東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本史料 第十編之二十六

本冊には天正二年雑載のうち、天文・災異、神社、仏寺、諸家、疾病・死没、学芸・遊戯の各項を収めた。天正二年は、暦年が第二十冊から二十五冊までの六冊にわたった。本冊および次冊を年末雑載とし、次冊には所領、年貢・諸役、売買、貸借などの項を収める予定である。天正二年はその前後の部分が存する『御湯殿上日記』『孝親公記』『兼見卿記』など朝廷・公家関係の古記録が確認されていない。わずかに『公維公記』『資定卿記』などが残るものの、いずれも分量は少なく、暦年で既収録の部分が大半であるため、通例雑載で立項される「禁中」の項は、本年にかぎって立てるにおよんでいない。
そのかわり、本年八月からの記録が残る薩摩島津氏家臣上井覚兼の日記、本年一年間の記録のみが残る陸奥・出羽の戦国大名伊達輝宗の日記など、武家支配者層による日次記が見られる(いずれも『大日本古記録』『大日本古文書伊達家文書』で翻刻がある)点、従来の年次にくらべて珍しいといえようか。
神社・仏寺関係では、興福寺大乗院門跡尋憲の日記『尋憲記』、興福寺多聞院英俊の日記『多聞院日記』ほか、『興福寺官符衆徒引付』『学侶引付』など興福寺関係の引付が残る。また春日社では加任預の職にあった社司辰市祐金の神事日記『春日社司祐金記』がある。『多聞院日記』以外は未翻刻史料であるため、内容に応じてこれらを各項に収め、暦年既収録分とあわせ、できるだけ全体が『大日本史料』で確認できるよう配慮した。
天文・災異項では、雨が少なく、七月頃に「大炎旱」と表現される旱魃が奈良近辺で確認される。春日社・興福寺では雨乞の祓・祈祷が修され、都市奈良住民により「祈雨躍」が催された。安芸でも「天下五十日魃」とあるので(「仏通禅寺住持記」)、ある程度広域的な旱魃があったのかもしれない。
伊達輝宗は日記に、その日の天候や時刻ごとの天候の変化などを神経質なほど細かく記している。桜や梅の開花や落花、落葉など季節の推移を感じさせる事象にも敏感で、輝宗という人間の感受性の強さを示すのか、戦国大名として記すべき情報と心得られているのか、興味深いところである。
神社項では、『春日社司祐金記』により春日社毎月の神事記録を収めた。 また二月二日条に立てられた春日祭に関連し、『春日社司祐金記』の別記にあたる「天正二年春日祭御神事記」を収録した。春日社では、かねて望んでいた若宮遷宮を挙行すべく、興福寺僧らの奉加を募るなど準備を進めていたが、七月に「千木」と呼ばれる本殿破風上にある飾りが落下する事件が発生し、これを遷宮遅々ゆえの凶事かと恐れた社司たちが輪番を組んで祈祷し、陰陽師土御門有脩に吉凶を占わせるなどの大事に発展した。
仏寺項では、門跡領をめぐる確執から、元亀元年以来不仲になっていた(第四冊元亀元年是歳条参照)興福寺大乗院門主尋憲と前門主尋円の和解記事がある。筒井順慶や多聞院英俊の周旋により七月に二人は和解したが、それ以前の二月から三月にかけ、尋円が重篤な病で床に伏したため、尋憲は快癒のための祈祷を修している(関係記事は疾病・死没項に収録)。二人の和解はこの出来事が関係するのだろうか。
諸家項では、天正元年雑載(第十九冊所収)や天正十三年雑載(十一編之二十五所収、所報四十三号刊行物紹介参照)同様、毛利氏や対馬宗氏に関係する加冠状・官途状を多く収めた。 疾病・死没項では、前述の尋円の病気ほか、多聞院英俊に近仕していた人間とおぼしき「少太郎」の病没記事がある。気の病で療養していた少太郎の容態を心配する英俊の様子は尋常でなく、没後も、新調した敷衾を見て生前を思い出し落涙するなど、英俊と少太郎の普通ならぬ関係を邪推させる。この年は英俊の身の回りで亡くなる人間が多く、五十七歳の英俊は、次はわが身という憂いを日記に書きつけざるをえなかった。
学芸・遊戯項では、奥書識語のたぐいについて、聖教も含め月日順に配列収録した。禅僧の詩偈については、京に滞在していた常陸正宗寺の籌叔顕良が弟子騰叔玄茂とともに帰国するにあたり、詩僧として名高い仁如集堯・策彦周良・月航玄津・熙春龍喜らがこぞって餞の詩を賦しているのが注目される。詩を介した禅僧の交友がここに垣間見える。 相国寺住持であった仁如集堯はこの年九十二歳で寂した。彼の卒伝は七月二十八日条(第二十三冊)に収めたが、本冊には、この卒伝や、同じく集堯の卒伝を収めた『信濃史料』十四にも未収の詩について、彼の詩文集『鏤氷集』から収めた。遷化五、六日前という絶筆に近い詩は、同門の継首座の死を悼んだものであり、病床にあった集堯にとり旧友の訃は大きな衝撃だったとみえる。
連歌も多数収めたが、閏十一月二日に明智光秀の居城坂本において、雪の琵琶湖に舟を浮かべ、長岡(細川)藤孝・里村紹巴らと興じた興行、十二月二十三日に信長が彼の右筆明院良政を追善して催した興行(ただし信長は連衆に含まれていない)などが目立つものだろうか。明院良政の死没時期は特定されていないが(谷口克広『織田信長家臣人名辞典』参照)、この連歌記録は、それを推測するための大きな手がかりとなるだろう。
なお本冊編纂にあたり、本所RA立石健氏・同研究支援推進員西ノ原勝氏のご助力を賜わった。厚く感謝申し上げる。
(目次二頁、本文五九八頁、本体価格一一、〇〇〇円)
担当者 金子拓・黒嶋敏


『東京大学史料編纂所報』第44号p.29~30