東京大学史料編纂所

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刊行物紹介

日本関係海外史料 オランダ商館長日記 訳文編之十一

 本冊は、原文編之十一に収載した、一六四七年十一月三日(正保四年十月七日)より一六四九年十一月五日(慶安二年十月一日)に至る商館長の公務日記及び関連書翰等四点を全文翻訳したものである。前半(一六四七年十一月三日から一六四八年十二月八日まで)はフレデリック・コイエット、後半(一六四八年十二月九日から一六四九年十一月五日まで)は ディルク・スヌークの任期に当たる。両日記は比較的短いため一冊に収めた。収載史料の書誌的解説及び両商館長の略伝については、『所報』四二号四五〜四六頁を参照されたい。
 本冊に収載した日記の主な内容は以下のようなものである。
 一六四七年十一月三日に前任者ウィレム・フルステーヘンの乗った最後の船を見送った後、コイエットは例年通り参府の準備を整え、同月十九日に長崎を出発し、十二月十二日に江戸に到着した。将軍への拝礼の予定は十二月二十四日と知らされ、商館長は前日までに例年通り準備を整えた。ところが二十四日の朝になって、商館長は大目付井上政重の屋敷へ呼び出され、同年七月末に来航したポルトガル使節が途中バタフィアで援助を受けたと述べたことから、将軍及び大官がオランダ人に不快の念を抱いたので、拝礼は延期される、と知らされた。一六四八年一月一日井上宛の弁明書が提出されたが、結局、一月十六日になって井上の屋敷へ呼ばれ、そこで井上と、江戸在勤の長崎奉行馬場利重から、拝礼不許可の申渡しを受けた。理由は一六四三年の南部入港時に捕らえられたブレスケンス号の乗員の釈放に対して、いまだに感謝を表明する使節がオランダから派遣されていないこと、ポルトガル使節の来航に際してバタフィアのオランダ東インド総督が舵手及び水夫を貸与したことであった。将軍への献上用に持参した品物は宿所に預け、井上と馬場への暇乞いも断られ、誰にも贈物ができないまま、一行は十九日に江戸を出発し、二月二十日に長崎へ帰着した。
 奉行山崎正信に帰着の報告を行なったコイエットは、そこでの対話から、今回の拝礼不許可の主な理由は謝恩の使節が来ないことであり、ポルトガル船への援助の件は口実であると推察するに至った。五月十四日、大目付井上政重と長崎奉行馬場利重、豊後府内城主日根野吉明が長崎に到着し、市中でもオランダ人に退去命令が下されることが危惧されたが、彼等の来着がポルトガル船再来に備えるためであることが明らかにされ、コイエットも市民も安堵した。この年は中国における戦乱の影響で、ジャンク船の入港は八月になっても一〇隻足らずであった。生糸・絹製品の輸入は非常に少なく、京での価格高騰が伝えられている。
 ようやく最初のオランダ船が到着したのは八月四日、シャムからの二隻であった。後続の船は遅れ、九月十四日と十八日に四隻が到着した。タイオワンからの書翰によれば、同地へは中国本土からの避難者が多数やって来た一方、中国の商品はほとんど入って来なくなり、食料不足だとのことであった。バタフィアからの書翰(附録一)に基づきコイエットは、謝恩の使節が来なかったことについて、元商館長エルセラックが適切な報告をしておらず、またバタフィアには使節に必要な品が不足していたためであるが、本国に手紙を書いたので来年は使節が派遣されるであろう、と弁明した。
総督は、長崎の町年寄に宛て日本文の書翰を送った(附録二)。これは、前年の商館長フルステーヘンが、彼の妻の父で一六〇〇年リーフデ号で来日したメルヒオール・ファン・サントフォールトが日本を去る際に残した古い貸し金の回収を試み、長崎奉行及び大目付井上に訴え出ようとして拒絶されたことに関わるものである。総督は、この件が奉行の不興を買い会社にとって害になるのを恐れ、この訴えは会社の全く関知しないものであると弁明している。一六四八年七月の時点では、謝恩使節の遅延よりこの事件の方が日本との関係に重大な影響を及ぼすと、総督は考えていたようである。書翰は日本側に満足を与えたようで、以後この件が問題になった形跡はない。
 九月二十日、通詞たちは、江戸で尋ねられた事柄及び日本へ往来するジャンク船の拿捕について再び質問されるので、よく相談して事前に回答の書面を用意するよう忠告した。彼等によれば、大目付井上は江戸においてオランダ人を弁護しすぎたため、四〇日間登城を止められたとのことであった。新旧商館長は通詞たちと相談して書面を作成し、二十二日に奉行の屋敷にそれを持参し細かく質問された。完成した書面は江戸に送られ、将軍からの許可が下りれば取引が許されるとのことであった。定められた船の出発期限である日本暦の九月二十日、すなわち一六四八年十一月五日の翌日、ようやく江戸から使者が到着した。新旧商館長は「ポルトガル使節への援助の問題について、両商館長は援助をしていないと言明した。もし今後ほかから、ポルトガル人が言ったように援助が行われたことが明らかになった場合には、オランダ人は日本との貿易を禁止され、厳しく処罰される。」と申し渡された。
 大目付井上は、将軍は最も嫌悪するポルトガル人との交際を不快に思うので、今後ポルトガル人と交際せず、キリスト教徒が日本に来ないよう注意するよう忠告し、それについて誓約書を提出することを命じた。(誓約書は十一月八日に提出された。)これによりオランダ人への不満は解消し、貿易は以前のように許されることとなったが、新商館長の参府については、指示がなかった。
 この年の日記にはパンカドについての記述はなく、すぐに商品の展示と入札による販売が開始された。船の出発期限は日本暦の十月十日(一六四八年十一月二十四日)とされたが、それは全く無理なことだった。日本側は早く取引を終わらせるよう何度も督促し、そのため展示や引渡しが混雑し盗難も多いとコイエットは不満を述べている。銅については、見本の純度が以前より低く価格交渉も難航し、この年は合意に至らず、輸出が行われなかった。
 十二月八日、コイエットはスヌークに商館長としての権限を委譲し、訓令(附録三)を残して日本を離れた。スヌークは参府に関する日本側の指示を得られず、謝恩の使節が来るまでは江戸参府は認められないだろうと、次第に考えるようになる。五月二十日になって江戸から、次期商館長の到着によりポルトガル使節援助の件に関するコイエットとスヌークの証言が再確認されるまで、江戸参府は許されない、との通達が伝えられた。
 最初の船で到着した後任商館長ブルックホルストは、大使が来ることとともにウェストファリア条約の締結を伝えた。長年敵だと主張してきたスペインとの講和については通詞たちから疑問が出され、スヌークは、オランダが長年の戦いで武力を見せつけたことで、スペイン側が必要に迫られて申し込んできた講和であり、オランダ側が願ったものではない、と弁明した。
 九月十九日、ついに待望の使節を乗せたロベイン号が到着した。大使ペトルス・ブロックホヴィウスは途中八月十五日に死亡し、副使アンドリース・フリシウスがその任を継いでいた。スヌーク宛の詳細な訓令(附録四)もこの時到着した。大使は上陸を許され、江戸へ使節到着の知らせが送られた。オランダ側は、使節船については国際的慣習に従って武器等を船に残しておきたいと願ったが、それは許されず、弾丸のみが残された。
 使節船の到着により、九月二十九日には中国産白生糸のパンカドが決定され、商品の販売・引渡しは順調に進んだ。前年度には契約が成立しなかった銅の価格の交渉は、船の出帆直後の一六四八年十二月十七日から既に開始されていた。価格の折り合いはなかなか付かなかったが、十月十七日にようやく契約が成立した。三隻の船が日本暦の九月二十日(一六四九年十月二十五日)に出発するよう命じられ、積み込み作業は繁忙を極めた。残りの船も決められた日限に何とか出発させ、スヌークは十一月五日、使節の今後の扱いについては何の決定も聞かされぬまま、ブルックホルストに権限を委譲し、使節一行とロベイン号を残して日本を離れた。
 このように、本冊所収記事中の主要な話題は、一六四三年のブレスケンス号事件(訳文編之七、八)への謝恩使の遅延及び一六四七年来航のポルトガル使節(訳文編之十)に関わる総督からの便宜供与問題による、将軍への拝礼の中止であった。日記には、日本経験の浅い両商館長が事態の打開に苦慮する有様とともに、憶測や希望を交えた様々な情報が、真偽の判断のつかぬままに記されている。情報自体の不確実さ、商館長の知識や認識の度合いから、日記の文章にも曖昧さが残る例が多く、翻訳にはかなりの注意を要した。
 一方、交渉の過程での大目付、奉行、そして通詞たちのそれぞれの立場や思惑、そしてそれを憶測を交えて推察する商館長の述懐、さらに日本の状況を必ずしも十分に理解せずに出されるバタフィアからの指示には、異なる思考様式と利害を持つ者たちの接触の実態が具体的に表れ、興味が尽きない。大使ブロックホヴィウスを「高い学識」のある「オランダの有名な商人」と説明せよとの総督の指示(三三五頁)に反し、商館長は「商人がそのような職に就くことは彼等〔日本人〕に嫌悪感を与える」として「法学博士」とするが(二三五頁)、日本側は大使の乗船ロベイン号が商品を満載していたことを軽蔑し、十分な敬意を払わない(二四一頁)、という逸話はその一例である。
 本冊の翻訳には、北アイオワ州立大学教授レイニアー・H・ヘスリンク氏、日蘭学会文化担当イサベル・田中・ファン・ダーレン氏、ライデン大学研究員シンティア・フィアレイ氏から多くの助言を受けた。また、校正には非常勤職員大橋明子氏、田中葉子氏、西澤美穂子氏も参加した。
(例言八頁、目次四頁、図版四葉、本文三三九頁、索引二三頁、本体価格一〇、八〇〇円)
担当者 松井洋子・松方冬子


『東京大学史料編纂所報』第46号p.55-57