東京大学史料編纂所

8.佼成図書館所蔵史料の調査・撮影

 二〇〇九年一一月・二〇一〇年一・二月、佼成図書館(東京都杉並区)に出張し、『佼成図書館善本目録(平成七年十一月三〇日現在)』(以下、『目録』と略す)に所載の貴重図書を閲覧・撮影した。館長長沼克宗氏、参事補清水道記氏ほか関係各位には格段の御高配を賜った、ここに深く謝意を表したい。閲覧・撮影した史料の書誌を倉卒ながら記しておく。単位はセンチメートル。書名の下に*を付したものは、カラーフィルムにて撮影した。『覚禅鈔』関係の書目は、二〇一〇年度より始まった共同利用・共同研究拠点の一般共同研究「『覚禅鈔』諸本の調査研究」(代表・上川通夫氏)として、さらに検討を深める予定である。
 調査書目のうちには、古香堂・飯塚文治郎氏旧蔵の聖教類が含まれている。同氏は、一九〇四年新潟県に生まれ、日本大学法文学部宗教科を卒業、文京区立図書館・区役所に勤務する傍ら、駒込・本郷界隈の郷土史を研究し、『駒込富士神社誌』(一九六四年)・『本郷いまむかし』(一九七八年)などの著作があり、経典仏書などを蒐集していた。その相当部分が古書店を経て佼成図書館に入ったようである。古香堂文庫『古写経目録・古写経切解説』なる写本が市中に出たことがあるが、現在の所在を確認できていない。
【一一二一】仏眼御修法 (古一一二/貴一-六A)*
※巻子一軸。箱蓋ウハ書「修法表白 〈鎌倉時代/旧勧修寺蔵〉」、蓋裏書「昭和四十二〈丁未〉年七月/古香堂文庫主飯塚(朱方印)「飯塚/古香」」、小口墨書「第一百三号/鎌倉時代/修法表白/旧勧修寺蔵」。表紙、直書外題「(朱)『亨箱』修法表白 自性院」、素紙(薄い具引あり)、八双あり、縦二七・一×横二二・一。本紙全二四紙、漉き返し紙、第一紙のみ総裏打、以下は繕いのみ。墨界天二本・地一本あり、上端より計測して二・九、四・一、二五・六。第一紙右中と第二四紙奥に朱方印「勧修寺/大経蔵」各一顆あり。第一紙端裏に「交点了」と墨書、第二三紙裏の裏打ちの上に貼紙「交点了」(本来は第一紙端裏の繕い紙の上に端裏識語を写したもので、剥離後に適当に貼附したもの)、第二四紙奥裏の裏打ちの上に貼紙「宝境界併垂知見矣」(同じく第四紙裏書のもの)あり。墨訓点(仮名・返点)が冒頭「仏眼御修法」より「五大虚空蔵」までと、「六字」以下最後までにあり(後者では簡略)。第二一紙の「不動」より筆跡が変わり、行間や界の使い方が異なる(それ以前の裏書と同筆か)。裏書あり、奥書なし、図像なし、軸なし。
 本紙横法量①四三・六、②四四・三、③四四・三、④四四・五、⑤四四・六、⑥四四・三、⑦四四・五、⑧四四・六、⑨四四・五、⑩四四・二、⑪四四・一、⑫四四・五、⑬四四・七、⑭四四・三、⑮四四・五、⑯四四・三、⑰四四・五、⑱四四・六、⑲四四・三、⑳四四・四、(21)四二・四、(22)四四・四、(23)四四・四、(24)四二・二。一紙長標準四四・四、全長一〇六一。
 勧修寺所蔵『覚禅鈔』鎌倉期写本(自性院本)の僚巻で、『勧修寺大経蔵聖教目録』(翻刻は『大正新脩大蔵経』別巻・昭和法宝総目録第三巻)亨箱にみえる「修法表白 一巻」に相当する。勧修寺本『覚禅鈔』については、覚禅鈔研究会編『覚禅鈔の研究』(親王院堯榮文庫、二〇〇四年)所収の中野玄三「『覚禅鈔』の伝播と『勧修寺本』の成立」および「勧修寺本覚禅鈔目録」を参照。それによると勧修寺には、「修法表白」巻は中世写本・江戸期写本も現蔵分に含まれていない。一方、勧修寺以外に所蔵される自性院本『覚禅鈔』も、今のところ報告されていない。中野氏は、勧修寺本のうち、自性院本八九巻とその他の鎌倉期写本一〇巻・南北朝期写本一巻の計百巻で完結したものとの可能性を提示している(前掲書、注33、一〇三頁)。ただし南北朝期写の一巻(「後七日法下」文和三年写)は、当初の表紙はなく、界線も天地各一本で自性院本とは断定できないとの含みも持たせている(七一頁)。仮に佼成図書館本「修法表白」をこの「後七日法下」と単純に入れ替えるならば、中野氏が自性院にあてる我宝(一二四〇~一三一七)の没年までに自性院本百巻セットが成立していたとの想定も可能である(一〇四頁も参看)。自性院本は取り合わせ本であるが、そののなかでの筆跡比較によって、書写者・書写年代を絞り込むことも可能と思われるが、この点は後考に委ねたい。
 勧修寺本の鎌倉期写本のグループは、大部分が賢賀によって元文三年(一七三八)から寛保元年(一七四一)の間に修復されているが、当本には賢賀による修補識語がない。当巻は無軸であり、巻末補紙が脱落したと考えられなくもないが、明瞭な痕跡があるわけでもない。前掲『覚禅鈔の研究』所収の新見康子「東寺観智院聖教の『覚禅鈔』の伝来と現状」で分析が加えられた東寺観智院金剛蔵聖教一七四箱二三号『覚禅鈔御拝借元亨利貞符四箱目録』はこの修復に際しての授受の記録であるが、そこでは「修法表白 自性院一巻」も賢賀によって校合・修補・返納されたことになっている(新見康子氏の御教示)。観智院B本『覚禅鈔』「修法表白」には、元文四年に大経蔵御本を以て対校したとの賢賀識語が加えられており、そのことを裏付ける。自性院本「修法表白」に賢賀識語が見えない理由は不明だが、当巻は『覚禅鈔御拝借元亨利貞符四箱目録』の寛保二年の返納確認の後に寺外に出たことになる。勧修寺所蔵『勧修寺大経蔵聖教目録』原本では、亨箱の「修法表白 一巻」の部分に注記・合点などはとくに施されていない。当巻表紙の朱筆による箱番の書き入れは猪熊弘篤のものと思われ、慈尊院闊海の命により整理がなされて、宝永七年(一七一〇)に『勧修寺大経蔵聖教目録』原本が成立(阿部泰郎「『勧修寺大経蔵聖教目録』解題稿」『勧修寺論輯』一、二〇〇四年)した際のもの考えられる。
【一三二〇】如宝愛染王法 (古一一三/貴一-六A)*
※巻子一軸。箱蓋ウハ書「如宝愛染王法 鎌倉時代」、蓋裏書「昭和四十二〈丁未〉七月十四日/古香堂文庫主人 飯塚文治郎(朱方印)『古香/堂印』」、小口貼紙「第百十三号/鎌倉時代/如宝愛染王法」。後補裂表紙貼題簽外題「如宝愛染王法」、第一紙端裏書「愛染次第」、首題「如宝愛染王法」。本紙、楮紙全十一紙、裏書なし、裏打ちあり、軸あり。天二本・地一本の墨罫界線あり。界高各一・三、二三・五、界幅二・四。縦二九・一、横①三四・八、②二・三(一行のみ)、③六・六、④一三・〇、⑤三二・七、⑥四三・七、⑦四三・八、⑧四一・六、⑨四三・七、⑩四三・七、⑪二六・八。全長三三二・一。奥書「本云、/文永二年十一月十五日、以仁和寺〓(大周)尊法印所持/野月抄如法愛染巻写了、〈秘抄第/十四云々、〉/(一行空)延慶二年卯月十九日、於仁和寺真光院書写了、/金剛仏子印玄〈生年/卅二〉」。延慶二年の書写とみてよいか。『大正新脩大蔵経』七八所収の『秘鈔』巻十四は別内容(万徳寺本では第十四・如宝愛染)、『大日本仏教全書』本『覚禅鈔』「如法愛染」(五巻七九頁上段以下)に類似。
【一二四二】愛染王法 (古一一四/貴一-六A)*
※巻子一軸。箱蓋裏貼紙「(黒長方印)古香堂文庫/飯塚文治郎」、小口貼紙「第一百八十九号/鎌倉時代/愛染王法/(覚禅抄)/(朱長方印)『古香堂××(文庫カ)』」。表紙なし、軸あり。第一紙端裏部分は破損し原題不明(「王」ないし「上」の残画と思しき墨痕あり)、後補貼紙「愛染王法」、また下部には擦消痕あり。第一紙端下に朱方印あり(印文「藤」か)。全二〇紙、楮紙打紙。裏書あり、朱点あり。薄い楮の素紙の別料紙に描かれた粗い白描図像を仮貼りする。天一地一の墨界あり、界高二八・五。縦三三・〇、横①五二・四、②五二・二、③五二・二、④五二・〇、⑤五二・三、⑥五二・四、⑦五二・一、⑧五二・五、⑨五二・二、⑩五二・二、⑪五二・三、⑫五二・三、⑬五二・二、⑭五二・三、⑮五二・三、⑯五二・三、⑰五二・三、⑱五二・一、⑲五二・三、⑳四六・四(直接軸付き)。全長一〇三九・三。
 奥書「宝治二年五月上旬之比、誂阿月房書写畢、/頼賢〈生年/五十三〉/同七日交点畢、/弘安四年〈年〔辛〕巳〉七月廿三日、於高野山勧学院書写了、/金剛仏子頼空〈三十/三〉/于時正和元年〈壬寅〉五月二日、於金剛峯寺書写了、/金剛仏子実如〈四十八〉/嘉暦四年〈己巳〉五月九日、於千光寺書写了、/金剛仏子賢範〈四十八〉/交合了、」。『覚禅鈔』愛染法下と同内容。奥書の正和元年実如までは万徳寺本と同じで(京都国立博物館編『図像蒐成』Ⅴ、三四頁)、それが書写した千光寺本の奥書である。千光寺本は、大御堂寺・名古屋市博物館などに二七巻が確認され(井上佳美「千光寺本『覚禅鈔』についての一考察」〔『愛知県史研究』一三、二〇〇九年〕に奥書翻刻あり)、明治期に五〇巻程度は伝わっていたといい、本巻も一具とみなせる可能性がある。図像をラフに別紙で貼附するところは類似するように見受けられる(『知多市誌』資料編二、四〇四頁掲載「軍荼利明王法」の図像などを参照)。箱中には近代の手紙(日付・差出・宛書を切断)があり、かつての所蔵者は百巻所持のうちに、『覚禅鈔』愛染法上に相当するもう一巻を所蔵していた。奥書の抄録によると、文治三年覚禅・宝治二年頼賢に続き、末尾は「于時嘉暦四年〈己巳〉六月廿日、於尾州智多郡千光寺書写了、(四字ヨメズ:原文のママ)当寺御影堂正教之、交合了、」とあったといい、同じく千光寺本系である。
【一三〇六】太元法 (古一二九/貴一-六B)*
※巻子一軸。箱蓋ウハ書「元師〔帥〕法 鎌倉時代」、蓋裏書「昭和卅三年春彼岸中日 古香堂主(朱方印)『飯塚/古書』」、底貼紙墨長方印「古香堂文庫/飯塚文治郎」、小口貼紙「第一百六十三号/鎌倉時代/大元師法/(朱方印)『古香/××(堂印カ)』」。表紙なし、軸あり。端裏書「元帥法 〈秘 酉酉/下中〉」。楮紙、全二九紙。裏書あり、朱書・朱点あり。天一地一墨界罫線あり。界高二四・九、界幅二・一。縦二八・五。横①~(28)標準四〇・八、(29)三・八(直接軸付、墨界続く)。全長一一四五・二。『覚禅鈔』太元法上と同内容。奥書「写本云、/養和元年二月十日〈辛亥〉依為吉日参三宝院奉伝之、/口伝秘事給之諸師少々載加之、/建久七年三月廿七日撰集了、 仏子覚禅〈年五/十四〉」、「十五日早旦巳時以前、大物諸大童子御倉鎰請取/与堂童子四人相共早速可参歟」、「寛元四年四月廿七日、於法花山寺興慈院書了、/頼賢/弘安四年〈辛巳〉閏七月十五日、於高野山勧学院書了」(以上、『大日本仏教全書』本と同じ)、「正応三年〈庚寅〉十二月三日、於尺迦文院書了、/正安二年〈庚子〉六月廿二日/延慶三年〈庚戌〉二月廿三日〈彼岸終日也、/戌時初、〉於菩提院了、(以上、同所引高野山本と同じ)/金剛弟子実遍」。延慶三年書写の宝亀院本か。
【一四三一】太元次第 (古一八五/貴一-六E)*
※巻子一軸。箱蓋ウハ書「太元法 鎌倉時代/東寺成賢」、蓋裏「昭和四十二年七月十日/古香堂文庫主飯塚文治郎(朱方印)『古香/堂印』」、小口貼紙「第四五三号/鎌倉時代/太元法/東寺成賢トアリ(朱長方印)『古香堂××(文庫カ)』」、箱身底貼紙墨長方印「古香堂文庫/飯塚文治郎」。表紙なし、軸なし。第一紙端下に墨丸印「□朝」あり(右三分の一ほどを欠く)。本紙全一八紙、楮紙打紙。裏書あり、朱書・朱点あり。天二地一の墨界罫線あり。上端から二・〇、三・二、二五・二、二八・二。界幅二・二。縦二八・二、横①二四・〇、②五一・六、③五一・二、④五一・七、⑤五一・七、⑥五一・三、⑦五一・七、⑧五一・八、⑨五一・五、⑩五一・七、⑪五一・八、⑫四一・六、⑬四一・一、⑭四二・一、⑮四一・四、⑯四一・二、⑰四一・二、⑱三五・六。補紙一七・四。本紙全長八二四・二。奥書「師云、此法始自外儀、法則至于印明・観念等/不似余尊、有其煩、伝法之輩能々可習/学耳云々、/東寺末学成賢聊記之/(朱)『一交了』」、追記「此大元法即秘鈔第十五巻也、雖不知書写年代、蓋是/数百年前古写本也、尤可珍蔵、/昭和十四年十二月吉辰拝見之際記之、 (長谷)宝秀〈七十/一才〉」。補紙を継いで、昭和四十二年二月九日の古香堂文庫主飯塚文治郎の成賢自筆とする識語あるも、南北朝時代頃の写本。『大正新脩大蔵経』七八所収の『秘鈔』巻十五と同内容。別筆の裏書があり、保延元年十二月廿六日賢覚支度(『大正新脩大蔵経』本『覚禅鈔』太元法下・三三四頁に同じ)、天養一〔二〕年正月十四日賢覚巻数(同・三三七頁の天慶二年となっているもの)と「阿闍梨、伴僧十五口、行事一人料浄衣十七領也、古ハ沙弥十五人請之、近来無之、/天慶三年泰幽・泰舜・円照等巻数、廿口伴侶也、」の注記、「従毎年正月八日後夜時始之、…」の解説、「壇場庄厳事」、「結願事」、「大元宗第二阿闍梨寵寿注申縁起状云」(同・太元法下・三一四頁に同じ)、「先師物語云」として秋篠寺阿伽井の事、太元霊像安置の事など。他にまた別筆で三条ほど短いものがあり。外題部分に貼紙として、年記考証のメモと旧蔵者のラベル(昭和十四年、北海道十勝国清水町・石橋象山蔵書)があり、裏面にはさらに別に年記考証の一枚が貼られる。
【一三〇四】真言密教 (古一二八/貴一-六B)
※粘蝶装一帖。箱蓋表貼紙「第一百五十四号/鎌倉時代/真言密教/枡形本/処々図像有」、小口貼紙同内容、蓋裏貼紙墨長方印「古香堂文庫/飯塚文治郎」。一六・四×一六・〇。楮紙、全五〇丁に共紙元表紙・裏表紙。紺色楮紙を表紙に後補して貼り付ける。表紙見返し側から見ると、元外題部分は削り取りか。押界あり、界高一三・六、界幅一・八、各丁片面七行。五〇ウに奥書「本云、保延六年十二月六日書之了、/本書ハ僧都御房御集也、努力々々/不可経他見之、同交了、僧明海/又□〔云〕、成喜院以朱示異本交合了、/寛喜二年八月十四日〈午/時〉於西山法花寺、/以高野御本首尾七ケ日之間、書写畢、/頼賢」。室町時代前期写か。一オ・ウに目録、二オに内題「伝受集第四〈諸師〉」とあり、『大正新脩大蔵経』七八所収の『伝受集』巻四と同内容だが、図像類を欠く。それらの空白と裏表紙には、掛幅装であった紙本著色の曼荼羅(室町~江戸時代)から図像を円形に切り抜いた尊像を本文と無関係に貼付ける。剥がれ跡あり、現状は約十七点。
【一一六一】東大寺戒壇院受戒式 (古九七五/貴一-二三C)*
※巻子一軸。縦三〇・一。表紙、紺紙に貼紙外題「東大寺□□(受戒)式」。本紙全二二紙、間似合紙。天地各一本の墨界罫あり、界高二三・一、罫幅二・三。淡墨で描いた仏像図像(戒壇院厨子扉絵を利用したものか)を下絵とする。第一紙右下に墨長方印「東大寺」あり。紙継目裏に長円形黒印あり、第一紙と第二紙の紙継目裏に花押あり。本文と同時同筆の訓点詳細。発語を示す朱点・朱合点がある。江戸前期写。一九九三年に古書店より購入。
 本紙横法量①五九・四、②六〇・六、③六〇・四、④六〇・六、⑤六〇・六、⑥六〇・五、⑦六〇・六、⑧六〇・六、⑨六〇・五、⑩四一・二、⑪五九・八、⑫五九・九、⑬五九・八、⑭五九・八、⑮六〇・〇、⑯六〇・〇、⑰六〇・〇、⑱三八・五、⑲四・八(二行分を楮紙で同筆補入)、⑳二一・一、(21)六〇・〇、(22)五七・〇、軸付紙。本紙全長一一八五・七。
 翻刻は『大日本仏教全書』一二二・『大正新脩大蔵経』七四に収録され、本文の詳細な対校は行っていないが、末尾は「保安三年八月四日記之」で終わり、刊本末尾の「此式者」以下の識語・奥書はない。「教発戒縁」の前に頭書「コヽマテ初日」とあり。裏書として「行事抄云」「要云」といった引勘が多数あり、独自のものか。
【一一二二】地獄極楽之画 (古一〇五八/貴一-二五D)
※巻子一軸。箱蓋ウハ書「地獄極楽之絵」・同貼紙「四五一六」、蓋裏書「天保六〈乙未〉年九月表装」、箱小口貼紙「地獄極楽/絵巻物/○三十六」。表紙浅葱色雲形織文、貼紙外題「地獄極楽之画」。本紙全六紙、①五三・六、②一二七・六、③一三〇・六、④一二九・六、⑤一二九・一、⑥一二八・〇。末尾に朱印章(印文不明)あり。紙本著色、詞書なしの画巻。冒頭に第一紙に六道の辻にたたずむ老人、第二紙に脱衣婆の前の亡者二人、業量、浄玻璃の鏡、閻魔王と続き、餓鬼道(飯が焔を発す)と畜生道(人面の牛馬等)、第三紙に修羅道(刀を抜いて斬り合う甲冑武者達)と地獄道の場面が始まる。地獄の概要は、鬼に追われる、釜に落下(脇に悲しむ僧あり。黒縄地獄)、鉄山に追い立てられる(等活地獄)、燃やされる、臼で突かれる(杵は現行型。衆合地獄)、岩で潰される(等活地獄)、舌を抜かれる(大叫喚地獄)、錐で背を責められる(衆合地獄)、熱湯を飲まされる(叫喚地獄)、刀葉樹の上の女を男が追う(衆合地獄)、火車、男女が磔られ鋸にかけられる(密通の罪か)、血の池、灯心で筍を掘る、子供が樒を摘む(?)、河原で石を積む童子達に鬼が邪魔し地蔵にすがる。「往生要集絵巻」などに見られるモチーフが多いが、中世の地獄図にない場面が散見する。第六紙に、盆飾りと盆供を食らう鬼達、茄子で作った午に跨る亡者、仏の周りで円舞する者たち(白い額烏帽子を着けたり、蓮葉を被る)。仏は扇を手に持ち「大音経衆曰三千大仙〓(彳冬)皆是入法来」とある。江戸時代中後期。一九七六年寄贈。
(末柄 豊・谷 昭佳・高山さやか・藤原重雄)


『東京大学史料編纂所報』第45号