東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本古文書 幕末外国関係文書 附録之八

 本冊には、万延元年の閏三月から八月までの、幕府有司と諸外国使節との応接記録である対話書を収録した。本冊に収載した対話書は、既刊の『幕末外国関係文書』での、巻之三十九(万延元年閏三月〜四月)、同巻之四十(同年五月〜六月)、同巻之四十一(同年七月〜八月)の部分に対応する時期の応接記録で、本編未収の史料である(本文において、上記の本編に収載した諸史料との関係等については註記を付した)。なお、巻之四十二以降の本編では対話書を収録している。
 本冊収載の対話書は、外務省外交史料館所蔵の「通信全覧」所収にかかる記録書類を主としており、併せて函館市中央図書館所蔵の箱館奉行所文書などに拠った。
 収載した対話書六二件の内訳を各国別にあげておくと、英国十七件(うち七件が公使オールコックとの対話)、米国十五件(うち七件が弁理公使ハリスとの対話)、仏国十件(うち九件が代理公使ドゥシェーヌ・ド・ベルクールとの対話)、蘭国七件(うち六件が江戸滞在時の理事官ドンケル・クルチウスとの対話)、葡国七件(すべて条約締結の目的で来日した使節ギマレース[ギマランエス]との対話)、孛国八件(すべて条約締結目的での特派公使オイレンブルク伯爵との対話)、となる。なおこのうち第二一号対話書は、葡国使節および江戸在勤英国副領事代理ユースデンらを同時に、外国奉行らが宿寺で応接した際(五月二十九日)のものである。
 次に本冊収録史料の時期について。万延元年三月の桜田門外の変で井伊政権が倒されたのち、幕府では安藤・久世政権が発足(久世広周の老中再任が閏三月一日)して間もない時点より始まり(本巻第一号は同月二十一日)、途中でポルトガル使節との条約締結交渉(五月〜六月)を経て、七月末以降のプロシャ使節との条約交渉に至る時期にかかっている。東アジアの国際政治は、アロー戦争(一八五七〜六〇年)の最終局面たる第2次戦役の渦中にあり、万延元年の八月には英仏連合軍が北京を占領する。幕府の対外交渉は、この戦局を意識しながらおこなわれた。なお巻末、第六二号の安藤老中とオー ルコックとの対話書は、八月二十九日のものである。
 以下では、所収史料よりうかがえる、注目すべき諸点をあげておく。
【万延改鋳と洋銀自然相場通用】四月の万延金貨新鋳は、小型化しての悪鋳として著名だが、各国に通告され即座の了承が得られた(第一号・二号・七号)。さらに、通商条約での同種同量の貨幣通用規定に伴い、役所での洋銀交換を定めた条項が、条約施行の一年後にその期限を迎えるため、五月十三日以降は、一般にメキシコドル銀貨は自然相場=時価による通用に切り換えられた。オールコックの主導した交渉によって、各国代表団や来日軍艦乗員を対象に、公用としての洋銀引替を幕府は認めた(第六号・一一号)。また、五月末に神奈川運上所で洋銀相場が張出されたことが各国で問題にされ(第二四号・二六号・二七号・三三号・三四号・三八号)、この相場の掲示は停止された。
【三港居留地問題】横浜での新規居留地の配分方式について、まず仏国が専管居留地を確保するなど、各国間での不一致がみられ(第三号・四号・五号・六号)、調整に手間取っている。結局は公使間の協議を経て、残余の拡張地は英米蘭三国共同の居留地となり、分配は公売方式によると決定された(第一一号)。長崎については、地所および地代の問題が取り上げられ(第六号・一一号)、箱館についても談判された(第一一号)。
【馬匹輸出問題】アロー戦争における兵站目的での輸出に伴い、英国陸軍兵站総監の指示に基づく飼料調達や馬丁連行の問題が提示された(第六号)。幕府は別当の出国を拒否しており、日本人の海外渡航禁止原則は明確である。戦後に馬匹は積み戻され、オイレンブルクからこれが報知されている(第五三号)。
【蘭国理事官による長崎貿易勘定清算交渉】長崎を発した理事官DonkerCurtiusは五月十七日に江戸に着き、同二十一日に安藤老中と会談した(第一七号)。以後、外国奉行や勘定奉行らと談判を続けたが(第二二号・二四号・三五号)、この主目的は、幕府が蘭国政府に発注した蒸気軍艦等の代価について、長崎会所の未払い分を回収する方途の決定にあった。蘭国側は洋銀での受領を要求していたが、結局残額については、その三十%相当は銅で、また残りは樟脳・白蝋等による現物支払いとすることで決着した(第三七号)。なお五月二十一日の交渉席上では、新規の条約締結を停止する旨を、蘭国よ り諸外国に伝達するよう安藤老中より要請があった(第一七号)。
【各国代表の将軍謁見】前年十月の江戸城本丸焼失の影響で延期されていたが、七月四日にハリス、同九日にオールコック、同二十一日にはベルクールが、登城の上将軍家茂に謁見しており、その事前に礼式や行列についての談判がなされている(第一一号・一二号・一三号・一五号・一六号・一八号・二〇号・三三号・三六号・三八号・四二号)。
【日葡修好通商条約の調印】葡国使節のマカオ総督Guimarãesは、五月二十四日に江戸到着、英国公使館の東禅寺に入った。幕府側との交渉は六回もたれ(第一九号・二一号・二三号・二五号・二七号・二八号)、修好通商条約が六月十七日に調印されて、翌十八日には老中安藤邸にてポルトガル国書の授受がなされた(第三二号)。
【孛国の対日条約交渉】七月、米公使ハリスは孛国使節の支援を要請する本国の訓令を楯に取り、老中に孛国との条約締結を強く要望した(第三九号・四一号・四三号)。幕府は対孛条約拒絶の構えを崩さなかったが、オイレンブルク伯がアルコーナ号にて同月十九日に来着、赤羽根接遇所に宿し、二十九日の安藤老中との会見をもって条約交渉が開始された(第四八号)。人心不一致を理由にあくまで締結の先送りを懇請した幕府側に対し、孛使節の姿勢は強硬で(第五〇号・五二号・五八号)、またハリスの方も支援を続けた(第五五号)。談判は十二月まで続き、条約調印は同月十四日である(巻之四 十六)。
【開市開港延期要請の端緒】両都両港の開市開港延期について、幕府が最初に打診したのは六月二十一日、英公使に対してで(第三四号)、翌七月の十一日に再び会談がもたれ(第四〇号)、オールコックは老中書翰の本国への伝達、ないしは幕府全権使節派遣との案を提示した。この問題では、ひとまず仏公使が英国に追随している(第六〇号)。両港開港延期については、先立つD・クルチウスとの談判でも話題にあげられている(六月四日、第二四号)。
【英公使の富士登頂】西欧人初の富士登山として有名なオールコック公使の旅行であるが(七月二十六日山頂到達)、この前後の対話も収録した(第三八号・四〇号・五九号・六二号)。
 このほか、増上寺山内安国殿の参観を拒否され、英米二国で抗議した件(第一〇号・一一号・四一号・六二号)、幕府の通知により六月十五日、各国公使の山王祭見物が実現した件(第二九号・三〇号・三一号)なども興味深い事例といえよう。本巻では、四月に総領事より昇任したベルクール仏公使の人となりを垣間見せるエピソードも豊富である(第四六号・四九号・五一号・五六号・五七号)。軍艦咸臨丸で太平洋を往復してきた木村喜毅が、D・クルチウスに再会し海軍伝習の謝意を述べる一齣も注目される(第一四号)。
(例言二頁、目次一四頁、本文五三六頁、本体価格一二、三〇〇円)
担当者 小野将・保谷徹・松澤裕作


『東京大学史料編纂所報』第45号p.39~40