東京大学史料編纂所

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刊行物紹介

大日本古記録 御深心院関白記 五

 本冊には、永和元年(応安八年、一三七五)から永和四年(一三七八)までの暦記四年分を収めた。
 底本に用いたのは、陽明文庫所蔵の原本・原本断簡および写本と、天理大学附属天理図書館所蔵の原本断簡である。このうち永和元年春夏、同年秋冬、同二年春夏、同年秋冬、同三年春夏、同年秋冬、同四年春夏、同年秋冬については、半年分を一巻として、暦記の原形態を残した原本が陽明文庫に伝わる。陽明文庫第六函三四~四一号がこれに相当する。
 また、道嗣の自筆で、おそらく継紙として日記中に挿入されていたと推定される永和二年三月三日・同年八月十五日・同三年三月四日は、現在では別に製巻されているが、これを日記の当該箇所に戻して収めた。陽明文庫第六函二号がこれに相当する。この第六函二号に収められた三日分の日記は、それぞれ後筆で「文和二三三」「文和二八十五晴御會、子刻」「文和三三四」と端裏に記されているが、正しくはすべて文和ではなく、永和である。
 このうち、二年八月十五日條は十五夜和歌御會の記事のうち、漢文の部分のみが遺され、道嗣の詠草は写本によってのみ伝わっており、近衛政家の『後深心院殿御記』によって補った。
 同様に継紙として日記中に挿入されていたと推定される永和二年九月十三日條は、これも十三夜和歌御會の記事の内、漢文の部分のみが天理大学附属天理図書館に収蔵されており、これに続いていたと推定される詠草部分も『後深心院殿御記』によって補った。これらは、同日條全体が日記本体を離れた後、さらに詠草部分が切り離された可能性を示唆するものと考えられる。
 なお、永和元年三月二十三日の一部も『後深心院殿御記』による。
 そのほか、諸書の紙背に一紙ごとになって見出される暦記(多くは日記記事のほとんど無い具注暦)断簡を、陽明文庫所蔵の『旧例部類記』と『古今聴観』から抜き出し、それぞれ当該箇所に収めた。
 当該期は記主近衛道嗣の四十四歳から四十七歳、その息兼嗣の十五歳から十八歳にあたる。道嗣は從一位前関白左大臣で、しばしば後円融天皇の諮問に預るが、表立って活躍するより、むしろ息兼嗣の活躍を見守る姿勢であることは第四巻の時期と同様であり、兼嗣の奏慶等を詳細に記している。
 後円融天皇は永和元年十一月大嘗会を行い、和歌御會・詩御會を定期的に催し、朝儀の隆盛をはかろうとしている。三年十月から翌月にかけて疱瘡を病むが、十二月には回復する。
 兼嗣は永和元年十一月内大臣となり、二年正月には左近衛大将を兼ね、四年八月には右大臣となって活躍をはじめる。また、元年十一月には虎関師錬の影前に於いて受衣を行っている。
 一乗院に入った息=良昭は、元年正月に受戒し、同年十月には法華会竪義を遂げ、所作優美として満寺の賞賛を受けるが、二年十月乱入した六方衆に拉致され、三年五月になってようやく寺に戻っている。
 足利義満は四年三月に権大納言、同八月には右近衛大将を兼ねることになり、二年正月に准后となった二条良基の指導を受けながら、朝廷に祗候し始める。また義満は四年に室町邸、いわゆる花御所を造り、ここに移徙する。道嗣は邸内の糸桜を所望され、これを贈っている。
 延暦寺では三年・四年と合戦が行われ、紀州では四年十一月凶徒が蜂起し、義満は静謐に努めている。
 学芸の面では、道嗣は三年十月から四年七月にかけて、『隆興仏教編年通論』を、四年十一月からは『元亨釈書』を大龜契涪に講じさせている。兼嗣の虎関師錬影前での受衣とならんで、近衛家と東福寺の緊密な関係をうかがわせる。
 この他、細川頼之の母が三年三月に没すると、頼之が五旬の間、昼夜勤行を行って僧侶の顰蹙をかったこと、また四年四月、二条良基の息=師良が狂気を発しても、良基はこれに驚かず連歌の興を続けていたことなどが目をひく記事である。
 本冊編纂にあたり、財団法人陽明文庫・天理大学附属天理図書館には、原本等の調査・閲覧について特別の便宜を与えられた。
 また、陽明文庫長名和修氏より種々のご教示を賜った。記して感謝申し上げたい。
(例言二頁、目次二頁、本文四〇七頁、口絵二葉、定価一三、〇〇〇円、岩波書店発行)
担当者 田中博美


『東京大学史料編纂所報』第47号p.49-50