東京大学史料編纂所

73.沖縄史料調査

二○○八年九月二一~二八日および二○○九年二月八~一二日、沖縄県に出張し、那覇市歴史博物館、沖縄県立図書館郷土資料室・浦添市立図書館沖縄学研究室で南島画像関係資料及び琉球家譜関係資料の調査を行った。
・沖縄県立図書館・浦添市立図書館沖縄学研究室
 二○○八年九月二一・二八日、二○○九年二月八日、沖縄県立図書館郷土資料室、二○○八年九月二七日、浦添市立図書館沖縄学研究室において、東恩納寛惇史料ノート(原蔵、沖縄県立図書館。複写本による)、鎌倉芳太郎ノート(原蔵、沖縄県立芸術大学資料館。複写本等による)中の南島雑話関係記事、奄美大島関係資料の確認を行った。「鎌倉芳太郎ノート」2美術・工芸所収「李姓世系図」に大島関係記事あり。
○李姓世系図 『氏集』二十番二四七一
二世喜定 船越筑登之親雲上
   童名真太郎、唐名李可忠、行一、万暦元年癸酉正月七日生、
   父喜廣、 母無系武太瑠金、
   室赤頭東平尓也女真鶴、號清定、
尚豊王世代
   天啓六年、丙寅、就樫木御材御用、到大島、来年、宰領帰帆、
   崇禎元年、戊辰、黄冠頂戴、
崇禎十四年、辛巳、八月十一日、不禄、寿六十九、號松岳、
 大島・徳之島からは船材のウラジロガシが採取された。元和九年(一六二三)大島置目で「楷船つくるましきこと」が定められているので、天啓六年(一六二六)に大島から琉球に船材を搬出することができたのは、薩摩藩の許可のもとであろう。
・那覇市歴史博物館
二○○八年九月二二~二六日、二○○九年二月九~一二日、那覇市歴史博物館において、琉球家譜複製資料を閲覧し、奄美諸島関係記事、薩琉関係記事、日琉関係記事を調査した。また特に、古琉球時代の奄美諸島関係の記事を収める家譜を再確認した。
次に、本年度の二度の調査で見出した薩琉関係・日琉関係記事の一部を紹介する。
○尚姓家譜 『氏集』一番七。「護得久家譜断片」。
一世、尚純王三男、越来王子尚盛(朝得)。康煕四十一年八月十七日生、乾隆二十四年二月三日卒。「江戸御旅両度」とあり。
○向姓家譜 『氏集』一番一一一
七世向朝未、順治十七年七月二十五日生、康煕五十四年八月七日卒。康煕二十六年「綱貴公御家督之御祝使」金武王子朝興の与力として薩摩に赴く。康煕四十四年、「為吊大玄院公向氏浦添按司朝卓因赴于薩州為附役」として薩摩に赴く。
九世向朝寅、雍正元年十月十日生、乾隆四十七年十二月二十六日卒。乾隆二十六年、「為吊祭 隅州宥邦公薨事円覚寺湛玄長老赴薩州時」附役として薩摩に赴く。乾隆三七年世子尚哲の薩摩上国に御近習として同行。
十一世向朝隆、乾隆三十二年十二月七日生、嘉慶七年呂宋にて遭難。乾隆五十三年、使者喜屋武親方朝昶に随い鹿児島に赴いた折、尚穆王・尚哲及び王子・三司官書翰目録を書写し、乾隆五十四年褒書を受ける。乾隆五十六年、年頭慶賀使向朝昶の与力としてなるが評定所の「署筆者」たるにより随行せず。
○向姓家譜 『氏集』一番一一四
六世朝陸、崇禎六年十一月二十五日生、康煕十五年八月十日卒。順治七年、尚質王即位の謝恩使具志川王子朝盈に楽童子として従い江戸に赴いたことが記されている。
○向姓家譜 『氏集』一番一二六 「向姓家譜仕次(小宗)十一世朝英」
十一世向朝英、雍正六年八月十四日生、嘉慶二年八月十七日卒。乾隆三十年、三十九年、五十二年、五十五年に薩摩に赴いたことが記されている。
十四世向朝安。同治元年、逗留仏蘭西国人の帰国のことが記されている。
○阿姓家譜 『氏集』二番一三九
九世守従、康煕五十二年六月十五日生、乾隆三十八年八月十二日卒。乾隆十六年、「尚穆公御継目御願之使者」本部按司向朝恒の儀者として鹿児島に赴く。
『那覇市史』資料篇に翻刻されている家譜は略す。下記の家譜は、関係記事を筆写した。
○阿姓家譜 『氏集』二番一五一
阿天麟(守包)、踏奉行、康煕二二年・康煕三十年に薩摩に赴く。
○諭姓家譜 『氏集』二番一六一・一六二 読み下し本。
薩摩よりの医道伝授の記事、大島佐念村漂着の記事あり。
○齊姓家譜 『氏集』二番一八七。
八世完孟。乾隆六十年、琉球館筆者。嘉慶五年、琉球館倉庾使。嘉慶九年、琉球館旧弊察正に依り褒状を得る。嘉慶十年、謝恩使の掌翰使に任ぜられ、十一年、江戸に赴く。
九世完和。嘉慶八年、琉球館筆者齋完行に従い鹿児島に赴く。道光十二年、琉球館倉庾使として鹿児島に赴く。
○毛姓家譜 『氏集』十三番一五一三
那覇市歴史博物館所蔵複写本は、表紙に「十六世伊野波盛應解釈」とある読み下し本である。前述の『氏集』十三番一五一九の冒頭に収められる一世盛春から六世盛良(父母男女まで)に続く部分の読み下し文から、六世盛良が天啓三年新年慶賀使として薩摩に上国したこと、天啓六年島津家久江戸詰めのための問安使者となり薩摩に赴いたこと、崇禎十一年島津光久襲封の慶賀使として薩摩に赴き同十五年帰国の際に「徳之島津」に至り大風にあい遭難したことが記されている。
○毛姓家譜 『氏集』十三番一五一九
『氏集』十三番一五一三の「毛姓家譜」大宗は、一世護佐丸からの譜を収録するが、那覇市歴史博物館所蔵複写本は読み下し本である。ところが、七世毛盛元からを記録する十三番一五一九の「毛姓家譜」には、冒頭に「毛姓家譜」大宗を「大宗家豊見城氏系図」として、六世毛盛良(父母男女の記事まで)まで記載する。これにより、「毛姓家譜」大宗の一世から六世までを知ることができる。特に、五世毛盛續の段には、万暦三十七年に島津軍に降伏した尚寧王の薩摩上国に伴い、万暦三十八年に法司官馬良豊の命令により尚寧王の帰国を願いに薩摩に赴いたこと、万暦四十二年に自らが質となり薩摩に赴き、万暦四十四年に回国したことが記されている。
 古奄美諸島社会史料を求めて始めた琉球家譜の総捲りの調査は、一九九六年三月から二○○九年二月まで、重点領域研究「沖縄の歴史情報研究」に始まり、各種研究費によりのべ一九回にわたり行ってきた。一九回にも及んだのは、那覇市歴史博物館(前、那覇市歴史資料室)では二○○七年末まで、家譜の原本・写本の複写版については、筆写しか認められていなかったためである。二○○九年二月の調査により、筆者による琉球家譜複製資料の総捲りはほぼ終わり、膨大な量の琉球と薩摩・日本の関係記事が琉球家譜に残されていることが確認された。ただし、このことは、那覇市歴史博物館の関係者や琉球近世史の研究者にとっては周知の事実であった。
 琉球家譜の薩摩・日本との関係の記事には、『中山世譜附巻』、『通航一覧』には記されていない詳細な通交の記録が見られる。通交史料は、外交や経済取引のみならず、神道、医道、画道、書道、陶器生産、馬術など多様な文化領域に及ぶ。それらの一部は「南島雑話とその周辺」(『画像史料解析センター通信』に掲載中)においても紹介した。また、家譜には、日本人の琉球への漂流に関する記事も記されている。日本の近世の編年史料を編纂する場合、琉球国において作成された記録である琉球家譜も、必須の史料として通覧し薩摩・日本関係記事を採録する必要があることを強調しておきたい。最後に、那覇市歴史資料室・那覇市歴史博物館の諸氏に、史料閲覧に際して御配慮を賜り、また多くの御教示をいただいてきたことに謝意を表す。
(石上英一)


『東京大学史料編纂所報』第44号