東京大学史料編纂所

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刊行物紹介

大日本古文書 家わけ第十六 島津家文書之四

 本所所蔵の島津家文書は、『大日本古文書 家わけ第十六 島津家文書』として、第一冊が昭和十七年三月、第二冊が昭和二十八年三月、第三冊が昭和四十一年二月にそれぞれ刊行された。その後、島津家文書は、昭和五十二年〜同六十一年、平成八年〜同十二年の二度におよぶ整理事業を経て、平成十四年、国宝に指定された。これをうけ、史料編纂所では、長らく刊行事業が中断されていた島津家文書の刊行を再開することになった。
 この第四冊では、以下の御文書に収載されている文書を収めた(カッコ内は架蔵番号)。
  ①御文書 家久公・四十二通 巻五 (3─16)
  ②御文書 光久公・四十通 巻六  (3─17)
  ③御文書 勝久公貴久公義久公・六十三通 巻一 (4─14)
  ④御文書 義久公義弘公・四十九通 巻二 (4─15)
  ⑤御文書 義弘公一・四十二通 巻三 (4─16)
  ⑥御文書 義弘公二・四十四通 巻四 (4─17)b
 ①②は、黒漆塗第三番箱に収められている巻子で、第三冊からの継続である。第三番箱に収められた巻子群は、主に島津家当主に関わる最重要文書を収載したもので、①②には家久代、光久代の家中への條書や家老中宛藩主書状、年頭吉書などが収められている。
 ③④⑤⑥は、黒漆塗箱第二番箱に収められた巻子である。第二番箱の巻子は、これまで第二冊に十巻(「御文書 日新公」〜「御文書 家久公 巻三」)、第三冊に三巻(「他家文書」二巻および「御文書 明・阿蘭陀・朝鮮・暹羅」)が収められている。本冊に収めたのは、以上とは別の観点で整理された巻子群で、おもに他の大名からの書状等を収めたものである。巻末に、花押一覧および印章一覧を掲載した。第二番箱には、本冊に収録した巻子に続く九巻の巻子があり、継続して刊行する予定である。
 以下、巻子ごとにその内容を簡単に紹介する。
 〔御文書 家久公・四十二通 巻五〕
 本巻は、初代藩主島津家久の書状、書状案、袖判條書、覚書、年頭吉書、和歌などが収められている。注目されるものは、一五四九号文書から一五五四号文書にわたる家老比志島国隆処分関係の史料、一五五七号文書から一五六二号文書にかけての寛永内検関係の史料である。寛永内検では、鬮取りで知行地を再配分し、さらに知行高に応じた軍役を務めることが義務だとされている。
 〔御文書 光久公・四十通 巻六〕
 初代藩主家久は、慶長十五年二月二十三日に享年六十三で没し、後を嫡子光久が相続した。本巻では、慶長十四年に勃発した天草・島原一揆への対応を父家久に報告する書状のほか、光久留守中の鹿児島および江戸藩邸に与えた條書、年頭吉書などが収められている。一五九五号文書は肥後熊本藩主細川忠利の起請文案で、一五九六号文書によると、この起請文原本は家久と取り交わしたものだったが、父家久が死去したからには不要だとして互いに返却したことを示している。
 〔御文書 勝久公貴久公義久公・六十三通 巻一〕
 本巻は、戦国期の島津家当主、勝久、貴久、義久宛の戦国大名書状を収めている。勝久関係では大内義興、貴久関係では大友宗麟、志岐麟泉、相良頼房、土持親成、甲斐宗運ら九州の戦国大名書状の原本が収められている。これらの大名の文書は、それほど残存例が多くないだけに貴重な史料となっている。義久に対しては、島津家との取次にあたった石田三成の書状が注目される。挿入図版とした一六七七号文書は、義久が秀吉に拝謁した時のもので、三成の自筆書状だと推測される。同じく挿入図版の一六七八号文書は、琉球国王尚寧書状である。「中山王」の署名があり、「首里之印」という朱印が捺されたもので、内容的には国書であるが、文書様式から書状とした。
 〔御文書 義久公義弘公・四十九通 巻二〕
 文禄二年から文禄三年に至る義弘関係文書が収められている。文禄の役において、義弘・久保父子が軍勢が集まらず賃船で朝鮮に渡海するという失態を演じ、さらにその後行われた長岡藤孝による島津領仕置が不適切であったことから、島津家取次石田三成の家臣安宅秀安による島津家に対する指導が行われる。本巻には、その安宅の書状が七通収められており、島津家の困難な状況を伝えてくれる。特に一七八二号文書では、島津家中が安宅を敵視していたため、安宅も思うような指導ができず、困惑している様子がわかる。また、文禄二年九月八日、朝鮮・巨済島において久保が病没したため、諸方から悔やみの書状が寄せられている。
 〔御文書 義弘公二・四十四通 巻四〕
 文禄三年から慶長三年までの義弘関係文書が収められている。久保の死去の後、舎弟忠恒(後の家久)が嫡子の地位を継ぎ、同三年十月、朝鮮に渡海した。文禄四年九月、義弘は、島津領太閤検地の処理のため忠恒を残して帰国する。このあたりの事情は、一七九六文書に詳しい。慶長二年二月上旬、ふたたび朝鮮への渡海を命じられた義弘は、領地帖佐を発ち、久見崎から天草、平戸、対馬を経て釜山に入る。ここで宇喜多秀家と対面した後、加徳島の島津家の陣に到着した。この後、義弘・忠恒父子は、最後まで朝鮮に留まって戦う。本巻には、文禄太閤検地の処理に関する文書、朝鮮において他大名とやりとりした書状、秀吉危篤にあたって豊臣氏奉行人から送られた連署状などが収められている。
 (例言二頁、目次二一頁、本文二九七頁、花押一覧七頁、印章一覧一頁、挿入図版二葉、本体価格八、二〇〇円)
担当者 山本博文


『東京大学史料編纂所報』第46号p.45-46