大日本維新史料 類纂之部 井伊家史料二十六

本冊には、万延元年三月から同五月までの記事を収める。「桜田門外の変」により、安政の大獄を遂行し強大な権力を手中にしていた井伊直弼という存在が突如消滅し、幕府においては大老に代わって老中が、彦根藩内においては、直弼―長野義言ラインに代わって、家老の存在が大きく浮上する。幕府、朝廷、彦根藩、水戸藩、そして関東、畿内、薩摩それぞれの集団・場において必死の状況掌握、探索が行われるなか、指揮・情報の流れが大きく変化していくありさまを、本冊の諸史料は生々しく語ってくれる。
【「桜田門外の変」勃発】
 本冊は、三月三日、襲撃者齋藤一徳らが老中脇坂安宅に自首した際提出したとされる「斬奸趣意書」の写(一号)から始まる。二号は、同日彦根側が幕府に出した届および別紙(彦根藩士死傷者書上)の草案である。即日幕府月番老中による警戒態勢が発令された(三〜五号)。
【彦根藩と水戸藩】
 彦根藩内では、主君を襲撃した水戸を討つべしとの声が沸き起った。下野国安蘇郡の彦根藩領佐野から千人が江戸藩邸に駆けつけ、また三月二十日過ぎ家老木俣守彝・長野業賢も相次ぎ江戸に到着した(二九号)。佐野領から水戸への出撃経路が検討された形跡があり(四七号)、佐野領における水戸風聞収集も行われている(一〇二号)。幕府は評定所で襲撃者の審問を行っており、彦根・水戸同士の戦闘を禁じる方針をとった。彦根藩の襲撃者引渡願についても、幕府はこれを却下した(九・十二号)。また水戸家と井伊家に対し、国許からの家中呼び出しを抑制するようにとの指示を伝えた(二六・
三二号)。
【京坂情勢】
 「桜田門外の変」企画者のうち一部は京坂を目指した。京都をめざした金子教孝・佐藤教寛・薩摩藩士有村兼武ら、大坂に向かった高橋愛諸らの行方については、彦根藩京都留守居後閑義利が、京都東町奉行与力・同心から情報を得(三七・三九号)、また京都西町奉行与力渡辺金三郎から、江戸の長野・宇津木への書通(六〇号)がなされている。以上の直弼政権時から継続した情報の流れ以外に、彦根藩京都留守居竹中重武・岡嶋茂実が「大坂ならびに西国筋探索」のために大坂に出向き蒐集した情報を家老に報告し、これらに基づき家老から後閑に指示が出されるという動きが出てきている(四三・五六号)。
 京都では、水戸勢の潜入を警戒し、所司代酒井忠義を中心に諸藩も動員して御所・京都の警備が行われていた。同地では、直弼・九条尚忠に対する悪口が横行し九条の関白辞職を勧める堂上も多いという状況であり(閏三月十二日付長野宛島田龍章書状、六二号)、非常時には彦根藩が九条家警備のために出動することを約している(五七号他)。
【大老政治体制の崩壊】
 「桜田門外の変」後、幕府内では老中の内々評定が頻々と持たれた(三三・三四号)。直弼という存在が無くなった状況で、幕府内情勢は、直弼の片腕であった側衆御側御用取次薬師寺元真から彦根側にもたらされた。三月七日付彦根藩公用人宇津木景福書状(一五号)では、薬師寺からの報として、「将軍が襲撃の報を聞いてより日々夜々御嘆息、うろうろと遊ばされ、怒り・落涙で食事も進まない様子。近く討手を差し向ける際には、井伊家に先陣を命じられるは必定。それまでは上意の通り、忍びがたきを忍ぶように。」と、談じられたことを述べている。
 しかし、三月三十日には、水戸藩主徳川慶篤に当分登城禁止の命が下される一方、直弼の大老退役が発表された。さらに、同日薬師寺から宇津木に、極密に「明日(閏三月朔日)久世広周が老中に再任される模様。これは将軍後見職徳川慶頼も予想しなかったことで、侫人が盛んになり、忠臣は退けられる世となる。もはや御覚悟されたし。」との報が届く(四四号)。閏三月八日には、老中分掌の一部組み替えも行われた(六三号)。閏三月二十一日彦根藩家老は、薬師寺の御用取次罷免と老中松平乗全退役の動向、水勅返却猶予の動きがあることに危惧を表明し、幕府の表向きの申し口はあてにはならずとして、長野に今まで以上に「入魂」の内情探索を命じるのである(七一号)。
 久世再任後は、直弼―長野ラインで進めていた、将軍から朝廷への進物、和宮降嫁、そして九条尚忠への加増地の件についても、久世の統括下へと急速に移行していく。四月一日には老中連署奉書で所司代酒井に、和宮との調縁検討を九条に申し入れるよう要請がなされる。
【直弼発喪】
 直弼の発喪のタイミング(二八号他)、継嗣問題もまた政治的問題であった。彦根藩は、閏三月三十日、直弼の喪を発した。四月七日幕府から香典の上使が派遣され、十日の葬儀には、勘定奉行が八州廻りに命じ、世田谷道筋・豪徳寺周辺で乱暴が起こらないように、品川・下目黒付近に警戒態勢を敷いている(九七号)。
(目次一七頁、本文三四九頁、口絵図版一葉、本体価格一六、三〇〇円)
担当者 横山伊徳・杉本史子・箱石大

『東京大学史料編纂所報』第45号 p.38-39