東京大学史料編纂所

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刊行物紹介

大日本古文書 家わけ第二十二 益田家文書之四

 本冊には第七十軸から第七十九軸までの十巻分、八二三号から九一六号まで九四点の文書を収めた。
『益田家文書之一』の出版報告において詳述したように、益田家什書分と呼んでいる巻子装の部分は、六次にわたる文書整理を経て、現在の形に成巻されたものと考えられる。最初に、この経緯をもう一度簡単に確認することで本冊に収められた文書群を、益田家における文書の整理・編纂事業上に位置づけてみよう。
 第一軸から第五十一軸までは、上位権力からの安堵状や感状など、益田家にとって「公験」ともいうべき文書群が、益田家当主の代、あるいは足利将軍家や大内家・毛利家当主の代別に巻子に編成されている。そして、この段階で位置づけの難しかった古い年紀を持つ文書類は、第五十二軸「益田家往古末類証文八通」として成巻され、そこには藤原(永安カ)兼員着到状(四九六号、以下、号数は大日本古文書の文書番号)など、益田氏系図等では容易に位置づけられない人物の関係文書が収められたと推定できる。以上が第二次までの文書整理段階である。
 その後第三次の文書整理では、未成巻文書について、益田家当主別に「古書簡二百九十二通」を十五軸に分けて成巻し、これが第五十三軸から第六十七軸までの部分である。さらに残った文書について、第六十八軸から第七十一軸で、毛利隆元から吉就代までの毛利家当主、あるいは小早川・吉川両氏からの書状を巻子装とした。この後は、比較的紙数の多い知行関係の文書類を適宜巻子とした部分が第八十一軸まで続く。その後の「古書簡 時代未考分并取集物共五十五通」と題簽のある二巻(第八十二・八十三軸)以降第八十六軸までの部分は、一部近世文書が含まれるとはいえ、文書写も含めた益田元祥以前の文書をまとめようとした意図が読み取れ、「往古記録類」「古書簡写」などの名称がついている。以上の第三次の整理では、最後に第八十七軸として近世文書をまとめたと推測できる。
 第四次以降になると、益田元祥以前の文書を巻子装とする方針はうかがわれるが、現存する巻子編成から、文書整理の具体的な方針等を見出すことが難しくなる。益田家文書には、原則として巻子装にされ通番が付けられた「益田家什書」部分以外に、一万八千点以上の未成巻文書・書籍等がある。このなかには系図など、益田家にとっては貴重な史料も含まれており、系図は什書からはずされ別途まとめられたと推定できるが、他の近世文書について、成巻し什書に含める基準が何であったのかは今後考究するべき課題である。
 さて、以上の文書整理の過程からもわかるように、本冊収載の史料は、毛利家当主等からの書状拾遺(第七十軸)から始まり、土地支配関係の注文類など比較的長い文書を集めたという巻子構成になっていて、内容的なまとまりにはやや欠けるといえる。しかし①土地支配関係の注文類、②益田氏当主の置文・譲状類、③土代・控等の案文類、④その他、の四種に分けて、以下若干の解説を加えていく。
  ①土地支配関係の注文類
 このなかで最も注目できるものは、貞応二年三月日石見国中荘公惣田数注文案(八六一号、七十四軸)である。石見国大田文として著名なこの史料については、石井進氏や井上寛司氏によって既に詳しい分析がなされており、言及する研究文献は多数にのぼる。翻刻も『鎌倉遺文』をはじめいくつか既に存在し、その異同については略すが、ここで特に解説を加えたいのは、書写奥書ともいえる部分にある「茆庵」である。「正文茆庵ニ御留之」とあるように、大田文の正文は「茆庵」なる者のもとにあったことがわかるが、どのような存在なのかはこれまで不明であった。この「茆庵」は、益田家文書中では、つぎのような文書にでてくる。
 (ア)六五二号 杉武明書状
 就庄内儀、茆庵御遵行并 左京大夫(大内政弘)副状案文等、具拝見仕候、如此次第、
 去十四日於屋形各々談候、可然候条、尤珎重候、巨細定而杉勘解由左衛門(武道)
 尉可被申入候、恐惶謹言、
  十二月廿一日  (杉)武明(花押)  益田(宗兼)殿人々御中
 史料(ア)によれば、「茆庵御遵行」が「左京大夫(大内政弘に比定できる)副状」とともに益田氏側に存在したはずだが、益田家文書中には、文言からこれに明らかに該当すると判断できる遵行状は見当たらない。そこで、参考になるのが、『蔭凉軒日録』延徳三年十二月二十九日条、年越御祝の箇所にある「列参于御陳、奉公衆御対面、山名殿、同名茆庵息御対面、次相国住持以下四老御対面」という記載である。ここから茆庵が山名氏であることが推定できる。そのうえで再度益田家文書中に、山名氏発給文書と、その副状と呼びうるような左京大夫発給文書の組み合わせを捜してみると、つぎの二通の文書のみが該当するといえる。
 (イ)五九一号 山名政清書状
 石見国益田又次郎貞兼事、御神本惣領候、同国三隅中務少輔豊信事者、彼
 益田庶子之処、今度豊信、自最前敵方同心、種々致計略候、剰益田所帯、
 悉申給候、如此候上者、三隅一跡事、被仰付又次郎貞兼候者、忝可畏入候、
 以此旨可令披露給候、恐々謹言、
 (文明元年)十二月六日  (山名)政清(花押)
  飯尾左衛門大夫(爲脩)殿
 (ウ)一八四号 大内政弘書状
 石見国益田又次郎貞兼事、御神本惣領候、同国三隅中務少輔豊信事者、彼
 益田庶子候之処、今度豊信、自最前敵方同心、種々致計略候、(以下本文略)
 (文明元年)十二月六日  (大内)政弘(花押)
  飯尾左衛門大夫(爲脩)殿
 (イ)は書状形式だが、(ア)で「茆庵御遵行」と表現された文書とみなせる。また、これとほぼ同文・同日付で同一充所の(ウ)は、「左京大夫副状」であると判断できる。「上黒谷」「庄内」という言葉が直接文言として出てこないため、これまで(イ)(ウ)の組み合わせは了解していても、「茆庵」に関係づけることは慎重でなければならなかったが、『蔭凉軒日録』の記事を考慮すれば、「茆庵」は山名政清とほぼ確定できるであろう。そして一五世紀前半においては石見守護を代々家として継承していた山名政清のもとに、大田文正文が存在したことは充分に理解できるといえる。
 ところで同じ巻子に収められている永享十二年九月十日石見国諸郡段銭注文案(八六三号、七十四軸)は、山名氏奉行人の名が最後に記された山名氏作成の段銭台帳といえるが、書写の筆跡は八六一号惣田数注文案と同一と判断できる。八六三号の端裏書には、「石見国古帳引写、本書屋形え進之」とあり、「屋形」とは大内氏と推測できる。惣田数注文案には永正四年八月二日の書写奥書があるが、永正年間、益田宗兼は大内義興に従って在京していたから、その折、石見守護家であった山名政清のもとにある土地関係の台帳を筆写する機会を得たものと考えられる。八六三号の段銭注文案が石見国の「古帳」として大内義興に提出されたことは端裏書から確かであり、惣田数注文案も大内氏に提出された可能性がある。ただし、書写の目的および大内氏への提出の目的は確定できない。益田氏が、三隅氏等一族との係争地も含め、自己の所領について大内氏からの承認を受けるための証拠書類と仮定すると、二種の土地台帳上の記載に何らかの益田氏の知行を示す記述が有るはずだが、明らかなそうした記述は認められない。とすると、書写の目的自体が、大内氏の石見国支配に資するためであり、在京中の益田氏が自発的にか、あるいは大内氏側からの依頼かは別にして、二種の土地台帳を書写し、その控えを自己の手元にも残しつつ、大内氏に進上した可能性が考えられる。書写の目的については、さらに二種の土地台帳の記載を精査する必要があるが、益田家文書伝来の惣田数注文案の由来を、益田氏と国衙との関係等に求める必要はなくなったといえよう。むしろ守護家伝来文書に大田文が存在したこと、守護家では、段銭等の賦課のために新たな台帳を作成して保持していたこと、新たに守護相当の立場となった者は「古帳」としてそうした土地台帳類を入手しようとしたこと等が確認できたといえるのではないだろうか。
 一方、同じ土地台帳類でも、年月日未詳益田本郷田数注文(八六二号、七十四軸)は、益田氏が作成した益田氏の所領支配のためのものである。この注文については、井上寛司氏が詳しく分析しており、冒頭に「益田下本郷波田原田数注文」とあるが、内容的には益田本郷全体の田数注文であること、永和二年卯月二十二日の年紀を持つ二点の田数注文(八十軸・八十一軸)の記載内容と、ほぼ完全に対応していることなど、作成年代・作成者ともに不明な本注文を考えるうえで重要な指摘をしている。なお本注文では、一部の地域を除き「本百姓」「もうと(間人)」別に記載されている点が特に注目されよう。
 中世から近世へと益田氏の所領は変動していくが、天文十六年八月八日益田藤兼知行分注文案(八六四号、七十五軸)は、戦国期段階の益田氏の所領構成を示しており、それに続く益田元祥時代の知行付立(八六五号~八六八号、八七〇号、八七五号)は、第三十四・三十五軸の史料(三四六号~三六四号、第二冊に所収)とともに、その変化の経緯を跡づけるものである。なお、元祥代の土地支配を考える上で注目できる史料が、田中誠二氏によって毛利氏検地条目ではなく益田氏の内検地条目であることが明らかにされた慶長四年五月五日益田元祥内検地条目(八四八号、七十二軸)である。
  ②益田氏当主の置文・譲状類
 この類で最も注目できるのは、第七十三軸に収められた永徳三年八月十日祥兼(益田兼見)置文(八五三号)、応永三十三年七月十三日益田兼理置文(八五四号)、そして兼理没後の家督相続に関わって一族被官によって作成された永享七年七月二十五日禅幸等連署起請文(八五五号)である。福田栄次郎氏の研究をはじめ、既に多くの研究に利用されている史料であり、八五五号の連署起請文の百六名に及ぶ連署者についても福田氏による分析がある。なお、連署の名前部分は一筆であることを補足しておく。「指合」と書かれた後に花押をすえている者も一名いるなど、既に記載されている名前部分に各自花押を加えていったものと推測される。
 第七十六軸の益田兼見(祥兼)譲与関係文書も、他の同人譲状とともに注目できる、兼見の譲状としては、永和四年二月三日付の次郎兼世充二通(五九・六〇号、九軸)、兼弘充(五〇一号、五十二軸)一通の合わせて三通がまず存在する。また八五三号の永徳三年置文冒頭には、同日付で自筆を以て譲与した旨が記されており、嫡子兼世については同日付の譲状が残されている(六一号、九軸)。それを見ると、永和四年の譲状と比べ宅野別符地頭職が消え、納田郷内岡見村が新たに加えられている。この宅野別符については、本冊所収至徳元年十一月十三日祥兼譲状(八八五号、七十六軸)で、その惣領職が「たけた右馬助」にさしおかれたが、彼が「捨て退」いてしまったので、「兼信息女」に改めて譲与すると書かれている。永和四年から永徳三年の間に、何らかの事情で、嫡子兼世から、別人に渡す必要の生じたことがうかがわれる。第七十六軸には、他にも兼見(祥兼)の譲与関係の文書があり、貞治二年七月二十五日益田兼見置文(八七六号)はその最も早い時期のものである。また、応安三年八月十五日祥兼譲状(八八一号)、永和三年三月三日祥兼書状(八八二号)は、これに続く祥兼の譲与関係文書だが、かたや養子兼連充、かたや嫡孫長寿丸を被譲与者としており、その位置づけにはさらに慎重な考察が必要であろう。なお、八七六号文書の文書名を、本文の「このゆつり状・をきふみにまかせて」から譲状としたが、子息三人に対する譲状は別にあると解すべきで、この文書は置文に相当すると考えられ、文書名を上記のように訂正する。
 本冊には益田元祥の置文(八七一・八七二号、七十五軸)も収められている。寛永三年という晩年のもので、隠居分の処分を中心に書かれており、特に女子や年少の子息への気遣いが伝わる。また八六九号も、堅田元慶室となった元祥女子に、買得地から百石の地を毛利氏の許可のもとに与えたものである。なお、益田元祥の法名「紹カ」について若干補足すると、「カ」の字は、「圓」の崩しに近い字形のものと、「カ」とはっきり記されているものとがあり、紹圓の可能性もあるが、ここでは「カ」とした。
  ③土代・控等の案文類
 益田家文書の特徴の一つとして、普通廃棄されてしまうような文書類が残されている点がある。本冊においてもいくつかそうした例がみられ、第七十六軸の案文や土代がその一つである。
 たとえば、八九〇号・八九一号は、幕府よりの出陣要請に対する、益田貞兼の(文明十六年)十二月二十四日付請文案であるが、(文明十六年)十月十三日付厳島藤原宗親の請文案に加筆して作成した土代であることが内容からわかる。複数の国人からの請文徴集の際、請文の作成がこのような形で行われたことを示唆するものであり、文書の作成過程を示す貴重な史料といえよう。また、八八九号の益田兼堯請文案は、福屋氏一族内での二人の人物の死亡について、関係近隣国人に対して事情調査がなされたことを示していて、また、八九五号の益田宗兼等連署申状案(土代)は、幕府外様衆としての朋輩意識を示していて、ともに大変興味深いといえよう。
 さらに、不完全な形でしか残っていない文書をも保存している例として、八九六号があげられる。益田氏では伊勢貞遠書状として残したものと思われるが、本来は伊勢貞遠に充てた益田宗兼書状である。ところが、貞遠は「殿中伺候之間、料紙不弁候条、御裏ニ令申候」ということで、返事を宗兼書状の裏紙・本紙の各紙背という順で書いたため、料紙両面に文書のある形で残ったのである。しかも貞遠書状としては裏紙、当初の宗兼書状としては本紙に相当する一紙分が失われてしまったため、現在あるようなややわかりにくい姿となってしまった。しかし、八九六号は、こうした理由と形式で紙背の利用がなされたことを示す貴重な例といえよう。また八八八号益田兼理請文案(土代)では、「むかしはうらはん(裏判)にて申也、当世は面に判形申也、」という注記があるため、請文の場合は裏花押をすえるという文書作成上の作法が、応永末年のこの請文作成時には、過去のものとなっていた意識を読み取ることができる。なお、文書作成上の料紙等の使用法では、八八二号祥兼書状に、「ゆめゆめ御ひろうはあるましく候、わさと一し (紙)二申まいらせ候よし申させ給へ」とあり、この書状が端裏切封墨引を持つ本紙のみの一紙で、裏紙を用いない形であることにも注意される。
  ④ その他
 これまでに触れなかった文書で、まず注目できるのは、同名・被官が傘連判の署判をしている文明八年九月十五日高橋命千代契約状(八五七号、七十三軸)である。この高橋命千代は元服後元光と名乗るが、永正七年にも、在京する高橋元光と益田宗兼との間で相互扶助契約が結ばれている(六七五・六七六号)。この時、本来は同名・被官人も判形を以て契約を結ぶべきだが、彼らは在洛していないので当主ばかりが契約を交わす旨、記されている(六七六号)。当主相互、被官人相互の契約状が三隅氏との契約状では残っており(六四二・六四三号)、この形が益田氏における武家同士の相互扶助契約では本来の形式と意識されていたことがうかがわれる。その点で、[享禄三年]十月三十日益田氏老臣連署契約状案(八九九号、七十六軸)が(享禄三年)十月二十六日吉見氏老臣連署契約状(七一二号)に対応して出されたものであることは、被官人相互の契約のみであることが目を引き、河川の境界について用益権・水利権なども考慮しているその契約内容も、注目すべきものといえよう。
 ところで、内容的には前冊に関係史料の多いのが八九二号である。これは文明三年と推定される大内氏重臣連署状案で、応仁文明の乱時に、西軍方として上洛した大内政弘の留守を衝く形で挙兵した道頓(大内教幸)・大内武治方との合戦の状況を、政弘方重臣らが京都の政弘らに注進したものである。益田兼堯・貞兼父子は、陶弘護らとともに道頓と対戦したので、その関係でこの案文も入手し得たのかもしれないが、誤字等が多く良質の写しとはいえない。なお、この史料の紹介も含め、大内武治については和田秀作氏が詳しく分析している。
 さて近世文書では、軍役関係の文書がまとまって残っている点が注意される。まず八四九・八五〇号は、慶長五年八・九月分について本役人馬分の扶持方勘渡を申請したもので、豊臣方からは既に十日分を請取済みとあり、残り十九日分を毛利方に申請している。本役を超過する「分過」は益田氏の「手前馳走」ともあり、関ヶ原合戦直前における兵粮支給手続・支給状況を示していて極めて興味深い。つぎに長崎出兵に関する慶安二年の一連の規定、七十七・七十八軸の文書(九〇六~九一五号)がある。正保四年にポルトガル使節船が長崎に来航した事件をきっかけに、幕府は長崎警備の役をはじめとする沿岸警備体制を再度整備するとされる。毛利家も長崎奉行の要請によって長崎出兵を行う大名の一員として位置付けられるが、その対応として毛利家内において作成されたのがこの史料である。このうち九〇六号は、『山口県史 史料編 近世2』では、毛利家文庫の譜録(浦家)から採録されており、複数家臣の家に写が存在したことを示している。また、同史料集の191号史料は、毛利家文庫遠用物(近世前期五〇二号)から採録されているが、内容は九〇八・九〇七号・九一〇号とほぼ重なり、益田家文書では九〇九号が入っている位置に、別の「覚」が写されている。両者を比較すると、写としては益田家文書の方が良好で、九一〇号の八箇条目第二行が、遠用物写では一行脱落しているようである。なお、「問箇条」と「肩書物」の形式は、近世毛利家内でよく用いられた文書の形であり、『山口県史』に倣って文書名とした。最後の九一六号は、寛文九年の武具付立だが、合戦がなくなり五十年もたつと、備えた武具類も朽ち損じてしまい、新補・修復を行わざるをえない状況をよく示しており興味深い。なお、九〇四号の書状の差出者は不明であり、八七三・八七四号の史料の内容についても、充分な理解には未だ至っていないことを最後に記し、大方のご教示を乞う次第である。
(例言三頁、目次一〇頁、本文二五四頁、花押一覧一二丁、本体価格七、三〇〇円)
担当者 久留島典子


『東京大学史料編纂所報』第47号p.42-46