例にもれず、太極もまた徳政一揆には批判的で冷たい視線を投げかけていたの である。
 また、当時の社会不安の反映でもあろうか、当時流布した様々な怪異事件の記事も記されている。衆林寺住持の遺骸が化け物のような老婆に食われたという話(寛正元年六月二十五日条)、「東海某州」に現れたという人面の「異獣」の話(寛正元年六月二十八日条)などであるが、太極は同時代の怪異事件に概ね懐疑的で、針小棒大の話だとか、愚か者が作り話を信じているのだなどとコメントしている。彼の「合理的」精神の一端を示す見解といえよう。
 その中で、寛正三年八月九日条にみえる怪牛入洛の記事は、一種の怪異記事としても興味深いが、在地社会における伊勢講の浸透や、当時の主要な街道における、地下人の「宿次」による物や人のリレー伝送を物語る史料としても注目される。太極自身、本冊では、伊勢参宮(長禄三年三月)、奈良東大寺の大仏参詣(寛正元年二月)、大雄寺修理のための美濃への旅(寛正二年十二月)と、何度か地方に旅行しており、当時の旅と交通のありようや地方社会の様子を伝えている。
 さて、当時の社会・経済のありようを探る上からも注目されるのが、木幡の「満翁」なる人物である。彼は、「予(太極)之外族」(長禄三年八月一日条)という記述から太極の母方の親族とわかり、それだけに太極と「満翁」の往来はじつに頻繁である。自家で醸造した酒をふるまったとの記事(長禄三年正月十六日条)は、「満翁」の酒屋業への関与を示し、「樹徳庵」という禅庵の建立や、たびたびの盛大な仏事の開催は、彼の財力の大きさを物語る。当時の言葉でいえば、木幡の「有徳人」と呼ばれる存在であったろう。興味深いのが、長禄三年六月十五日条に引かれた、その父「舜公」の画像賛(太極作)である。「舜公」は長寿を全うした「叡山之徒」であり、京都や近江に子孫が多いという。当時「山徒」と呼ばれた、専ら寺外で活動し妻帯もした延暦寺の僧徒を彷彿とさせる人物である。また、彼の一族は近江の志那(坂本のほぼ対岸の湖岸にあたる)出身で、「大友氏」(大友皇子の子孫との伝承をもつ、近江の古代氏族)の末裔であるという。近江の「湖の民」にはしばしば大友皇子の末裔譚が伝わるというから、この「舜公」一族もまた、琵琶湖・淀川水系の水上交通に活動基盤を有する一種の「湖の民」ではなかったろうか。「満翁」が淀川水系と奈良街道の結節点といえる木幡で活動したのも、「湖の民」としての展開の一端と把握できるようにも思える。以上の多くはまだ憶測の域を出ないが、「満翁」とその父「舜公」に関する記事に、今後社会経済史研究の面から光が当てられることが期待される。
 さらに当時の文化・芸能に関する記事も見逃せない。池坊専慶による生け花(寛正三年二月二十五日条、同年十月二日条など)、平家琵琶の聴聞(寛正元年三月二十八日および寛正二年三月十九日条など)や、その「綱首」摠一の死去(寛正三年三月三十日)の記事など、いわゆる室町文化の研究にも欠かせない史料である。
 ところで、些末な事柄かもしれないが、『碧山日録』には、今日で言う「園芸」趣味をうかがわせる記事の散見も含め、動植物の習性や生育などに関する具体的な記述が見られる。例えば、柳は生命力が強く挿し木によって容易に生育・繁殖すること(寛正二年十月二日条)や、毒蛇に咬まれた時の対処法(長禄三年六月二十八日条)など、現代の我々が知るのとほぼ同じ経験的・実践的な知識が記されている。これらは、少なくとも当時の公家・武家・僧侶の日記には珍しい記述で、そうした動植物に関する知識や自然観察の「眼」の由来(例えば中国の典籍との関係)も、今後深められるべき問題の一つではなかろうか。
 最後に、本冊の編纂にあたっては、部室や編纂担当の枠をこえて多くの所員のご協力・ご助言を賜ったが、中でも山家浩樹氏からは、読解について多くのご教示をいただいた。また、原本校正に際して御高配を賜った、公益財団法人前田育徳会尊経閣文庫の関係各位にも、この場を借りて深く深謝の意を表したい。
(例言四頁、目次一頁、本文二二七頁、巻頭図版一葉、本体価格九、二〇〇円、岩波書店発行)
担当者 榎原雅治・保立道久・前川祐一郎


『東京大学史料編纂所報』第48号p.48-51