奄美史料調査

二○○七年一二月一四日より二○日まで、奄美大島に出張し、史料調査を
行った。一四日より一六日までは、画像史料解析センターの研究プロジェク
ト「南島関係画像史料の研究」による奄美諸島史料の調査、一七日より二○
日までは基盤研究(A)「紙素材文化財の年代測定に関する基礎的研究」(代表、
富山大学・富田正弘)による奄美諸島所在古琉球辞令書の調査への参加であ
る。また、二○○七年二月三日、沖縄における史料調査からの途次、奄美大
島の奄美博物館において、奄美高校教諭折田馨氏より喜界島の系図史料につ
いての教示を得、ついで二月四日、喜界町図書館で喜界町誌編纂資料の調査
を行ったことも、あわせて報告する。
①奄美博物館における童虎山房琉球奄美史料の調査一二月一四日及び一六
日は、名越左源太関連史料の調査の一環として、奄美博物館の許可を得て、
同館学芸員高梨修氏と、同館所蔵の童虎山房(故原口虎雄氏の蔵書で、二○
○五年一○月にご遺族より寄贈されたもの)のうちの琉球奄美関係史料を、
目録に従い点検整理した。琉球奄美史料の目録は、鹿児島大学教授原口泉氏
と同大学大学院学生であった河津梨絵氏により二○○○年に作成されている
ので、それにしたがい目録掲載の約二四○点のうち三分の二を確認した。さ
らに機会を得て、調査を継続させていただく予定である。
②大和村中央公民館における長田(大和)須磨文庫調査一二月一五日、弓
削政己氏に案内いただいて、鹿児島県大島郡の大和村中央公民館を訪問し、
同館所蔵の「長田(大和)須磨文庫」の古文書写真資料を調査した。
○長田(大和)須磨文庫の古文書写真資料
 奄美方言研究家であった故長田須磨氏は、大島屋喜内間切大和浜(大島郡
大和村大和浜)の宇宿大親家の本家である太家(のち大和家)の出身で、所
持されていた資料は、妹の大和良子氏より東京国立博物館に寄贈され、大和
家資料として知られている(『東京国立博物館図版目録』琉球資料篇、二◯
◯二年)。大和村に寄贈されたのは、そのほかの図書・研究資料等である。
また、宇宿大親家の分家である和家には、和家文書が伝えられている。和眞
一郎氏が所蔵されていた和家文書は、松下志朗氏により一九六五年に目録が
作成され、鹿児島県歴史資料センター黎明館では、二○○一年に和家より借
用して撮影している。和家文書は、二○○五年より大和村教育委員会に寄託
され、『大和村誌』資料篇三(二○○六年三月)に収録された。和家文書は、
二○○七年一月一四日に和家より正式に大和村に寄贈された。ところが、長
田(大和)須磨文庫に残る、昭和二九年二月撮影の和眞至氏所蔵文書の写真
には、現存する和家文書にはない文書が写されている。それらを紹介する。
 (1) 知行目録・置目・辞令書(三点)写真(和眞至氏所蔵)
1 慶長十八年九月廿四日大嶋某間切よひと宛知行目録(軸装)(□:紙欠
損。字数は知行目録の書式により推定)
    □□□□(「知行目録」の記載行で欠失)
   □□□□間切之内(「大嶋**〈**は間切名〉」の部分は欠失)
  □□□(「高十石」の記載部分で欠失)
   □□□之事於其地別而依
   □□□宛行畢〈田坪/字〉有別紙
   □□□□御奉公者可有御恩賞之
   旨也□仰出也仍目録如件
              三原諸右衛門
    慶長十八年九月□四日  重種○(○は印影)
               伊勢兵部少輔
                貞昌○(○は印影)
           □□間切(□□は「ひか」か)
             よひと  □□
2 元和九年閏八月廿五日大嶋置目(軸装)
3 嘉靖八年正月十八日辞令書(3・4・5合わせて一軸に軸装)
4 隆慶六年正月十八日辞令書
5 万暦七年五月八日辞令書
 本写真は、1を上段、2を中段、3・4・5を下段に広げて並べて撮影し
たもの。トリミングの異なる六枚の八切写真がある。
 a 知行目録のみ
 b 大嶋置目のみ
 c 知行目録(全景)・置目(全景)・辞令書(上部)
 d 知行目録(中下部)・置目(前中部)・辞令書(3・4上端部、5右上部)
 e 知行目録(中下部)・置目(前中部)・辞令書(3・4上端部)
 f 知行目録(中下部、後部)・置目(中後部)・辞令書(4・5上端部)
 1は、和家文書の『永代家伝記』に写が収載される知行目録とは異なり、
従来、知られていなかった文書である。また、2~5は『永代家伝記』に収
載される写の原本である。昭和二九年の段階では、和眞至氏(眞一郎氏の父)
が、今は所在不詳のこれらの文書原本を所蔵していたのである。
 (2) (1)の写真の複製(越間フォトスタジオ作成)のフィルム及び八切写真
六枚
 (3) 太家文書写真
1 太家資料(東京国立博物館所蔵)文書
 1 212 番五月十二日野村里之子親雲上口上書
 2 213 番六月七日伊江王子口上書
 3 216 番九月廿五日金武親方書状(太三能安宛)
2 写真のみ残る文書
 1 太三和良覚(夫役御免)
 2 太三和良覚(太字免許)
 3 十一月道之嶋掛御用人但馬達(大嶋與人三和良宛)
 これら三点の文書は、『東京国立博物館図版目録』琉球資料篇に見えない
ものである。
 これらの調査所見は、一二月一六日の奄美郷土研究会第三○二回例会(会
場、奄美博物館)における報告「慶長・元和年間の奄美諸島史料の整理」に
おいて、早速、紹介した。
 なお、和家文書、太家文書の行方不詳のものとして「奄美関係資料」(沖
縄県立図書館所蔵複写本)・「奄美史譚・大島置目條々・他」(沖縄文化振興
財代史料編集室所蔵複写本)に収載される文書がある(石上「南島雑話とそ
の周辺」八『画像史料解析センター通信』三七号、二○○七年四月、参照)。
③瀬戸内町郷土館・宇検村中央公民館・奄美博物館における古琉球辞令書調

 詳細は、富田科研の報告書に譲るが、調査団の諸氏の意見を伺い一つ気付
いたことを記す。従来、奄美大島の古琉球辞令書には、残されているものの
中に写があることが指摘されてきた。今回、瀬戸内町郷土館において須古茂
文書を調査した際、万暦二年五月二十八日瀬戸内西間切須古茂の祢たち給地
辞令書には、二紙からなる原本と後半の一紙のみ残る写本があるが、この写
本は原本を影写したものであることがわかった。また、奄美博物館で閲覧し
た大熊のろ文書の辞令書のうちの、写である万暦三十五年閏六月六日名瀬間
切朝戸掟辞令書の印影は、模造印(左文字ではない正立した文字)から印文
を刷り出し(紙の下に模造印を置き、版木のように文字の縁を擦り出す)、
朱を印文部分に塗ったものである可能性がある。これまで、写の辞令書の印
影は、すべて縦長で、ほぼ同寸であることがわかっていたが、縦長なのは、
模造印影であることを明示するためであったと考えられる。元禄七年の島津
家における系図文書改めに際して奄美諸島からも間切役人層が積極的に系図
文書を差し出し、大島の分については国に戻る前代官伊地知五兵衛が記録所
に届けたことが知られている。手の込んだ影写や模造印による印影添加は、
在地の間切役人個人がなしうることではなく、代官の関与を考えねばならな
い。大島だけでも一三与人おり、和家だけでも大島置目など五点以上を提出
しているので、奄美諸島あるいは大島の全体ではかなり大量の文書の複製が
なされたと考えられ、代官の関与が想定される。なお、宇検村では、吉久家
文書・吉野のろ文書を閲覧した。
④喜界島史料の調査
 二月三日、奄美博物館における奄美諸島史料調査の際に、喜界島史研究を
進められている奄美高校教諭折田馨氏にお目にかかり、九州国立博物館所蔵
の喜界文書が勝家文書であること及び「勝家系図」について教示を得た。折
田馨「喜界島諸系図についての若干の考察」(一)(奄美高等学校研究紀要
『あまみ』三号、二○○六年三月)参照。
 二月四日、喜界町図書館司書得本拓氏にお願いして、『喜界町誌』(二○○
○年)の編纂史料(喜界町誌編纂資料。喜界町図書館所蔵)を閲覧した。あ
わせて、勝家系図についても教示を得て、喜界町白水(旧、東
ひが
間切)の勝家
を見学した。同日、喜界島郷土研究会で報告「慶長・元和年間の奄美諸島・
 喜界島史料の整理」を行い、喜界文書のうちの二通ののろ支配関係文書を紹
介した。その写真版は、九州国立博物館の特別展図録『うるまちゅら島
琉球』(二○○六年五月)、黎明館特別展図録『祈りの世界』(二○○六年一
一月)に掲載されている。
○喜界文書
 喜界文書は、次の六点からなる。
1 万暦三十一年(一六○三)十月十七日ききやのあらきまきりのあらきめ
さし(鬼界荒木間切荒木目指)辞令書
折田氏により、勝家の金多羅宛の辞令書であることが明かにされている。
2 万暦三十四年(一六○六)十一月二十八日ききやのあらきまきりのてく
つくの大やこ(鬼界荒木間切手久津久大屋子)辞令書
同上。
3 慶長十八年九月二十四日知行目録(鬼界嶋之よひと宛)
 折田氏により、勝家の勘樽金(金多羅の子)宛であることが明かにされて
いる。
4 慶長十八年九月二十四日知行目録(鬼界めさし宛)
 折田氏により、勝家の思徳(勘樽金の子)宛であることが明かにされてい
る。
5 寛永八年(一六二四)九月二十三日鬼界嶋大あむ任命書
 石上「奄美群島編年史料集稿寛永年間編」(『東京大学史料編纂所紀要』
一四号、二○○七年三月)参照。勝家の勘樽金の妻の恵久樽の大あむ役任命
の達し。
6 享保十三年(一七二八)申七月十六日喜界島代官町田孫七申渡(喜界島
六間切與人横目宛)( )は傍注
 先頃、東大はむ相果候ニ付而、跡継目之儀、喜志文・/重場段々之
 申出趣有之、古キ證書等差出見届候処、/何れを可取揚様無之趣ニ候、
 然者、右継口之儀者、/當島作法茂可有之事ニ候故、各同役中江吟味
 /申渡候処ニ、嫡家相勤事之由、又ハ娘江次来ル/事之由、段々取
 沙汰有之候得共、申傳迄ニ而/究而之證據無之候付、役人中(与人・
 横目)ニ而茂究而難/片付候間、當座(代官所)吟味次第申付度由申
 出候、依之於當座段々被吟味候処ニ、右通究而之継口委細/不相究事
 ニ候得者、兎角、此節之儀ハ大和/被仰付候御書付を取持ゑくか樽
 を元祖ニ取立/継目可申付外、無之筈与申談候、
一、ゑくか樽子共筋目承合候処ニ、東間切筆子(浦冶の子の勝連)/勝
 連家嫡家(浦冶の子)無別条由、承届候、
一、重場家ニ相勤候大はむ之儀ハ、ゑくか樽嫡女(孫瀬樽)之/事ニ候
 へ共、畢竟島方ニ而ハ、家之重宝ニ候得者、/代々女筋江致相續候而
 ハ、先々ハ出生茂、不相知/筈ニ而、何かし家大はむ筋目与ハ難申筈
 ニ候、
一、喜志文家之儀茂、最早三代程大はむ職為/相勤事候得共、前条之通
 ニ候得ハ、猶以本家ニ違候、
一、勝連家ニハ、前方白水向のろ大はむ之儀(思徳女)/ニ付、書
 付いたし置候趣も有之候得共、此節ハ大和/被仰渡候御書付之一筋
 を以申付事ニ候得ハ、/重場・喜志文両家之儀、本家とハ難申候、夫
 故ニ而も候哉、/毎々入組ニ為相成由、相聞得候、然者ケ様之時節、
 /本家江相返シ候状、礼儀之言、且ハ本家相續之/方ニ而、本意候故、
 東大はむ之儀ハ、勝連家ニ申付/朱印并かはら之寳珠相渡候而、此段
 勝連江可申渡候、
一、湾大はむ之状茂、向後、他家江致縁付娘出生/いたし候而も、李志
 組家本家ニ候間、代々右家之子ニ/相返候筈ニ、近年、為相究由候故、
 湾大はむ之儀ハ、/向後、李志組家与相究り、本意之仕形尤之事ニ候、
 /東大はむ之儀茂、勝連家ニ相究候て、末々至/迄、無懈怠以相續事
 ニ候、依之、最上土佐守殿/書付(寛永八年達)勝連家ニ相渡候間、
 代々可致格護置候、
    右之通、各決談之上、相究申渡事候間、/取違無之様ニ可申渡候、
    尤此趣、重場・喜志文江も/得与致落着候様、可申聞候、右両人
    差出候/書附、相返候、以上、
               喜界島代官
                    町田孫七(花押)(印)
   享保十三年申七月十六日
            六間切與人中
               横目中
                              (石上英一)

『東京大学史料編纂所報』第42号