東京大学史料編纂所

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刊行物紹介

大日本近世史料 廣橋兼胤公武御用日記十一

 本冊には、宝暦十一年(一七六一)五月より同十二年九月までの「公武御用日記」と、宝暦十二年正月より三月までの「東行之日記」を収めた。
 宝暦十一年の兼胤は四十七歳。官位は権大納言・正二位である。家族に目を向けると、嫡男の伊光が宝暦十一年に福岡藩主黒田継高女と縁組みをしている記事が見える(五月二十八日の条)。伊光は同年十七歳。蔵人・左少弁として日々公務に励む様子も散見される。
 本冊における兼胤の年頭勅使としての関東下向は、宝暦十二年二月十九日から三月二十一日までの間である。二月十九日に京都を出発し、三十日に江戸着。三月二日に登城して年頭祝儀の御口上を伝達し、その後は例の通り能見物の登城や御三家・輪王寺門跡への参賀を行い、七日に将軍からの返答・賜暇があった。八日には御霊屋造営前ではあるものの、増上寺に参向し徳川家重霊前に詣でている。十日に江戸を発し、帰京は二十一日であった。なお、正月二十一日の条を見ると、それまで江戸下向に必要な経費は拝借銀で賄い、その返済には江戸での拝領物を充て、帰洛後一両日中に済ませていたが、この年から拝領物が減少することとなったため、返済に時間をかけさせて欲しいと、禁裏附に申し入れている様子が記されていて興味深い。
 朝廷の人事では、議奏の異動についての記事がみられる。まず、宝暦十一年五月二日に、親王三卿の一人である飛鳥井雅香が議奏に仰せ付けられ(五月朔日・二日の条)、宝暦十年九月に姉小路公文が武家伝奏に異動して以来の欠員が補充される。これに伴い、女院肝煎の植松賞雅が親王三卿に、伏見宮肝煎の石井行忠が女院肝煎にそれぞれ転じた(五月二日の条)。次いで翌年の九月になると、宝暦五年正月以来在職していた五辻盛仲が所労のため辞任し(二十四日の条)、その後任には親王三卿を前年仰せ付けられたばかりの植松賞雅が補任された(九月二十七日・二十八日の条)。なお、賞雅の議奏転任にともなう三卿の跡役には、難波宗城が仰せ付けられている(九月二十八日の条)。このほか、後述するが、天皇の代替わりにともない、禁裏女官の交替も見える(七月二十七日の条)。
 本冊に見られる大きな出来事としては、①桃園天皇の崩御と後桜町天皇の践祚、②大御所徳川家重の薨去があげられる。
 まず①であるが、宝暦十二年七月十一日の条から関係記事が見え始める。同日の記事によれば、天皇は同月七日から痞の症状を訴え、禁裏医師の投薬を受けていた。しかし十一日になると膻中(胸の中央部)と腹部に動気を感じるようになったため、御匙を替えて三和散を奉った。しかし、翌十二日の午半刻には容態が悪化し、禁裏医師からは脚気に間違いなく、大事に至る恐れもあるとの見立てが示された。そのため、直ちに所司代の阿部正右が禁裏に召され、関白以下摂家の大臣と両伝奏が列座した席で、登霞の際のことにつき叡慮が伝達された。すなわち、①桃園天皇は英仁親王の践祚を望んでいること、②しかし親王は未だ幼少(五歳)であるため、明正天皇の例により、天皇の姉である緋宮(智子内親王)を践祚させ、親王が十歳くらいに成長するまで在位させたいとの思し召しであること、③このことは女院にも言上し了解を得ていることなどが示された。合わせて、明正天皇受禅と後西天皇践祚の例書、そして女帝とならば例に従い関白を摂政と改めるべきとの書附が渡されている。このことを承った所司代は、直ちに関東ヘ時なしの継ぎ飛脚を差し遣わしている。幕府から返答の老中奉書が到着したのは二十日のことであった。同日の巳刻頃に所司代が参内し、緋宮の践祚と摂政のことは天皇の思し召し次第たるべしとの趣が、関白以下摂家の大臣と両伝奏に示達された。このことは直ちに関白から天皇に言上され、次いで女院・英仁親王・准后(桃園天皇女御)・非大臣の摂家へ伝達された後、親王家や堂上・地下の輩、門跡などへ申し渡された。この後、剣璽が御三間の上段に移され、亥刻には天皇が危篤となったことが諸公家と所司代に達せられ、翌二十一日の寅刻、ついに崩御となったことが諸臣へ告げ知らされたのである。その後、二十八日に桃園院と追号が定められ、内々の入棺が行われた(正式な入棺の儀は八月二日)。八月九日には焼香の関東使として高家の長沢資祐が上洛し、二十二日に泉涌寺にて葬儀が執り行われた。般舟院と泉涌寺では引き続き、八月二十六日から九月十二日の中陰明けまで法要が行われている。
 ところで、桃園天皇が実際に崩御したのは、七月二十一日より九日も前、十二日のことであった(「柳原紀光卿記」七月十二日の条、「公明卿記」七月廿一日の条、「定晴卿記」七月二十二日の条など)。この様に天皇の喪が秘されたのは、儲君の英仁親王が未だ幼冲であったため、中継ぎとして別人(緋宮)を践祚させる必要が生じ、そのことについて幕府の同意を得る必要があると、摂家・女院などの朝廷首脳が判断したためである(高埜利彦「近世天皇論の現在」青木美智男他編『争点日本の歴史』第5巻近世編、新人物往来社、平成三年)。そのため、公務日記である兼胤の「公武御用日記」は、天皇が二十日まで存命しているとの立場で記述され、十二日崩御のことは書き留められなかったのである。
 さて、幕府の了解を得た朝廷では、七月二十七日に緋宮(後桜町天皇)の践祚が行われた(即位式は翌年の十一月二十七日)。寛永二十年(一六四三)に明正天皇が譲位して以来、百十九年ぶりの女帝であった。その日、大典侍以下、禁中の女房が新たに定められている(他方、桃園天皇の女房は、十一人が薙髪を仰せ付けられている。九月七日の条)。八月七日には、各御所へ崩御後の御機嫌伺いのため関東使が参内するが、践祚後初めて受ける口上が凶事に関わるものとなることを避けるため、新帝へは口上を申し上げず、女院・親王・准后への御機嫌伺いのみとなった。ところで、後桜町天皇は久々の女帝であったため、どう対応するのかについて公武の動きが見られる。朝廷では、天皇の月の障りと神事との兼ね合いについて問題となり、恒例の神事と月の事とが重なった際には、天皇は清火のある棟から離れることとし、非恒例の神事の場合は、月の事が済んでから執り行うこととされた。また、親王の乳母や准后も月の障りで里御殿に下るには及ばないこととなった(九月二十三日の条)。一方、幕府の方では、関東からの折々の会釈等に従来と変わることがあるのかどうかと、武家伝奏に問い合わせをしている。これに対して朝廷では、明正天皇の在位中は男帝と同様であったと返答をしている(八月十七日の条)。
 このほか代替わりに関連して、桃園天皇の女御である准后の一条富子は当面薙髪せず、これまで通り英仁親王と同居してその養育に当たり、いずれ立后の御沙汰があった後に薙髪し、門院号を奉ることとなった(九月十四日の条)。また、桃園天皇の生母である姉小路定子(三位局)の処遇についても問題となっている。朝廷としては、生母の定子に門院号を与えたいと考えたが、当時、桃園天皇は女院(二条舎子、青綺門院)を実母に立てており、定子は公的には天皇の母儀ではなかった。通常、門院号は天皇の生母か准后に与えられる例であったが、定子は准后でもなかった。そこで朝廷では、生母でも准后でもない人物への門院号宣下の例を調査し、定子への門院号を与えたいことと、敬法門院(東山天皇生母)の例にならい関東より年千俵を進上されたいという御内慮を、関東に申し入れている(九月十四日の条)。
 次に、②の前将軍徳川家重の薨去である。宝暦十一年六月十四日、家重の不例を伝える老中奉書が届けられたため、内侍所での臨時神楽などが仰せ出された。しかし十七日になると、十二日の丑下刻に家重が薨去したことが老中奉書で報じられた。朝廷では、徳川吉宗の例の通り家重に贈位・贈官・贈院号・贈経をすることとし、勅使・女院使・親王使・准后使・宣命使が差し下されることとなった(六月十七日の条)。二十二日には、家重に贈る院号の候補を敬儀と惇信の二つとすることが仰せ出され、翌日には兼胤は所司代邸へ赴き、院号候補の書附を渡した。書附は中高檀紙を三横折りにしたものであり、両号が記されていた。中奉書紙を四横折にした訓付の引書も、あわせて渡された。なお、両号の内のどちらを用いるかは幕府次第ではあるが、桃園天皇の意向は敬儀である旨も申し入れられている。七月十一日には、勅使へ院号の書附二通と贈官宣旨が渡された。勅使は翌十二日に京都を発し、二十四日に江戸に入った(七月二十九日の条)。着府すると老中秋元凉朝・奥高家由良貞整が勅使の旅宅に入来し、院号は惇信に治定した旨が示された。そのため、勅使は持参した院号の書附二通の内、惇信と記された書附のみを渡し(同前の条)、残る敬儀の書附はそのまま持ち帰り、帰洛し参内復命の際に返上している(八月十二日の条)。その後、九月十九日に、贈院号・贈官位への御礼のため関東使と所司代が参内するが、その際、徳川家重と吉宗の仏殿への勅額染筆を願い上げている。もっとも、桃園天皇はいまだ入木道の伝受を済ませていなかったため、染筆は伝受の後とされた(天皇が妙法院堯恭入道親王から伝授を受けるのは翌宝暦十二年二月四日)。
 最後に、そのほか注目される出来事をいくつか紹介しておこう。まず、宝暦十一年の暮れから、英仁親王の別居について幕府との交渉が行われている。親王はこれまで准后と同居していたが、成長してきたために御殿を新造し、別居することになった。御殿新造料および道具料として、二千両が幕府から進上されている(宝暦十一年十二月十三日、同十二年正月十五日、二十七日の条)。御殿の建築準備は順調に進み、宝暦十二年閏四月二日に所司代から御殿指図が武家伝奏に提示され、六日に指図に板屋根の葺き方などを書き加えて所司代ヘ送り返している。その後、地形築立や井戸屋形などについても折衝が行われたが(六月十日、十四日、十七日、二十八日の条)、桃園天皇が崩御した後の九月二十五日には、思し召しにより指図を返上するよう幕府ヘ申し入れている。
宝暦十一年の九月十九日には、九条家が拝借金願いを所司代へ申し入れている。当初二万両の拝借を望んだものの、金額の多さから、金主へ急ぎ支払わなければならない七千五百両のみの拝借を宝暦六年に願っていた。その後、拝借が認められることもなく、そのままになっていたが、改めて二万両の拝借を願い出たものであった。さらに翌年七月八日には、九条家は勝手向きの不如意を理由に知行所の所替えを願い出ている。
 また、前冊から続く事柄であるが、徳川家治の御台所である閑院宮倫子の懐妊の記事も見える。宝暦十一年五月三日、所司代から臨月は六月となるとの内談があり、関東ヘ送る細長の準備や(五月十五日条)、安産祈願の千反楽が内侍所で催された(五月二十五日条)。八月一日には女子(万寿姫)が誕生した(八月六日の条)。次女であったため、徳川家重の次男重好誕生時の例により御祝儀物はなしとすべきか否か、幕府と遣り取りがなされた。結果、宝暦六年の家重長女千代姫の誕生時と同様、御祝儀を贈ることとなり(八月六日、八日、九月二日条)、十二月四日に武家伝奏両人が所司代役宅ヘ赴き、禁裏・女院・親王・准后よりの御祝儀の品を渡している。なお、六月八日には、関東に相談せず、御台所着帯祝儀の進上を閑院宮・伏見宮家などに指図したことが咎められ、所司代が差し控えを命じられている。
(口絵一頁、例言一頁、目次二頁、本文三一八頁、人名索引四十一頁、本体価格一二、八〇〇円)
担当者 松澤克行・荒木裕行


『東京大学史料編纂所報』第48号p.36-38