東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本古記録 愚昧記 上

 『愚昧記』は平安末期〜鎌倉初期の貴族、左大臣藤原(三条)実房(一一四七〜一二二五)の日記で、仁安元年(一一六六) から建久六年(一一九五)までの記事が断続的に伝わる。現在、実房自筆原本が東京大学史料編纂所に七巻、陽明文庫に二巻、国立歴史民俗博物館に一巻所蔵され、写本は鎌倉前期古写本二巻をはじめ、数多く存在する。その呼称には、『愚昧御記』『愚昧記』『実房公記』『入道左府記』等があるが、大日本古記録として刊行するのに際し、現在最も一般に通用している『愚昧記』の題名を用いた。
 実房が生きたのは、平氏政権の全盛期から、その滅亡と鎌倉幕府の成立へと激動する時代であり、日記には当時の朝廷周辺の動静や政務儀礼の作法などが詳しく記録されている。二〇〇六年度より、東京大学史料編纂所所蔵の原本・古写本八巻について最新の技術による修理がなされ、従来は破損や裏打ちにより判読できなかった箇所が鮮明となった。この成果をふまえて、全三冊の予定で日記・紙背文書とも初めて全体の翻刻を行なう。
 第一冊である本冊には、仁安元年七月より承安元年(一一七一)十月までの分を収めた。実房二十歳から二十五歳にあたり、この時期、仁安元年六月に権中納言に任じられ、同三年八月には権大納言に昇進する。日記の起筆時期は明らかではないが、現存最初の仁安元年秋記は権中納言着陣に関する記事から始まっており、これが本格的に公務に関する日記を記録し始めた部分である可能性もあろう。
 翻刻の底本には、原本の残る仁安二年冬記・嘉応元年春記・同二年秋冬記についてはそれを用い、その欠損箇所や、原本を欠く部分は写本によった。
 仁安二年冬記原本は、現在、十月記(二十五日条まで)と十一月(二日条途中より)・十二月記の二巻に分かれているが、国会図書館所蔵古写本(享禄五年正月三条西公条抄写)には十月三十日条と十一月一日・二日条前半が含まれており、もとは十月から十二月まで連続した一巻であったと判断される。同様に、嘉応二年秋冬記原本は、現状では冒頭から十二月九日条までが一巻となっているが、陽明文庫所蔵の一巻(従来「文治五年十二月」古写本とされていた)が編纂の過程で嘉応二年十二月十四日条以降の原本であることが判明した。これらも元来は一連のものであったと思われる。
 底本・校訂本に使用した写本は、三条西実隆・公条書写の戦国期古写本と、京都御所東山御文庫本や諸公家文庫旧蔵の江戸前期写本などである。
 前者には、仁安元年秋記(宮内庁書陵部所蔵)・同二年秋記(同)・同年冬記(国会図書館所蔵)・嘉応元年春記(今治市河野美術館所蔵)・承安元年正月記(御元服部類、尊経閣文庫所蔵)がある。これらは古写本であるが、残念ながら原本の重ね書きや塗抹など推敲の痕跡を残しておらず、抄出の箇所もあるため、諸本の祖本である仁安元年秋記を除き、校訂本に用いた。仁安元年秋記は落丁のため七月三日条途中までを欠くが、現存する他の秋記写本にはすべてこの特徴があるため、底本とした。なお、これとは別に三日条途中までのみの写本も存在しており、東京大学史料編纂所所蔵三条家旧蔵本により冒頭部分を補った。
 後者には、仁安元年十月立太子記(底本同三条家旧蔵本)、同二年春夏記・秋記(底本東山御文庫本)、同三年夏記・冬記(底本東京文化財研究所所蔵中御門家旧蔵本)、嘉応元年冬記(底本宮内庁書陵部所蔵鷹司家旧蔵本)、同二年春四月記(底本東山御文庫本)・承安元年正月記(御元服部類、底本東山御文庫本)がある。写本の選択に当たっては、推敲の痕跡を忠実に残すなど、ほぼ原本を影写していると判断されるものを底本とし、別系統の本文により文字の異同を注記した。
 以上のほかに部類記・別記によるものとして、陽明文庫所蔵『愚昧記雑々部類』(仁安元年十月二日条・十二月二十七日条、嘉応元年五月二十八日条)、東山御文庫収蔵『大饗記』(古写本、承安元年正月十九日条)、宮内庁書陵部所蔵『曼供部類記』(同年十月八日条)を、それぞれ底本に用いた。
 記事の内容では、関白藤原基房・左大臣藤原経宗の指導を仰ぎつつ、朝儀の故実・作法について詳細に記録する部分がほとんどであり、他人の作法・見識への批評も多く見られる。当時、実房がこのような日記をつけていることは他人にも知られていたようで、経宗は自分が紫宸殿で臨機に休息したことを日記に記載しないよう、実房に語っている(嘉応二年十一月十五日条)。
 平清盛の任太政大臣についてはごく簡単に事実を記すのみであるが(仁安二年二月十一日条)、その一方で、一角牛首の子や鬼の子(仁安元年七月十八日・十九日条)、身長二尺余の尼(仁安二年九月十三日条)、大食の姉弟(仁安三年五月二十七日条)など怪異についての記事もある。
 原本の紙背文書では、史料編纂所所蔵第一巻・第二巻(仁安二年冬記)紙背に、康治元年(永治二年、一一四二)・久安二年(一一四六)の検非違使庁関係文書(問注記など)と、天治二年(一一二五)〜大治五年(一一三〇)、仁平元年(一一五一) の名簿が見える。実房の父公教は保延六年(一一四〇)から久安三年(一一四七)まで検非違使別当であることから、原本第一巻・第二巻は公教の周辺にあった反故を料紙に利用していることが判明する。
 同第三巻(嘉応元年春記)紙背は、文書の書き損じなど実房の手元にあった反故や書状で、表面の前年である仁安三年八月〜十二月頃のものが多い。
 同第四巻では、七月記(祈年穀奉幣記)にのみ紙背文書(書状)があり、十一月・十二月記は白紙に記されている。十一月冒頭部(第十張)の端裏には「嘉応二年十一月以後記愚」とあり、七月記と十一月・十二月記は本来別々のものであった。
 巻頭図版には、①仁安二年十月巻(原本)巻頭、②嘉応元年春巻(原本)二月記、③仁安二年十一月十二月巻(原本)巻頭、④同第一張紙背、⑤同第七〜九張紙背、の五点を掲げた。①には実房の付けた原表紙が残っており、端裏に「仁安二年冬 愚」、見返しに記事の目録がある。②には数度にわたる抹消等により本文を大きく改変している箇所がある。このように、おびただしい推敲の痕跡が見えることは実房の日記筆録態度の特徴であり、翻刻に際しては、写本部分も含めて、なるべく推敲の状況を伝えられるよう留意した。③④には実房異母兄藤原実国の書状(原本第二巻第一紙)の表裏を掲げた。実国は表面から裏面へと続けて春日詣定の儀を記しているが、書状を受け取った実房は、それをそのまま日記に貼り継ぎ、実国書状の裏面(後半部分)は貼り継いだ次の紙に自ら書写している。⑤は検非違使による問注記の実例で、今回の原本修理の過程で、裏打ちの無い状態で初めて撮影したものである。
 本冊の編纂にあたり、これまで通り多くの所員から部室の枠を超えてさまざまな協力を得たが、特に遠藤珠紀・宮崎肇両氏には原本調査において多大な御教示を受けた。また、原本の修理や寄託をお願いした株式会社文化財保存・奈良国立博物館の関係各位にも心より感謝の意を表する。
 なお、二一〇頁一四行目(嘉応元年二月四日条)の傍註「(大中臣親隆)」は「(大中臣清親)」に訂正する。
(例言九頁、目次三頁、本文三一八頁、巻頭図版四頁、本体価格一一、〇〇〇円、岩波書店発行)
担当者 尾上陽介


『東京大学史料編纂所報』第45号p.43~44