東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

正倉院文書目録六 続々修一

 本冊は、正倉院文書の原本調査の成果を断簡ごとの目録として刊行する『正倉院文書目録』の第六冊で、二〇〇四年三月に刊行した『正倉院文書目録』五(塵芥)に続き、正倉院宝庫に伝存する正倉院古文書の続々修古文書(続々修)のうち第一帙から第四帙まで全四八巻を収録した。
 続々修古文書は、現状で第一帙から第四七帙まで合計四四〇巻・二冊からなり、次の八つに類別された形で編成されている(帝室博物館正倉院掛『正倉院古文書目録』)。
 第一類・写経類集(第一~一一帙)
 第二類・経巻歴名(第一二~一六帙)
 第三類・諸司文書(第一七~一八帙)
 第四類・経師等手実行事上日(第一九~二八帙)
 第五類・筆墨紙(第二九~三七帙)
 第六類・食口(第三八~四〇帙)
 第七類・布施用度雑器雑物(第四一~四四帙)
 第八類・雑文書(第四五~四七帙)
 本冊に収録した第一類第一帙―第四帙の帙ごとの内容は次の通りである。
 第一帙 一切経(六巻)     第二帙 一切経(一一巻)
 第三帙 一切経所文書(一〇巻) 第四帙 般若経(二一巻)
 正倉院文書は、穂井田忠友により天保年間に正集四五巻が編成され、維新後の明治八年(一八七五)、東京に移送されて、内務省・浅草文庫において続修五〇巻・続修別集五〇巻・続修後集四三巻が編成された。明治一五年、正倉院宝庫に還送され、その時点でなお整理のついていなかった未修古文書は、明治二七年、宮内省正倉院御物整理掛によって続々修に編成された。また、「塵芥」の櫃に収められていた破損・腐朽の著しい文書も明治一〇年に東京に移送され、整理・修補が施されて塵芥文書三九巻・三冊(及び蝋燭文書)に編成され、明治一五年に正倉院に還送された。
 こうした整理が行なわれる中で、正集・続修・続修後集・続修別集の編成では、断簡の抜き取りが行なわれ、その結果、写経所文書として作成・利用・保管されていた正倉院文書の奈良時代の原形は崩されてしまった。これに対して続々修の編成では、新たに断簡を抜き取る等の手を加えることなく、基本的にその時点で残された貼継等の状態をそのまま保つ形で整理成巻が行なわれたと見られる。従って、続々修の各巻の貼継の中には、正倉院文書の原形を保つものがかなりの程度含まれていると考えられる。この点が、正倉院文書の整理過程における続々修の特徴である。但し、続々修の貼継の全てが正倉院文書の原形を伝えているわけではなく、続々修編成の際に新たに貼リ継がれた箇所も存在する。
 その点を知る上で、続々修編成直前の状態を書き上げた「未修古文書」の目録(以下、『未修目録』と表記)が手がかりとなる。『未修目録』の段階では貼り継がれていない箇所が、現状の続々修で貼り継がれている場合、それは続々修編成の際に貼り継がれたものと判断できる。このように、『未修目録』との対応関係が断簡の判定の参考となることから、本冊より、按文に『未修目録』の記述との関係を記載することとした。対照する『未修目録』は、広く参照が容易なことから宮内庁正倉院事務所所蔵『正倉院御物目録十二(未修古文書目録)』(『正倉院紀要』二三・二四・二五に飯田剛彦氏により翻刻を掲載、二〇〇一・二〇〇二・二〇〇三年)を用いた(『未修目録』の写本については、上記の飯田氏の記述、及び西洋子『正倉院文書整理過程の研究』(吉川弘文館、二〇〇二年)参照)。
 また、続々修各巻の紙面には、「未修古文書」時点での類別(多くは『未修目録』の記載と対応)や成巻時の貼継順等を注記し、続々修編成作業時に貼付して利用されたと見られる新附箋が多数残されている。これらも断簡の判定の参考資料となることから、上記と合わせて按文に記載することとした。
 このほか、本冊から新たに導入した記述方式としては、手実などの継文の生成過程が三層構造以上となる場合の記述がある。既刊の冊での継文の記述は、単層構造の継文であれば継文名と文書名を記し、重層構造の継文、すなわち一まとまりの継文(「子の継文」)が複数貼り継がれて、より上位の継文(「親の継文」)を構成するような場合は、①上位の継文名(「親の継文名」)、②[ ]で括った下位の継文名(「子の継文名」)、③文書名を表記していた。ところが、本冊収録分において三層構造となる継文の存在が判明した。これは、続々修が奈良時代の貼継を多く残していることの表れでもあり、場合によってはさらに多層構造となる継文の存在が今後明らかになる可能性もあろう。このことから、上記②の形式による表記を継文の階層に相当するだけ繰り返し用いることで、多層構造の継文に対応することとした。
 例を挙げると、続々修一ノ三(3)―(19)は、次のような構成となっている。
  A常間手実 天平十五年十二月以往 (3)―(19)
   B1常疏校生手実 天平十五年四月以往 (3)
   B2常疏手実 天平十五年十二月以往 (4)―(8)
    C1常疏経師手実 天平十五年九月以往 (5)
    C2常疏校生手実 天平十五年九月以往 (7)
   B3間写手実 天平十五年十二月以往 (9)―(19)
    C3間写経師手実 天平十五年九月以往 (10)―(13)
    C4間写校生手実 天平十五年九月以往 (15)―(18)
すなわち、天平十五年九月にC1、C2、C3、C4の四つの継文が編成され、ついで同一二月に、C1・C2の継文とその後の手実をまとめてB2の継文、C3・C4の継文とその後の手実をまとめてB3の継文が編成され、さらにB1・B2・B3の継文を貼り継いで全体としてAの継文が編成されている。
 次に、本冊収録分で注目できる様態を若干紹介しておきたい。
 続々修三ノ八②(6)裏―(1)裏は、継文としてこの順に貼り継がれて、造東大寺司写経所公文案帳・天平宝字二年六月の一部をなし、裏はその貼継のまま奉写一切経所雑物請帳・神護景雲四年六月(一八ノ五七三―五七六4)に二次利用されている。一次文書である造東大寺司写経所公文案帳の②(6)裏(十三ノ四七六 香山薬師寺牒・(天平)宝字四年七月廿一日、前欠 a)、②(5)裏(十四ノ三二九―三三〇 経軸進上注文・(天平宝字二年)七月廿三日 b)、②(4)裏(十三ノ四七六―四七七 東寺写経所解・(天平宝)字二年七月廿四日 c)、②(3)裏(十三ノ四七七 造東大寺司解・天平宝字二年七月廿五日 d)の裏には、数行にわたって連続する墨うつりの文字が認められる。左文字として見えるその文字を読み取ると、a裏からc裏の墨うつりは、続々修三十四ノ十②(2)裏の天平宝字二年七月十四日造東大寺司奉請文案(十三ノ三八三10―三八四7 e)、d裏の墨うつりは同②(1)裏の天平宝字二年七月廿二日造東大寺司奉請文案(十三ノ三八四8―三八五1 f)であることが判明する(e・fの裏は奉写一切経料墨并凡紙鹿毛筆等用帳・神護景雲四年六月 十八ノ四四八―四五一6)。a・b・c・dとe・fとはほぼ同時期の文書であり、こうした墨うつりが生じたことから考えると、a・b・c・ dを貼り継いだ継文(造東大寺司写経所公文案帳)と、e・fを貼り継いだ継文(造東大寺司奉請文案)とは、前者の裏面と後者の文字面が接する形で重ねられていた時期のあることがわかる。こうした状況の解釈は今後深める必要があるが、複数の継文を並行して作成し、手近に置きながら業務を進めて行く状況をうかがわせる知見といえよう。
 続々修四ノ二十⑫の藤原夫人家写経料紙収納帳・(神亀四年) (一ノ三八一―三八三 g)は、写経関係文書としては正倉院文書の中で最も初期に属するものである(栄原永遠男「初期写経所に関する二三の問題」、同『奈良時代の写経と内裏』所収)。gは、共に紙幅三〇㎝程度の料紙二紙からなるが、第一紙冒頭三行の記載の左方に一九㎝ほどの空白が存在し、この空白部分の四隅に糊痕が認められる。この空白部分に、続々修三十七ノ九(32)の藤原夫人家写経料受紙注文・(神亀四年) (二十四ノ四 h)が貼り込まれていたことが、糊痕やしみの形状が合致することから判明する。こうした貼込による書面の整理・保管は、これまでの調査で前例の無い様態と思われる。こうした様態が生じた背景となる業務過程はいかなるものか興味を引くところであり、それと共に原本の調査において貼込の存在に視野を広げる必要も生じてくると思われる。
 なお、本冊の本文記述のうち、断簡の裏がすべて空の巻については、断簡の表・裏を見開きの右・左頁に配列する方式をとらず、前冊と同様、断簡ごとに順次頁を改め追い込みで記述する方式をとった。また「大日本古文書対照目録」も、紙幅の関係から、本冊収録分に関わる内容に限って掲載する前冊と同じ形式とした。補遺には、正集七①(2)・同裏、正集四十五⑥(1)・同裏、続修十九④・同裏、続修二十③・同裏、続修二十⑤・同裏、続修二十⑥・同裏、続修別集五③・同裏、続修別集七⑧・同裏の八断簡を収めた。
 正倉院文書の調査を許可され、本所の刊行に格段の配慮を賜った宮内庁及び同正倉院事務所に厚く謝意を表する。
 (例言四頁、目次五頁、本文五一七頁、対照目録三〇頁、補遺一七頁、定価一八、〇〇〇円)
担当者 山口英男・石上英一・加藤友康・田島公・厚谷和雄・稲田奈津子


『東京大学史料編纂所報』第45号p.31~33