東京大学史料編纂所

HOME > 編纂・研究・公開 > 所報 > 東京大学史料編纂所報第48号(2012年)

刊行物紹介

大日本古記録 愚昧記 中

 本冊には、承安二年(一一七二)正月より養和元年(一一八一)閏二月までの分を収めた。記主藤原実房二十六歳から三十五歳にあたり、この時期、正二位権大納言として朝儀に活躍する。
 翻刻の底本には、原本の残る承安二年春記・承安三年春夏記・承安四年四季記についてはそれを用い、原本を欠く部分については、宮内庁書陵部・京都御所東山御文庫・国立国会図書館・公益財団法人陽明文庫及び東京大学史料編纂所所蔵の写本によった。
 承安二年春記原本(国立歴史民俗博物館所蔵)は、大部分が前年の嘉応三年(承安元年)具注暦を翻して記されており、第十九張は白紙、第二十張は実房書状案を料紙とする。紙背の具注暦は、①第一張~第十八張まで一年分完全なもの(第十九張の白紙は横幅が小さく、この具注暦の表紙であったと考えられる)、②第二十一張から末尾の第三十二張まで六月月建以降のもの、の二点からなり、両者を比較すると、書体や紙質から②の方が粗略な印象を受ける。また、共に間空きが無く、具注暦利用者による文字の記入も基本的には見られないが、例外的に①の十一月十四日・十八日・十九日・二十七日項に、それぞれ「吉田祭」「大原野祭」「五節参入」「臨時祭」の文字が上部欄外に記入されている。これらはその筆跡から実房自身の手になるものと思われ、日記とは別に、ごく簡単な年中行事注記を手元の具注暦に書き加えていたことがうかがえる(このことは、後述の承安四年記原本でも見られる)。なお、承安二年春記原本の写本は極めて少ない。これまでに所在が判明しているものは、天文六年十二月三条西公条書写の古写本と、寛政八年七月に柳原紀光が原本を書写したもの(共に宮内庁書陵部所蔵)のほか、享保十年七月に三条西公福所蔵原本を三条実顕が書写したものと、それを徳大寺家において転写した本(共に東京大学史料編纂所所蔵)のみである。近世において、現存『愚昧記』原本の多くが禁裏文庫(官庫)に伝来したのに対し、この巻はそれらとは別に三条西家に所蔵されていた。写本の少なさには、この点が関係していよう。
 承安三年春夏記原本(次巻共に東京大学史料編纂所所蔵)は、第一張から第十六張までは白紙、第十七張から末尾の第二十四張までは実房宛書状等の反故を料紙とする。紙背文書のうち、第十八張・第二十三張は相剥ぎにより現状原本では判読が困難であるため、三条家旧蔵新写本(東京大学史料編纂所所蔵)により欠損を補った。日記の記事では、正月九日・十四日条それぞれの前後に範囲を指定するような符号が見える。これが実房自身の手になるものかは不明であるが、実房は前年十二月十日に藤原経宗の女を室として迎えており、九日条は義父経宗が初めて実房亭に女を訪ねる内容、十四日条は逆に実房室が初めて実父経宗の大炊御門亭を訪ねる内容であることから、二つの対になる記事を特に指定する符号であると思われる。
 承安四年四季記原本は、正月・三月~五月・七月・八月・十一月・十二月の記事からなるが、内容はA正月一日~七日の節会記(第一張~第四張)、B三月十九日・二十五日の石清水臨時祭・列見記(第五張~第十張)、C四月三十日・五月六日の大神宮に関する議定の記(第十一張~第十七張)、D七月二十七日~八月二日の相撲召合・抜出と院相撲御覧記(第十八張~第二十三張)、E十一月二十一日の豊明節会記(第二十四張~第二十八張)、F十二月一日の京官除目記(第二十九張~第三十二張)からなる。Cが「承安四年四月卅日」で始まるように、CDEFそれぞれ冒頭の日次には全て年次表記が付いている。また料紙においても、ADが前年の承安三年具注暦の七月月建以降の部分(間に欠落あり)、BEFが書状等の反故、Cが白紙(一紙のみ書状の反故)となっており、主題の異なる記事のブロックを貼り継いだ形式となっている。承安三年春夏記同様、第七張・第十一張・第十三張の紙背文書や裏書は相剥ぎにより判読困難であるため、東山御文庫本により欠損を補った。なお、ADが前年の具注暦を料紙とするのは承安二年春記と同じで、ここでも間空きが無く文字の記入は見られないが、やはり例外的に十一月七日の項に「平野祭事」「春日祭事」、十九日・二十三日の項にそれぞれ「吉田祭事」「大原野祭事」という実房の筆跡と思われる注記がある。
 原本を欠く部分では、まず承安二年四月・五月・十二月記は三条西公条書写の古写本(宮内庁書陵部所蔵)によった。この時期に三条西家で作成された他の『愚昧記』古写本と同じく抄出本であり、残念ながら十二月十一日条冒頭までで記事が終わっているが、これまでの諸本調査では公条書写本と異なる系統の本文は確認できず、この部分の唯一の本文となっている。
 次に、安元二年二月二十一日の後白河院五十算賀試楽記は、仁安二年九月十六日・十七日条抜書の後に書写されている写本が多いものである。本冊では、仁安二年の記事を含まず御賀記として独立している系統の本文である東山御文庫本によった。
 安元二年八月及び養和元年正月~閏二月の建春門院と高倉院の仏事記は、国会図書館所蔵十一冊本(合本五冊)によった。この部分の次には文治五年九月と建久三年三月~五月の上西門院と後白河院の仏事に関する記事が続いており、『砂巌』六「愚昧記後愚昧記太相国記等員数事」に列挙される『愚昧記』別記の内の、「凶事一巻」に該当するものと思われる。国会図書館本は江戸期の新写本であるが、その体裁からみて、三条西公条らによる書写本から転写されてきたものと考えられる。この仏事記も抄出本の可能性があるが、これまで国会図書館本以外の写本を見出せていない。
 治承元年春夏記・秋冬記は共に鎌倉期の古写本で、その体裁からみて元来一対のものである。高橋昌明編「『愚昧記』治承元年秋冬記の翻刻と注釈」(『文化学年報』一九、二〇〇〇年)所収「解題」(栗山圭子氏執筆)に指摘されているよう、紙背文書には実房在世中の建保三年のものが含まれている。春夏記の構成は他の『愚昧記』の部分と大きく異なり、ほぼ毎日、日記をつけている印象を受ける。実房の日記筆録態度は先述の承安四年記のように、主要な事柄ごとに記事を集中して書くことが多く、毎日規則的に日記を記入する意識は低かったと思われる。例えば、承安四年八月二日条には「小時左大将来居、則」で途切れているが、実房自身の筆跡で「不書終、奇恠々々、」と首書している。また、原本にはしばしば記事と記事との間が数行分空いている箇所が見られ、毎日記事を記入していくのではなく、後になってから情報を追加することが前提となっている。この点、鎌倉期の古写本であることも含めて、治承元年記は『愚昧記』全体の中でやや異質なものと言えよう。なお、この年八月十三日に実房は伊勢公卿勅使を命じられ、九月十日から十八日まで伊勢に下向しているが、この間の別記を残しており、本冊でも治承元年秋冬記の次に三条家旧蔵新写本によって収載した。
 治承二年十二月十五日の言仁親王(安徳天皇)立太子記は、上冊所収分と同じく、三条家旧蔵新写本によった。実房の本文推敲の痕跡を残すなど、原 本を影写したと思われる良質な本文を伝えている。
 記事の内容では、前冊同様、関白藤原基房・左大臣藤原経宗の指導を仰ぎながら朝儀の作法について詳細に記録しており、自分の見識と異なる他人の作法への言及も多い。例えば、実房は藤原兼実の作法に対して何かと厳しく、承安四年十二月一日に兼実が初めて京官除目の執筆を勤めた際には、その作法について十一箇条の不審点を列挙し、「一人流」であると批評している。ほかには、平徳子の中宮立后(承安二年二月十日条)、延暦寺大衆発向と京都大火による一連の騒動(治承元年四月十三日条以降)等にも詳しく、実房が和歌を詠み人々から賞賛された記事(承安二年三月二十八日条)もある。
 巻頭図版には、①承安四年四季巻(原本)七月記冒頭、②同巻十二月記指図、③承安三年春夏巻(原本)第十七張紙背、④治承元年秋冬記(古写本)巻頭、の四点を掲げた。①では七月記から料紙が具注暦紙背に変わり、大きさが小さくなっている。②は原本指図の例である(本文一四〇・一四一頁参照)。③は紙背文書から実房筆御格子番文を掲げた。④は古写本の体裁を示すもので、①②の自筆原本とは異なる筆跡である。
 本冊の編纂においても、これまで通り多くの所員から部室の枠を超えてさまざまな協力を得たが、特に遠藤珠紀・宮﨑肇両氏には原本調査において多大な御教示を受けた。また、原本の修理や寄託をお願いした株式会社文化財保存・奈良国立博物館の関係各位にも心より感謝の意を表する。
 なお、一一五頁六行目の割注を削除し、二八三頁及び二八七頁の一行目上部欄外にそれぞれ「實房本年三十二歲、正二位權大納言」「實房本年三十五歲、正二位權大納言」の文字を補うよう、訂正する。
(例言八頁、目次二頁、本文三〇四頁、巻頭図版四頁、本体価格一一、〇〇〇円、岩波書店発行)
担当者 尾上陽介


『東京大学史料編纂所報』第48号p.43-45