東京大学史料編纂所

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刊行物紹介

大日本古記録 斎藤月岑日記八

 本冊には、日記原本第二七冊から第三〇冊まで、文久三年(一八六三)から慶応二年(一八六六)にわたる四年分を収めた。これは月岑が五九歳から六二歳(満年齢)の時期にあたる。激動する幕末の政治社会情勢のなかで、日記の記載内容も増加し、本冊はこれまでで最多の頁数となった。そこで本紹介では、まず政治・社会関係の主立った記事について年次を逐って紹介し、その後に青物役所・家族親族・仲間名主・文化活動などに関する主要記事について紹介する。
 文久三年二月、将軍徳川家茂は二二九年ぶりとなる上洛の途に就いた。その出立前後には町名主らが町々見廻りなどを行っている。三月にイギリス艦隊が横浜に来航すると、江戸でも危機感が高まり、諸家の奥方が国元へ立ち退き、人々が道具を近在の知人へ預ける事態となった。将軍不在の中、浪士が徘徊して騒ぐ状況となり、四月に浪士組取締役の清川八郎が殺害されると、市中取締にあたる大名が浪士の捕縛にかかり、月岑も支配町の見廻りに出ている。幕府は浪士組を新徴組と改称し、江戸市中の警備を命じていた庄内藩主酒井忠篤に統率させた(維新史料綱要データベース)。攘夷の期限とされた五月一〇日以降、下関での砲撃、京都での姉小路公知殺害、薩英戦争、八月一八日の政変など攘夷をめぐる事件が相次いだが、これら江戸以外での出来事についても日記には正確に記されている。一一月には本丸、二の丸が炎上し、その直後に打壊しがあったほか、江戸中に張札がみられるようになった。同月には浪人人別書上の提出が命じられるとともに、酒井忠篤の家来が見廻りをする際の確認のため、印鑑札が町々に渡された。新徴組や酒井の家来は口論の内済や浪人の捕縛にあたっており、従来なかったやり方で江戸の治安が維持された
 翌文久四年(三月一日元治と改元)は、前年一二月末に将軍家茂が再び上洛したため、年頭の御城御礼がない異例の年明けとなった。三月末に水戸藩内の攘夷派が筑波山で挙兵し下野国へ進むと、幕府はその追討に乗り出した。この件については主要記事をまとめた索引に毎月挙げられ、妻が水戸藩関係者であった月岑の関心の高さが知られる。また七月に京都で禁門の変が起きると、翌月江戸では長州藩の屋敷の取壊しが命じられた。火消人足だけでなく名主一同も出るよう指示があったため月岑も出役し、材木の引取方について湯屋株主の受印を取っている。「終日上方一件書物借用之分うつす」(九月一六日条)、「長州一件帳かりる」(一二月一四日条)という記述から、月岑が情報取集に努めていたことがわかる。なお一〇月には、将軍上洛が済んだ祝儀として六万三千両が江戸市中に下されることになり、元柳橋で受け取りの上、支配町々へ割り渡している。
 元治二年は四月七日慶応と改元。将軍家茂は五月一六日江戸を出立して上方へ向かった。五月初め以降、江戸町人への御用金賦課の件で町奉行所から呼び出しが頻繁にあり、また名主や該当町人による寄合が持たれた。そうした中、米価は六月以降騰貴し、七月には町会所より御救が実施されたが、その調査にも月岑は関わった。この年九月一五日の神田明神祭礼は、文久三年に続き将軍不在を理由に幕府から休止を申し渡されていた(元治元年と慶応二年は蔭祭年)。ところが九月一四日、これに不満を持つ者が許可無く出し一八本を繰り出す事件がおこった。その中心は「祭礼町若イ者」で、彼らと行事・名主は一〇月二日、南町奉行所で過料を申し渡された。一二月一二日には浅草で火事があり、雷門・花川戸から黒舟町までと本所三つ目辺まで焼ける大火となった。
 慶応二年は元治元年と同様、将軍不在の正月であった。第二次長州征討を前にして米価は四月頃から上昇し、町会所では五月下旬に払米を検討していたが、その実施に先立ち、五月二八日の品川宿を皮切りに打壊しが始まった。打壊しは江戸市中および近在に波及し、神田周辺でも「四時より急寄合しからき、夜明かへる、頭取よぶ、十一番不残、木むら・柿(沢)・橋(本)出る」(六月一日条)、「南臨時廻五島禄蔵殿、酒井左衛門尉殿人数之内ニ切害せられ、三河丁一丁メ北之方往還ニ倒レ、翌日御検使五頃の事也」、「廻方明田へ逃込、組合一同川井ニ而夜明し」(六月三日条)と記されるほど緊迫した状況になった。町名主たちは火消人足を引き連れて町々を見廻り、また各所で施しが行われた。幕府は六月六日より別手組を市中に出役させ、町会所では同日御救銭を実施した。これらの対応により、六月中旬に江戸市中はいったん沈静化した。こうした中の七月四日、町奉行所から町方へ歩兵千人雇い入れが伝えられ、三河町分の歩兵は雉子町の駕籠屋松本儀兵衛が請け負い、八月二六日までに大手前の屯所に入った。すでにこれより前の七月二〇日に徳川家茂は没し、八月二一日には征長停止が発表されていたが、彼らを含む歩兵は実際に出征した(一〇月一二日条に芸州より帰着とあり)。米高値による不穏な情勢は続いており、町奉行所は八月二六日に世話掛名主を呼び出し、米について対策を講じるよう指示した。名主たちは裏店を廻って御救払米の対象となる者を調査するとともに、米を買い入れる物持についてもリストアップした。九月半ば以降、「窮民」「貧民」が集まって払米を求める騒動が生じ、町会所では先ず回向院や谷中天王寺で炊き出しを行い、次いで御救小屋への収容を布達した。月岑も支配町からの小屋入願を集約したが、その数は三河町四丁目だけで三〇人に上った。なおこの年は一〇月中から一二月二日まで五〇日雨が降らなかったため、江戸では頻繁に火事が発生し、中でも一一月九日深夜に元乗物町から出火した火事は、西神田・本町・石町・京橋辺・八丁堀辺まで一四〇余町を焼く大火となった。月岑は妻子を片岡宅へ一時避難させたが、結果的には月岑宅は無事であった。
 月岑が取締役を務める青物役所の関係では、山葵や辛子の不注進、納人が前借願や納方加入のため出入する様子などが記されている。元治元年一二月には、「昆布一件」が六年ぶりにようやく御下げになったという記事がある。慶応元年閏五月末には、大橋会所(新大橋向諸色会所)から突然、町名主が交代で出勤するよう命じられたが、六月末にこれも突然、出役廃止となった。また、慶応二年六月には御納屋扶持米の滞りが発生しており、同七月には賄方役人多数が小筒組へ役替となるなど、町奉行の頻繁な交代とあわせて、落ち着かない状況になっていたことがうかがえる。
 家族関係についてみると、イギリス艦隊来航に際して月岑は長持や本箱を五兵衛新田や大門宿に預け、家族や親類を千住河原町の長芋納人のもとへ一旦立ち退かせた後、妻おまちと息子松之助を水戸に疎開させている(四月晦日〜九月八日)。息子官之助は、幼少時から泊りに行っていた瀧山町の熊二郎・おくめ夫妻のもとで暮らすようになり、文久三年一一月(一五歳)に元服すると、翌元治元年三月に月岑は官之助の人別を当時住んでいた南伝馬町へ送った。しかし官之助は翌年六月に病死した。また、名主見習を務めていた息子喜之助は、元治元年九月(一八歳)以降、何度か見合いをしている。口絵に収めた挿絵は、おまち(四六歳?)の脇に松之助(六歳)、後ろに喜之助(一八歳)を描いたものとみられる。これは、おまちと二人の息子が外神田の寄席に行ったという元治元年一二月一一日条の記事にあわせて、月岑が妻子を揃って描いた唯一の絵である。なお、神宝方御用達の平野与十郎と再婚した娘おつねは、文久三年に入ると体調を崩し、一一月に月岑宅で病死した。これで月岑は娘全てに先立たれることとなった。
 他の町名主の動向として、月岑の姉が嫁いだ東湊町名主の遠藤家では、小網町一丁目名主となる普勝伊兵衛の甥の八十吉が家督を継いだが出奔したため、おまちの縁者である今村兼三が婿養子に行き、文久三年三月に家督願を出し、元治元年九月には男子が出生した。また、多町二丁目名主の田上家でも定五郎が亡くなり、文久三年六月に養子を迎えて家督願提出を進め、元治元年八月には男子が出生した。普勝家では、八十吉のほか、その母で御左官の安間源太夫と再婚したおまさ(当伊兵衛の姉)が文久三年七月までには実家に戻っている。また月岑の亡き姉の夫で、元名主の伊周が元治元年一二月に七一才で亡くなった。このほか、慶応元年には佐柄木町名主佐柄木の代替わり、町年寄喜多村彦之丞の病死、同じく舘市右衛門の病死と同家の家督があり、慶応二年には蝋燭町名主平田の代替わり、喜多村弥太郎の家督があった。なお、慶応元年一二月には舘より、名主幼年者願いは成らずと申渡しがあった。また、慶応二年一月三〇日条に「木村氏へ撰要三冊借す」とあるのが目をひく。「木村氏」は新革屋町名主木村定次郎、「撰要」は『類聚撰要』、「借す」は「貸す」の意味であろう。「撰要」の文字が見えるのは、既刊分ではここだけである。
 文化的活動についてみると、文久三年には家財の疎開に加えて蔵書百巻余を本屋に売渡しているが、元治元年には「歩さうし」を年玉に配り、嬉遊笑覧を筆写したほか、銀町清正公の手水鉢に刻む奉納の二字を別当に依頼されて認め、奉燈の口絵を描いて日記の挿絵にも残している。慶応二年三月二一日には、月岑や家族もしばしば見物に出かけていた南伝馬町の寄席佐の松が召し捕らえられた記事、同月二七日には北町奉行所へ歌舞伎役者や座元が呼び出され、呉服橋付近に見物が群集したとの記事がある。
(口絵一葉、例言一頁、目次一頁、本文三八九頁、本体価格一一、〇〇〇円)
担当者 鶴田 啓・杉森玲子


『東京大学史料編纂所報』第46号p.53-55