大日本近世史料 広橋兼胤公武御用日記 九

本冊には、宝暦九年(一七五九)四月より同十年四月までの「公武御用日記」と、宝暦九年十一月及び同十年正月より二月までの「東行之記」を収めた。

宝暦九年の兼胤は四十五歳。官位は権大納言〈○宝暦八年九月二十一日還任、前冊参照、〉・正二位であるが、二月七日に官を辞し、再び前官となった。十二月朔日には兵部卿に推任され、翌十年の正月六日に拝任の御礼を遂げている。嫡男の伊光は宝暦九年に十五歳。蔵人・左少弁として出仕し実務の研鑽に努めているが、宝暦十年、天王寺方楽人岡昌孝が忌服中に従五位下叙任を申請し、伊光が職事としてそれを関白へ申し入れたことから咎められ、所労を称して出仕を憚るよう関白から指図を受けている(三月二十日の条)。この他、広橋家関係の出来事としては、宝暦十年に上田藩主松平忠順の妹が兼胤の養女となり、橋本実理に嫁いでいることが挙げられる(三月二十五日・四月十九日の条)。

ところで、兼胤が武家伝奏を勤めた頃の年頭勅使は、正月下旬の関東年頭使上洛・参賀を受け、二月二十日前後に京都を出立して江戸へ下向し、三月下旬に帰京するのが通例であった。ところが、本冊に収めた宝暦十年は、関東使が正月二日に京着し、年頭勅使の京都出立は同月十三日、帰京は二月二十五日であった。この様に一ヶ月も前倒しした日程となったのは、翌年に五旬を迎える将軍徳川家重(内大臣)に対して、宝暦九年十月朔日、桃園天皇より右大臣転任の思召があったことに端を発する。思召の趣は所司代に伝達されるが(十月十二日の条)、家重は近年多病のため翌年の五月に譲職することを内々決めており、転任しても間もなく隠居となるので辞退したい意向であること。もっとも、再度仰せがあるならば有り難く御請けし、二月上旬頃に転任したいと考えていることなどが、所司代より示される(十一月四日の条)。こうした関東の意向に対し、病身のためならば隠居のことは慰留しないが、それならば尚更右大臣転任を沙汰したいとの叡慮が示され(十一月五日の条)、兼胤と相役の柳原光綱は再度の叡慮を所司代に伝達するとともに、年頭の関東使上洛以前に勅使が下向することは差し支えがあるので、関東使は年内か明年頭三箇日の内に上洛するようにして欲しい旨、申し入れをしている(同前)。その後、十一月十四日に将軍の転任御請けが伝えられ、二十七日には、転任に際して家重から世子の家治(権大納言)へ右大将を譲り、兼任させる旨の老中奉書が到来している。かくして、宝暦十年の勅使下向の日程は大幅に前倒しされることとなったのである。家重転任の陣宣下と家治兼任の消息宣下は宝暦十年正月十一日に行われ、兼胤と光綱は年頭勅使のほか、親王宣下(後述)・准后宣下〈○宝暦九年三月二十一日宣下、前冊参照、〉の祝儀勅使、家重五十賀の祝儀勅使、将軍右大将転任の祝儀勅使、世子右大将兼任の祝儀勅使、親王使を兼ね、女院使(六条有栄)・准后使(五辻盛仲)とともに、正月十三日に江戸へ向け京都を出立している。

さて、本冊に見える朝廷内の人事を紹介しよう。表向では、宝暦九年十一月二十六日、関白近衛内前が左大臣を辞し、右大臣九条尚実・内大臣鷹司輔平・権大納言九条道前がそれぞれ左大臣・右大臣・内大臣に転任している。また同年十月十二日には、三条季晴他四名が、思召により近習から除かれている。そのため所司代より、如何なる御咎によるものかと問い合わせがなされたが、近習番を免ぜられ本来の小番勤務に復しただけであり、何か罪科があってのことではないと、両伝奏は説明している(十三日の条)。減少した近習の本格的な補充はなく、その年の暮れになって、柳原光綱の子光房(後の紀光)を明春より近習に召し加えることが申し渡されている(十二月二十四日の条)。御内儀では、御差の周防(若松盛貞女)が表向への通達を一人で勤めていたが、これでは彼女の他行や所労の際に御用向が滞るため、そうした際には伊予(小槻盈子)が代役を務めることとなった(宝暦九年四月二十七日の条)。女御(准后)御所に目を移すと、宝暦九年五月、御年寄の永見が、女御と同居している儲君(英仁親王)の御乳人に仰せ付けられ(十一日の条)、代わりに、中﨟を勤めていたりかが女御御所の御年寄となり、梅田と称することとなった(同前)。

人事以外の大きな出来事としては、(1)儲君への立親王宣下、(2)伏見宮邦忠親王の薨去と宮家相続問題、(3)宝暦八年七月に多数の堂上処分者を出した竹内式部一件(宝暦事件、前冊参照)に関連する追加処分と宥免が挙げられよう。まず(1)であるが、宝暦九年五月十五日、いまだ二歳にもならない儲君へ親王宣下がなされた。宣下に先立って、朝廷では儲君を取り巻く人的組織の編成を行っている。先に紹介した御乳人の任命もその一つであるが、その他にも五月六日には、既に儲君肝煎を勤めていた姉小路公文に加え、飛鳥井雅香・愛宕通貫・石山基名の三名が新たに儲君に附けられ(儲君三卿、愛宕通貫は肝煎〈○宝暦八年七月二十七日任、前冊参照、〉からのスライド)、非蔵人三名(大賀宗豊・松本為雄・松室重春)と禁裏取次二名(土山武真・渡辺珍亮)にも、儲君の御用を仰せ付けることとした。また、四辻実長の娘が儲君に召し出されており(十二日の条)、御乳人の仰せ付けと合わせ、女房の編成も開始されている。宣下当日、親王は名字を英仁〈ひでひと〉と定められ、天皇、女院に次いで第三位の座次を占めることとなった。翌日、所司代が参賀し、六月二日には関東からの祝儀使が禁裏・女院・親王・准后(女御)へ参上し、将軍・世子・簾中よりの口上を申し上げている。十日には、当年より親王へも御茶壺を進上するよう仰せ出され、十一月二十九日には垂髪の儀が執り行われている。

次に(2)である。伏見宮家の当時の主は二十九歳の邦忠親王であったが、病を得て宝暦九年六月二日に薨去する。継嗣とすべき男子のいなかった親王は、伏見宮家は「崇光院已来嫡流格別之家筋」であるので「系脈無断絶速相続被仰出」て欲しいと、亡くなる前に御内儀へ願い出ていた(五月二十五日の条)。これを受けて摂家に勅問がなされ、評議が行われた結果、①九条尚実が還俗して実家を相続した近例もあるので、親王の弟で勧修寺門跡となっている寛宝入道親王に還俗を仰せ付けて相続させるか、②元禄五年に常磐井宮が四歳で夭折した際、同宮家には男子がいなかったため、東山院の弟宮(富貴宮)に相続を仰せ出された例があるので、この度も当今(桃園天皇)の二宮降誕を待って相続を仰せ出されるかの、何れかにするのがよいのではないかと勅答がなされている(同前)。なお、この時に「親王家之儀者為皇統御助古来被立置」ているのだという認識が摂家から示されており、世襲親王家の存在意義が当時どの様に考えられていたのかを知ることが出来、興味深い。さて、摂家勅答の趣を関白より聞かされた兼胤と光綱は、叡慮は何れにあるのか、邦忠親王はどの様に望んでいるのかを確認したが、叡慮はどちらということはなく、親王にも特段の所存はないという回答であった。五月二十六日、両人は所司代役宅へ赴き、右の件について御内慮書等を渡すが、その際、近例はあるが還俗しての相続は容易ならざることである旨を付言し、また当今の二宮が相続することになった場合には、彼が誕生し相続するまでの間、伏見宮家領はそれまでと変わりなく扱われたいという叡慮を申し添えている。また、関東よりどちらの相続者を定め来たりても問題ないのかと所司代に問われ、天皇にも伏見宮にも異存はないと返えている。半月ほどたった六月十三日、宮家の相続は二宮が誕生してから仰せ付けられるのが良いのではないかという関東よりの返答が、所司代から両伝奏へ伝えられ、直ちに関白より天皇へ言上された。七月十九日には、連枝の姫宮もいるので、家領は二宮相続までこれまで通り差し置かれる事、相続のことは地穢五旬が済んだ後に仰せ出されるべき事、相続までの家政の取り計らい方や文庫の封印などの事について、老中の意を受けた書附が所司代より両伝奏へ渡されている。二宮による伏見宮家相続の事などが他の三宮家・連枝の門跡に仰せ出されたのは、同月二十五日のことであった。桃園天皇の二宮は翌宝暦十年二月二十三日に降誕する。後の伏見宮貞行親王である。なお、この一件に関する標出で、三十六頁冒頭の「富貴宮誕生ヲ待チ」を「霊元院皇子富貴宮ニ」、三十八頁五つ目の「富貴宮ノ誕生ヲ待チ」を「富貴宮ニ」と訂正する。

最後に(3)である。竹内式部と門弟の公家衆が宝暦八年五月二十九日に三本木で洪水見物をした事について、その時の顔ぶれと密談の有無などを所司代と武家伝奏が吟味していることは、前冊に収録した宝暦九年二月十四日・十八日の条に見えるが、その処置についての指示が関東より到来し、同年五月七日に所司代より両伝奏へその趣が伝達されている。すなわち、三本木で密談などはなかったものの、公家衆が参会するには相応しくない場所なので、御咎があって然るべきである。もっとも、去年既に処罰されている者については更なる御咎は無用であり、その節処分を免れた堂上の東久世通積・下冷泉為栄・三室戸光村、地下官人の藤野井成允・町口是知には相応の御咎を下すべきである、という内容であった。また、竹内式部の重追放、式部息主計の京都御構以下、集会に関係した町人達への処罰の内容も、心得のためとして所司代より示されている。翌八日、兼胤と光綱は関白の命により、見物当時議奏在役中であった東久世は差控、下冷泉以下は急度叱に処すべきことを申し渡している。これによって竹内式部一件は一段落ついたのであるが、翌宝暦十年の三月九日、将軍の右大臣転任など慶事があったので、処罰した公家衆の宥免を仰せ出されたいと、関東より申し入れがなされてきた。そこで摂家が評議をし(三月十四日の条)、四月十三日、御内慮を関東へ申し送る様、所司代に示達している。関東からは二十八日に御内慮の通りたるべしとの返答が到来し、即日申し渡しがなされた。もっとも、門弟のうちでも中心的人物であった正親町三条公積他六名は、減刑されず落飾も仰せ付けられ、今出川公言他六名は遠慮を免ぜられたものの、出仕を控え追々落飾するよう命じられるなど、単純に「宥免」とは言えないものであった。事件に対する摂家の警戒心の強さが窺い知れよう。

このほかにも本冊には、①緋宮屋敷地・別居手当の一件(宝暦九年四月十八日、五月七日、閏七月六日、八月十六日、十九日、二十日、二十五日、九月二十六日、十月七日、十二日、十一月十四日、十九日、二十六日、十二月四日、十一日、同十年四月二十九日の条)、②大乗院門跡による大立願い一件(宝暦九年四月十八日、六月二十七日、八月十六日、十九日、二十五日、九月朔日、十九日の条)、③所司代挨拶にて二条重良姉を西本願寺に嫁がせたしとの女院思召の一件(宝暦九年七月十三日、十九日、二十四日、二十八日、八月二日、二十五日、九月十一日、十二日、同十年正月十一日の条)、④中山家の借銀の返済につき禁裏附・町奉行へ掛け合いの事(宝暦九年十月八日、十三日、二十八日の条)、⑤近年禁裏小番に不敬不法の行跡があるため申し渡しの事(宝暦九年十月十三日の条)、⑥吉田家・土御門家よりそれぞれ、寛文条目(「 諸社禰宜神主法度」・天和三年の霊元天皇綸旨の通り再触を願い出た一件(宝暦九年十一月二十六日、同十年四月二十四日、二十六日の条)、⑦桃園天皇の三部抄・伊勢物語伝受竝に古今伝受(宝暦九年十二月十九日、二十一日、二十九日、同十年三月九日、二十一日の条)等の、注目される出来事が記されている。なお、本冊より巻末に人名索引を附し、利用者の便をはかる工夫を試みた。

(例言一頁、目次二頁、本文三〇七頁、人名索引三十九頁、本体価格一二、五〇〇円)

担当者 松澤克行・荒木裕行

『東京大学史料編纂所報』第44号 p.30-32