大日本古記録 中右記 別巻

本册は、「中右記 別巻 九条家本中右記部類」として、九条家旧蔵本「中右記部類」およびその系統に属すると推定される「中右記部類」を収めた。
 「中右記」の記主藤原宗忠(一〇六二─一一四一)は、五十九歳の保安元年(一一二〇)六月に、過去の日記の全体を書写し類従した「私暦記部類十五帙百六十巻」を完成し、目録を作成した。一方で、九条家に所蔵された平安末─鎌倉初期の古写本「中右記部類」十二巻が現存している。そのため、九条家旧蔵本が保安元年に宗忠が作成した「私暦記部類」の古写本であるとする考え方もあったが、全体の巻数・内容構成・収載年次などの点から、両者を同一とみることは難しい。
 九条本(以下九条家旧蔵本の祖本を称する)の成立については、次のように考えられる。宗忠は、おそらくは「私暦記部類」の収載記事を基礎としてそこから記事を精選するとともに、保安元年以後の日記および必要と思われる他の史料も材料として利用して、九条本を作成した。作成にあたっては、単に過去の日記の記事を引用掲載するのではなく、場合により原文を書き改め、稀ではあるが文章を追加し、各行事に儀式次第を付け加えて、儀式先例集としての性格を持つ部類記とした。作成された時期は、「私暦記部類」成立から十年後、宗忠が六十九ー七十歳の大治五年(一一三〇)から天承元年(一一三一)ころと推定される(詳細については、拙稿「「中右記部類」について」(皆川完一編『古代中世史料学研究』下、吉川弘文館、一九九八年)参照)。
 各巻の収載項目は次のとおりである。
第五「年中行事五春五」二月 釈奠 列見 三月 御燈
第七「年中行事七秋上」七月 相撲 臨時五番
第九「年中行事九冬」十月 射場始 十一月 御暦奏 十二月 荷前 追儺
第十「毎年例事上」官奏 所充申文 位禄定 大粮申文 政
第十六「年中仏事一」諸寺修正 御斎会 太元帥法 円宗寺最勝会 春季仁王会 秋季仁王会
第十七「年中仏事二」御灌仏 法勝寺三十講 円宗寺御八講 最勝講 盂蘭盆講 尊勝寺御八講
第十八「年中仏事三」興福寺維摩会 法勝寺大乗会 法成寺八講 円宗寺法華会 御仏名
第十九「臨時神事一」奉幣 内宮主 大神宮
第二十「臨時神事二」諸社 御祭并祓
第二十七「臨時神事九」斎宮群行下
第二十八「臨時神事十」公卿勅使 宇佐使
第二十九「臨時仏事一」諸寺供養
 古写本の書写の程度は良いとはいえず、明らかな誤写・書落し、あるいは日付の改行もれも散見される。また前述の儀式次第のうち、一部は押紙の形で書写されており、欠落した場合や、本来とは別の場所に添付されている場合がみられる。次第ではないが、第七「相撲」に付されていた一条朝以来の相撲の最手を列記した「最手歴名」の押紙が剥離し、現在は群馬県立歴史博物館に所蔵されている。
 翻刻にあたり、欠損の補訂には基本的には九条家旧蔵新写本(宮内庁書陵部所蔵『中右記』全五十冊のうち十二冊)を用いた。また校訂にあたり、本記の現存箇所で対校する場合は、原則として大日本古記録本を用いたが、未刊の年次については、宮内庁書陵部所蔵九条家旧蔵「中右記」(古写本・新写本)・財団法人陽明文庫所蔵「中右記」(古写本)・東山御文庫収蔵「中右記」(新写本)等を用いた。
 以上の十二巻のほか、九条本から抄出された、あるいは派生したと考えられる部類が存在している。
 うち二点は、ともに現在東山御文庫に所蔵される巻子本で、外題はなく、内題を「年中行事一」とし、一巻は「口言部類」、一巻は「年中行事」の題名を付されている(拙稿「年中行事/口言部類」解説、毎日新聞社至宝委員会事務局編『東山御文庫御物』四所収、二〇〇〇)。
 収載項目・奥書は次のとおりである。
「口言部類」
(収載項目)元日 二宮大饗 臨時客 叙位 女叙位
(奥書)
 「交了、/建暦二年(一二一二)八月六日書写之、/散位藤原国俊」
「年中行事」
(収載項目)元日 朝覲行幸
(奥書)
 「承元三年(一二〇九)八月十日書写之、/同十八日校合了、」
 いずれも裏書として儀式次第を載せており、共通する「元日」の項目は、「元日節会」「小朝拝」の次第を含め基本的に同文である。「口言部類」は『続群書類従』(巻二百五十一)に収載され、その刊本は「年中行事」の「口言部類」と重複しない部分も掲載している。この二巻は、内題の表記の共通性や本記の文章の書換え、儀式次第の付載などから、現在は散逸した九条家旧蔵本の「正月」もしくはその祖本より作成された抄出本と考えられ、本冊では九条家旧蔵本に准じて掲載した。ただし「年中行事」の「元日」の頃は、「口言部類」と重なるため、翻刻は省略した。
 次に示す二点は、九条本より派生したと考えられる部類である。
 「政部類記」は、東山御文庫に所蔵される巻子本で、前欠と思われ原題は不明である。「嘉禎四年(一二三八)正月廿四日校合了、」との奥書がある(拙稿「政部類記」解説、毎日新聞社至宝委員会事務局編『東山御文庫御物』一、一九九九)。承徳元年(一〇九七)─保安三年の政の記事を収め、一部は九条家旧蔵本の第十「毎年例事上」のうち「政」の記事の一部と重複し、「部類」と同文の次第を収載する。なお「政部類記」の紙背文書は、藤原重雄・尾上陽介両氏により翻刻され(「京都御所東山御文庫収蔵『政部類記』紙背文書」、『東京大学史料編纂所研究紀要』二一、二〇一一)、文書の分析から、校合奥書の筆者を藤原実雄(一二一七─一二七三)と推定されている。
 「法事部類記」は宮内庁書陵部に所蔵される九条家旧蔵の巻子本で、前欠で原題は不明である。「建暦元年(一二三八)八月廿九日校了、」との奥書がある。九条家旧蔵本の第十六「年中仏事一」のうち、「諸寺修正」─ 「円宗寺最勝会」の項目を次第の裏書とともに収載する。「諸寺修正」の途中から現存し、「最勝会」については九条本にない年次を含む。
 以上の二巻は、九条家旧蔵本の誤りが写されておらず、旧蔵本からではなくその祖本をもとに、本記の同じ行事の記事を加え作成されたと推定される。九条本を理解する補助のため、〔参考〕として掲載した。
 現存する「中右記部類」の引用記事の年次をみると、開始は寛治二年(一〇八八)であり、同三年を除いて毎年の記事が引用されている。下限は九条家旧蔵本では大治五年、関連する部類を含めると、天承元年が「口言部類」「法事部類記」の二件、長承元年(一一三二)が「法事部類記」の一件である。このうち「法事部類記」の記事は本記の短い引用であり、この史料の性格から判断して、作成時に追加された可能性も十分にありうる。「中右記」の起筆は寛治元年であり、宗忠が九条本の作成に当たり、日記の執筆期間全体にわたって記事を引用する方針であったことがうかがえよう。
 九条本の特色の一つとして、「中右記」以外の史料を載せていることがある。これは宗忠が単なる部類ではなく、先例集に儀式書的な要素を付加した性格を目指したことにあるのではないか。現存の巻の中では、第七で「中右記」本記以外の史料と「中右記」以前の記事が全体の半ば以上を占めている(拙稿「「中右記部類」と相撲」、『東京大学史料編纂所研究紀要』八、一九九八)。これは当時相撲および天皇の臨時相撲御覧の頻度が減り、「中右記」の記事のみでは対応しきれないことがあるとともに、延喜以来の相撲臨時御覧
を概括する意図もあったのだろう。
 また第二十七は、宗忠が上卿を務め天治二年(一一二五)九月十四日に行われた、守子内親王の群行直前から当日までの記事を収める。その末尾に「摂政殿記」の注記を付け、群行当日の藤原忠通の「法性寺関白記」が引用されている。これは現在宮内庁書陵部に所蔵される「法性寺関白記」自筆本一巻の書写であり、宗忠の依頼により忠通が作成し送ってきたことが、「関白記」の識語および「部類」の文章から明らかである。天治二年は「中右記」本記が現存せず、この記が当初から本記に付け加えられていたかはさだかではないが、かなり長文であり、九条本作成時に付加された可能性もあろう(拙稿「宗忠と忠通─「中右記部類」に見える「法性寺関白記」」、『日本歴史』七五九、二〇一一)。
 本冊の翻刻にあたっては、利用の便宜のため、本記が現存しない記事については、年月日を太字で表わした。そのうち本記が現存せず、かつ「政部類記」・「法事部類記」にのみ掲載されている記事には、行頭に‡を付した。また引用記事の編年目録・次第目録を冊尾に収めた。
〔訂正〕
位置        誤       正
三三頁 四行    完       傍注追加〔宍〕
    五行    二郎、肥後   傍注追加(ホ「貞末」ノ注ナリ)
一五三頁八行傍注  後三条法皇薨  後三条法皇崩
二九七頁七行    文印      印
二九九頁三行傍注  二十三日    二十七日
(例言四頁、目次二頁、本文三五二頁、口絵四葉、価一三、〇〇〇円、岩波書店発行)
担当者 吉田早苗

『東京大学史料編纂所報』第46号 p.50-53