大日本史料 第九編之二十六

本冊には、後柏原天皇の大永四(一五二四)年正月から同年三月までの史
料を収録した。
 前年に引き続き、禁裏では、元日の四方拝、小朝拝、節会をはじめとした恒例の行事が滞りなく行われた。このうち、月次に行われる和歌御会・和漢聯句御会・御楽等の記事は、いずれも年初の記事に併せて収めた。
 後柏原天皇の作歌は、歌集「柏玉集」に拠って収めたが、本冊より、宮内庁書陵部所蔵御所本(三冊本、函番号五〇一函六六一号)から本所所蔵和学講談所本(一冊本、架番号四一三一─七四)に底本を改めた。両本はいずれも歌会詠草類を集成・部類したもので、同系統に属するが、御所本には見られない、歌題「神祇」以降の歌会・年次の注記を有することなどから、和学講談所本を善本であると判断したためである。
 和学講談所本の書誌事項は以下の通り。縦二七・一糎、横一九・三糎。料紙は楮紙、袋綴(四ツ目)、帙入りの一冊本。表紙・裏表紙は臙脂色で見返共紙。墨付一二九丁の前後に遊紙各一丁を付す。外題は打雲料紙の貼題箋で「柏玉集」、帙には貼題箋で「柏玉集 和学講談所本」とする。墨付の第一丁・第二丁に「和学講談所」方朱印、最終丁に「月明荘」方朱印各一を捺し、和学講談所から、弘文荘反町茂雄の手を経て、本所の架蔵に帰したことが分かる。
 和漢聯句御会の記事は、二月七日条にまとめたが、多くを紅舟美術館甲子庵文庫所蔵「連歌天水抄」(れ漢一)に拠った。同書は、同名の連歌伝書とは内容を全く異にする孤本で、大永四年~享禄三(一五三〇)年の和漢聯句御会・連歌御会の史料一六種を収める。京都大学国文学研究室・中国文学研究室編『室町後期和漢聯句作品集成』(臨川書店、二〇一〇年)によって初めて紹介された。今回の収録にあたって、竹島一希・大利直美の両氏に御仲介いただき、紅舟美術館館長筒井紅舟氏の御高配を賜り、原本調査の機会を得られた。記して謝意を表したい。
 書誌事項は以下の通り。料紙楮紙、袋綴(四ツ目)の二冊本。表紙・裏表紙は灰色の唐紙で見返共紙。上が墨付三九丁、下は三〇丁。外題はともに打付書で、「連哥天水抄 上」、「連哥天水抄 下」。上の墨付第一丁に「近松山蔵」の方朱印を捺す。
 本年、後柏原天皇は六十一歳の厄年にあたり、正月二十四日、清凉殿において、青蓮院入道尊鎮親王による北斗法が修せられた。修法の詳細は曼殊院所蔵「大永四年禁裏北斗法記」(本所写真帳六一七一・六二─七〇─一〇)に拠った。本書は「門葉記」にも収められており(八八、勤行法一〇補、北斗法二、本所謄写本二〇七二─二一─八八)、『大正新修大蔵経』には翻刻が掲載されている(巻第一六三勤行法補一之二・北斗法二)。両本は、曼殊院本に見られない奥書を有するが、梵字を悉く欠くなど、本文には問題なしとしない。ゆえに、本文は曼殊院本を底本とし、奥書を門葉記本に拠って補った。
 二月五日条には、足利義晴三条御所の上京への移築に関わる史料を収めた。正月二十八日、細川高国が御所の移築を提案し、義晴がこれを承諾したのをうけて、この日、作事方奉行等が集められ、費用の調達方法と移築先の候補地について、義晴から諮問がなされた。しかし、奉行等があげた候補地は悉く細川高国の反対にあい、二月一六日には、年内の移築見送りを決し、費用調達等に関する議論は続くものの、移築先の決定は翌五年にずれこんでしまった。本冊では、年末までの議論の経過を追い、以降の史料は大永五年に収めることとした。
 この時の御所の移築先は、洛中洛外図屏風歴博甲本に描かれる将軍御所の位置が、現実に即したものか、架空のものか、さらには歴博甲本の主題が何かという問題につながり、議論されてきた。しかし、末柄豊「大永五年に完成した将軍御所の所在地─洛中洛外図屏風歴博甲本の研究のために─」(『東京大学史料編纂所附属画像史料解析センター通信』第五四号、二〇一一年七月)が指摘するように、基本史料としては、「後鑑」所引「御作事日記」ではなく、天理図書館所蔵「御作事方日記」(「大舘記」五五)に拠るべきであり、本冊でも、本所写真帳(「大舘記」一三、六一七三─一八六─一三)を用いて収録した。
 三月六日、寝殿を新造した細川尹賢第に、義晴の御成が行われた。その詳細を伝える史料としては、『続群書類従』巻第六六二武家部八所収「大永四年細川亭御成記」が知られている。しかし、宮内庁書陵部所蔵松岡本「足利義晴細川亭御成記大永四」(二〇九函四〇八号)と対校したところ、冒頭の傍書等の誤読を正し、多くの文字の脱漏を補い得ることが分かったため、本冊では底本として松岡本を採用することとした。
 松岡本は、和学講談所会頭を務め、『群書類従』の編纂にも参加した有職故実家松岡辰方(一七六四─一八四〇)、その子で、同じく講談所の教授に任じた行義(一七九四─一八四八)、孫で、『古事類苑』の編纂に従事した明義(一八二六─一八九〇)が、代々収集・書写したものである。近世後期以降の新しい書写とはいいながら、他に見られない史料を含むなど、その価値は必ずしも低く見てよいものではない(設楽薫「室町幕府政所執事代の歴名について(其一)」〈『室町時代研究』第三号、二〇一一年一〇月〉等参照)。
 松岡本の書誌事項は以下の通り。縦二七・三糎、横一九・六糎、料紙は楮紙、袋綴(四ツ目)の一冊本。表紙・裏表紙は見返共紙で、墨付一一丁の前後に遊紙各一丁。外題は貼題箋で「細川亭御成記大永四年」とし、表紙見返には「足利義晴細川亭御成記」の貼紙を有する。遊紙に「松岡文庫」方朱印を捺す。
 本冊では二人の卒伝を立てた。一人は下総中山法華経寺第九世の日靚で、二月晦日に三六歳で没している。事績としては自筆の曼荼羅本尊が残る。もう一人は豊後に勢力を張った大友親治で、正月一九日の没である。
 親治は大友親繁の子、明応五年五月に大友家当主であった甥の義右、隠居していた兄の政親が相次いで没した後、大友家督を継いだ。前歴ははっきりしないが、肥後瑞光寺の僧侶であったという説もある。この家督継承にはきな臭さが付きまとったらしく、明応七年には、自身の子五郎(のちの義長)に、義右の筋目を継がせるという形での家督継承を図っている。しかし三年後の文亀元年には足利義高から、父備前守親治の譲与に任せてという形で、大友五郎義親(のちの義長)に豊後・筑後・豊前守護職と筑前・肥前両国の所領の安堵がなされており、結局、名分的にも大友家当主としての地位を獲得することとなった。大友家は親繁以前には兄弟・伯父甥間などでの相続がなされており、必ずしも嫡系が確立していなかったが、親繁に至って初めて父子間相続を実現、親治以降、嫡系相続を確立した。キリシタン大名として著名な義鎮は親治の曾孫にあたる。いわば親治は戦国大名大友氏の基礎を築いた人物であり、文亀元年に家督を息子の義長に譲ったのちも共同統治を行ない、永正一五年に義長が没したのちは、孫の親安(のちの義鑑)の後見をつとめた。その花押は大きく明応の頃のもの・義長と共同統治を行なっていた永正の頃のもの・晩年である大永の頃のものの三類型に分けられる。なお明応五年と明応六年以降のものとには若干の違いがあり、本冊では併せて四種の花押を掲げた。親治の主たる事績は各年次に綱文として立てられるのでそれに譲り、本書には年次比定のしにくい無年号文書を中心に、発給文書を「所領充行」「相続安堵」「官途授与」「感状」「雑」に分かって、時期に関わりなく月順に収録した。受給者の実名は確定しえないものが多い。たびたび豊前で衝突した大内義興が長期上洛して京都での活動を展開したのに対し、親治はもっぱら九州での活動に終始し、ために公家・寺社の日記にほとんどあらわれないのは一つの特徴である。また葬儀や回忌供養などに関わる史料は確認できなかった。なお本冊刊行後、小野文書(伝習館文庫、福岡県立伝習館高校所蔵)に一二通の親治書状があることを確認した。本来、本条に収録すべき文書も含まれている。併せて参照されたい。
 また本冊では、親治の孫大友親敦(初め親安)の任官等に関わる綱文を立てている(三月九日)。将軍義晴からの偏諱授与・修理大夫任官が主な内容であるが、それぞれがなされた日付は不明で、大友家側からの時々の御礼に対する、将軍や管領・伊勢氏などの返礼の書状等のみが残されている。ここでは、将軍が返礼した日にかけて綱文を立て、『大友家文書録』の文書の配列に従い、原文書がある場合には原文書のほうに差し替えた。後段に配した大友家の在京雑掌勝光寺光瓉が国元に出した書状によれば、はじめ親敦は偏諱を受け「義朔」となる予定であったが、将軍義晴が「よしはる」とよむため管領細川高国からクレームがつき、「義朔」をやめて「義鑑」とすることにしたという。大名家当主の実名が京都の交渉の過程で決められていることがうかがえ、興味深い。
(目次一〇頁、本文三六二頁、本体価格八、九〇〇円)
担当者 渡邉正男・須田牧子

『東京大学史料編纂所報』第47号 p.34-36