大日本古記録中右記六

本冊には長治二年(一一〇五)・嘉承元年(一一〇六)を収めた。本冊の底本には、古写本では陽明文庫本、新写本では東山御文庫本を用いた。校合には、陽明文庫所蔵新写本および宮内庁書陵部所蔵『中右記部類』十六(九条家旧蔵、古写本)、天理大学附属図書館所蔵『中右記部類』二十(同)、東山御文庫収蔵『政部類記』を用いた。これらの写本については前冊までに紹介している。本冊における記主藤原宗忠は四四―五歳、前冊に同じく正三位参議右大弁であったが、本冊の末尾近く、嘉承元年十二月二十七日に念願かなって権中納言に昇った。宗忠は引き続き参議右大弁という官職にあり、朝廷における実務を担うとともに、堀河天皇の信頼を受けての天皇と白河法皇との間の連絡役の勤めを果たしている。また従兄弟である関白藤原忠実を補佐する立場であり、勧学院弁別当として興福寺を中心とする藤原氏に関する案件を担当した。長治二年十二月に内覧から関白となった忠実は、二十八歳という若年の故もあって、白河法皇の権力の強い朝廷において軽んじられる場面もみえ、宗忠も補佐に尽力している。本冊で注目すべき記事として、いわゆる竃門宮事件がある。その経緯は、長治元年石清水八幡宮別当光清が、天台末寺の寺内社である筑前国竃門宮別当に任じられた。その後延暦寺の実権を握った悪僧法楽が部下を遣わして竃門宮をも支配下に置く。同二年光清は宣旨を得て法楽の部下を追捕させ、大宰権帥藤原季仲も協力した。この際に御輿に矢が立ち神人が死傷したため、延暦寺は朝廷に処分を訴えた。一方六月の祇園御霊会の際に祇園神人の乱暴を取り締まろうとした検非違使中原範政を、逆に神人らが訴えた。これらを一体化した延暦寺側は衆徒・神人が再々入洛して季仲・光清・範政の処罰を求め、光清の処罰に反対する八幡神人との衝突に至る。朝廷が下した最終的な処分は、季仲の解官・配流、範政の解官と、天台座主への八幡神人殺傷犯人の追求命令であり、光清は一旦解官されたがすぐ取り消された。記事は、竃門宮の件は陣定の審議を中心に、祇園御霊会の件は発生時から記しており、十月三十日条には一連の経緯がまとめられている。ほかには嘉承二年七月に二十八歳で崩ずる堀河天皇の病気の記事、長治二年十二月の忠実関白就任関連の記事などがある。宗忠個人に着目すると、まず本邸中御門第の建設がある。前冊所収の康和五年十一月に当時の本邸五条烏丸第が焼失した。これがひとつの契機となったのか、宗忠は新たな本邸の建設を考えるようになる。最終的に長治二年二月二十日、烏丸第の地券を源頼仲の中御門第の地券と交換し、中御門富小路の地が宗忠の所有となった。当日条に「朝夕為勤公事、占居所於上渡之故也、」とあり、公務のために内裏に近い上渡(二条以北)の地を選んだことがわかる。直後の二十八日宗忠は早速新邸の建設に着手し、以後彼が中御門邸に行き工事を監督する記事が断続的に続く。工事は順調に進み、六月二十六日に北対以下十宇の建物の上棟を行なった。そして十月三日まず完成した北対に室とともに移徙し、十二月十九日には寝殿への移徙が行われた。その後工事関係の記事は減少するが継続しており、翌嘉承元年七月に侍廊への渡初めが行なわれ、ここでほぼ全面完成を見た。次に権中納言昇進については、参議任官から七年を経た嘉承元年、宗忠は三月の春除目において任官の申請を行なったと思われる。しかし「所望放埓之由有風聞、」と、その願が非常識だという評判が流れたことから、除目最終日の十日は出仕を控えてしまった。その後の何度かの除目の際にも昇進はなく、彼は日記の中で政務に長けた大弁経験者が中納言以上にいない事態を嘆いている。十二月の定例の京官除目も過ぎ押し詰まった二十七日の臨時除目で、ついに宗忠は権中納言に任じられ、年末を直前にして、翌二十八日に慶賀奏上、二十九日に着陣と急いで任官に付随する次第を済ませた。ほかに長治二年閏二月十三日、十年間宗忠と恋愛関係にあり、四人の子供がいる中宮女房但馬君が、五人目の子供の妊娠中に三十二歳で急逝し、日記には「悲歎之至、云而有余、」と記されている
(例言二頁、目次一頁、本文二四八頁、口絵二葉、価一一、〇〇〇円、岩波書店発行)
吉田早苗

『東京大学史料編纂所報』第43号 p.37*-38*