大日本史料 第十一編之二十六

本冊には、天正十三年年末雑載の残り、および同年補遺の前半を収めた。
 年末雑載のうち、「天文、気象、災異」「神社」「仏寺」「禁中、公家」の各項は第十一編之二十四に、「武家」「医薬、治療、疾病、死歿」「学芸、遊戯」
「知行、年貢、課役」「訴訟、判決、法制」の各項は同二十五に、それぞれ収録済みである。本冊には、残る「売買、譲与、寄進、貸借、算用、物価」「開
墾、鉱山、普請、製作」「駅逓、交通、市場」「贈答」の各項を収めた。以上の項目分けは、ほぼ天正十二年年末雑載(第十一編之十一・十二)を踏襲し
たが、「開墾、鉱山」に「普請、製作」なる文言を追加し、各種の工事やもの作りに関する史料を、ここに収録することとした。
 分量の点で目立つのが、「算用」に属する会計帳簿類である。主なものとしては、①賀茂別雷神社の職中算用状(六九頁)、②妙心寺の米銭納下帳(一四一頁)、③薬師寺・法隆寺関係の各種帳簿(二二三頁)などがある。①は閏八月を含めた十三か月分がすべて揃うほか、上記の十三か月分との関連が不明な断簡(一三六頁)をともなっている。
 ②も十三か月分がすべて揃っているが、妙心寺では七月と八月の境目で会計年度が変わるため、七月までの前半(一七六頁まで)と八月からの後半に、まず大別することができる。なおかつ、前半についていえば、正月から七月までをひと通り記録したのち、いったんもとに戻って、再び正月から七月までの会計が記されている。後半も同じ構造である。一巡目と二巡目の内容は異なるが、どのような書き分けであるのかは判然としない。なお、妙心寺の会計帳簿としては、これとは別に、豊臣政権が実施した京都の検地にかかわる会計をまとめたものがある。この帳簿については、第十一編之二十三、天正十三年十一月二十一日条に、すでに収録済みである。
 ③は各種寺領からの収納に関する帳簿を多く含むが、「日損」という言葉が、複数の帳簿にわたって少なからず認められ、天正十三年の大和の気象をうかがうことができる。
 「算用」以外で目立つものとしては、「駅逓」に収めた「朝鮮送使国次之書契覚」がある(三〇二頁)。これは、対馬宗氏と朝鮮との交流ぶりをよく示す史料ではあるが、内容を理解する上で参考となる関連史料に乏しく、事実関係を的確にとらえることは至難である。また、天正十三年の基幹史料のひとつである「多聞院日記」については、政治にも仏事にもかかわらない記事の多くを、本冊の各項に適宜収録した。寺僧の暮らしぶりをうかがわせる興味深い記事が多いが、同記の文章は概して簡潔であり、文意や前後の脈絡を測りかねるものもなしとしない。
 なお、第十一編之二十四および二十五の各項に収録すべき史料でありながら、未発見ないし見落としのため収録できなかったものがある。これについては、次に述べる補遺の最後に年末雑載の補遺を設け、ここに収録することを検討している。
 本冊の後半は、天正十三年の補遺である。第十一編の刊行が天正十三年に入ったのは一九六五年のことであり、それ以来すでに半世紀近くが経過している。その間に新たに発見・発掘された史料は、当然のことながらきわめて多く、これを収録するために、天正十三年の補遺を設けることとした。しかし、雑載の残りにかなりの頁数を費やしたため、本冊には第十一編之十三から同十七の範囲、七月是月条までを収録するにとどまった。
 なお、写本等に基づいて編纂を行ない、その後原本ないし善本が発見されたケースが多々あるが、内容に大きな異同がある場合のみ差し替えを行なうこととし、それ以外は本来の編纂のままとした。また、史料の発見によって、条そのものが不適切であると判断されるに至った例もあるが、今回の補遺を通じてそれらを上書きすることとし、問題の条をことさらに取り消すことはしていない。
 今回補った史料はきわめて多岐にわたり、ここで詳しく紹介することは不可能である。以下、ごく簡単に概略を述べる。
 公家の記録では、「日々記」(記主勧修寺晴豊)、「中御門宣光記」(実際の記主は庭田重保であると判断される)、「稙通公記別記」(記主九条稙通)などを、関係する各条に切り分けて収録した。官位叙任にかかわる各種史料も、大幅に充実させることができた。羽柴秀吉を従二位に叙した位記(三八六頁)については、原本調査を実施した上で収録した。
 武家の文書では、「中川家文書」や「紀伊続風土記編纂史料」などから、秀吉の紀伊出兵・四国出兵にかかわる史料を、数多く補うことができた。秀吉が手の筋を傷めたことを載せる書状(四八九頁)など、身辺の瑣事にかかわる興味深い史料もある。
 地方の情勢については、北条氏直の上野新田・館林への進出と、それにともなうさまざまな動きに関する史料を補った。毛利輝元の発給にかかる充行状・安堵状類は、年末雑載に収める計画であったのか、本編から漏れたものが少なくなかったが、今回それらを月ごとにまとめて立条した。同じ中国地方では、出雲国造千家・北島両氏の相論に関する史料が大量に見出され、これを一括して収録したが(四五五頁)、文字の判読の点でも、文意の解釈の点でも、なかなかの難物である。
 なお、刊行後に、次の誤りが発見された。三三三頁三行目の傍注および標出に「二条昭実」とあるのは、正しくは「一条内基」である。
(目次二頁、本文五四五頁、本体価格一二、八〇〇円)
担当者 鴨川達夫・村井祐樹・遠藤珠紀

『東京大学史料編纂所報』第47号 p.36-37