東京大学史料編纂所

HOME > 編纂・研究・公開 > 所報 > 『東京大学史料編纂所報』第45号(2009年度)

所報―刊行物紹介

大日本近世史料 細川家史料 二十二[細川忠利文書十五]

 一、収載範囲と概要 肥後熊本藩主細川忠利文書のうち、寛永十五年(一六三八)一月二十七日から三月十五日までの諸方宛書状二九〇件を、公益財団法人永青文庫所蔵・熊本大学附属図書館寄託「公儀御書案文」(書状案紙集)寛永十五年一月〜五月(整理番号十―廿三―八)を底本に、翻刻・校注して収載した。なお二月某日附の土井利勝外三名宛書状は、忠利嫡男肥後守光尚の発信と記されるが、除外せず、当該位置に収載した(四〇一二号文書)。
 本冊中最大の事件は、前年(冊)来の島原天草一揆である。銃砲の集中使用が普及し、大規模動員が定着した近世日本の幕藩体制下、江戸幕府が編成した十万人超の正規軍による十七世紀最後の実戦に、主力部隊二万八千余の人数(「綿考輯録」「大河内家記録」)を指揮して参陣し、軍役を果たした大名細川忠利本人名義の当事者記録である。以下、紙幅を費やして内容に触れる。
 同一揆については、原因・背景、指導者、蜂起から鎮圧に至る経過、事後の影響等々で先行研究と史跡調査の蓄積があるが、忠利着陣後の攻防戦と二月二十七・八日の落城前後の様相を詳細に綴った本書の刊行により、一次史料と知見を増した。
 底本には、忠利の性分・幅広い交際関係に加え、戦時下という事情から多数の書状案が載録されている。寛永十五年正月から五月までの一冊は大部で、落城から忠利帰国(三月二日)直後の前半で区切り、三月半ば以降の後半分は次冊に廻した。寛永十五年通年では、六月以降の「案文」底本が別冊で伝存し(整理番号十―廿三―九・十)、三分冊公刊予定の第一冊目となる。
 二、内容の紹介 ①忠利の動向と事実経過 前年の一揆勃発と戦況変化に対応し、将軍家光・幕府は、鎮圧のため軍勢増派・指揮体制強化を決定した。老中松平信綱と美濃大垣藩主戸田氏鉄(関ヶ原・大坂従軍歴) を上使、総指揮官として差遣し、忠利を含む九州勢等を出陣させた。忠利は、一月十三日に出陣を命じられ、即日、江戸から病躯をおして出陣し(前年十月には鎌倉で保養、前冊)、大坂から幕府水軍の船で(三九五一)、瀬戸内海を航行し(三九七五)、一月二十六日、島原半島の戦地(「嶋原」「有馬」の表記混用)(三九四七・三九五二)に着到し、国許からの軍勢や嫡男肥後守光尚を指揮した。
 細川勢他九州諸藩への動員は、兵力数の増強に留まらず、嗣子・庶流の血族や老臣層隷下の軍勢では質量とも十全ではなく、忠利(大坂の役)・肥前佐賀鍋島勝茂(朝鮮、関ヶ原、大坂)・筑後柳川立花宗茂(九州での島津との抗争、朝鮮、関ヶ原前の伊勢・大津転戦、柳川城防衛、大坂)等歴戦の諸大名家当主層を投入してこそ、各家の戦力を発揮し(させ)得るという、当該期の大名家中の内実と幕府の意図をも物語る。なお忠利の江戸発足後、着陣以前に、上使として当初派遣された板倉重昌は、増援前の任務達成を急ぎ、強行に失敗、元日に討ち死にした。
 ②原城攻城戦の記事 攻城戦(「城のり」と表記、三九七三)の技術・戦法・兵站・指揮系統等の実情が、攻め手の主力大名で細心な人物の書状案、視線を通して克明に綴られる。攻め手では、上使両名が家光の意を受け、慎重・周到な包囲戦策を徹底させようとし、抜け駆けを法度で禁じた(三九五三)。忠利は「是程成ねつき城せめ承たる儀も無御座候」と酒井忠勝に報じる(三九六九)。「ほしころし」戦長期化も予想された(四一八八)。将軍家光は江戸から黒印状の「法度」を伝達し、上使は軍律遵守の誓詞を徴収した(四〇三二)。松平信綱は(初陣である)、奉公を全うすべく不退転の覚悟を示し(三九八〇)、江戸からの使番の往来も頻回であった(三九四七・三九五三・三九六九・四〇一一・四〇七六)。鎮圧は、幕府の大命題であった。
 諸勢は、持ち場毎に竹束・板・柵等で「仕寄」(動詞・名詞)を工作・漸進させつつ、井楼を上げて城中を俯瞰射撃し、戦力を殺いだ。細川勢は、三丸正面を受け持ち、帆柱を立てて函を付けて城内を偵察し、忍の者も放った。かつて現地を領有した有馬直純は、家臣と籠城中の旧臣とを連絡させ投降を促し、情報入手にも努めた(三九五四〜三九五七、三九六二、三九七三)。
 細川忠利は、城中からの夜襲を警戒し、攻城必須の弾薬を浜から船上に移す保全策(三九五三)や、警報用の釣鐘配備を上使に進言し(三九七三)、容れられた。奉公の責務や外聞を自覚して九州勢による鎮圧を志向し、戦闘長期化や派遣軍編成替えを警戒する(三九八〇・四一八八)。攻め手中で立地に恵まれ仕寄が進捗し、遅れがちな他勢への舌鋒は総じて厳しい。ことに黒田忠之勢には辛辣で、柳生宗矩宛で「互ニ不申通候とて、私之儀を専ニ仕、公儀之御為ニかまい不申候」と極言さえする(四一〇七)。黒田家との小倉在城期・長政代から続く確執を知ることができる。文久元年八月ごろから定五郎の異変に関する記事が数か所あり、心身が衰弱していく様子がわかる。文化人に関連して、漢学者日尾荊山の病死(安政六年八月)後、養子敬三郎に喜之介らが入門したことや、絵師柴田是真との交流、浮世絵師歌川国芳の死(文久元年三月)などが記されている。また文久二年一一月には今村兼三が応挙の蛙画幅を持参した記事がある。
 戦地に近接した自領から兵糧や馬の飼料を上使等に提供しつつ、長期化への危惧も表明される(三九九二)。
 包囲された城内の様相は、さらに悲惨であった。食料・弾薬とも窮乏し(三九五七)、海辺からの自給を余儀なくされた数千の人々の存在も窺える(四一八八)。「四郎」益田時貞が予言を的中させ声望を高めた所以は、攻め手に混在する「きりしたん」内通故とされる(三九五七)。
 軍事技術上は、周知のオランダ船廻航(三九五二・三九七三)に加え、長崎よりの「唐人木鉄砲」召致も記される(四〇〇〇)。また長崎商人による町立て(三九八〇)、公儀からの兵糧米配給遅延の欠を埋める商人の活動が記され(三九九九)、江戸・上方から離れた地で勃発した大量需要・消費に、近世的な扶持米支給体制が機能し得ない様相も垣間見える。
 社会史上は、幕臣等の縁者や浪人の参陣が興味深い。忠利は、自軍の邪魔となる浪人の切り捨て許可さえ得ているが(三九七二)、あいつぐ大名家の改易等で大量に発生し、江戸や上方等各地に滞留・生活した彼ら浪人にとり、この一戦は軍功を挙げる好機であり、恐らくは武装自弁で人数を具して渡来し、伝手を頼って陣借りしたものと思われる。
 一揆側最後の反抗は、二月二十二日早暁の夜襲で、諸手と交戦し黒田勢等に損害を与えたものの、撃退された(四〇五八)。
 ③落城の経過 城内の窮乏・戦力低下を確信した上使は、二月二十八日の総攻を決し、整然とした鎮圧を期した。けれども二十七日昼、鍋島勢の持ち場の二丸出丸から一揆勢が後退し、鍋島勢は二丸へと仕寄を進めた(四一八忠利が具足を着ける間もなく事態は進み(四〇九二、四一〇一、四一八五)、立花宗茂との連署状を筆記させる間に、二丸へ突入し(四〇七一〜四〇七二)、 酉刻本丸に達した(四〇七四)。高石垣造りの本丸攻略は難航も予想されたが(四〇七六・四一八八)、軍目付馬場利重が撤収再編を許さず強攻を指示・督戦し(四一〇七)、細川勢は本丸に突入、火を放ちつつ制圧し、事後に四郎と認定された首級と一番乗りの功を得た。本丸に入れなかった他勢は、周囲の郭を掃討した。
 ④犠牲・損害 討ち捨て・切り捨て、掃討(四二一三)、落人狩り(四〇七六)後、集められた一揆方の首級は一万九千(四一四七)、城内男女の犠牲は推定三万七千とされる(四二〇七)。「きりしたん」の奮戦により攻め手の損害も多く(四一八八)、忠利は「つよき男女之死様」に感じ入る(四〇九二)。細川勢の損害は「手負死人公儀へ書出申候、弐千百余ニ而候、不便なるものあまたしなせ、めいわく申候」と記される(四一五二)。肥後領内で捕縛された四郎の縁者の処置は、上使から忠利に委ねられた(四一九一)。
 ⑤落城後の事項 原城の木型が、実状に沿うよう造り直されて江戸へ上進され、家光の実見に供された(四一八四・四一八六)。
 松平信綱は、細川忠利・光尚父子に当座の在国・休息を指示した。が、三月二日熊本に帰った忠利は、「何やかやと不明隙、散々草臥申候」と漏らすなか(四一三六)、光尚の参府を急がせた。
 上使一行は、天草・長崎・平戸・名護屋等を巡検し小倉に至った(四一三九・四一六一・四一九三)。この見聞は、諸政策展開へと繋がったと思われる。
 忠利は、幕臣の帰任の交通や礼遇にも配慮し、熊本城花畑で板倉重矩等を迎接した(四一六一)。また陣普請に多数の百姓が動員された戦地での田の荒れや諸手の疲弊に言及し(四一〇五)、「嶋原天草荒知は当年は作取りニ被仰付候事」との幕府の決定を報じる(四一八八)。幕藩領主の存立に関わる問題であり、自領疲弊を理由に茶掛購入を断ってもいる(四二三一)。
 ⑥編纂対象史料についての補足説明 編纂過程で、本案文記載書状の原本(三九八三―千秋文庫、四〇三六―島津家文書、四〇七九―早稲田大学図書館、四二〇六―大阪城天守閣)や、案文不記載書状の原本(「丸岡有馬古文書」・「真田家文書」)の伝存事例を検出した。案文(案紙集)自体も貼紙や書き直しが施されて編成されており、当該箇所本文に注記した。底本は、現地着陣・発信開始日を基点に、再構成された案紙集であり、「公儀御書案文」の表題と宛名とに明らかな通り、当主から家中=内儀とは峻別される外部への発信文書を留めた簿冊である。実際に伝達・受信された案文所収書状の原本からは、案文上の省略部や案文との異同や本人自らの加筆部等が把握可能である。また案文不載書状原本の存在中には、全文本人自筆と思われ「公儀御書案文」の領域外の文書の存在や、案文所載文書に内容が近似しながら不載の署名・書判・宛名を欠いた書状の実例(「真田家文書」)から右筆・近侍者の錯誤での発信、案文作成段階での不載・欠落分の存在も想定される。
 同時期の忠利の諸方宛発信文書の全体と全文ではないことに注意を要するが、対象時期の相当部を縦覧可能な、まとまった良質の史料群としての価値は揺るがない。
 ⑦その他本冊中の注意事項 忠利は従軍中、府内目付、大坂奉行、上方衆、江戸の幕府要人等との回路を活用し、本書既刊分に共通し学界周知のことだが大坂町奉行曽我古尚とは特に緊密で、上使の報告より詳細な書状の流布につき忠告されている(四〇五五)。非常事態下、詳細な内容を持つ忠利の書状が受信者に二次的に利用・転送された結果である。発信者はこうした事態をも予期・活用したのであろう。伝達速度について付言すると、小早舟便(三九五〇)が早かった。また西洞院時慶宛書状(三九八六)は、正月二十三日附書状の返書として二月十六日附で「有馬陣」より発信され、二十三日晩に京都で受信されていることが判明する(「時慶卿記」)。
 後継男子もなく健康不安が続く将軍家光の動静には注意が払われ、唯一の子(女子)で二歳の千代姫と尾張義直男光友(初名光義、十四歳)との婚約治定と江戸城に義直・頼宣・頼房を召しての直達(四一三〇)が特記される(家綱誕生前、光友が家光後継に最も近く、実際の婚儀は翌年十六年九月二十一日となったが、調度の用意に日時を要したためである)。
 島津家久の病死、信濃松本城主松平直政(故越前結城秀康三男、七万石)の出雲国拝領(十八万六千石)も特筆される。堀尾家に続く京極家断絶後、津和野藩主亀井茲政等が松江城に在番していたが(四〇六一・「上林三入家文書」)、幕末まで続いた出雲松江松平家の創設期、直政は家臣団を増強し、原城攻に参陣した牢人をも登用してゆく。鍋島勢の軍令違反を未だ忠利は把握していない。鍋島勝茂の江戸召還や幕府の論功行賞は、次冊以降の主題となる。
 最後に底本使用および関連史料・史跡調査には関係各位のご配慮を得、先人の蓄積に学恩を負った。記して謝意を表する。
(例言二頁、目次二三頁、本文・人名一覧三五六頁、二〇一〇年三月二六日発行、東京大学出版会発売、本体価格一一、四〇〇円)
担当者 山口和夫・木村直樹・小宮木代良


『東京大学史料編纂所報』第45号p.34~37