大日本史料 第八編之四十一

本冊には、延徳二年(一四九〇)是歳条および年末雑載のうち天文・災異、神社に関する史料を収録した。
 本冊は、延徳二年の暦年の最終冊であると同時に、年末雑載の初冊ということになる。延徳二年については、一九八九年刊行の第八編之三十四から二〇〇七年刊行の四十まで七冊を費やして正月から十二月までの史料を収めてきたが、本冊の是歳条(一〜二九頁)をもって暦年の編纂はひとまず終わることになる。ひとまずというのは、年末雑載のあとに補遺を収める必要があると認識していることにもとづいている。直近の延徳元年の場合、暦年に四冊、年末雑載に四冊を費やしており、暦年と年末雑載との分量は同等になっている。延徳二年の場合、有力者の薨卒の記事が多かったために暦年が浩瀚に及んだことを考慮しても、年末雑載は少なくとも五冊にわたるものと考えられる。
 是歳条の過半は、対馬宗貞国以下の朝鮮への遣使、および「倭賊」の朝鮮半島南岸における略奪についての史料で、いずれも『成宗大王実録』によって立項してある。これらの編纂にあたっては、大韓民国国史編纂委員会がウェブサイト上で公開している朝鮮王朝実録の全文データベースが非常に有用であった。
 年末雑載天文・災異条には、太陽の異変・火柱・地震・火事などの記事を収めた。いずれもごく簡単なもので、特段注目すべき点は見当たらない。
 年末雑載神社条には、神社における諸職補任・神事・参詣・往来・贈答・造営・紛議などに関する史料を収めた。上記の内容ごとに分かったうえ、それぞれを神社ごとにまとめて掲出してある。
 全体をながめると、質量ともに北野社に関する史料が他を圧していることがわかる。これは、『北野社家引付』(記主松梅院禅予。『北野社家日記』の名称で史料纂集に収録されている)および『北野社家目代日記』(記主盛増。『目代盛増日記』の名称で北野天満宮史料に収録されている)という同社の祠官の筆録にかかる詳細な日記が二種類も伝存することに大きな理由がある。さらに、前者には全紙にわたって紙背文書が存在し(ただし、裏打紙によって判読できないものや、年記が不詳のために収載できないものも少なくない。特に三月十七日の社殿炎上に関係する文書が多く、補遺に収載することを予定している)、後者の紙背には、同記の草稿本が残されている(『目代盛増日記紙背文書』として北野天満宮史料に収録される。大日本史料では『北野社家目代日記延徳二年紙背』のように掲出してある)。
 これらを比較対照することによって、当該期の北野社の様相については詳細な情報を得ることが可能である。また、延徳二年三月十七日、北野社に閉籠していた土一揆が幕府から攻撃をうけ、火が放たれて社殿が悉く炎上したため(同日第六条。第八編之三十六、八一〜一五〇頁)、神事は例年よりも簡略になっているが、異例であるだけに逆に詳しい記載が残る場合もある。
 なお、『北野社家目代日記紙背』については、北野天満宮史料とは異なる復元案にもとづいて編纂を行ったので、その点について簡単に対照を示しておきたい。変更を加えたのは、いずれも『北野目代日記延徳三年紙背』であり、矢印の上段が北野天満宮史料における比定で、下段が本書における比定である。
  第 七紙裏 八月一日 →八月晦日  (二年記第五〇紙裏から接続)
  第一〇紙裏 八月   →八月晦日  (三年記第七紙裏から接続)
  第一四紙裏 六月   →六月二六日(三年記第二三紙裏から接続)
  第一七紙裏 七月八日 →七月一〇日(三年記第二一紙裏から接続)
  第二二紙裏 六月二六日→七月一〇日(三年記第一七紙裏から接続)
  第二六紙裏 九月一三日→一〇月一三日
 北野社についでは、摂津住吉社に関する記事が多い。いずれも歴代残闕日記所収の『津守氏昭記』に拠るものだが、同記の性格・伝来については、末柄「本所所蔵『津守氏昭記』」(『東京大学史料編纂所研究紀要』九・一〇号、一九九九・二〇〇〇年)を参照されたい。
 それ以外では、八幡山上報恩寺の僧法印権大僧都空円(『東寺過去帳』永正二年八月十五日空澄僧都の項を参照)が五月初旬にまとめた石清水八幡宮服忌令(『石清水文書』田中文書)が注目に価しよう。根本は鎌倉時代に作成されたものを継受しているのだが、室町時代に加えられた部分もある。たとえば、大根について「辛ノ専一」なので穢になるか否かについて足利義持から下問があった際、祠官田中融清は「当宮元日之御物」で「円鏡上在之」のだから、穢の筈がないと回答したことなどが見えている。
(目次二頁、本文三三九頁、本体価格七、九〇〇円)
担当者 末柄 豊・川本慎自

『東京大学史料編纂所報』第46号 p.40-41