東京大学史料編纂所

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刊行物紹介

大日本近世史料 細川家史料二十三

 「細川忠利文書 十六」の本冊には、寛永十五年(一六三八)三月十五日から七月十八日までの幕府老中・役人・諸大名等諸方宛書状案四八八件を、公益財団法人永青文庫所蔵・熊本大学附属図書館寄託「公儀御書之案文」寛永十五年一月~五月(整理番号十─廿三─八)と「公儀御書案文」寛永十五年六月~九月(整理番号十─廿三─九)とを底本に、翻刻・校注した。
 天草・島原一揆の戦後処理期にかかる内容豊富な一次史料である。
 底本について
 底本中で「奉書御請之留」・「御奉書留」(おそらく、永青文庫細川家史料「御奉書之御請之御案文」、寛永十一─十八年分、整理番号十─廿四─二か)に別途記載とされる幕府年寄(老中)奉書への請書案は、墨で全文を抹消されている(四三一七・四五九四号文書)。「公儀御書案文」に収載されるべき諸方宛書状案は奉書への請状案と峻別され、転写後に整除の手が加えられているのである。また、三月十五日付の三淵藤利・一尾通尚への返書については、「被成御返書候、いかにも細書、右は御前にて御座候故、御案無之由、(一村)四兵衞申候、」と記される(四二四六)。忠利が全文を自筆した書状の文面は「公儀御書案文」に留められず、この場合では、右筆一村四兵衛からの言を得て、「公儀御書案文」が作成された経過を知ることができる。
 忠利の居所
 忠利は二月二十八日の原落城後、三月二日に熊本へ帰国した(二二冊─四一〇四号文書等)。父三斎忠興と息男光尚とは相次いで江戸に参府したが、本人は幕命で国に留められた。
 帰陣後、七月までに一度だけ領外に出、上使太田資宗および松平信綱・戸田氏銕から家光の賞詞伝達をうけるため、召されて豊前小倉城に赴いた。すなわち三月二十六日熊本を発し(四三二一)、二十九日小倉に到着した(四三四八・四三五四)。四月五日以前に小倉を発し(四三六三)、帰路に領内阿蘇郡南郷で湯治し(四三六七─四三七一)、四月十日熊本へ帰着している(四三七二)。
 以後は上方から鍼医師坂以策を招き(四四八一等)、服薬・灸治を重ねて健康回復に努めつつ、国元にあった。
 記載の内容
 本冊中の宛先・内容とも前冊まで同様多彩で、情報収集・伝達の意とも極めて旺盛である。ここでは、いくつかの事項を摘記・紹介する。
 大きな要素は、天草・島原一揆の戦後処理関係の事項である。
 忠利は、家光から細川勢の軍功を労われつつも(四三八四等)、自勢の功績が過大視されないよう慎重で(四三四七・四三五三等)、一番乗りを自称しない姿勢を諸方に伝えている(四月十二日付、中川重良宛、四三九〇等)。突出した評判を危惧する江戸の忠興からの勧告(四月五日付、忠利宛忠興書状、六冊─一五一八号)受領以前からの心構えを確認することができる。
 細川領内での原城に籠った者の係累詮議の経過も記される(四四二〇・四五九四・四五九六)。また幕命に従い、肥後領内の古城を探索せしめ、合志城跡の堀を埋め、加藤清正時代に破却された佐敷・水俣両城跡の石垣の残りを除去している(四四八六・四四八七・四五七九)。一揆の抵抗拠点としての利用の芽を断つ処置で、この時期に九州各地の城郭遺構が損なわれたが、その経過・具体像を知り得る事例である。
 一揆の鎮圧は、大規模な動員によるものであった。忠利は、九州地方への影響を懸念しつつ(四三五八・四四二三)、春麦の収穫に満足し(四四三〇)、自領内等からの糧米確保への苦心と、陣後の上方の係累等へ廻米した経緯とを陳べてもいる(四四八九)。
 一揆を起こした島原藩主松倉勝家の改易(四三八〇・四四〇〇)と江戸召喚(四四九八)・詮議の様子(四六〇七)や、寺沢堅高の天草領収公(四四〇〇)と唐津本領安堵(四四一七)、新領主の決定等についても、詳細である。
 幕府による転封を察知し(四四四六等)、島原へ入部した高力忠房(四五八八)、天草冨岡へ入部した山崎家治(四五五三・四五五八・四六七五)へ音信を届け、忠房には大坂町奉行曽我古祐の意も受け米を用立て(四五八三・四五八八)、家治の新領地天草での存続を斟酌する(四六〇〇)。
 原城総攻時の軍令違反を問われ、江戸へ召喚された鍋島勝茂と榊原職直の行く末は、一大関心事であった。忠利は、当人や諸方に発信を重ねて情報収集に努め、江戸での鍋島の出仕停止、榊原父子の閉門処分決定(四七二三等)までを詳しく綴っている。
 交友関係では、中川重良に幼少期からの友誼を説き(四四二八・四七一五)、黒田忠之との関係を牽制する言(四四二八)が興味深い。細川忠興と黒田長政の代からの両家の確執継続を垣間見ることができる。榊原職直については、「古き伴たち」として(四七〇九)、格別な友誼を示す。この他、細川家に参陣して討死した牢人の遺児を探索し、召し抱えようとしている(四四二四・四六三五)。
 大名家の改易・減封に伴い発生した牢人に関しても、松倉家牢人を領内から払った有馬豊氏にその意を照会し(四五五三)、京極忠高遺臣の出雲松江松平直政による召し抱えを察知するなど(四四五七・四五一〇)、少なからぬ関心を示している。
 江戸の強風・水害の様相(四四九八等)や「新銭」(寛永通宝)の肥後細川領・久留米有馬領での流通事情についての記載(四五五三・四六〇五)も注意したい点である。
 忠利の嗜好面では、豊後府内から故竹中重利所持の血統の鷹犬を取り寄せた際の「鷹よりハ犬すき」との言が特記できる(四六八九)。さらに、療養の慰みに、国元・熊本で数寄屋と庭とを作ったことも挙げ得る(四六九〇等)。
   人名比定
 人名注については、巻末の「人名一覧」を参照願いたい。本冊から、典拠史料の属する細川家以外の諸大名家史料の史料群名を、読者の便に掲出するようにした。
(例言二頁、目次三六頁、本文四八〇頁、二〇一二年三月二七日発行、東京大学出版会発売、本体価格一五、一〇〇円)
担当者 山口和夫・木村直樹


『東京大学史料編纂所報』第47号p.37-39