東京大学史料編纂所

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刊行物紹介

大日本史料 第六編之四十八

 本冊には、南朝長慶天皇の天授二年=北朝後円融天皇の永和二年(一三七六)の年末雑載のうち、社寺(承前)、公家、武家、諸家、贈答・往来、学芸、疾病・死没、荘園・諸職の項を収めた。
 社寺の項(九二頁)に収めた賀茂大明神宮縁起は永和二年の奥書を持つが、本文中に「日本神道之奥旨、唯一宗源之骨目也」と、吉田神道の影響を受けたと考えられる文言があり、注意が必要である。
 諸家の項(一一六頁)に収載した(永和二年)十二月二十一日土岐頼康(善忠)書状は、現在は田中穣氏旧蔵典籍古文書(以下、田中氏旧蔵文書)と醍醐寺文書に一紙ずつに分かれているが、もとは一通の書状であり、同じく収載した(永和二年)正月十八日の書状と同様、醍醐寺宝池院光助に送られたものであろう。
 田中氏旧蔵文書には「記者未詳〈至徳三年従正月至十二月/紙背同四年従正月至三月〉摘要日記」との表題が記されている(但し、実際は至徳四年四月までの記事が収載されている)。醍醐寺文書は、本来は田中氏旧蔵文書と一具の文書であり、表は永徳三年正月から至徳三年正月まで、紙背は至徳四年五月から康応元年四月までの記事が収載されており、これを整理すると以下のようになる。
 永徳三年正月~至徳三年正月  醍醐寺文書 表
 至徳三年正月~至徳三年十二月 田中氏旧蔵文書 表
 至徳三年十二月~至徳四年四月 田中氏旧蔵文書 紙背
 至徳四年四月~康応元年四月  醍醐寺文書 紙背
 両者ともに土岐頼康(法名善忠)の書状を料紙としており、内訳は以下のとおりで、歳末の巻数受取の礼状と新年慶賀の書状である。
 善忠書状封紙
 永和四年十二月二十三日善忠書状
 永和四年正月十八日善忠書状
 (永和三年カ)十二月二十二日善忠書状
 (永和三年カ)正月十九日善忠書状
 永和二年十二月二十一日善忠書状(前欠) 以上、醍醐寺文書
 (永和二年十二月二十一日)善忠書状(後欠)
 永和二年正月十八日善忠書状 以上、田中氏旧蔵文書
 諸家の項にはまた、東寺執行であった権少僧都定伊の十三回忌経供養表白を収載した(一二六頁)。定伊は代々東寺執行を輩出してきた一族の出身で、自身も貞治元年(一三六二)十一月に甥の栄済(後に道照)の譲りによって執行となったが、二年後の貞治三年九月に殺害された人物である。この定伊殺害は、栄済によるものとされ、同じく一族で栄済の兄弟である厳愉が執行に補任された。その後、応安七年(一三七四)に三宝院光済が東寺長者を退くと、定伊殺害は厳愉の仕業とされ栄済の子である栄暁を執行に補任する決定がなされるが、間もなく復帰した光済によって永和元年(一三七五)四月には再び厳愉が執行を安堵される。そして、この定伊殺害と執行職をめぐる相論は至徳二年(一三八五)にも行われている(酒井紀美「「獄前の死人…」をめぐって」(藤木久志・蔵持重裕編著『荘園と村を歩くⅡ』校倉書房、二〇〇四)を参照)。
 収載した史料は永和二年九月一日から四日にかけて行われた三日九時の理趣三昧の表白文である。理趣三昧は東寺供僧を中心として行われ、施主となった教遍は早経とする意向であったが、第三日日中の一時は経衆が主体となって引声を行い、第四日後夜の一時は満寺を召請して行われた。
 学芸の項には、近衛道嗣が覚王院宋縁の勧進に応じて、法華経見宝塔品を題とした和歌と哀傷和歌一首を記したという『愚管記』の記事を収めている(一三六頁)。なお勧進和歌については、諸家の項に収めた『迎陽記』所載の持明院保有の一回忌の願文(一二五頁)にも、法華経二十八品和歌に関する記述がある。
 また『後愚昧記』所載の洞院公定書状(一三六頁)は、公定が三条公忠に、自身が編纂している『尊卑分脈』の校閲を依頼したものである。
 東寺金剛蔵聖教目録から収載した大日経疏第一口筆の奥書(二八五頁)は、『大日本史料第六編之四十七』永和二年年末雑載社寺項に収載した東寺伝法会(三六六頁)の関連史料でもある。あわせて参照されたい。
 奥書を収載した結縁灌頂記(二八六頁)は、建武二年十月十二日に後京極院の三回忌として行われた結縁灌頂の記録であり、大阿闍梨を勤めた仁和寺勝宝院道意の記録を筆写したものである。本文は『大日本史料第六編之二』同日の条に収載されている。
 疾病・死没の項には南部信光・隆城寺貞雅・桂峯明昌・徹山旨廓・大方韶薫などの関係史料を収めた。このうち、桂峯明昌(二九七頁)は山科教言の近親かと考えられる尼僧であるが、足利義満がその三十三回忌に三百貫文を沙汰していることから、義満とも関係の深い人物であったと考えられる。
 荘園・諸職の項には播磨国矢野荘関係の史料が豊富であり、永和三年の惣荘一揆に至る荘園内外の動きを伝えている。まず特筆されるのは永和二年五月日の矢野荘供僧・学衆両方年貢并雑穀已下員数目録(三四六頁)である。この目録は貞和検注帳を基に作成され、これ以降、室町時代を通じての収取基準を確定したものと評価されている。一方、矢野荘学衆方給主代にして矢野荘の公文でもあった祐尊の非法が問題として取り上げられる。給主代としては公事銭未進などの不法を糾弾され、公文職としては所務に関与することが問題視されたが、いずれも嘆願の末、祐尊は両職の罷免を免れた。このような祐尊の窮地の背景には、矢野荘の有力名主である実長および彼を支持する荘家百姓との対立があったことが指摘されている。この対立が祐尊罷免を求める永和三年の強訴へと繋がってゆく。
 裏書を収載した近江国比良荘堺相論絵図(三二四頁)は北比良区所蔵本・伊藤晋氏所蔵本ともに『日本荘園絵図聚影一上 東日本一』(東京大学史料編纂所編、東京大学出版会、一九九五)に収載されている。
 また益田家文書の石見国益田本郷年貢田数目録帳二点(三九〇頁)は大部な史料であり、本所出版物である『大日本古文書 家わけ第二十二 益田家文書』に収載予定であることから、地目や年貢品目に注目しつつ抄録するにとどめた。
 なお、本冊の編纂には、前冊までと同様、研究支援推進員鈴木久美の協力を得ている。
(目次二頁、本文四一九頁、本体価格一〇、一〇〇円)
担当者 山家浩樹・高橋典幸・西田友広


『東京大学史料編纂所報』第47号p.33-34