東京大学史料編纂所

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刊行物紹介

日本関係海外史料 イエズス会日本書翰集 原文編之三

 本冊には、一五五六年(弘治元年)一月七日から一五五九年(永禄二年)十一月までのイエズス会士による日本布教の記録を収めた。
 前二巻同様、本冊も中国近海での移動状況の描写から始まる。これによりポルトガル人が澳門に定住を許可される前年、広州湾の浪白澳で過ごす様子が明らかとなる。一五五六年の浪白澳には当時マラッカ=中国沿岸貿易で勢力を誇った私貿易集団の首領ディオゴ・ペレイラのほか、フランシスコ・トスカーノ、アントニオ・ペレイラのような有力商人たちが自船を率いて集っていた。同年浪白澳に滞在したイエズス会士たちを率いていたバレトは、同地にはおよそ三〇〇名のポルトガル人船員がいたことを報告している(一一二号書翰)。バレト一行は、教会を建設し、ポルトガル人に日曜ごとの礼拝の機会を与えたほか、彼らの奴隷を改宗し、女奴隷たちとは結婚させるか、手を切らせることに成功した。バレトは浪白澳滞在中、一五四九年の明朝官憲による双嶼討伐で捕らわれていたポルトガル人虜囚の解放交渉のため、広州へ二度赴いている。一部の虜囚は一人につき一五〇〇クルザードで身請けされ、解放された。バレトは広州で伝え聞いた一五五六年一月に発生した山西省大地震についての記録を残している。明代史研究では、この地震で八三万人が死亡したと推定されている。
 バレト一行は一五五六年六月に日本へ向けて浪白澳を出港した。その旅の最大の目的は、以前からキリスト教に好意的であると伝えられる豊後王大友義鎮を改宗することにあった。バレトの一行には、ジル・デ・ゴイス、ガスパル・ヴィレラ、エステヴァン・デ・ゴイス、フェルナン・メンデス・ピントがいたが、バレトの中国までの行程で知己を深めた商人ルイス・デ・アルメイダが一足先に日本へ赴き、そこでイエズス会に入会した。商人として成功していたアルメイダは、全財産をイエズス会に寄進し、それを元手に豊後に病院、孤児院を設立したほか、その後のイエズス会布教財政の基盤ともなる中国産商品の取引をはじめた。
 バレト等が豊後を目指して別の港へ誤って入港した際、豊後は戦乱の最中で、大友義鎮も逃走中であると聞かされた。しかしながら豊後までたどり着いてみると、豊後城下は穏やかで、先んじて日本で宣教活動に従事中のコスメ・デ・トルレスやバルタザール・ガーゴのようなイエズス会士と出会うことができた。一五五六年一〇月には、豊後城下に二〇〇人を収容できる教会が建設された(一〇六号書翰)。トルレスはザビエルから主に山口での布教活動を任されており、その頃山口では千人以上の人々がキリシタンに改宗していた。しかし山口では大内義隆滅亡後、政権をめぐって混乱が続き、決して安定した布教環境にはなかったと報告される。
 平戸布教はガーゴによって進められ、その後バレト一行のメンバーであったヴィレラが着任した。一五五六年頃の平戸のキリシタン人口は、四〇〇名程度であったと報告される(一一二号書翰)。一五五七年一〇月にヴィレラが平戸で記した書翰(一〇六号書翰)は、本巻収載の書翰中、最長のものである。そこではヴィレラが日本到着後に目にした豊後や山口の政治的状況、平戸の宗教状況などが語られる。豊後領主大友義鎮は宣教師に対して好意的であるものの、領内や近隣の反抗勢力との戦いに疲弊し、改宗どころではないと観察される。平戸領主松浦隆信は宣教師に対し、「表面上は親切である」とも観察している。
 平戸布教中の一五五七年春、ヴィレラのもとへ山口より知らせが届き、「毛利殿」が大内義長を自害に追い込み、山口城下を焼打ちにし、それにより教会も焼失したことが報告された(一〇六号書翰)。大内義長の自害は和暦四月三日のことであったから、この報告は非常に迅速にもたらされたといえる。当時山口には修院施設が二か所あり、規模の大きい方は焼失したものの、同地のキリシタンによってまもなく再建されたという。一五五七年頃、日本布教の中心地は豊後であると記され、豊後王は同年の九月に近隣地域の反乱者を制圧したため非常に満足しており、宣教師たちが豊後で一堂に会するよう、招待している。豊後布教ではアルメイダが築いた教会での治療活動が人々の関心を呼び、多くの患者がキリシタンに改宗する様子が報告されている(一二五号書翰)。一五五九年時点で、同病院では十二人の日本人修道士が働いていたようである。本巻には一五五八年三月一六日付、ポルトガルのセバスチャン王から大友義鎮へ宛てた親書も収載されている(一一四号書翰)。
 平戸ではこの頃、改宗者が着実に増加し、平戸のみならず近隣の生月島や度島でもキリシタンが誕生していた。とくに生月島領主籠手田一族の改宗は、その領民およそ一五〇〇人をともなうもので、信者たちは寺院への喜捨をやめ、仏像や神像を壊して回るなどしたため、急激に在来宗教勢力との対立が悪化した。ヴィレラは平戸では安満岳を中心に山伏信仰が盛んであり、同時に牛や兎、鹿などを神の使いとして奉じる民間信仰も根強くあることを観察している。一五五九年、仏僧からの讒言にもとづいて領主松浦氏が宣教師追放を決定し、ヴィレラはやむなく博多へ移動した(一二七号書翰)。博多ではガーゴによる布教が進められていたが、筑紫惟門の大友氏に対する反乱により、博多は戦火に巻き込まれた。その最中、修道士のギリェルメ・ペレイラが反大友軍に誘拐される事件が起き、結果的に二〇クルザードの身代金で解放された。
 一五五九年日本布教長トルレスは京都での布教活動を本格化するよう計画し、平戸から博多へ避難してきていたヴィレラを、日本人修道士のロウレンソとともに都へ派遣することを決定した。ヴィレラとロウレンソは九月二日に、都へ向かって博多を出発している。
 一五五七年の日付を持つ作者不詳の(先行研究では著者をコスメ・デ・トルレスもしくはバルタザール・ガーゴと推定)日本の宗教についてまとめた記録(一一一号書翰)では、日本神道の概略、浄土教、禅宗の詳細など、日本人が一般に奉ずる宗教が事細かに観察され、十六世紀の宗教状況を考察する上で、貴重な情報を提供している。とくに浄土教は、時宗、浄土宗、浄土真宗のそれぞれの特徴が詳述され、妻帯の有無、僧衣の色、尼僧たちの様子などが描かれる。また禅問答が行われる様子を具体的な事例に即して紹介している。
 本巻では全般にわたり、激動の山口と大友領豊後の政治動向が詳しく語られるのも特徴である。
 なお本冊編纂にあたり、本所研究支援推進員松本和也氏と外国人研究員ルシオ・デ・ソウザ氏のご助力を賜った。
(口絵一葉、目次四頁、解説三頁、例言三頁、本文二四八頁、索引一〇頁、本体価格九、九〇〇円)
  担当者 岡美穂子


『東京大学史料編纂所報』第46号p.57-58