大日本古記録後深心院関白記四

本冊には、応安三年(一三七〇)から同七年(一三七四)までの暦記五年分を収めた。底本に用いたのは、陽明文庫所蔵の原本・原本断簡および写本である。このうち応安四年春夏、同年秋冬、同五年春夏、同年秋冬、同六年春夏、同年秋冬、同七年春夏については、半年分を一巻として、暦記の原形態を残した原本が陽明文庫に伝わる。陽明文庫第六函二七~三三号がこれに相当する。また、道嗣の自筆で、おそらく継紙として日記中に挿入されていたと推定される応安三年正月十六日・同年七月六日・同四年九月二十六日は、現在では別記として『道嗣公記抄』に製巻されているが、これを日記の当該箇所に戻して収めた。陽明文庫第六函五〇号がこれに相当する。なお、応安三年正月十六日~十月十七日の一部または全部と、同七年七月~十二月は抄出本によってのみ日記記事が伝わるため、近衛政家筆の『後深心院殿御記』『後深心院御記部類記』を用いてこれを収めた。陽明文庫第十四函八六号・第六函四九号がこれに相当する。そのほか、諸書の紙背に一紙ごとになって見出される暦記(多くは日記記事のほとんど無い具注暦)断簡を、陽明文庫所蔵の『澤庵百首』『三藐院殿御鈔出』『尚嗣公記』『抜萃少々』から抜き出し、それぞれ当該箇所に収めた。記主近衛道嗣は、貞治二年(一三六三)二条良基に関白を譲ってからは、前関白のままであったが、後光厳天皇が応安四年三月、三十三歳の重厄を機に後円融天皇に譲位すると、再び内覧を命ぜられている。しかし表立って活躍するより、むしろ息兼嗣の活躍を見守る姿勢である。兼嗣の奏慶や叙位執筆の習礼等を詳細に記し、ことに兼嗣が出仕する宸筆法華八講に際しては、捧物として献上する松の折枝に付けた香炉を金銀泥も交えて彩色で記録しており、次世代への儀式伝承にかける意気込みを感じさせられる。後光厳天皇は上皇となってからも積極的に政務を執り、道嗣に院評定への参仕を繰り返し求めるが、前関白はこれに参仕せぬ先例によりこれを固辞する。しかし、たびたびの諮問にはきちんと応え、後光厳上皇の詩歌並びに管弦御会始に際しては御製の読師を勤め、和歌御会都序を献じている。上皇は北山第や日野宣子の北山里邸等に頻繁に御幸し、道嗣はしばしば牛を献じている。また後光厳の皇子たちの着袴のたびに銀器を献じている。なお後光厳上皇は応安七年正月、突然不帰の客となってしまう。兼嗣以外の家族の動静を述べるならば、一乗院に送り込んだ幼児は一時、前門主に伴われて没落するが、やがて戻り、落髪して後継者としての一歩を踏み出す。鎌倉の大御堂へ行く予定だった道恵は、応安四年四月に暇乞いに道嗣を訪れたものの、そのまま病の床に伏し、九月二十日没する。慈辨は五年四月に灌頂を受ける。なお、五年六月、女房の病が篤く、このため道嗣は息兼嗣を伴って西洞院時盛の宿所に移っている。貞治五年に洞院実世女が亡くなった後、正室を迎えた記事は無いが、この女房はそれに準ずる扱いを受けた者かと推定される。ただし、六月十日に死没の記事のみが見え、その後追善などを行った様子はない。また、目につく記事としては、寺社の強訴があげられる。応安三年十月には石清水八幡宮神輿、同四年十二月には春日社神木、同七年六月には日吉社神輿が入洛している。なかでも南都の要求は執拗で、興福寺両門跡の罷免や、三宝院光済・覚王院宋縁・赤松性準・同範顕の配流、さらに後光厳上皇の御幸の停止等を求め、上皇も態度を硬化させている。このため、柳原忠光・広橋仲光・中御門宣方をはじめ二条良基まで春日社から次々と放氏され、朝儀にも藤原氏が参加できぬなど、異常な事態にたちいたり、後円融天皇は神木の帰坐する応安七年十二月まで、即位大礼を見合せねばならなかった。幕府では足利義満が十五歳の応安五年十一月判形始を行い、翌年参議中将に任じられるが、補佐する細川頼之と春屋妙葩の反目が続く。学芸の面では、続歌がしばしば催されたほか、清原良賢を招いて論語や礼記を講じさせたり、建仁寺に赴いて中巖円月の『鐔津文集』の講義を聴いている。壬生兼治に藤原資仲の『節会集』を、三條実音に『浅深秘抄』を借用したりしている。また後光厳上皇から『朱熹注楚辞』を求められたが、所持せぬため『続楚辞』と『変離騒』を進呈した記事なども見られる。本冊編纂にあたり、陽明文庫長名和修氏・国文研究資料館准教授小川剛生氏より種々のご教示を賜った。記して感謝申し上げたい。
(例言二頁、目次二頁、本文三八九頁、口絵二葉、定価一三、〇〇〇円、岩波書店発行)
担当者田中博美

『東京大学史料編纂所報』第43号 p.38*-39*