東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本古文書家わけ第十八東大寺文書之二十

本冊は、未成巻文書1-13山城国玉井荘、1-14遠江国蒲御厨、そして1-15摂津兵庫関関係の文書を収めた。
【玉井荘】
玉井荘は、山城綴喜郡のうち現在の井手町にあった荘園。木津川中流域にあり玉川との合流地点に位置し、天平宝字四年(七六〇)の聖武天皇勅施入に始まる。平安中期・院政期にかけての文書が多いことがその特徴である。本冊に所収の文書として、古いものは天喜頃、荘内下司職(一二四六号)、隣接する円提寺との堺相論(一二四三号)、検非違使乱入事件(一二四五号)などである。また院政期以降は、南に隣接する石垣荘(摂関家領もしくは春日社領)とたびたび相論を繰り返している(一二四二・一二四一・一二三九号他)。それぞれ用水あるいや山野用益に関わるものであり、この時期の産業史あるいは村落史を考える上で興味深い史料である。この他、注目すべき史料は暦仁二年の下司職相論に関する一二三五、一二五一の各号である。それぞれ対立する一族の具書である書き継ぎ案文だが、現状においては紙継剥離により分置されている。今回、他機関所蔵の文書(京都大学総合博物館所蔵狩野亨吉氏所蔵文書)も含め、原状を復元した。これによって、院政期から鎌倉中期にいたる本荘の政治的な動向がより明確になったと思われる。
【蒲御厨】
現在の浜松市、馬込川と天竜川の間に位置する。菊地武雄「戦国大名の権力構造」(『歴史学研究』一六六、一九五三年)や『静岡県史』によってよく知られる。
本御厨は、伊勢神宮の御厨であったが、明徳二年(一三九一)に足利義満より東大寺塔婆料所として寄進され(一二六五号)、以後、応仁の乱頃まで東大寺油倉の経営下にあった(一二九五・一二六三号他)。御厨は、二五の郷村からなり、東方と西方に別れ、それぞれの郷村公文を中心メンバーとする自立的な政治集団として、年貢納入や、東大寺油倉に対して政治要求をした。御厨には代官がおかれた。文安五年(一四四八)補任の代官応島久重は、遠江守護代甲斐常治と結び違乱をなしたとして、翌宝徳元年に諸公文等によって訴えられている(一二八六・一二八九号)。次の代官は石田義賢であり、彼は在荘し「政所殿」と称されている。年貢銭送状にも現地の公文と連署しているから、現地協調方針での経営にあったかに見える(一二九五号)。しかしその経営は、康正三年(一四五七)の干魃による御厨内の荒廃によって破綻したと推測される(一二七四号)。翌年には悟眞寺周賢が新代官に補任されている(一二六七号)。寛正二年(一四六一)大河内真家代官に補任される(一二七三号)。彼は西隣浜松荘領主吉良氏の被官であり、すでに享徳二年(一四五三)より御厨内渡瀬名主職をめぐり、東方公文と争論を起こしていた(一二九七号、なお本号一〇八頁標出において、「三河守護吉良氏」としたのは、「浜松荘領主吉良氏」の誤りでありここに修正する)。かくして東方公文は、罷免要求の目安を捧げ逃散(一二八三号)。この要求は容れられ、寛正六年(一四六五)梵済が代官となり、代官交替に伴う地下指出と過去の算用状の提出が行われた(一二八五・一二六二号)。
【兵庫関】
現在の神戸港に位置する関所。延慶元年(一三〇八)に石別升米と置石用途の徴収権が、東大寺八幡宮修造料として、朝廷から寄進されたことに始まる。すでに『兵庫県史』によって関連史料は紹介済みであるが、原本の精査による精確な文字翻刻、そして無年号文書についての新たな年次比定に心がけた(蒲御厨も同じ)。さらに結解状・借銭状などは、文書料紙の観察をもとに連券の復元を行った。これに東大寺の財務経営の一端がより明らかになると確信する。本冊に収めた文書を、以下では大きく四つに分けて紹介したい。
① 鎌倉後期、兵庫関獲得直後―他寺社との相論、関停止への抗議
兵庫関よりの収入は、惣寺三分二、検校所東南院三分一で分配されているが、おそらくは実質的な経営主体は惣寺であったと考えられ、以下の相論でも惣寺方年預五師による文書が多数を占めている。また関雑掌が補任され実務にあたっている。ただしその経営は困難であり、たとえば、応長元年(一三一一)、笠置寺僧侶である雑掌快尊・如道は、用途未進を理由に解任されている(一三〇四号)。その背景には、以下に列挙する兵庫関をめぐる不安定な状況が強く影響していたと考えられる。延慶四年住吉社との相論(一三二九号)。正和三年(一三一三)以前より、空地および延暦寺僧良慶の寄進ありとして興福寺が兵庫関に介入(一三八五号)。正和四年一一月には延暦寺僧良慶乱入と六波羅の両使の入部(一三六一号)。正和四年(一三一五)九月武家による新関停止令(一三二八・一三二三号)。嘉暦二年(一三二七)二月後醍醐による寄進(一三〇三号)があるが、同年と正慶元年(一三三二)には、興福寺領福泊雑掌良基・明円の乱入事件(一三一〇・一三二一・一三九一号など)、そして嘉暦二年、守護代小串貞秀による押領があった(一三一三号)。
② 鎌倉最末期から南北朝期―借銭と結解状など
主に兵庫関月宛用途を返済にあてることを条件として、東大寺惣寺が借銭した際の借銭状が残っている。元徳三年(一三三一)から建武三年(一三三八)にかけて、近隣の鼓坂居住の某よりの借銭(一三〇六号)。そして嘉暦元年から建武二年にかけて、大夫律師よりの借銭である(一三一五号)。一三一五号のうち(四)・(八)・(九)は、「政所仰并衆議評定」による旨を記したものがある。「政所」すなわち、兵庫関検校所東南院聖珍(当時は東大寺別当)の合意ないし意向によって借銭がなされる場合もあったのである。一三一六号は、元徳三年(から一〇月)と、正慶元年(正月から一〇月まで)の、月ごとに兵庫関から東大寺に収められた関銭とその支出内訳を記した月充用途結解状である。これは前述の借銭状と時期が重なっている。惣寺の債務の悪化を抑えるために、財務の厳格運用を意図して、この結解状が作成された可能性がある。本結解状が関の財務全体を覆うものか、あるいは惣寺の取り分三分二に限定されるものかは、議論があるだろう。これについては、各所に見られる検校所東南院への渡し分をどのように評価するかが問われると考えられる。なお建武政権下では、関務が一旦停止され代替地が検討された(一三八一号)。当然東大寺は回復運動を展開(一四三七号)。同政権崩壊により回復されたと考えられる。回復後も依然として、暦応・康永年間に関銭をかたとした借銭状が残されている(一三六五・一三七五号)。このうち一三七五号は、検校方分の負債分を惣寺方が肩代わりして債務者となっている。このことは惣寺方の社会的信用度の高さを示すものと言えよう。ほぼ時期を同じくして関銭立用状がある(一三二〇号)。関銭を別用途に当てるという点で、実際には借銭状と同じ機能を有する。関雑掌と思われる人物が作成し、検校方よりの支払い完了事実を裏書に記した後、惣寺方に引き渡され、惣寺方での支払い、結解の後に文書全面に抹消がつけられ、惣寺方で保管したものと考えられる。応永年間までは、関雑掌と推測される寺家公人が経営に関わっており(一三五八号)、東大寺それも惣寺方の直務経営であったと思われるが、永享以降は、小畠・稲毛・上田・岡氏(一四三三・一四三六号)、あるいは相国寺僧(一四三四号)が請負代官となっている。彼らの請負代官の時期の文書は現在、代官請文を除き伝存していない。
③ 室町中期―油倉による経営―
文安元年(一四四四)一一月に東大寺油倉玉叡が代官職を請け負う。この時期の特徴は、著名な兵庫北関入船納帳(燈心文庫)、そして以下で紹介する請取状など財務経営文書が多く残っている点にある。これは同じく、この時期油倉が経営に携わった大部荘でも確認される事実であり、おそらく、これらの文書は油倉に保管された文書だったのであろう。文安三年から五年の、惣寺方と検校方の月充銭未進請取(一三七九号)がある。これは代官油倉が未進分を納めたことに対して、惣寺・検校が出したもの。未進は、借銭あつかいとなっており、完済・結解の証として、文書全面を抹消して油倉が保管したものであろう。また兵庫関は北野社・等持寺・相国寺などに「国料」と言われる銭を、寺外請負代官の時から、納めているが、その請取が残るのもこの時期のみである(一三九五・一三三二・一三四一各号)。寛正四年(一四六三)、油倉が淀藤野三郎左衛門を代官に補任する(一三五七号)。その翌年分は、惣寺方(一三五四号他)と検校方(一三三九号他)の月充銭請取が残っているものの、以後は油倉が関連したと思われる財務関連文書は残っていない。
④ 室町後期
応仁の乱以後の史料は少ない。一例としては、長享二年(一四八八)の相国寺・等持寺・郡代の違乱停止を求める申状(一三二五号)、あるいは一六世紀初頭、文亀・永正年間の代官職補任に関する文書(一三八六・一三一一・一三三一・一四一七の各号)などがあるにとどまっている。
本冊も欠損文書の復元に努めた。それに際しては、国立歴史民俗博物館の東大寺文書目録データベース、本所の古文書目録データベースを大いに活用した点を付記する。
(例言四頁、目次二四頁、本文三二四頁、花押一覧一四葉、価八、七〇〇円)
主担当者遠藤基郎


『東京大学史料編纂所報』第43号p.35