東京大学史料編纂所

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鶴岡市郷土資料館所蔵幕末維新関係史料の調査・撮影

維新史料室では、二〇〇六年一〇月一六日から二〇日まで、鶴岡市立図書
館(山形県鶴岡市家中新町一四―七)に出張した。現在、鶴岡市郷土資料館
の機能は、市立図書館本館の二階にある郷土資料室に移っているため、郷土
資料館の所蔵史料は市立図書館本館で閲覧することになっている。今回の調
査では、郷土資料館が所蔵する郷土資料(荘内史編纂会資料・書写資料)及
び諸家文書(阿部正己文庫・秋保家史料)のうち幕末維新関係史料について
調査・撮影を行った。なお、本調査に際しては、同館の秋保良氏に種々のご
高配を賜った。記して厚く御礼申し上げたい。
今回調査・撮影した史料の概要は、以下に記す通りである(撮影済みの史
料は【撮影済】と表示した)。
(1)郷土資料
  ①荘内史編纂会資料
HL22.61-シ 戊辰戦争始末              上・中・下三冊
荘内史編纂会作成写本。「荘内史編纂会」罫紙に墨書。著者の白井重高
(文政十一年生~明治十九年没)は、藩校致道館の助教兼典学を勤め、歴史
に精通した人物として知られ、慶応元年には藩記録取調軍事方となり、戊辰
戦争に際しては軍議に列し、仙台に出張して奥羽列藩の使者との交渉を担当
した。明治四年には酒田県十等出仕となって史誌編纂を担当している(『新
編庄内人名辞典』庄内人名辞典刊行会、一九八六年)。内容は、庄内藩の戊
辰戦史を叙述したものであり、上巻は明治元年二月から七月二十九日まで、
中巻は八月一日から三十日まで、下巻は九月一日から同月二十七日までの記
事を収録している。なお、下巻には次のような奥書が記されている。
「戊辰戦争之始末委曲御書上之事、正院修史局達あり、因て余ニ其事を命
せらる、是先き続藩翰譜以後廃藩迄之御事蹟詳ニ御書上可相成旨御沙汰あ
りて、余仰を蒙て執筆せし故、彼ニ詳なるハ爰ニ略しぬ、
  明治十年二月                  白井重高謹」
HL22.61-ミ 慶応四辰見聞集(戊辰戦争に関するもの)       一冊
荘内史編纂会作成写本。「荘内史編纂会」罫紙に墨書。慶応四年四月から
九月までの記事を収録。筆者の「美濃和主」は、戊辰戦争当時、庄内藩の集
合隊頭北楯小八隊に属していた美濃和邦寿(文八)のことか。
HL22.64-タ 北行御用記                    竪二冊
高橋種芳(良蔵)。明治二年十一月五日、虻田郡支配御用被仰付から、明
治三年十月までの記録。十二月五日鶴岡発、十二月三十日箱館着、箱館にお
ける開拓使出張所への伺、開拓使官員録・各藩持場一覧などの手控、国許へ
の書状など。
HL22.500-サ 聞書雑書文久二~明治二年             四冊
斉藤親信家筆録。庄内史編纂会の罫紙に書かれている。江戸藩邸で、藩役
任命や、藩主の動静を記したものか。
HL22.500-マ-1~4 老の友                   竪四冊
荘内史編纂会罫紙を用いた謄写本。編年の記録で挿図が多い。編者は庄内
藩士松宮儀右衛門で、弘化二年相続、番頭を務め、万延元年隠居後、明治二
十四年に八十二歳で没した人物。
全四冊の構成は次の通り。
①巻之一 文政八~天保八年
 巻之二 天保九~同十一年
②巻之三 天保十四~文久三年
③巻之四 元治元~明治元年
④巻之五 明治二~同十年
「見もし聞もせし事とも一ツ二ツつゝしるし置しか、いつしか数多なりて、
つれつれなるゆふへなとくりかへしぬれハ、過行しこととも思ひ出られて、
今更捨んもへをしけれは、ふたゝひ筆をとりて老の友とはなしぬ、人の短を
いふ事なかれと、夢人に見すへきものにはあらすかし      長乳」
巻四には「三月の夢抄」として戦記が収録されている。時期は明治元年七月
十四日から九月九日まで。
HL22.501-タ-1~9 編年私記             竪九冊(一帙入)
罫紙上に年表スタイルで記される。高橋種芳(文政八~明治九)による編
纂物。
「編年私記凡例
一此草せるハ専荘内の事跡をしるかため也東都・他邦の事ハ後藤氏蔵書に見
 専務に非すといへとも
一別に記せんも煩しけれハ、見るに従て暫く記し置、他日精撰の時別に記せ
 んもの也
一何の書に出るとなきものハ後藤氏の蔵書に出つ、其他皆合印を以出□所を
 詳にす
一此編の体體専捜索に便なす儒者の書法あるにあらす、然といへとも、他日
 筆削改正の時、竊に倣ふ所あらんことを欲す…(後略)」
①永禄元年~元和六年
「永禄元戊午二月、神君岡崎江還城し給ひ、四月十三日神君又駿府へ赴き義
元に謁見し給ふ…」
②元和七~寛永十四年冒頭に典拠書目一覧あり。
③寛永十五~慶安四年以後途中欠本あるか。
④元禄元年~同十六年
⑤宝永元年~正徳五年
⑥明和元年~安永九年(市立図書館罫紙を用いての謄写)
⑦天明元年~享和二年「原本鶴岡市大字大廣土岐善太郎氏所蔵昭和三
十七年写鶴岡市史編纂室」とみえる。
⑧弘化元年~嘉永六年
⑨安政元年~慶応四年
「慶應四戊辰閏在四月
 ○旧臘焼討薩邸□到来(正月二日暁早追御飛脚到着、同日為達左之通)
 旧臘廿四日御呼出ニ而松平権十郎殿御城へ被罷出候處、御老中・若年寄
 中御列座ニ而、薩州屋敷浪人共之儀市中暴行、且野州出流山ニ而召捕候竹
 内開等申候ニも、薩邸へ同志之者多分有之候儀、且一時廿三日之夜暴発い
 たし候者共も不残右屋敷へ立入候由、右様御面□も不相立、右ハ専御家御
 引受之廉故、御人数差出、右之段應接之上挨拶次第打入可然旨、尤為加勢
 陸軍方被差遣、諸家ニ而松平大和守様・松平伊賀守様・松平和泉守様
 も御人数御差出趣も、今暁御召出ニ相成…」
HL22.510-ア-1~6 日本變新録                 竪六冊
竹廼舎こと秋保親愛(一八二三~一九〇二)の編纂にかかる編年記録(全
十巻、明治二年成稿)の、荘内史編纂会による謄写本。誤写多し。親愛は親
友の長子で、慶応四年に家督を相続、戊辰戦争に従軍の後、明治十二年に隠
居した藩士で、国学の学統では鈴木重胤門下に属す。次に全冊の構成を掲げ
る。
①一(万延元年)
②二(文久元年~同三年)
③三(文久三年)・四(元治元年)合冊
④五・六合冊(元治元年)
⑤七(慶応元年~同三年)・八(慶応四年)
⑥九(慶応四年)・十(明治二年)
 次に冒頭の自序を掲げる。
「古人より時移り、世かけり行は様ハしも文に顕けし置けを見て、大方は知
るならひなかる其時この事共を細密にくた しき迄書記したる文は得難し、
扨もこたひ徳川の水もいかににこりたん、くむ人の心さへ清からぬにや、渕
は瀬とかけり行さま、あさましき事なん多うけける、其源は夷等か船の来り
しか元にて、色々の禍事世に起りたり、是等の事も生ミの子の末々に至りて
は、徳川家の御代の乱れし有様をくハしうハ知得かたかるへし、さるからに
いとも細密に記したる文共を、濱のまさこの数々取集て書記しぬ、讀得
かたきところ、はた誤り抔も多からんめるに、心まとひて初の程ハ打捨
置ぬ、されと再ひ得かたきと思ひ、かつはあらましを得たらんにハさる細密
なる事に目をつけめやと、こ度思ひ起して、誤りも其侭にして、書集る處の
文は十巻になりぬ、是を日本變新録と名つけて、徳川家の御代のいか成事
乱れけんと思ふ折は、くり返し此文を見は、さとり得るふしも有なん、我家
に秘め蔵る文とす、明治二年といふ年記す
                            竹廼舎親愛」
 続いて巻一の巻頭部分を掲げる。
「世の中の人の心に、軍なといふ事あるへき物とも思はぬ迄治れるも、いつ
の間にか乱れ騒きひしめきあへるを、つら思ふに、外夷の船の来れるよ
り色々の禍事いてきて乱れにたりとは、誰しも思ふ事なんめり、されと夷な
と争ハて、国内の乱れハいとあやしく、かく成行へき御代とは誰か思ふ
へき、こハ禍津日神の荒ひにて乱れたる物にして(中略)上方の情実絶而難
分、其内清川間道官軍押寄炮發、不得止事及防戦、無餘義訳共いふへし、
いかて天皇へ弓引心ならめや、誤りといふは奥羽同盟又会津江使者往反、是
らは上方の情実分兼たるよりのまとひならめと、あるましき事也…此巻は申
年の事をのせたり」
次に、巻四収録の、元治元年六月八日近藤勇書翰の記事を掲げておく。近
藤家の父に宛て池田屋事件を報知したもの。朱の注記で近藤を新徴組の小林
登之助に准えているてんが興味深い。
「近藤勇父周斉江差越候書類御承知とハ奉存候へ共、写差上申候、『是ハ
御觸面ニ有之長州浪人古高俊太郎事升屋喜右衛門と申唱たるを召捕候徒黨一
条』
(本文略)
  六月八日認               近藤 勇
  近藤周斎様              『此近藤ハ申さは爰元ニ而
  萩原多賀次郎様             小林登之助と申よふな男
  寺□安次郎様              也といふ會公之手ニ附
  藤子新之丞様              つかわるゝものと見たり
  菊露勇三郎様              小林も功名斯有り度事
  宮川乙五郎様              ニてそ』」
次は、巻八冒頭部分、及び同巻所収の、慶応三年十二月二十五日の薩摩藩
邸襲撃についての記事。
「薩州屋敷拂の模様、かゝる事ハ大平の世に有へき事とも思はれす、弥乱れ
たるを知るへし、定めて根をも含めるなるへけれ、是迄主人同様に成したる
徳川に敵をなす事いはれなき事なれハ、打拂ハれたりとも無余義訳ならすや、
右屋敷中より拾ひ得たる書付此巻に記せるを見れは、徳川家を背ける事明ら
かなり、将軍家伏見戦争後江府江御引取御謹慎、彼是の有様難分事のミ多し、
兎も角も朝敵の模様ハなし、會津・桑名もいかて禁中江敵する心ならん
や、あはれむべきは御旗本なるべし、いかん共可為様なし、何万騎の家□こ
とく道路に迷ひけん、次に桑名・会津とても自分勝手の事更に不見、御
糺明之上其罪相應の御所置有度事なるを、兵乱となり奥羽も矢張御糺明なき
は弥心得兼る處あり、何れ君側に奸人無き事ならはかゝる事は有ましきにや
と疑ふ人の有ハさる事也、元より朝廷江敵すへき心の者一人も無き事故、初
めより不戦降伏とも可成を、上方の情実難斗、且奸人の計ひ有との疑ひより
兵乱と成けん、無罪の人名幾はく失ひけん、あハれむへし、此巻辰年の事を
記す
 席達
一旧臘廿四日、御呼出ニて松平権十郎殿御城江被罷出候処、御老中・若年寄
 御列座ニ而、薩州屋敷浪人共之儀市中暴行、且野州出流山ニ而召捕候竹内
 開等申候ニても、薩邸へ同志之者多分有之趣、且一昨廿三日之夜暴發いた
 し候者も不残右屋敷へ立入候よし、右様御取締も不相立、右者専ら御家
 御引受之廉故御人数差出、右之段應接の上挨拶次第打入可然旨、尤為加勢
 陸軍方よりも御人数御差出、孰も今暁御差出ニ相成、石原倉左衛門殿出張
 被致、追々注進ニ者至極御締も相立候様子、猶委細之義取調可申進候得共、
 不取敢申達候旨、権十郎殿より被申越候、右者不容易義ニ付無急度噺置候
 様平左衛門殿御沙汰ニ付、此段為□封申達候  正月」
次に巻九より冒頭を掲げる。平田派、特にその総帥である銕胤に対する批
判が特徴的である。
「凡て物事能々糺して害をなす事ハまれなるへし、両方聞て下知をなせとい
ふ、たとへは其たとへを引にはあらされとも、何れ聞糺方者順道なるへし、
會津の士懐中に心得を委敷書たる巻中に見へたり、是を見れハ會津の戦争の
事情相分る也、當時をいふにはあらねとも、戦に勝時ハ記録を見るに奸人を
思賞あるハ無餘儀習ひなり、然れハ其心して敗国の情をも可計にや、扨此書
の末に平田大学か書たる学文の一條、皇学校にて本教大義名分の議論拝承云々
の文面ハ誠によろし、国々に皇学校をたて度事也、其内至れる誤りの文は、
會・庄初仙臺・南部・米沢・白川・二本松其他松山・高松等の数藩に於て一
人も真の皇学に志す者無之、顕然□々儀と認たり、真の皇学の者幾人有之候
共名乗出る事の有へきかは、国の家老ならては政事も心の侭に取行ふ事のあ
るへきかは、是上をも不考、みたりに皇学に志す者一人もなしとは、己れを
神の如く思つるにや、是ハひか事也、其名前を見れハ大学と有外に名前も見
ゆれと、大学と見えたるハ主に言しなるへし、此大学ハ篤胤の子か孫か、篤
胤の子ならは鉄胤也、其学文の風我知れり、先年重胤大人是ハ我師なれハ大人と記す庄内江
両度来れり、門弟も多し、此大人日本書紀傳を著したり、其秀才凡天下無双
也、重胤大人の述書を鉄胤難問の事は、重胤大人夫に答文、鉄胤方の述書を
も難したる書、我に扣有、重胤大人の秀才鉄胤及かたし、一言も有之間敷見
申、十五ヶ条の不審抔皆々書記しては我鉄胤をそしるに似たれハ不記、乍去
真の皇学に志者一人も無之と申事の余り奥羽のミをそしれる故、重胤大人の
□問答書の内を少々顕す、左の如し
小生学集大成せんと欲す、素朴純固なる事ハ荷田翁ニナラフ、強記博聞ハ契
沖を師とす、志操高尚なるハ加茂翁天下に冠たり、徳まさに盛んに学益々篤
くして精妙高遠優游□術たる事本居大人天下万国ニ卓絶する所也、万世の師
と崇め信すへきハ此大人也云々、又平田翁の事ハ果断の敏捷なると学識の強
大なるとをいつこまても信し候なれとも、奇怪神異を宗とし鄙俗時風ニ叶へ
候而被説候事共ハ不足徴候、且老荘を主張して我か』神典と同席ニ被説候
事ハ甚以附會なり、さる事を不得、又本居翁の秘授口傳と申もの無之と被言
し本意に被背候而、内書・外書の規定あり、門に入もの是を見、門に不入も
の見る事を許さす、是失徳の第一也云々
右は重胤大人のかゝれたる書也、此重胤大人日本書紀傳を著ハし、禁中の御
庫に納る心なりしか、其事いかゞなりしか不知、此本外にも有、鉄胤の親篤
胤存生の頃、弟子の内より公儀江書上たる古道学弁書と云有、真の皇学の訳
をいへる事見えたり、真渕翁・本居大人の学を尊信の者ハ皆真の皇学也、鉄
胤のミ真の皇学ならんや、猶書くへき事のあれとも、鐵胤も皇学者なれハさ
まて不言共よろし、此巻辰年の事を記す」
以下、巻十より引用する。風説留から新聞紙への転換に伴う意識がよく窺
えるもの。
「…此書先年井伊公の一件より書認たるの處、十巻になれり、今に成ては日
誌又新聞紙なといふ書出てあまねく世に求むる事となりて、其書多し、然れ
ハ此後の事ハ筆をとらす共宜しけれハ、十巻にて事終りぬ」
HL22.511-サ-1~2 荘内藩維新史料                竪二冊
斎藤赤水(松太郎)編。「荘内史編纂會」罫紙を用いての謄写。自序は大
正十一年二月付。
まず大正十一年八月二十日付の文科大学史料編纂官八代国治識語を掲げる。
「斎藤松太郎君は余の同窓にして、最も学に篤き人なり、圖書刊行会・史籍
保存会の編纂部員となりて、編纂・校合に従事する傍ら、荘内藩の治績民
政に注目し、史料を蒐集すること多年、終に冊を為すに至る、其の集むる
所の史料中、君の祖父一貞氏の記録少からず、一貞氏は通半蔵、幼名松
太郎とす、もと今野氏、斎藤氏を継く、氏才幹あり、荘内江戸邸勝手方
に勤務す、荘内より江戸・大阪廻米の事に預り、海港を明かにして財政に
精通す、維新後大泉を酒田縣に併せらるゝに及び、撰抜せられて会計課長
となり、明治四年大蔵省貢士となる…」
続いて同十年十月付「はしがき」を引いておく。
「余ノ家ニ荘内藩ノ古記録三部ヲ蔵セリ、其一ハ天明七・八年ニ於ケル御奉
 書扣ニシテ、筆者ハ御祐筆塙伊助氏ナリ、…其二ハ江戸・庄内御入用拂方
 帳ニシテ、文久三年以来ノモノナリ、藩士ノ給禄・相續等ヲ始メ、勝手方
 ニ属スル記録ニシテ、之ニ各前例ヲ附記アルヲ以テ、時代ハ遡リテ往々元
 禄・天明ノ時代ニ及ベルヲ以テ庄内史研究ノ好資料タリ、其三ハ無題ニシ
 テ、帳中ニ「御沙汰書扣」・「岩城国江御所替ニ付品々覚書」等ノ如キ小標
 題アリ、畢竟庄内藩御用所ノ御書留ノ控ニシテ、忠寛公重病急養子願ノ書
 類、戊辰後ノ謝罪歎願書、会津へ御所替更ニ磐城平へ所替、飽海郡貯穀ノ
 交渉庄内ヘノ復帰、飛嶋ノ所管問題、軍資金ノ献上及御免等、世ニ流布セ
 ザル貴重ノ史料ノミナリ、後二者ハ祖父ノ親シク関係セル所ニシテ、其所
 職ノ為ニ記録セルモノナリ、或ハ云フ、二者共ニ原本ニシテ、大泉藩ヲ酒
 田縣ニ并セラルヽ折、其書類ヲ酒田縣ニ引キ継キ、後酒田縣ニシテ不用ニ
 属シ散逸シテ、祖父ノ手ニ歸セルモノナリトモ云フ…
 採拾維新史料ハ、主トシテ文久二年以後ヲ収録セリ、余ガ日本史籍協会ニ
 奉職セル関係、此ノ収録ニ便益ヲ得タル事少カラズ…
 提要兼目録ハ、御書留採拾史料トシテ部編ヲ分チタルモノヲ混一ニセル所
 以、且往々天下ノ形勢ヲ略取シテ、清川八郎及荘内藩ノ活躍ニ関係ヲ保タ
 シム…
 祖父斎藤一貞、通称半蔵、幼名ヲ松太郎ト云フ、モト今野氏出テヽ斎藤氏
 ヲ嗣ク、稍々才幹アリ、江戸庄内ノ勝手方ニ勤務シ、且庄内ヨリ江戸・大
 阪ヘノ廻米ノ事ニ関シ全国ノ海港知ラザル所ナシト云フ、大泉藩ヲ酒田縣
 ニ合セラルヽニ及ビ、其会計課長トナリ、明治四年大蔵省ノ貢士ニ挙ケラ
 ル、然レトモ病ヲ以テ辞ス…明治十二年十月十七日大宝寺村中道ノ舎ニ没
 ス、年四十三
  大正十年十月              赤水 斎藤松太郎識」
なお「江戸荘内御入用御拂方帳抜粋」の目次は以下の通り。
「 目次
一元禄九年子九月酒田御町無役之者御改帳之内
一大泉骨董之内
一御軍役并箱館へ御人数被遣候一條写
一於鉚様御縁組ニ付先例御入用調安政五年
一萬延元申年於加茂港外難破船一件
一慶応元年物成渡方調」
HL22.511-タ 大府輯録【撮影済】              竪二十五冊
高橋種芳撰。全国政局レヴェルの文書を写し収める風説留。全冊の構成は
次の通り。
(1)大府懲誡録 九 (弘化三年)
(2)弘化四丁未 大府輯録 廿七
(3)弘化元甲辰ヨリ嘉永元戊申迄 大府輯録 廿八
(4)自嘉永二年己酉至同六年癸酉 大府輯録 廿九
(5)嘉永六丑 大府輯録 三十二
(6)嘉永七歳甲寅之記 上 大府輯録 三十三
(7)嘉永七歳甲寅之記 下 大府輯録 三十四
(8)安政四巳 上 大府輯録 三十七
(9)安政四巳 下 大府輯録 三十八
(10)安政五年 大府輯録 三十九
(11)安政六未 上 大府輯録 四十
(12)安政六未 下 大府輯録 四十一
(13)萬延元申 上 大府輯録 四十二
(14)萬延元申 下 大府輯録 四十三
(15)文久元酉 大府輯録 四十四
(16)文久二壬戌上 大府輯録 四十五
(17)文久三癸亥壹 大府輯録 四十七
(18)文久三癸亥貮 大府輯録 四十八
(19)文久三癸亥三 大府輯録 四十九 (~七月まで)
(20)元治元甲子 大府輯録 五拾一
(21)慶應元乙丑 大府輯録 五拾二
(22)慶應二年丙寅 大府輯録 五拾三
(23)慶應三丁卯 大府輯録 五拾四
(24)(付録一)  文久二年までの蝦夷地関係記事
(25)(付録二)  天明二~天保十三年の裁許集
HL22.511-ハ 薩摩屋敷討入の話羽柴雄輔              一冊
大正五年に著者地震から山形教育雑誌へ投寄したもの。
HL22.511-マ 東走記事上・下                  竪二冊
松山藩付家老長坂欣之助(維新後松森胤保と改名)の回想記。
東走記事序
「一モ其志ヲ得コトヲ得ス、遂ニ将軍ノ東武ニ走リ従テ余カ輩ノ東羽ニ走リ、
天下ノ敵ヲ受テ相抗スルニ至テ極ル、其中ニ在テ元治元年甲子六月朔余カ東
武ニ赴ルノ日ヨリ、明治元年戊辰七月四日奥州白川ニ向テ兵ヲ発スルノ期ニ
至ルマテ、前後通テ五年ノ間親シク履歴スル所ヲ記スルモノヲ併セテ更ニ此
二冊トナシ、題シテ東走記事ト称シ、以孫子ニ贈リ、我家曽テ余有テ此艱難
ヲ歴ルヲ知ラシメント欲スルノ微意ナリ、之ヲ過ル以往ノ事ハ更ニ北征記事
アリテ之ニ載ス、次テ見ル可シ、終テ云、此中奸ト称シ賊ト称スル所ノ類往々
無之アル可カラス、今ニシテ之ヲ見レハ是皆却テ忠良、其文ヲ存スルハ殆恐
懼ニ堪サラントス、然ト雖皆其時ノ見ニシテ今ニ及テ改書セント欲スレハ一
ニシテ足ラス……
 明治六年癸酉即神武即位紀元二千五百三十三年十一月二十五日
 羽後国飽海郡松山領二大区之長々坂氏九世之孫松森胤保孫嗣之為自追誌」
一宇都の宮ニして水戸浪人の騒擾あるに行掛りし事
二千住の新関を守る事
三府内昼夜巡邏の事
四竹橋門を守る事
五日光山の神宮を守る事
六二の丸炎上の事
七薩邸の賊を討たる事
以上上巻。上巻末「右数事明治二年已巳年二月十二日松山ノ邸ニ於当時之記
ニ就テ自抄畢」
八東都に在て幕府の敗亡に逢ひし概略之事
 第一事 卯十月大政返上の日同年暮迄之事
 第二事 老中稲葉公ニ謁し君ニ代て策を奉りし事
 第三事 宗老松平権十郎親懐へ西征を進る事
 第四事 紀州の邸に行て其情状を見る事
 第五事 丹羽長州公に謁して談する事
九止事むなくして単に邦家の無事を謀る事
 第一事 宗家と共ニ恭順を尽すを謀る事
 第二事 西城の警を辞し且帰藩を謀る事
 第三事 西兵の来ル且暮に道を開く事帰藩を止るを謀る事
 第四事 二月十日同晦日江戸御発駕の事
十松山江下りし後白川江出馬の期に至る迄の事
 第一事 鶴陽江事務の策を奉りし事
 第二事 初て東山の警を為迄の事
 第三事 清川合戦まての事
 第四事 秋田江鶴陽の返書を出す迄の事
 第五事 奥羽の合従初て調ふ迄の事
 第六事 軍務惣裁御採代リニ任る迄の事
 第七事 四近之所分往々鶴陽江建言三度ニ至まての事
 第八事 白川出兵迄の事
以上下巻。下巻末「右数事明治三年庚午三月四日松嶺ノ邸ニ於当時之記ニ就
テ抄録シ畢」
HL22.518-ア 申年異国船相見出張抜書越後国岩船郡江御人数御指出調書
                               竪一冊
嘉永年間の秋保氏の筆記を、荘内史編纂会が謄写したもの。表題の申年は
嘉永元年。当該期の海防体制が知られる。
*嘉永元年四月、異国船通航注進の記事。田川郡飛島は庄内藩領。鼠ヶ関・
温海も同郡で藩領内。
「嘉永元年四月記
『委細者役所御用留有之』
一昨十五日。飛嶋三里程沖合異国船相見通候旨、飛島詰役人共注進状を
 以肝煎多七差越、今十六日夜五ツ半時過相達御届申候内、舎人殿御呼出…
 御物頭急速出張、一ノ手服部外右衛門・大炮打手石原東吉并石原治三郎・
 中村陽之助・江口卯之三江、代官服部伊兵衛筆談兼御用取扱被仰付渡海…
 然処、同廿八日夕鼠ヶ関・温海沖合四・五里先、異国船通候旨、両処
 注進、翌廿九日朝相達…
 五月朔日、飛嶋も注進状相達、昨廿九日異船壱里半程沖合ニ相見候旨申
 来…」
*嘉永四年十二月~安政元年二月越後国岩船郡江御人数御指出調書
越後北端、米沢藩支配の岩船郡幕領預地における沿岸防備のための援兵に関
連しての、他藩との書通を収める。米沢藩の陣屋は同郡塩野町村に所在した。
次に、村上藩宛の庄内藩役人書状を掲げておく。
「(朱書)
『已下文通案ハ海防御用留写し書入置候也』
一筆啓上候…然者上杉弾正大弼様御預所越後国岩船郡之内海岸江若異国船渡
来之節、米沢御城下行程相隔、御出勢到着迄手後ニ相成候筋茂有之候ハヽ、
御隣領之事ニ付左衛門尉様御勢を以御指塞之儀、御同所様ヨリ御頼御座候付、
若異国船渡来候者、彼地御陣屋御役人申越次第御人数御指出被成候筈ニ御
座候、依之自然御人数御指出被成候節ハ、其御許様御領分村々行掛村役人江
相断通行為致候様被成度…右之段各様迄私宜得御意旨重役申付、如斯御座
候、恐惶謹言
 三月十七日小飛脚御差立            御名様内高橋省助
                                判
 内藤紀伊守様
      御役人中様」
HL22.518-タ 北蝦夷警衛の記【撮影済】            竪一冊
文久元年六月に北蝦夷地に到着した藩士からの御用状と添付書類、トンナ
イ御用所への伺と附札、トンナイ御用所からの達、箱館での届書案など。例
えば八月六日条は次の通り。
「一北地詰御物頭多田翁右衛門六月廿八日出之宿継相達、同所詰御人数当
  所出立後所々人馬差閉、多分之逗留ニ相成、同月十五日トンナイ御陣屋
  江御家中上下拾七人着、翌十六日御役所へ翁右衛門・塚原新兵衛・村岡
  吉太夫御届旁罷出、御留守居を以伺旁差出候処、同廿三日御附札ヲ以被
  仰達候分左之両通差越候、右御達書は下ケ札并名前書其外絵図之通手筈
  いたし候旨も申越候」
ここで言及されている六月二十八日付多田書状に、次のようなトンナイ御
用所への伺書が添付されている。
「     覚
一今度北蝦夷地御警衛被仰付、此節人数差渡候間、初年之儀ニ付諸事心得方
 御指図被下度事
一持場之儀於箱館相伺候処、シラヌシ領西海岸御国持場と相心得、持場境
 人数賦等は、於場所御詰合中御差図御座候旨御達御座候、依之如何相心
 得可申哉相伺候也
一当年は差掛人数差渡候様被仰渡、万端不行届ニ付、別ニ越年之御沙汰ニも
 相成候而は手当方等差支候間、氷海前人数引揚最寄陣屋へ差置、御用之節
 は繰出候様仕度旨、於箱館相伺候処、事実無余儀次第ニ付、当年之処御承
 知置之旨御差図御座候、依之是迄之通二百十日限人数引揚、模寄領分へ陣
 屋取建差置候」
HL28.5-エ 蝦夷地日誌                     竪一冊
荘内史編纂会罫紙、記主不明。文久三年二月十二日~元治元年四月十五日。
蝦夷地における船の出入り、書状の着発(内容は記さず)、食事、北蝦夷地
行公儀役人通行などの記録。
元治元年二月二十三日出立。三月一日石狩「当所本陣潰レ候哉のよし」↓
三月二十六日箱館↓四月一日松前↓四月二日三厩「先々大安心なり」↓四月
十五日鶴岡着。
HL28.5-タ 蝦夷日記                      竪一冊
(表紙)
「蝦夷日記 五番   近藤進一持参
           高橋種芳」
(表紙裏、原稿用紙にペン書)
「高橋種芳
   文政八年生、嘉永四年「御旧記」の編集に従事
   安政二年に河内山の軍事調練に参加、同四年品川台場詰
   安政六年家督相続
   同七年一月蝦夷地支配御用取調掛、同年三月同地代官
   慶応二年鶴岡に帰り、御普請方本役
   明治二年大泉藩が北海道虻田郡支配を命ぜられると、その責任者となっ
   て赴任
   「編年私記」「大泉掌政」「估軍隋抄」
   その他著作あり」
四月六日から五月七日の日記。アイヌ人風俗、産業の状態などの観察記録。
四月六日条、「塚原氏」との会話「蝦夷地之儀は河津様御咄ニハ文化年中之
箱館之気候ハ当時ソウヤ辺の時候の趣ニ相聞ヘ、追々開け候ニ随ひ暖気ニ相
成候由」
四月十六日条、「余市運上家の番人申聞候は、四五ヶ年以前には当所に土人
人別千人余もありたれ共、追々病死いたし候、只今ハ四百五拾人計ニ相成候
といふ、何故不足すといヘハ、疱瘡にては大ニ痛み、壱人も助るものなし、
夫故疱瘡流行すれは山林に逃去りて家に帰らす、何程呼出候共帰ることなし、
只疱瘡のミにあらす……」
  ②書写資料(荘内史編纂会資料以外のもの)
SL156(SL22.510-サ) 公辺御沙汰書【撮影済】           八冊
SL156は資料番号、SL22.510-サは分類番号。出納係の方に聞いたところ、
資料番号は入架順、分類番号は郷土資料分類番号にしたがったもの。SLの
番号は収集資料で、それぞれ伝来は一定しない。本史料の前後は、江戸時代
の原本史料が多い。
筆者である斎藤親良の肩書きは、各表紙の記載によれば、一冊目(安政二
年)「江戸下谷詰」、2―1冊目(安政五年)「柳原詰」、2―2冊目(安政五
年水府一件)「在勤」、四冊目(万延二年)「庄内」と記載されている。庄内
藩は、神田橋の上屋敷以外に、柳原屋敷・下谷屋敷をもっていた(『鶴岡市
史』)。作者については、庄内人名辞典刊行会『新編庄内人名辞典』(一九八
六年)にも言及されていないが、江戸詰めも経験した庄内藩士と考えられる。
以下、各冊の特徴と内容摘記。
①一冊目
外表紙は、「安政二年卯年十月より公辺御沙汰書斎藤」とあり。ただ
し中身は大きく以下の三つに分かれる。
 (ア)「色々聞書日記、但公辺御沙汰書江戸下谷詰斉藤」
 (イ)「蝦夷地公辺御沙汰書斎藤親良(花押)御本丸炎上御沙汰未綴込」
 (ウ)「御本丸炎上公辺御沙汰書斎藤親良(花押)」。
(イ)は、安政二年から万延二年。蝦夷地の警備を仙台・秋田・津軽・南部・
松前が命じられたときの、各藩の書類提出や指令の様子など。
(ウ)は、江戸城炎上に対して、諸大名献上や大目付触などの一般的な情報
とともに、幕府内通達(たとえば御普請掛宛通達)や、焼け出された将軍が
西丸に仮住居中の諸大名・役人の登城の道順など、詳細な情報を含んでいる。
②2―1冊目安政五年四月一冊
一般的な大目付触以外に、幕府内通達、江戸城門番間連絡、大名からの届
け・願い、幕府役職交代記事、風説なども含む。ただし、殿中沙汰書の写で
はなく、独自の情報収集をしたものか。
内容抄出
「(安政五年)
近来国持ならびに表方大名、老中江用向有之候節、於殿中逢事も有之候処、
以来は先々之通、大老・老中等相談有之節は、宅江相越、被申聞候様可被致
候、右之趣、大目付より為心得無急度可被申聞候事」
「医学館へ懸
    御医師江
蝦夷地御開発ニ付ては、追々御世話有之次第ニ、人気相極候得共、元来偏
狭ニ付、医業相応出来候者無之、病発之節は格別難渋之趣、相聞、御仁政之
御欠典ニ付、部屋住・厄介之内、医業相応之者、修行次第蝦夷地在住可被仰
付候間、委細之儀は、箱館奉行可被承合、(下略)
   二月」
「以回状被啓上候、然者、一昨日廿二日夜、当御場所江、異国人三人驚候躰
ニ而、駆入候ところ、引続往来江見物之多人数集、被混雑候而、棒突足軽差
出、往来相払、右異人勝手へ相廻、相尋候得とも、言語不通ニ而、先其儘休
息為被置、不取敢、口上ニ而御目付松平弾正様・外国奉行新見豊前守様へ御
届申上、御差図相待候処(下略。大意は異国人がしきりに帰りたがって騒ぐ
ので、小山大中寺が外国人旅宿とあらあら承っていたので、同寺に足軽・徒
目付を指し添えて送った。同所御調役所淵辺徳蔵に渡しおいた。)
 七月廿四日                 鍛冶橋御門番
                          谷大膳亮内門
                          河内伝左右衛門
  大手
  内桜田
  西丸大手
  右御門
  御番頭中様」
「        十月十三日
          御目付江
近来、御城内外御門之改方取締相緩候哉ニ相聞候間、古来御規式之通、御門
帳御張紙ニ有之候御役々之分、軽き者共下供人等ニ至迄、鑑札又は手形引合
厳重相改、御帳・御張紙ニ無之分は、一切相通不申、且御城内供連、御定之
外下々之者下部屋江多人数入込候向も有之哉二相聞、(中略。今後は、御門々
そのほか御役々で厳重にチエックすべし)
右之趣、向々江被相触候、尤西丸御目付江も、可有通達候」
③2―2冊目「水府一件公辺御沙汰書写在勤斉藤」安政五年七月
                             一冊
安政五年七月~万延二年五月。安政五年七月五日、徳川斉昭らへの申し渡
しから筆を起こし、桜田門外の変、その後の水戸藩の動静・長岡屯集報告、
大番頭、船手・町奉行(隅田川~新大橋までの川筋取締、町役人動員)、勘
定奉行(川筋取締指令通達の件、千住大橋に手軽な小屋を取り立て、代官手
代などを昼夜詰めて、往来・川筋怪しい船などあれ注進せよ。以上、三月十
二日付)の動員、長岡不穏情勢に対する諸藩待機命令など収める。雑説・ちょ
ぼくれも記す。
「(万延元年閏三月の記事の間に記載されている)
    竹橋御門 田安御門
    半蔵御門 清水御門
右は上下席以上之者、兼而姓名書相達置候通、銘々之身(カ)分断ニ而相通
し、右已下之者鑑札差出候迄口上断ニ而相達置候得共、来ル五日より鑑札無
之分は、相通不申様可被致候、」
④三冊目「公辺御沙汰書斎藤」万延元年正月~十二月         一冊
遣米使節・外交書簡、講武所移転・講武所奉行への指令、諸大名願書、九
条家加増についての大坂城代宛老中連署奉書、和宮降嫁についての所司代宛
老中連署奉書、軍艦奉行宛書取、議奏加勢より議奏に任じられた久世通煕の
老中宛書簡、町奉行石谷穆彦組同心探索方出精につき褒賞などを収録する。
「八月朔日之次飛脚ニ遣之、
    松平豊前守江申遣候趣
九条殿江先般別段之訳を以、千石加増被遣候処、摂津不成罷、九条村・下
福島村之儀ハ、同家古来之由緒も被在之候ニ付、(中略)右場所支配之御代
官へ篤と被申談候様ニ被存候、尤差急キ候儀ニ付、右申談相済候ハゝ、其早々
御申越有之候様ニ被存候、以上
 八月朔日                 連名
  松平豊前守様

⑤五冊目「公辺御沙汰書写庄内斉藤」万延二年正月~八月       一冊
⑥六冊目「公辺御さたかきならびに事変聞繕一志記斉藤蔵書」     一冊
木版罫紙に墨書。冒頭に「文久三年十月日写之、斉藤親蔵書」とあり。五
冊までと筆跡異なる。
⑦「公辺御沙汰書写斉藤但野州浮浪徒一件共」元治元年四月~慶応元年
                                 一冊
五月二日井上河内守から、新徴組を酒井家に一手御委任の沙汰ならびに
『申渡之覚』(内容は、報国の名実に背かないよう、上を欺き利禄を貪ること
を禁じる云々。「御宗(ママ)旨申渡書付、江戸表より申来候」との注記あ
り)、三日、新徴組一同を「当御殿」に呼び出しておおせ渡したとの記事あ
り。
六月九日から「野州辺に徘徊したし候浮浪之徒」追討の記事。六月十日
「御名」あて老中連名奉書で十一日登城、「其方家来共、一同義勇之志厚、格
別之事ニ付、今般野州辺暴行之浮浪輩追討ヲも可被仰付処・・・・今度之
儀は別段御用不被仰付候」命じられたことを、江戸から報知。
十月十日付「於水府城下ならびに陣所ニ而御役向より承り候之分」〔差出
は石原藤助・佐藤又之進・安倍藤蔵・臼井兵助・北爪楯六・秋松(ママ)金
三郎)。水府城と城下町「大凡絵図」を極密に作成したものも送付。元治元
年十二月十八日提出の加賀中納言様御内永原勘七郎宛武田正生「降伏帖写」。
途中、慶応元年閏五月記事が元治元年部分に混入あり。筆跡複数。
「 三月五日頃(慶応元年か)
 因幡守宅江、御名家来呼、可渡書付
 庄内忠義之大名江出府前御渡相成度御書面案
大名之行列同勢は、測仏国レジメント或ハバタイロン之隊伍なり、レヲン
ロセス在国之日は権力有ルニ因り、右隊伍を備へ道中せり、此時ニ当り、若
不法之者有之、隊伍を恣ニ横切或は路ニ当り不譲あれハ、軍法を以其罪を正
さるゝを不得、故ニ江戸ニ有る外国人不法ニして大名通行之路を不譲は甚不
敬ニして、大名之怒事道理也・・・」
⑧「公辺御沙汰書斉藤」慶応二年正月~五月            一冊
ただし、文久二年記事など錯簡あり。
SL158(SL22.510-ニ) 〔幕末の政情に関する覚書〕        竪一冊
各種探索書や風説書の写を収めたもの。次に清河八郎に関する文久二年の
風説を掲げる。久光率兵上京から伏見寺田屋事件に至る過程について報じる
が、情報には相当の混乱が認められる。
「文久二年戌七月蝦夷地ニ而寫置也原氏
一五月三日暮頃申上り、御留守居指出ス
一四月五日注進、江戸お玉ヶ池住居罷在候浪人清川八郎儀、先月江戸表迯去、
 薩州表江入込罷在候処、此度嶌津和泉江附添上京仕候由相聞申候
一四月十一日、清川八郎儀浪士共廿人斗組合、其内頭取と相成、嶌津和泉
 者先達而大坂表江着仕、同処薩州屋敷潜居罷在候、和泉着船ヲ相待居候
様子ニ相聞候
(中略)
一四月廿三日、八郎此度和泉上京後所置振心ニ不應候哉、一分存意有之候、
 是迄同意致候得共連外ニ致呉度旨申立、弟子共両三人召連早朝大坂表立去、
 陸地上京致候哉ニ相聞候、右八郎江組シ候者之内拾人斗船ニ而伏見薩州屋
 敷江罷越候処、途中船宿迄和泉方家来出迎刃傷ニ及、八人程即死之由、
 皆々薩州屋敷死骸共引入候様子ニ相聞申候、和泉と八郎与存意落合不申、
 雙方物別れ致候やニ相聞候
一四月廿二日、八郎居処追々探索仕候得共未居処相分り不申候、和泉与物別
 れ仕候故、外浪人共江打合企候積ニ而、江戸或者常州筋江参候やニ相聞候」
SL299(SL22.518-タ) 建白書類                 竪一冊
以下の四点の建白書を収録
①子四月二十日 高橋良蔵「今度蝦夷地江罷下候節旅行先ニ而承存候次第」……
福島村、一本木村、大野村などの農業の景況について報告。
②子七月 金井右馬介「拙者儀愚考之次第も有之精評之上追而申上度存罷在
候所今度帰宅相成候ニ付□慮之侭ニ書取備御内覧候事」……蝦夷地における
稲作不可論。屯田農民食料について。「只今より稲を植米を取候も必と仕候
訳ニも有之間敷……庄内は米穀沢山之御領地故米之外ハ常食無之もの之様貧
富一同心得居候得共、米穀不足之地は中々右様之ものニハ無之候、然共民心
の安せさる所可強ニあらす、当時稗を常食として此地ニ住居候志之者ハ有之
間敷」、稗を備蓄して米は庄内から送る必要。
「モニヲシヤマンヘ辺ニハ公義より御世話被為在農民御移相成候而後、御宛
行年限後ハ行兼候而引去候者も有之候由、右農民多クハ上野辺之極窮者之由
相聞候、拙者先年上野之国江参候事有之、好所ハ別段ニ候得共、山間之貧民
抔ハ芋を以常食とするもの面とり見る所ニ御座候、御移相成候農民は定而右
等之者共ニも可有之ニ、猶行兼候而引去候程之儀ニ候ヘハ、庄内饒地之人民
中々以無心之儀ニ御座候間、三御場所之儀は莫大之御宛行年限を以被下置候
様永住夫御差下之儀は今暫御猶予相成候方可然」
③丑二月 高橋良蔵「御用ニ相立候儀申上候事は不行届之私可及様も無御座
候得共、心付之儀は無腹臓可申上旨兼々御達も御座候ニ付、差当存付之所不
顧□ヶ条を以御内々申上候」……永住郷夫の取扱/混血防止策/売女取締策
など
④丑四月 高橋良蔵 役所運営方法についての意見書
SL300 ルヽモツヘ御用所附御役宅                 五枚
御役宅(同一内容二点)、足軽、定役、同心の役宅図面。
SL301(SL22.518-サ) 手控                   竪一冊
万延元年、西蝦夷地ルルモッペ場所詰家中の記録。当場所は安政六年分領、
場所請負人は栖原家、所在地は現留萌市。
(表紙)
「二番
   万延元申年
   手扣
    西蝦夷ルヽモツヘ詰
             斎藤」
「蝦夷地之儀者漁業専之土地、漁時之節者勿論、多人数致通行候而者場所々々
 及難澁、殊ニ山道険阻之場所多□る之□人馬継方も相減積ニ付、此度場所々々
 為引渡相越候役々之儀、格式ニ不抱供廻省略いたし候方可然、為心得申達
 候
  右箱館於御役所ニ井上元七郎殿を以御渡被成候書付写」
「 閏三月十二日庄内出立
  同  廿二日青森着
  同  廿七日同所出帆
  同  廿九日箱館着
 (中略)
  人数拾七人 同 弐人供
 一              斎藤隼之助
  荷馬五疋  同 拾四人郷夫

  上下四人
 一荷物弐駄          近藤常一
  人足壱人

 一荷馬壱疋          斉藤銭蔵
                鈴木篤次

 〆
  右者、蝦夷地領分請取且御警衛御用ニ付、前書日割之通箱館發足、東地
  ヲシヤマンヘ黒松内越、夫西地江出、岩内山道越ハマヽシケ迄泊
  附之通致通行候、其割合を以無遅滞人馬継立且止宿・□賄共指支無之様
  御指図可請候、以上
    申四月二日                御名内塚原新兵衛印
     大野東地ヲシヤマンヘ、夫ヲタスツへ出
     西岩内山道越ハマヽシケ迄
                役人中
                會所中」
SL518(SL22.61-イ) 一番隊使役控池田              一冊
池田悌三郎の戊辰戦記、慶応四年七月十六日~九月二六日。
SL519(SL22.61-イ)〔庄内藩征討令に対する周旋願書〕       一枚
(慶応四年)閏四月十七日付、仙台家老中宛御名内家老書翰。天童藩の偽言、
やむを得ず四境警衛のところ、四月二四日清川口から不意打ちなどの件、周
旋を願うもの。
SL533-1 神風記十二 (慶応二年六月~三年正月)【撮影済】    一冊
(表紙)
「神風記    十二」
磯部守常著。磯部は鶴岡町人、国学者。染物屋にして目明。この冊は、第
二次長州戦争での広島(芸州口)での戦闘の様子を伝えた物を多く収める。
「    覚
一、六月五日御討入相成候所、諸手不揃ニ付相延申候、同八日安芸守殿討手
 御免ニ相成候、尤国境之守衛被仰付候
一、同月十一日御用ニ付小方ニ引払、広島ニ罷出候処、安芸守付添御免翔鶴
 御軍艦乗組軍目付被仰付候
一、同十四日井伊、榊原両陣、芸周界大竹油見小方庄戸辺へ繰出し合戦始候
 所、案外山の手より逆寄致候付、両家戦陣敗北引払、広島へ引取申候、右
 ニ付付添軍目付
  但、大竹、油戸、小方等之辺、敵方焼払候ニ付、前文之通ニ相成候
一、同十五日広島出立宮島へ出張、同日翔鶴着岸ニ付、夜ニ入乗組
一、六月十七日大島郡ニ而陸軍歩兵合戦難儀候旨申来候付、援兵之儀相心得
 御軍艦方へ申達、八ツ半時頃宮島出帆、七ツ半休大島郡へ着仕候所、最早
 戦争最中ニ付余程陸軍方危く相見候間、速ニ御軍艦より大砲打懸候所、都
 合能敵陣へ打込、一発ニ而十五六人程つつ打取候旨、後日相分申候、先之
 御軍艦へ乗組後初戦勝利を得、大慶仕、此段申上候
(後略)」
「 七月三日立候
一、諸家軍勢何レも矛弱、公儀御人数殊之外強く候へ共、御人数追々少々ニ
 相成、甚心配仕候
一、坪内河内守殿七月十一日御老中若年寄衆へ書上之写
 但河内守殿七月九日御舟ニ而御返り、尚又三十日切ニ而御出立相成申候
  御用部屋ニおいて大竹主税より河内守殿へ返上ニ相成候写し也
右、昨日実説之儀承候間、文言不解所とも多有之候へ共、戦場ニ而左も可有
之候、落字等は御推読可被成候、小笠原家之奥様と御幼年之若殿、小倉之城
を自ら火を付落城ニ及、当時細川家ニ御出被成候由、御家来は国中固め、未
だ戦争最中之由、爰許御屋敷中男たるものは九人、残余は不残小倉へ罷登候
由ニ候、又奥平同国追々長防勢押懸、何分無人数ニ而甚困り、援兵早々繰出
し候様に公儀急進を以申来候由、此御屋方ニ而も二三日以前ニ艮刻男たるも
の不残出立候由ニ候、扨又爰許当将軍先頃大坂ニおいて薨御被遊候而、九月
六日ニ漸浜御殿へ着いたし候、当節は八木直段百文ニ付九夕、小前之もの大
難儀也、其外諸色高く大工壱人ニ付弐朱三百文、日雇七百文、近々ニわたる
高直ニ相成候由ニ候、若諸国凶作ニも候ハヽ、江戸中倒死多可有之候、市中
大不景気、在勤候庄内御家中上げ米被下等ニ而大仕合と申事に候……」
「七月十一日於大坂、伊賀守殿御渡
                        大目付
                           へ
                        御目付
毛利奧丸家来宍戸備後介、小田村素太郎儀、御不審之筋有之、松平安芸守へ
御預相成居候所、此度於芸州広島表伯耆守全一己之差略を以竊に帰国為致候
段、以之外之義ニ付、早々大坂表へ為呼登御糾問之上、至当之御処置可有之
積ニ付、聊無疑念諸事是迄之通可被心得候、右之通口々討手之面々へ相達候
間、為心得御供万石以上以下之面々へ可被達候事
                        脇坂淡路守
芸州一ノ先討手為応接六月十四日先備相立
同廿一日在所発足之旨、同廿三日廿九日届出る
(中略)
                        御名
今日於評定所拙者付属長田善平は押込、横田辰之助、吉川五郎作、玉井弁之
助、宇佐美三郎は、急度叱り、青木兵作、鵜飼栄次郎、山下初太郎は無構、
拙者家来吉川多右衛門は急度叱り、菅坂八重治は押込申付候段、申渡、付属
長田吉平外七人之者、家来之者へ引渡、相済候旨御届ニ相成」
「寅七月十七日承る所但江戸状之内
一、水戸家ニ而御家督之義ニ付御家中半々ニ相成、騒動有之趣也、其訳は当
 中納言様へ御実子有之候所、当節之御家督ニ御居へ難申ニ付、大納言様御
 実子一橋公江被遣居候御方へ御家督不被為立候而は相済不申と申者多分有
 之、当中納言様方と打割、大納言様方より一橋公へ右之次第申遣し
  禁中へ申上、八郎丸様と歟へ
  勅定を以御家督被仰出候様ニ申遣し、其事当水戸様方聞出し、夫ニ而は
  相済不申迚、京都へ人数罷登、一橋公へ可申上と彼是大騒ぎニ相成候趣
  ニ候
一、今日使番千住廻りニ而参候所、水戸家中多く登参候趣、右之訳ニ而登り
 候人かと被存候
一、今度市中廻りへ増登り可被仰付と申候事
一、市中は誠に穏ニ而、開帳等有之、軍サ抔之沙汰も無之、作合も大体と申
 事、奥行もの等夥敷賑々敷事ニ候」
「      七月廿五日付ニ而参候風説書
一、水野和泉守様、長州へ色々内通いたし候義有之、御改易可被成沙汰有之
一、於大坂西丸様之義ニ付、色々揉合有之よし、其訳紀州ニ而は矢張り紀州
 様を立度筋申立、尾張様所々ニ而は是非尾張様御立被成候筋、禁裏御所ニ
 而は一橋公を立候筋被仰出、依而、伯耆守様、西丸之義ニ付御下り候処、
 御□□ニ相成、今に御下り無之由、又一説には、英吉利船兵庫へ数艘参り、
 板倉様応接被仰付御向被成所、不容易義申立候ニ付、伯耆守様御出立ニ相
 成候所、急ニ御引返し相成候共申候
一、将軍様御逝去ニ相成候共申候
一、西丸ニ而女中之内三人計又々火を付候計ひいたし候もの有之、御捕押ニ
 相成候抔下沙汰有之候」
「小倉表去ル廿七日戦争後長州人同領内表へ入込、砲台築立、屯集致候趣……
此上にも如何相成候哉、大膳大夫始一統心痛寝食不安罷在候、此段不取敢奉
歎願候様大膳大夫申付越候ス
 八月二日   奥平大膳大夫内鈴木力兵衛」
「    酒井氏より申来候風説写
信偽不分 七月晦日
一、定約相結候国々より申立候ニは、何方ニ而も、国内征伐等有之節は、定
 約取結候国々へ為知候筈候所、無其儀、如何之訳にて、長州征伐被成候哉、
 弥御征伐ニ付而は、一同より軍艦是非差出可申旨、色々被申立無拠其通と
 被被仰出候

一、細川より人数夥敷差出候風聞有之所、皆無之事ニ而、申訳ニ百五十人計
 小倉迄差出候よし
実 八月二日
一、薩州より修理大夫殿直書之申立を以無名之戦をいたし候軍ニ御人数指出
 遣し候旨申立、京地夥人数為差登候事
真偽不分
一、鍋島家ニ而も同様申立候由、其外近々国司より出し候共申候(中略)
実らしき風聞
一、イキリス船弐艘長州沖へ掛り居、長州を相放候よし」
SL533-2 神風記 十三 慶応三年二月~四年正月【撮影済】     一冊
「乍恐以書付奉歎願候
一、町火消壱番組之内い組之外五十六組頭取共一同奉歎願候、当月二日夜、
 御曲輪内出火之節、当御屋敷様御人数と弐番組之内チ組鳶人足共於途中為
 御出合御人数と双方入違、混雑へ紛及口論、全夜中之義御屋敷様御人数と
 は不心付中、多人数行違候場所ニ而、御目印も相訳り不申候由、乍然御屋
 敷様御人数之内、御怪我人有之候趣被仰渡、諸組頭取共、一同奉恐入候、
 依之御進達被遊候様被仰渡奉恐入候、右様相成候而は、チ組人足共乍恐歎
 ケ敷義と奉存候間、壱番い組之分五十六組頭取共一同御詫奉歎願候間、何
 卒以御憐愍右チ組人足共不束之段御慈悲候御沙汰被成下置候様、偏に奉歎
 願候、以上
                   壱番い組之外五十六組
   慶応三年卯正月四日
                   頭取共五十七人名前略
     庄内御役人衆中様」
 「 京都風説
丹後ノ宮津より英国測量船東海廻りの御役人名前書并御触面
此原本甚不分り且又乍急ぎ認候間、大略にて見候事
 京都混雑之風説
   御所司代様より伝 奏衆へ
此程滞坂之英吉利人、最早用済ニ付、可致出帆候処、本使始六十人敦賀表へ
用向有之罷越度旨申立、右は無余儀情実も有之候、且阿蘭陀人伏見筋通行之
先距も有之候間、其段指許、今十五日坂地発足之都合ニ有之、尤途中警衛之
儀は厳重申付度、此段為心得両卿へ可申入旨、年寄共申聞、此段申遣候事」
「□□を以申進候、然は昨夜公辺より依御沙汰今明六時頃薩州上屋敷へ御人
数被遣、一ノ手、二ノ手其外大砲打御徒等被遣、暫時応接之上、及炮発、同
所表長屋焼払打入、打合相成、切取候もの七八人位、末家島津淡路守江も打
入相成、生捕等有之、本家共都合四十人余も生捕有之趣、其外松山様ニ而も
三人位討取生捕十五人位有之由、此方様御人数表門通へ指向、其外松平大和
守様松平和泉守様松平伊豆守様よりも御人数出有之、打入戦争裏手ハ撒兵并
伊豆守様之固、手薄を見透し、同所を打抜逃去候もの四十人計も有之由、猶
悉屋敷内及探索候得共、一人も居合不申趣ニ而、在所迄御人数引揚相成申候、
殿様ニハ、昨夜より御預り屋敷江三ノ手御人数御手配御整御泊相成候、益御
機嫌能被為入恐悦之至、御同意奉存候、為其早迫御飛脚御差立ニ付、右之段
一通為御知申進候、以上
  十二月廿五日夜                  松宮源太夫
                           石原多門
                           長沢金剛
                           柳原隼人
  秋保政右衛門様
  白井久兵衛様
猶々、本文先時戦争最中早迫御飛脚御差立相成候へ共、其節ハ為御知申進専
一候、御人数内中世古仲蔵壱人鉄砲ニ当り相果候、外に御徒御足軽等聊怪我
有之候由ニ候へ共、格別之事ニハ無之候、以上」
SL533-3 神風記 十四 慶応四年正月~同閏四月【撮影済】     一冊
「上方来状写
(中略)
新春之御吉慶重畳目出度申納候、先以御全家様御揃益御勇健ニ被遊御起来珍
重之御義奉
大寿候、然は米之義昨年米拾万八千表、当年は廿一万四千表余にて、春売も
多からん噂ニ而、銘々四日初市相待候処、江戸旧冬廿三日之夜姫路か薩摩子
細は不相訳候へ共、戦争に相成、互に焼合市中混在……扨々情無き世界に相
成申候、委敷申上度候へ共、混雑とばかりニ而弥不相訳候ニ付承候丈、御注
進申上候、……
  正月七日賀                     米屋平助
  原伊右衛門様
      参人々御中」
*十五以下は戦況報告が中心となる。
SL533-4 神風記十五【撮影済】                  一冊
(神風記十六 欠)
SL533-5 神風記十七【撮影済】                  一冊
SL533-6 神風記十八【撮影済】                  一冊
SL702 羽州飽海大泉荘北曜西肥長崎行日記(本間郡兵衛) 嘉永元年戊
申五月廿二日                          一冊
ゼロックスコピーでの閲覧。本間郡兵衛は、酒田出身の洋学者、本間家の
分家の出身。天保期に坪井信良について蘭学を修める。安政二年蕃書調所に
て洋書翻訳に従事。慶応二年開成所を辞して尊皇攘夷運動を展開し、酒田で
捕らえられる。
「八月朔日、今日快晴、長崎茂木迄船相頼、廿六里也、金壱分弐朱歩、肥後
朝五ツ半時出帆、折□ニ而茂木ニ七つ半時着、宿筑後屋権三郎……
二日、快晴、朝五ツ時食事致、人足壱人雇、五ツ半時発足、峠を越、久は長
崎也、壱里半ニ進ミ、直様□見江相訪候処、無拠差支有之候由ニ而、則豊後
町吉野屋伊三郎宅にて世話致呉候、夫より大波戸場蘭船唐船一見、両館門前
一見仕帰宅仕候、都而長崎は廻りは皆山にて、半服寺院数多有之候処也、大
波戸場大筒玉有之差渡シ壱丈余、蘭船之碇一頭有之長さ四間位
(中略)
○唐船入津致候而、翌日ボサ□由候もの歟、右之頭是は関羽の木像、唐人日
本逗留中、崎陽ニ而唐寺江あつけニ而御座候由……
(中略)
○八月六日松前蝦夷地江漂流致候アメリカ人松前公御手船ニ而被送申候、人
数十五人長崎皓台寺と申唐人寺に逗仕、風俗蘭マタロスに能似者なり……
○九月二十日、蘭船出帆之定日ニ而、兼而頼置候稲佐八軒屋村伊三郎家ニ着
水仕、同人宅より一見致候ニは、甚よろしき処……
嘉永元年戊申八月六日、肥前長崎江松前より送り越候アメリカ人加比丹ヨフ
タンセフヘンリエレイソン承り申上候横文字和解之写
                   北アメリカ州之内
 按針役
                   ネフヨルク
                         チャンブール
                            二十五才
                            (中略)
   〆人数拾五人
私共之内チャンブール儀は父一同相暮……
右之通漂流人申口書面之通ニ御座候」
(中略)
九月二十四日長崎発足仕□□□候日記
(中略)
九月二十四日朝、快晴、頴川藤三郎参候、□□月餅出たり、四時帰宅仕度、
とにかく御昼時発足、但し肥後□□江参詣仕候心組候間、辺見よりアバ江廻
り、島原□之便船相たつね候へとも皆出帆致候由、無拠辺見江もとり矢上泊
り、糸荷問屋祐助……
SL705-1~2(SL28.5-シ) 書簡集               折本・二帖
折本上に書翰などの現物二十通を貼り付けたもの。一冊目の冒頭には酒井
家宛の大名書翰を収めるが、途中からは家中の都筑家宛のものとなっている。
〈書簡集 一〉
*二月二十一日付 酒井忠発宛徳川慶福書翰 署判あり。越年賀状の返書。
*三月二十一日付 酒井左衛門尉宛久世広周書翰 署判あり。鮭献上につき
返礼の旨。
*二月十五日付 酒井左衛門尉宛徳川慶恕書翰 年頭賀状。
*二月十一日付 酒井左衛門尉宛徳川慶篤書翰 返報の礼状。
*十二月十九日付 酒井忠発宛本郷泰固書翰 鮭献上の返礼。
*六月十五日付 都筑文四郎宛酒井忠良書翰
*六月二十二日付 都筑文四郎宛京都発岡田権兵衛書翰
*七月十九日付 都筑文四郎宛丹羽出雲守・三宅左近連名書翰都筑の三条
邸訪問の件。丹羽正雄は三条家諸太夫。同家の御守衛御用掛関係か。
*文久三年八月十九日 都筑文四郎宛秋保親友・坂部重禮連名書翰
「…先月廿七日暁、東山高臺寺出火ニ付非常詰場所承明門江御自分始御人数
罷出、同晦日馬揃上覧ニ付、日之御門外御覧所脇江為御守衛御自分初御人
数相詰候由、…猶々本文出火之節諸家様御並之通御取計被成、且又御守衛之
節御自分直垂着用之趣、令承知候」
*文久三年八月十九日 都筑文四郎宛坂部重禮・秋保親友連判書翰
先月三十日、孝明天皇の馬揃上覧の際に庄内藩兵がつとめた警衛に対し、
金を下賜する件の返書。
*文久三年九月承明門西廻廊警衛十七藩宛達書写
 いわゆる親兵の解散令。朝廷からの発令は五日。
*二月八日付 都筑唯楽等宛市川一学書翰 署判あり。賀状の礼。
*三月七日付 都筑文四郎宛市川熊男書翰 熊男は兵学者一学(安政五年、
八十一歳で没)の子。亡父が年来「御出入御扶持被下置」礼として。
*四月二十五日付都筑文四郎・高田亥之吉宛河本真左衛門・同真津兵衛連
名書翰(返書)
*天保三年(?)閏十一月 神戸吉左衛門上申書(カ)
〈書簡集 二〉
*四月二十七日付 都筑十蔵等宛加藤帯刀景寛書翰 署判あり。江戸より見
舞状。加藤は文政年間の江戸詰、家老在職中の同十二年に没。
*三月二十二日付 都筑十蔵宛水野内蔵丞書翰
*三月二十一日付 都筑十蔵宛水野内蔵丞書翰
*十二月二日付 林治右衛門正中書翰寒中見舞状
*十一月二十九日付 土屋渡留宛長坂猪之助書翰
SL1510 慶応四辰見聞集                    横一冊
目録に「大瀬文庫」とあり。HL22.61-ミの原本。
「 御飛脚又治与申者中世古才蔵承り候侭書出し候写
新潟若松江相廻候所、御飛脚当廿日ニ下着、左之通相咄し候由、若松手前
と歟ニ而会津南摩八之丞与申仁途中行逢候所、途中故書状者差出兼候得共、
帰国之上中世古甚四郎・和田助弥外壱人ハ失念様相咄呉候様、嘸御歓被下候半と存
候、扨此頃江戸表便有之、当月二日・三日両日戦争有之、板橋・両国辺・
行徳四ヶ所なれ共、今壱ヶ所失念、日本橋哉之由何れも関東勢大勝利、中ニも因州・彦根之両勢者皆こ
ろしと申候而も宜キ程之由、官軍方諸大名六・七頭位も有之哉之由、関東勢
者御旗本・諸脱藩も少々加り候哉之由、
 閏四月」
SL1514 荘内藩戊辰戦争仕〔始〕末                 一冊
墨書。筆者は不詳。庄内藩等による江戸薩摩藩邸焼討から、庄内藩の降伏
謝罪歎願までの関係文書を編纂・筆録したもの。
(2)阿部正己文庫(諸家文書)
  ①阿部正己資料
阿部59 荘内史料 酒井氏時代一四                 一冊
弘化・嘉永年間の記事を収録。大半が「木公山舎」罫紙にペン書きされて
いる。「木公山舎主人」や「木公山人」は阿部正己の雅号。「編年私記」など
の諸書から荘内藩政史に関する記事を抜粋し、編年史料集として編纂したも
の。ただし、目次や綱文はない。
阿部60 荘内史料 酒井氏時代一五                 一冊
安政・万延年間の記事を収録。「酒田町史編纂用」罫紙も一部使用。
阿部61 荘内史料 酒井氏時代一六                 一冊
内題「荘内史資料」。文久年間の記事を収録。「神風記」などの風説留類や
編纂物からの抜粋が多い。なお、随所で引用される「神風記」は、現在、慶
応二年六月から同三年一月までの記事が収録されている第一二冊以下六冊の
み現存している(第一二~一五・一七・一八冊の六冊、郷土資料SL533)。
阿部62 荘内史料 酒井氏時代一七                 一冊
元治年間の記事を収録。「老の友」(郷土資料にあり)や「操兵練志録」な
どからの抜粋。
阿部63 荘内史料 酒井氏時代一八                 一冊
慶応元・二年分の記事を収録。
阿部64 荘内史料 酒井氏時代一九                 一冊
内題「荘内藩史料」。慶応三年分の記事を収録。
阿部65 荘内史料酒井氏時代二〇                  一冊
明治元年一月から五月までの記事を収録。
○「御徒小頭御用記」慶応四年二月
「十三日、今暁春山半内殿早追にて到着候、
     出羽国村山郡高七万四千石余御預所ニ被為蒙仰候、取締向等入念
     可申旨、尤口米永は御所務不被仰付、御代官並之通諸入用被下し
     旨、委細は御勘定奉行可被談候旨被仰出候段申来候、各可被致恐
     悦候、依之為御祝義、明後十五日御家老中御宅江可被罷出候、在
     勤御家老中江ハ不及罷出事、」
○「老の友」慶応四年五月
「一五月十九日、此頃甫魯臣国人酒田湊へ来り、今日御城下へも三人来り、
  総穏寺へ旅宿のよし、見物人群集、酒田へ商館を開候歟と申事也、内一
  人ハ南京人のよし、
 一同廿一日、右の三人御郭内へも来り、今日門前を通る、居なから異人を
  見候事、歎息のあまりしるし置、甫魯臣ハ仏蘭西と魯西亜の間ニある国
  のよし也、」
阿部66 荘内史料 酒井氏時代二一                 一冊
明治元年六月から十二月までの記事を収録。
阿部67 荘内史料 明治時代一                   一冊
明治二年から同四年までの記事を収録。
阿部68 荘内史料 明治時代二                   一冊
明治五年から同十年までの記事を収録。
阿部69 荘内史料 明治時代三                   一冊
明治十一年から同十九年までの記事を収録。
阿部70 戊辰戦争史料 荘内                    一冊
引用史料のうち「米沢日録」(野附叢書)は、庄内藩士野附七郎右衛門に
よる慶応四年四月から五月十九日までの記録である。野附は藩命により米沢
へも赴き、主として米沢藩ルートから、奥羽列藩同盟結成に至るまでの情報
を入手している。本書は、大正十一年三月三日、酒田町史編纂掛が酒田図書
館所蔵本を筆写したもの。なお、「米沢日録」の他は刊行物からの抜粋が多
い。
阿部71 戊辰戦争史料 他藩                    一冊
阿部72 戊辰戦争史料 他藩                    一冊
阿部73 戊辰戦争史料                       一冊
阿部74 戊辰史料 史談会速記録                  一冊
以上はほとんどが『史談会速記録』からの抜粋。
阿部453 庄内藩幕末勤皇書翰 巻一                一巻
十四通を巻子に収めたもの。目録は『諸家文書目録Ⅱ 阿部正己文庫』
(鶴岡市郷土資料館、一九八一年)にあるので、気がついた記事のみ補足す
る。一通を除いて全て上野直記(安輯)宛。
①(藤三郎↓上野直記、安政二年〉十一月一日)「雪之朝徒然之余り一句仕
候、御一笑可被下候、初雪や日暮の遅きこたつかな」
⑤(安政五年)「一、亜之字兎角ひつヽこく、已ニ此度は是已而ならず前ニ
異船又後来之義、依而諸々御固等被申付も御家ニ而は其等之御役も不被承、
‥‥
一、西丸は紀州ニ而御直り之方、先行は余り御幼年故御沙汰止候事相成候
様噺も御座候得共、是全浮説之由、已ニ今日等右等相極り候様相聞候、是ハ
実説かと被存候、此せつハ兎角浮説已而多ク、彼是之事相分り兼候
一堀田公・伊賀公・遠藤公如何之事や聢とは相分り兼候得共、御役退被成候、
代り太田之隠居道醇と申由、更に間部下総守様再勤、今壱人は失念仕も、先
ツ暑中御伺申上度、如此御座候、恐惶謹言
  六月廿五日認               鞍貫藤三郎政敏(花押)
 南谷先生参人御中」
⑥(加藤順吉書翰追而書、安政六年〉一月十二日)「京都ニ而被召捕候者榊
原様並ニ松平飛騨守様江御預ケ相成候処、当春相成尚又福山侯・向之小笠原
江も四人ツヽ御預ケ‥‥、(西丸一件落着・町奉行吟味開始の報)」
⑧(鳥海新之助書翰)「亜国人へ本条約取替之御使被仰出候」とし、外国奉
行水野筑後守・永井玄幡頭の名を報じる。万延元年九月の書翰。
⑭(大山庄太夫書翰、文久二年〉六月十七日)「春嶽君・会津侯ハ日々御登
城、御用部屋へも御出被成、専御政事御改正筋御取調、‥‥長州侯之建白と
申ものも竹内愚弟指下内見仕候処、如何ニも条理貫通国倫奪與之大論ニ而
殆と忠心仕候、独弊藩之こときハ亦稀成事と長歎仕候」
阿部454 庄内藩幕末勤皇書翰巻二一巻
計二〇通を巻子におさめたもの。
①(文久三年二月、大山庄太夫書翰)「先以玄幡殿蝦夷地開発抔心掛、此節
無益之日を送り被居候心体甚以片腹痛キ事ニ候、早くも引上させ、まのあた
り侫姦者悉く退ケ‥‥」
②(文久三年、月日欠、大山庄太夫宛酒井右京書翰追而書)「旧冬已来御軍
制被仰出候一件甚難解、畢竟皆西洋法ニ被成候御趣意ニ候間、我等此義ハ難
及事ながら、春公を始メ奉り及言上度ものニ御座候、実ニ西洋法ニ一々懸り
被承候半とハ一向是迄之所も何も御研究無之ニ相違無之間、右土屋民部殿抔
之手前ニ而は如何‥‥」
⑥(文久三年三月十二日付、上野宛大山書翰追而書)「扨又春公西洋家ニ候
とも、浪士之勢ニ圧され西洋ニ些たりまへニ相成候よし、既ニ公義之御軍製
西洋隊ニ相成候よしニ相聞、甚歎キ居申候、実地之軍製ハ西洋をとりひしき
候新奇之器械・新奇之謀略ニ無之而は不可叶義、春君再来之少し前ニ至り西
洋ハ廃り申よしニ御座候義、又々同君之為ニ再発仕候事と相見候」
阿部487 〔魯医伝習のため某地へ到着の状〕           一通
(別筆)「慶応三丁卯十二月十一日達ス」
 一翰呈上仕候……扨小生出立之砌ハ万々御威光を奉蒙痛入候、御餞別迄頂
 戴、殊ニハ郡兵衛様遠方迄御送被成下御礼筆紙ニ難尽難有仕合ニ奉存候、
 以御威光道中無恙本月十三日当地着、十四日古川老ヲ訪、十五日より同家
 之厄介ニ相成、魯医伝習当分休ニ御座候得共、古川老厚く添心被致呉、英
 学ニも取掛り、医学を研究罷在候間、御安堵被成下度奉存候
一、着早々山之上平岡屋勘兵衛を相尋候得共、家之印と露店之名前不奉伺候
 ニ付、只今相分不申候ニ付、被佐含之云々伝兼罷在候、何れ逐々穿鑿可仕
 候間不悪御含被成下度奉存候
一、西洋墨当時払底之由、古川老江も頼置候間、後便迄調可奉献候
一、一昨日魯西亜之バテカ江相尋、馳走ニ相成罷帰候、日本語は申ニも不及、
大日本史なと読居候ヲ見、驚き入申候、右ニ就候而は、勉強可仕と御檄罷
在候
……
  十一月廿一日                筒井酉司 百拝
  本間新九郎様
  同 郡兵衛様
      御案内」
阿部516 本間郡兵衛書状 兄宛 三月廿日            一通
「扨私儀旧冬より江戸小伝馬町渡辺道人と申医師江同居仕候、此仁古法家ニ
御座候間、蘭医ニ而杉田成卿と申仁江入門仕候、尤林治左衛門様御世話ニ御
座候、当月迄稽古仕居候得共、一ヶ月ニ金壱歩弐朱扶持代遣候儀に御座候、
当月迄は治左衛門様御世話ニ而取続申候、実以難有仕合儀奉存候、然る処、
二月中仁兵衛様御帰府被成候処、石川家と祿者之儀御承知ニ而殿中ニ而御会
之節仁兵衛様江治右衛門様私事を御頼被成候由、仁兵衛様より私ニ御人ニ御
座候間、早速参上仕候処、仁兵衛様被仰候ニは、来春迄之扶持他四両弐歩之
儀ニ御座候間、仁兵衛様御自身由良ニ御出被成下、右金子御備受被成下私ニ
御登せ被成下候様御心切ニ仰被下候得共、私も前々より御万端由良之御世話
相成、又候無心仕候も重々気之毒、且御兄様之御迷惑ニ相成候儀、深御察申
上候間、此儀は堅御免相願申上候、嘸御序之砌仁兵衛様より右之一条御沙汰
可有御座候、其節は宜敷右之御含ニ而御舌頭被成下度候得共、今に一度之御
返翰も頂戴不仕候間、拙状相届候哉、如何と奉存候、翔ソ篇一冊差上候筈、
無相違御届申上候哉、如何と奉存候、乍去久野様江御願申上候間、遅共御届
可申上ト奉存候、此書は長崎逗留中認申候、当時は唐国江も数多相渡候由、
古今未曾有之儀奉存候、何卒御閑順之節右之本江表紙御付被成下度御座候
薩州長崎筑州辺都而上杉南亭公之御美名不知者一人も無御座候
長崎より油紙包壱ツ差出候筈相届候ハヽ、幸便之節御一筆被成下度奉存候
当三月十八日
上様小金ケ原御狩被遊関四州之人足十七万人之由、仰山成御事ニ奉存候、後
便微細可申上候、右時候御伺申上度如斯ニ御座候……恐惶謹言
  三月廿日                      北曜 拝
  御兄様」
   ②松山藩史料
〔松嶺史料〕
阿部正己によって編纂された、松山藩史に関わる編年体史料集。五十冊あ
まりからなるが、幕末・維新期の十五冊を閲覧した。
松山32 松嶺史料 嘉永年間                  竪一冊
「嘉永五壬子年改印御分限帳」を収録。但し「(正按)此分限帳ハ嘉永五
年ニアラス安政五年五月カ六月ノモノナリ」
松山33 松嶺史料 安政年間                  竪一冊
出典は「大目付寺社日記」「仰出留」「御用留」「系譜」など。安政五年分
限帳収録。
松山34 松嶺史料 万延元年~文久三年             竪一冊
松山35 松嶺史料 元治年間                  竪一冊
五月~六月、水戸天狗党筑波挙兵関係の記事あり。桐生領分に藩士派遣
(長坂欣之助書状収録)。出典は「東走記事」。
末尾に原文書二点綴り込み。「文久三亥年十二月十二日若松満次郎御届
之写」「元治元子年被仰出候ケ条評議之上往返委細書留帳」
松山36 松嶺史料 慶応元年                  竪一冊
松山37 松嶺史料 慶応二年                  竪一冊
松山38 松嶺史料 慶応三年                  竪一冊
十二月二十五日、薩摩藩邸焼き討ち記事。末尾に「小林平次右衛門上京日
記」他、焼き討ち関係の史料を収める。小林は文化十二年~明治五年。慶応
三年中老、同四年一月家老。
松山39 松嶺史料 明治元年一月~三月             竪一冊
出典は小林日記、長坂「戦記」「備忘録」など。江戸の動静が中心。
一月二十一日条「権十郎殿へ自分(小林、引用者)一人罷出、徳川家ノ為早
速御軍勢御差向有之様致度、左モ無之テハ西勢攻下リ候事ニ相成候テハ御滅
亡眼前ト相見候ニ付……」
同日条
「    申渡                   加藤一格
其方儀薩州三田屋敷賊徒共御打取ノ節、不働ノ上御足軽共ヘ差留方モ不宜候
段達御聴候、急度可被仰付処、格別ノ思召ヲ以御役御取上弐拾石減知慎被仰
付もの也」
二月、藩主帰国関係の記事
二月十八日条「原庭様ヨリ御呼出ニテ罷出候処、西丸下詰若手強願ノ次第不
相済事御沙汰ニ付、成程右ノ事承候ニ付、欣之助評議ノ上説得致候ハヽ納リ
可申ト見込呼出シ候処、召候ニ付罷出候、定テ説得之上ハ納リ可申ト申上候
処、御歎思召候、如何様申候トモ自分は決テ下リ不申事ニ御沙汰也、強而申
聞候ハヽ自滅云々御沙汰也
一今夜欣之助殿説得致候処、大体落付候事」
「主家の御意見は御本家と相反する様に見受たり、仮令如何なる事に至るも
本末君臣の一致程重大なるはなし……君公江戸に於て御本家と反対すれは、
主家の臣下の間定府の士卒丈は君公に従ふが、松山在住の士卒は御本領に包
れありて、小藩地小人数なれば必す御本家に従ふは言ふ迄もなし、当然の至
りなり、是則御当家臣下の分離止むを得ざる事鏡に掛けて見るより明なり、
依りて君公早く御帰国ありて君臣の間を固め御本末共に国家存亡を……」
(川上十郎記)
松山40 松嶺史料 明治元年四月~閏四月            竪一冊
 四月二十四日、清川の戦い。出典は「出陣日記」「備忘録」
「官荘戦争記」「辰四月御足軽志釜重三郎下着書写」「白岩ヨリ八丁先慈恩
寺村ヨリ来書」「仙台表へ御使者被仰付手続書」の全文を収録。
松山41 松嶺史料 明治元年五月~八月
 主たる出典は、長坂「北征記事」、永井丹治「出仙中雑記」
松山42 松嶺史料 明治元年九月~十二月
 九月二十九日、官軍の松山進駐。出典は『桂太郎伝』
松山43 松嶺史料 明治二年
松山44 松嶺史料 明治三年~明治十年
松山50 松嶺史料 戊辰戦役清川口
 七月四日~九月二十四日。ほぼ「北征記事」が出典。
松山51 松嶺史料 戊辰戦役吹浦口
七月二十七日~九月二十一日。出典は「川上十郎日記」「出陣日記小野寺
千寿」「永井丹治報告書」など。
松山80 鈴木広弥出仙中御用留 老方 慶応四年         一冊
①「同宿弘前様衆より借写、御用留仙台在舎中鈴木広弥」(慶応四年六月
より七月八日迄)。
②「御用留仙台在舎中鈴木広弥」(慶応四年七月八日より十四日)
③「聞留」(七月十一日より十六日迄)
④「御用留 仙台・白石在舎 鈴木広弥」(慶応四年七月十七日より二七日)
⑤「御用留 仙台在舎中 鈴木広弥」(慶応四年七月二八日より八月九日)
⑥「御用留 仙台在舎中 鈴木広弥」(慶応四年八月十一日より九月十日)
の合綴。
東北諸藩士とともに仙台や白石に詰めている鈴木が、ほぼ十日ごとに、入
手した情報をまとめた小冊子を松山藩に送付したのを、松山藩家老側が一冊
に合綴したものと考えられる。
①は、閏四月、五月の仙台藩中心に奥羽越列藩同盟成立後、七月十三日、
輪王寺宮の白石動座までの状況を、弘前藩から借りて写したものと考えられ
る。
六月二一日「一藩江布告」(「今般日光宮様奸徒朝権を窺、大政を乱候・・・
段、深御哀悼被為在、・・・今般賊徒為追討之令出陣候・・・」)、六月二一
日「重役添書」(「賊徒、白川を襲ひ退散不相成内、又御嬌命を奥羽追討と称
し、薩長等之賊兵共数百人、蒸気船等ニ而江戸海を発シ、常州平潟へ上陸ニ
及、・・・此節御延引相成候間、賊兵気□を増シ、奥羽騒動ニ可相至・・・」)
 以下、内容を摘記する。
七月九日、応接所松ノ井に行ったが無人。
七月十日、松ノ井で、若生清一郎という人物と対談中に、南部藩士から、九
条から当七日に南部侯に庄内追討の勅命がくだったので、庄内衆戸田氏へ知
らせてほしいと告げられ、戸田旅宿に立ち寄り、報知。日、米沢衆より、回
状で、十二日宮様白石動座などを報知、
七月十六日、松之井に出勤して、大立目敬一郎という人に、当十一日、秋田
口の一戦について聞いたが、確かな報告は未着。「仙藩、散々敗軍」の模様
か。
七月十四日、本藩旅宿で米藩小見鍋蔵・会藩諏訪常吉と酒宴し、七月十日の
異人応接の様子を書いた書付を懐中からみせてくれたもの―フロイスから、
会米両藩が横浜で鉛・雷管・玉薬を買い付け―を書写した。
七月十五日、岩城平藩平真太郎という人に面会し、二十九日・朔日の戦況を
聞く。
七月十七日、南藩士が一昨日帰藩。仙台からの、国境を越え秋田に討ち入る
ようにとの指示で、帰藩した由。
七月二十三日、岩城平もいよいよ十三日落城の由、岩城平衆より聞く。「何
共気之毒之事ニ候」。
七月二十五日、会所に、弁当持参で、仙藩目付・同応接方・米藩・会藩・南
藩・荘藩・棚倉藩・中村藩・岩城平藩の者が集合。宮様ご機嫌伺いの時の服
装・献上物などを、仙藩衆と打ち合わせ。
打ち合わせ中、米藩衆に、国元からの飛脚で七月十八日状が届く。内容は、
十五~六日、田井口にて案外の大勝利、六月下旬下関から新潟着の、高田領
の商人船主の話として、長州から越後への援兵は来ない由。
岩城平藩士に、国元から、落城の様子―玉薬がほぼ尽きたという玉薬掛の
上申で退城を決定、貯蔵の米蔵に火をかけたなど―を知らせてきた書状を書
写する。
八月二十七日、庄内宿にて、徳川藩青沼鎌次郎という人に面会。会津は切迫、
二十一日敗退、二十三日には猪苗代の古城を自焼などとの情報を得る。
松山89 非常ニ付諸見聞留 老方                 一冊
 慶応四年七月七~一八日、家老間の戊辰戦争御用状留。
松山106 非常口鶴亀并左沢其外御人数出口々諸案集帳 慶応四年辰年閏四
月 羽州松山老方一冊
家老が取りまとめた戊辰戦争御用状留。軍令や本藩からの指示など。手配
すべき弾薬の基準数は、大砲一挺に七〇発(散玉三〇・本玉二〇)・マサチ
管二五;このほかは火縄打ち、ミニケール一挺に七〇発・管一〇〇、元込一
挺に一〇〇発・管一三〇、和流筒一挺につき五〇発。
松山146 戊辰戦争日記・鹿児嶋日記(合綴)           竪一冊
 写本、無銘罫紙、記者川上十郎。
「明治元年
  戊辰戦争日記
      松山藩
     大砲指揮并参謀川上十郎」
四月十四日~十月八日まで。七月二十九日、本藩兵に組み込まれ、秋田領
に進軍、秋田藩兵と交戦。「秋田は尤弱兵、戦術に闇く兵器尤不備」。八月六
日本庄着。八月十三日松山藩兵は矢島へ進軍の沙汰。八月十八日矢島着。八
月二十一日矢島出発、八月二十四日~三十日神ケ村で小競り合い。九月一日
本庄、九月二日矢島。九月十九日「本庄より御使番宇沢嘉一郎急使にて到着、
庄内軍総引揚の事伝令せらる……本日早昼より矢島総引払の事、内々出立準
備中我の取扱は此地に残せし大砲は火門に鉄釘を打発砲せざる様に打込、残
火薬は不残井戸の中へ投入せり」。九月二十七日謝罪降伏を聞く。松山帰着。
その間、各地の戦闘の伝聞情報を記している。
「明治三年午十月
  鹿児島日記
    常備兵士族小隊長
      川上十郎信任」
明治三年十一月十二日~明治四年三月十二日。東京へ英国式銃隊修行を命
じられて後、鹿児島にて修行、東京帰着までの日記。冒頭に次のように記さ
れている。
「明治三年閏閏(ママ)十月十四日、東京ヘ英国式銃隊修行被命、隊士十四
名外左沢ヨリ我内弟子壱名ヲ従ヘ、松嶺ヲ閏十月廿日出発ス、銃隊修行ノミ
ナラズ他ノ用務ヲ含メラレテノ上京ナリ、十一月二日東京ヘ安着、宗藩中殿
様ヘ相願修行ノ心掛ニテ着京、宗藩ヘ出タル処中殿様(忠篤公)十月廿八日
東京御出発ニテ鹿児嶋ニ罷越修行致度旨出願セルニ、当時藩邸ニ於テ鈴木四
郎右衛門主トナリ藩邸ヲ左右スルノ場合ナリケレハ、鈴木ハ我々ヲ長州藩ニ
登セント欲ス、我々ハ長州藩ヲ望マス鹿児嶋藩ヲ希望セリ、藩邸ニ於テ費金
ノ都合アリテ鹿児嶋藩ニハ修行差し為登兼ルト云フ、迚モ其力ナシト云フ、
又鈴木ハ長州藩ヘ差出サント企ツル為ナラン、藩邸ノ頼ムベカラサルヲ以テ
宗藩大参事菅善太右衛門ニ言テ曰ク、我々ハ鹿児嶋藩ヘ出張シ、銃隊研究致
度候ヘ共、我藩邸之ヲ許サス、依テ々之ヲ申込ミタリ、菅大参事曰ク、会
計掛服部六兵衛ニ計レトイフ、六兵衛曰ク、松藩ハ分家ナリ、是迄宗藩ニ於
テ金員ヲ用立タルモ返金スルコトナシ、松嶺ノ事ハ御免ナリト云フ、我々服
部氏ニ向テ曰ク、分家宗家ヨリ金ヲ出スコト珍シカラズ、当然ノ事ナリ、明
治初年ノ戦争ハ如何、宗家ノ為メニ分家ノ松嶺共ニ死力ヲ尽シテ本末ノヘタ
テナク働キタリ、今猶兵ヲ練ラントスルニ、我藩費用ニ差閊アリトテ不許、
我々ノ志ヲ御汲取アリテ修行為致呉レ、非常ノ場合本末ノ差別ナキヲ申述タ
ル処、菅大参事曰ク、此度神戸善十郎有志引連レ鹿児島ニ赴ク故、神戸氏ト
相談致スナシヘシト云フ、直ニ神戸氏ヲ訪ヒ、事情委シク申述タル処、何程
ノ金員アレハ可然ト申サル、三百円アレハ鹿児嶋ヘ参着スルコトヲ得ル旨申
述タリ、立替致故同道致ナレハ依テ準備ニ取掛ル」
松山148 宗藩隊江編隊、戦地江繰込之記略             一冊
明治七年八月、毛利広明著。「此書物戌年十月二十一日松森胤保殿差出す
下書なり」とあり。日次の戦場記録。七月二七日から、吹浦口の秋田攻めへ
加わり、本藩の第四大隊と進撃した。計一三二名と持夫一一三人。朱書で、
「組頭ヲ士隊長トシテハ如何」、あるいは物頭を卒隊長、目付を監察としては
どうかと、名称変更の指示が書き加えられている。
松山157 参謀付日記 慶応四年                  一冊
明治元年一〇月二十五日に出立し、六十里越から米沢へ向かう。十二月二
六日か。小林平次右衛門、ヨコ半。
松山173 陣中日記                        一冊
 前半のみの軍中日記、ヨコ帳。
松山464 出陣先日々手控                     一冊
 慶応四年七月二七日から九月二七日まで。北〔郷〕信明。
  ③北海道資料
北海道253-1 魯西亜人イワノ所齎図                一葉
函館田中正右衛門氏所蔵(大正五年七月廿七日、丸岡、於函館写之)。
夷人カリヤシン云カラフトノ奥地より山丹へ往来の道は西辺の屋ナツコより
或はフテトよりモマンゴの枝流の末海へ入る所より山丹へ往来す、ナツコよ
りも山丹地ヲ真西ニ見ると云ふ
最上氏常矩云モチブよりマンゴの大河まて山丹人小舟を沼山ともに引越す由
なり、又、此渡り口汐干の時は一里ほと沖へ舟をすへて徒歩して上陸す
カラフトの夷人は山丹をサンタと云なり
 二通同じ構図の絵図である。どちらも写し。
(3)秋保家史料(諸家文書)
秋保130 操兵練志録(陽1~15) 【撮影済】           十五冊
長沼流軍学者秋保政右衛門(親友)がとりまとめた庄内藩の軍制改革に関
する編年録(原本)。嘉永四年九月~慶応四年四月。秋保は藩の兵学指南を
つとめ、御小姓頭、四五〇石。慶応四年三月十四日、家督を秋保与五郎に譲っ
た。十五巻の末に以下のように書き記した。
「隠居改名六十九歳、秋保一操
 世の中を見さる聞さるいわさるの
 我身もさるの年に生れて
  練志録 終」
 以下、各巻の概要を記す。各巻冒頭に目録あり。
(一)嘉永四年~六年の記事。秋保は嘉永六年一〇月に海防御用掛となる。
「(畳列坐作之法、当流謂之三段畳打)口授伝書ヲ以按之ニ、近来行ハルヽ
西洋流ノ打方ニ符説ヲ合スル如ニテ、全ク西洋炮ヲ竊ニアラス、澹齊ノ発明、
茲ニ至ルコト妙ト云ヘシ、天保十二年丑年五月九日、於徳丸原始テ御目付御
検分有之、其日手鉤ヲ求テ見シヨリ当流三段ノ畳打当ニ如此ナルヘシト知ル、
‥‥若此三段ノ畳打ヲモ常ニ能練熟セハ、一方ノ防禦一段利用有ンカ、又不
然ハ異賊専ラ此法ヲ用ルト聞ナレハ、時ニ臨テ対之打砕ノ術計心得ナクハ有
ヘカラス」(嘉永六年七月)
(二)嘉永七年~安政二年。足並稽古(序破急の足並と太鼓の使用)。
(三)安政二年。糀山諸組足並稽古記事など。
(四)安政二~三年。安政二年一〇月「惣人数調練仕組取調伺書之事」、旗
  本備、先備并三瀬出張人数調、人数割りと図式・行軍表など。
(五)安政三~四年。安政四年二月一日「惣軍御調練之節軍師被仰付、御小
  姓頭代兼相勤候様被仰付」
(六)安政四年。五月八日、糀山調練記事。
(七)安政四~五年。
(八)安政五年。
(九)安政五~六年。
(十)安政六年~文久元年。文久元年四月十三日、本所茅場町新屋敷で炮術
  御覧。種子島流・荻野流・高嶋流など。秋保もボート砲を打つ。
(十一)文久元年~二年。文政二年の軍役人数割を記す。抜粋して例示する。
  高五〇~九〇石 三人 内訳:手人一人(若党)・郷夫二人(鑓持・具
  足櫃持)
  高一〇〇~一四〇石 五人 内訳:手人二人・郷夫三人
  高一五〇~一九〇石 六人 内訳:手人三人・郷夫三人
  高二〇〇~二四〇石 八人 内訳:手人四人・郷夫四人
  ‥‥
  高五〇〇~五四〇石 十五人 内訳:手人十人・郷夫五人
  高一〇〇〇石 二五人(以下、馬上・又家来を含む)  内訳:手人二十
  人・郷夫五人。
  高二〇〇〇石 五二人 内訳:手人四十人・郷夫十二人。
「‥‥以前御軍役割被仰出候節とハ御時節も違候而、上下数年来不勝手之事、
以前被仰出候節之ことく全召連候事ハ難儀之時ニも至り候ニ付、今度尚又手
人等省略、知行所出候郷夫を以不足を補、相成丈無用之人数ヲ相省キ、御
軍役高人数之内も不用之郷夫は小荷駄江相廻し、百石弐人割之郷夫江引足し
小荷駄相送候様被仰出候、‥‥人夫多く召連候而は第一農民之難儀、戦之妨、
兵粮之費も不少事ニ候得は、是等之類ハ此度不残省略被仰出候」
(十二)文久三年。
(十三)文久四年(元治元年)。
(十四)元治元年。
八月二十一日、「同日不取敢左之書面指出候」として、慶安軍役令にし
たがった「高十四万石」の「御軍役」、侍二五〇・鎗三〇〇・弓一四〇・鉄
炮五〇〇・旗二〇を書き上げている。ただし大筒と小銃の換算基準がわから
なかったためか、「弓・長柄等之代り、夫丈之人数鉄炮備召連、尤鉄炮五百
挺御定之処、百目玉筒ニ候ハヽ拾に筒拾挺之積を以、五拾挺差出候得は五百
挺之御軍役ニ相当り候割合を以御軍役相勤不苦儀ニ候哉」との伺書を提出し
た。最終的には、惣人数五四五人のうち、騎馬五〇・鉄砲二七〇・長柄二〇・
旗二五・大砲一〇と百目筒二〇とし、弓は無しとした。秋保はこの軍役書上
げにあたり、十二月十三日、「数年来御軍制御用不容易骨折、‥‥御進発之
節御先手被為蒙仰、其節御召連之御人数を始取調方被仰付、急々之御用」に
あたったことを褒賞され、五〇石を加増された。
(十五)元治二年~慶応四年。
郷夫を一〇〇石二人の割合で村々から壮健者を差し出させ、小物成所から
出人として割り渡す仕組みがはかられた。
慶応元年一〇月十四日、家老酒井玄蕃了明(玄蕃吉之丞の父親)から平左
衛門へ宛てた書翰に「七組を始、寄合組共小銃隊ニ仕立、折々調練、炮戦不
便利之節は銘々大小炮を背負、刀槍ニ而戦をなし、臨機応変銃隊となり刀槍
隊と成り、自由自立ニ相成候様仕込置可宜」とあったのに対し、秋保は二九
日付けの書翰で、「此御一句ハ如何あらんか、凡闘ハ以気勝ト大勢の気の引
立処より一機ニなりて勝を生ス、‥‥鉄炮習得候士は銃隊に組立、槍刀ニ長
したる士は槍組ニ相立、弓術ニ達たる士ハ中軍警衛等、是迄御組頭居附之組
たりとも抜差いたし、各長する所を取て壮強一□に組立、‥‥」と異議をと
なえている。
(慶応二年)六月四日、秋保は老衰を理由に御小姓頭の御役御免を願い出
た。このときの記事として、「諸藩戦争ニ及ひ、屡官軍方敗北の聞有之、不
得果敢‥‥、只管筒袖鉄炮逼合の勝負ニ至てハ日本実武士の戦争軍と云もの
ニ而はなく、此小口彼攻口一ト小口取んもの有ても、奇略応援なけれハ再度
ハ追立られ、或は取戻され、体様備りたる勝利ニ至らす、諸藩家声を汚スの
ミ、歎息非儀、終に是皇国てつホウ筒袖の世となり、大小刀も無用の器とな
りなんに遮し、予の如き粗兵学ニ志スと雖、一字も取用られす、当座鼻先の
防禦のミ同日にして語んへからす」と記した。
 慶応三年正月、庄内藩は軍役を改正して惣鉄砲とした。
「一、当正月、於庄内御軍政御取調、夫々御改正之御沙汰ニ付、当席江も通
   達候様末松十蔵殿左之御書付御渡之趣ニ而‥‥
 一、惣御給人并御中間ニ至迄惣鉄炮之事ニ可被仰付候、人高を始、稽古為
   致候儀も早々取調申出候様支配持之面々江可被御申達候事
   ‥‥
 一、御足軽弓并中間長柄は当分御廃止之積‥‥」
秋保131-1 海防練志録 陰一【撮影済】              一冊
 目録と本文からなる。
 目録の例。(朱書)「自嘉永四辛亥至同七甲寅安政元」とあり。
「一、小川権之助・石原半四郎海岸防禦利方取調申上候事
 一、中村陽之助海岸村々砲台炮数配当取調候事
 一、松平武右衛門直認急卒御繰出御備方取調伺書之事
 一、服部瀬兵衛殿加藤宅馬殿直認海岸御備向之事
 (以下略)」
 以下、本文を例示する。
「(朱書)「小川権之助取調」
 近年異国船度々渡来ニ付従
 公義度々御世話被為在候ニ付、今般海岸御手当向御取調被仰出候、万一異
 国船多渡来無際限侵掠可致体之儀有之節、御人数御武器之配り方を初、屯
 地地形武器之利不利等迄、都而防禦之利方、篤と相考、可成丈委敷取調申
 上候様被仰付候、私儀は甲州流兵学は指南仕候得共、海岸異賊江之御手当
 向之儀は是迄一向心得不申儀ニ御座候、殊に流儀ニ便り取調可申様も無御
 座当惑至極奉存候、乍去被仰付候上は、不顧憚存付之次第申上候、御領分
 海岸二十里余ニ御座候而、何方江賊船漕寄可申も難計、其節之御手当向、
 左ニ申上候
一、御領分中之沖合異国船相見候而も、通り候船ニ候はば、其段注進有之
 候共、御人数御差出ニ及申間敷候事
 (中略)
一、右橋船数艘多人数ニ而闘争之様子と見受候はば、其辺大砲仕懸置候場所
 ニ候はば、沖合十丁位迄も近寄候はば打砕候様可致事
  但、炮術之士見計肝要之事
  此大炮と認候は、二三百より以上之心得ニ而取調申候、是は其節持運之
  事ニ而は急速之間ニ合申間敷、兼而無事之砌遣し海岸住居之大庄屋江御
  預ケ置、異国船之模様次第、大庄屋指図致し、早速其村々江為運、大炮
  場江遣し可然候、又大組頭と申もの有之村は、右へ御預、肝煎計有之村
  は右に御預ケ、子弟不寄添、尤雨露ニ不当様手当致し置度事
  (中略)
一、海岸之村々は多分は村前渚迄一向間無之、異賊村里を目当上陸可致体ニ
 候得共、其所ニ備を出し、接戦可致間地無之候、御人数は村之左右并村中
 江手分致し、三方より駈出打取候様之外有之間敷候
  但、異賊上陸心懸、段々漕寄候節、間合見計左右向より打払可申、夫と
  も異人理不尽ニ弥陸へ近付候節は、鉄炮を□(わカ)そく懸ニ致し、刀
  を以本文之通可仕事、尤騎士之分槍を以相働候事
一、海岸村々麁絵図ニ仕候屯地并大炮場闘争之地形有之村々ハ、左ニ一つ書
 ニ仕候、是ニ漏候分は右地所無之候
 (中略)
 右は海岸防禦御手当向取調向、如此御座候、以上
   亥九月(朱書)「嘉永四年」           小川 権之助
     外に海岸通麁絵図一冊添有之候得共、写取不申候、尤村々模様絵
     図面のミに有之候
(朱書)「石原平四郎取調」御人数御武器配屯地形
一、原海村台場へ三五百目位ノ銃二筒、百目銃一筒を備ふ「打手都合八人」
 位
 (中略)
 右大概ノ処申上候、乍去御人数御武器配等之儀も、其時宜ニ寄リ相増候儀
 モ可有御座、又防禦屯地形等ノ義モ其時ノ模様ニ因リ変化ノ取計可有御座
 義ト奉存候、以上
   亥十月                   石原平四郎重義
右は、嘉永四年亥八月海岸防禦之利方取調被仰達、小川権之助、石原平四
郎、海岸為見分罷出候上、取調申上候書面也、同六年丑七月中御沙汰ニ而、
拙者封書瀬兵衛殿江差出、其語前条軍師何様之利方申上候哉と伺候処、同
九月中両冊袋入一覧之様ニと為御見被成候ニ付、密に写取置候もの也
   嘉永六年丑十月六日        秋政記
                    去々亥八月ハ在府中也」
秋保131-2 海防練志録 陰二【撮影済】              一冊
 目録「自安政元甲寅至同二乙卯」
 「(朱書)「嘉永四年亥九月御達之写」
異国船相見候節之注進、遅々不相成様、兼而申達置候得とも、若々不束之儀
等有之候而は難済義ニ付、左之通
一、浜通ニ而異国船と見請候はば、大庄屋江無遅滞申出候様急度申付遣候事
 (中略)
 右之通申付、尤遺失無之様可被申渡候
   九月
   嘉永四年亥九月書面之通被仰達之趣御郡奉行江申達、御郡奉行御代官
   連名ニ而大庄屋江申達
嘉永四亥年九月中、異国船相見候節御注進申上方并夫々心得取計向御言、以
御ケ条書御達相成奉得其意罷在候得共、今般異国船渡来御備向別而御達御座
候ニ付、私支配浜通酒田湊より湯野浜村地境迄、四里余之長場所、殊ニ浜中
村十里塚村、宮野浦村、右三ケ村御座候ニ付、急速之節混乱仕候而は恐入奉
存候間、郷人夫年賦相定置候儀、御箇条書之内ニ本付、私心付之次第前廉御
内意奉伺候
一、浜通ニ而異国船と見請候はば、大庄屋江無遅滞申出候様急度申付遣候事
 此段
   異国船と見請候旨、私支配浜中村、十里塚村、宮野浦村三ケ村之者共
   之内、地方よりは不及申上、仮令沖猟ニ罷出見受候共、其模様申出次
   第、一先右之様子早速御注進申上、私儀急速浜村へ罷出、尚様子次第
   御注進申上候儀ニ可仕奉存候、浜方村より別而不模寄は無御座候得共、
   弥急変之心得方、村々役人共に具ニ為呑込置申候
   (中略)
 右は西郷組浜浦江異国船相見急速漕寄候体之節、防禦向私心付之大略取調、
 御内意奉窺候、弥急ニ漕寄及乱妨之節は人夫繰出し、臨機応変之取計仕可
 申条、御聞置被成下度奉存候、前条奉伺候儀は不及申上、何分ニも御思召
 之程御差図被成下度奉願候、御役人中御出張之上ハ私儀御同勢江相加り、
 請御差図相勤可申奉存候、其節村々詰役人郷人夫共引取方多少請御差図可
 申奉存候、以上
 寅二月       (朱書) 「西郷組大庄屋」清水理右衛門 印
     御郡奉行所
     御代官所
(朱書)「御達書」
今般御預被為蒙仰候五之御台場并御据付之大砲共、西洋法被仰付候間、右之
御心得を以大砲打方其外兼而習練候様可被仰付旨、従
公義御沙汰ニ候、右ニ付今度中村三内、芳賀剛吉出府、西洋法得伝授、右流
儀も相兼指南いたし候様被仰付候、御固御人数其外共御模様未相分候得共、
追々御人数為御登可相成、其上年々交替可被仰付候得は、御家中一般西洋法
をも心得不申候而は、御用便ニ相成兼、且又海防之義鉄砲は第一之要器ニ付、
砲術鍛錬無之候而は堅固之防禦難相成儀ニ付、孰も砲術習練為致候様ニとの
御沙汰ニ候、右ニ付候而は、追々被仰出候品も可有之候得共、御家中之面々
先以右之段相心得砲術稽古之儀弥以厚心掛候事
  十二月(朱書)「安政元寅」」
秋保131-3 海防練志録 陰三【撮影済】              一冊
 目録「自安政二乙卯至同四丁巳」
 「天保十三年寅年被仰出之内
当時万事御改正ニ付、享保・寛政之御事ニ被復、何事に不依、御仁政を被施
度との難有思召候、右ニ付而は外国之者ニ而も逢難風漂流等ニ而食物薪水を
乞候迄ニ而渡来候を、其事情不相分ニ一図ニ打払候而は、万国江被対候御処
置とも不被思召候、依之文化三年異国船渡来之節取計方之儀ニ付被仰出候趣
ニ相復候様被仰出候間、異国船と見請候はば、得と様子相糺、食料薪水等乞
敷帰帆難相成趣ニ候はば、望之品相応ニ相与へ可致帰帆旨申諭、尤上陸ハ為
致間敷候、又は猥ニ異国人江親ミ候儀等は致間敷筋ニ付、警衛向之儀弥厳重
にいたし云々
  右被仰出候ニ付、異国船望之品々有之節相与へ候品ハ、薪水ハ勿論不得
  止事節ハ、食物之内大根其外野菜鶏又ハ粟麦位迄之品は相与へ候而も不
  苦候得共、粟麦の類ハ、相成丈少分ニ相渡候方宜敷、万々一無拠節ハ米
  も壱俵ニ無之ハ相与候共不苦候得共、可成丈野菜之方ニ而事済候方宜敷、
  且材木迚も修復ニ用候分、相与へ候儀無拠事に有之、酒ハ何程相望候而
  も不相渡、味噌も不宜、銅鉄ハ勿論諸器物等不与事之吉、尤先方ニ而相
  望候由、聢とも不相分ニ、此方より相与へ候事ニハ無之、猶又横文字等
  を以筆談ニハ不及、手真似を以渡来之訳入念相尋、其上帰帆いたし候様
  申諭候は、申迄も無之候へとも、乏敷品有之帰帆差支候趣ニ候はば、前
  書之通相心得相与へ可申事、先方より挨拶之心抔ニ而何そ差出候とも、
  決而受申間敷候事
  (朱書)
  「三ケ国之異人ハ用弁一通りニ而ハ夫々御免之湊々可参筈、難破ニ無之
  して外地へ来ルましく御約定也、外異国人ハ本文之通可心得もの也」
  一、渡来之船兎に角長滞船ニ不相成様相心得、与へ候品を与へ候而も早々
  退帆相成候様取計候儀専要之御振合ニ相聞候間、乏敷品有之、相望候趣
  聢と相分り候はば、早速相与へ退帆可申諭、若又通商之儀等申込候はば、
  長崎江可相廻旨申諭し遣候事
  (朱書)
  「アメリカ○ヲロシヤ○ならハ、下田箱館長崎之内江可申諭、ヱキリス
  ならハ、長崎箱館之内江と可申諭、余国ならハ、長崎計本文之通」
  一、上陸は為致間敷儀ニ付、たとひ先方より橋船等ニ而漕来候とも、上
  陸不為致出迎可相尋、此方より船にて罷越承り糺候ニも、上陸は不為致
  候て事情相分候様入念取計候事
  (朱書)
  「難破船にて無止事ハ上陸為致可申旨、三ケ国約定の内に見へたり」
同年被仰出之内
若異国船より海岸之様子を伺ひ、其場所人心之動静を試候為抔ニ鉄砲を打掛
候類可有之哉も難計候得共、夫等之事ニ不致動揺、渡来之事情能々相分、御
憐之御主意貫候様取計可申候
  右様之被仰出有之上は、決而麁忽之取計ハ難相成儀ニ有之、異人共試之
  為打放候鉄砲ニ候はば、地方江向ひ打放候様之儀、先つハ有之間敷様被
  考候へ共、被仰出書ニも鉄砲ならし候而云々とハ無之、打掛候とも云々
  との被仰出ニ候得は、たとへハ筒先を地方江向ケ打掛試候様之儀も有間
  敷ニ無之候、若々左様之儀有之候とも、未渡来之事情不相知内ハ、必乱
  妨之為打掛候鉄砲とハ難決事ニ付、夫等ニ動揺いたし、乱妨可致心ニも
  無之処江、此方より鉄砲打放候様之儀有之候而は、御主意ニ相戻り候事
  ニ可至、品ニ寄而ハ、臆し候ため麁忽之取計いたし候抔之唱ニ預り候而
  は、不被為済儀ニ付、出張之面々其所能々心得可申候、扨又寛政度被仰
  出之内ニは見へかかり事かましく無之様可致との趣も相見候ニ付而ハ、
  異人共江渡来之訳柄相尋候ニハ両三人乃至四五人も罷出事情相分候を専
  要ニ相心得、可成丈事穏便ニ可相尋候、然上は甲冑着用ニ而罷出候事ハ
  勿論不宜候、其余惣人数之義ハ、事情不相分内ハ、事かましく無之又不
  意之儀等有之、不覚を取不申様、其所差心得見へかかり事かましくも無
  之又不意之儀等無之様、時宜次第之取計可為肝要事
嘉永二酉年被仰出之内
一、異国船渡来之節取計方之儀、文政八年無二念打払可申旨被仰出、其後去
  ル寅年漂流船之儀ニ付而は、厚キ被仰出之趣も有之候処、近来漂流ニも
  無之船度々渡来昨今年ハ対州、奥羽、松前辺、別而多乗通り海上におい
  てハ廻船ニ乗付、或ハ所々浦方江上陸等いたし、食料薪水等を乞、当年
  は浦賀表江イギリス之船渡来、伊豆国付大島江ハ上陸いたし、猶又下田
  表江も相越、滞船之上猥に上陸等いたし、追々横行之振舞相長し候を其
  儘被差置候而は
  御国威ニも拘り、不容易事ニ付、此節ニも厳重之取計方可被仰出哉ニ候
  得共、右様被仰出候上ニハ、何方ニ而如何様之儀出来可致哉難計ニ付、
  其以前防禦手当実用之処、厚く可被申付候云々
   諸国海防手当実用之処相整候を御待被為在候而、厳重取計方之儀猶可
   被仰出之御趣意ニ相見候、然処若々取計方不宜ため抔ニ闘争ニ相成候
   而は、甚以
   御趣意ニ相戻候儀ニ付、猶被仰出有之迄ハ穏便ニ取計可申候、乍然乱
   妨等之儀有之、無止事に至は臨機之取計は別段之事
     政云、越後国岩船郡江御人数御指出調書別冊有之
(朱書)「別冊ニ舎人殿直認朱書付紙有之分有之、写し置
   上杉弾正大弼様より御預所越後国岩船郡海岸防禦御手当之人数武器等
   致御届候処、若異国船渡来も候ハヽ、御隣領之儀ニ付、万端御申合致
   度存候、随而米沢城下より御預所海岸迄は行程相隔ニ付、出勢到着之
   間手後ニ相成候筋も有之候節は、彼地陣屋詰より其御役筋江申談候儀
   も可有御座候間、其節は御勢を以御差塞等御心添被下度存候、右は先
   年及御頼置候へとも、猶又御頼旁使者を以申達候趣被仰入候付、御挨
   拶
     云々御口上之趣、申達候処、御隣領相之儀被仰入候趣ハ委細被致
     承知候、品ニ寄猶御申合ニ及候儀も可有御座、在所表へも早速被
     申付置候筈ニ付、御挨拶宜敷と為申述候
   右之通相済居候付、今度庄内之方御手配御物頭一人ツツ月待ニ取極置、
   今一人ハ前月之月番ニ而も翌月之月番ニ而も、都合皆控ニ定置候様、
   尤弓組ハ追而申達候迄当分月待相除候様、御物頭へ申達候由
右之趣三月廿二日立、御飛脚へ申来、一と通達御聴候也」政云、三月廿二日
ハ嘉永五子年也
秋保131-4 海防練志録 陰四【撮影済】              一冊
 目録「自安政四丁巳至文久二壬戌」
 「(前略)
一、外国人之儀ニ付、天保十三年寅年、嘉永二酉年、従公義被仰出書江心得
 方御書加御達面之事
 (中略)
一、英吉利船酒田湊江相廻候儀も可有之旨従公義御沙汰有之候事
(後略)」
「天保十三寅年被仰出之内
当時万事御改正ニ付、享保・寛政之御事ニ被復、何事に不依、御仁政を被施
度との難有思召候、右ニ付而は外国之者ニ而も逢難風漂流等ニ而食物薪水を
乞候迄ニ而渡来候を、其事情不相分ニ一図ニ打払候而は、万国江被対候御処
置とも不被思召候、依之文化三年異国船渡来之節取計方之儀ニ付被仰出候趣
ニ相復候様被仰出候間、異国船と見請候はば、得と様子相糺、食料薪水等乞
敷帰帆難相成趣ニ候はば、望之品相応ニ相与へ可致帰帆旨申諭、尤上陸ハ為
致間敷候、又は猥ニ異国人江親ミ候儀等は致間敷筋ニ付、警衛向之儀弥厳重
にいたし云々
(後筆)
「付札書入
食料薪水等届候節
長崎箱館等江
相廻り候迄差支不申程
夫々相応ニ与へ可申候」
   右被仰出候ニ付、異国船望之品々有之節相与へ候品ハ、薪水ハ勿論不
   得止事節ハ、食物之内大根其外野菜鶏又ハ粟麦位迄之品は相与へ候而
   も不苦候得共、粟麦の類ハ、相成丈少分ニ相渡候方宜敷、万々一無拠
   節ハ米も壱俵ニ無之ハ相与候共不苦候得共、可成丈野菜之方ニ而事済
   候方宜敷、且材木迚も修復ニ用候分、相与へ候儀無拠事に有之、酒ハ
   何程相望候而も不相渡、味噌も不宜、銅鉄ハ勿論諸器物等不与事之吉、
   尤先方ニ而相望候由、聢とも不相分ニ、此方より相与へ候事ニハ無之、
   猶又横文字等を以筆談ニハ不及、手真似を以渡来之訳入念相尋、其上
   帰帆いたし候様申諭候は、申迄も無之候へとも、乏敷品有之帰帆差支
   候趣ニ候はば、前書之通相心得相与へ可申事、先方より挨拶之心抔ニ
   而何そ差出候とも、決而受申間敷候事
(後筆)
「同
横文字等を以筆
談ハ致ましく成
丈手真似を以相
通し候様可致、無止
事ハ漢文を以筆
談は不苦候
   但要用計漸々
   相通し候迄ニ相
   心得可申事」
   一、渡来之船兎に角長滞船ニ不相成様相心得、与へ候品を与へ候而も
   早々退帆相成候様取計候儀専要之御振合ニ相聞候間、乏敷品有之、相
   望候趣聢と相分り候はば、早速相与へ退帆可申諭、若又通商之儀等申
   込候はば、長崎江可相廻旨申諭し遣候事
(後筆)
「同
アメリカ」ヲロシヤ」之両国ハ下田・箱館・長崎之内江
エキリス」ハ
長崎箱館之内江可相廻旨申諭し、其余之国々ハ
長崎計江本文之通」
   一、上陸は為致間敷儀ニ付、たとひ先方より橋船等ニ而漕来候とも、
   上陸不為致出迎可相尋、此方より船にて罷越承り糺候ニも、上陸は不
   為致候て事情相分候様入念取計候事
(後筆)
「同
御約定有之候三ケ国之船、難破船ニ無之ハ御免港之外江渡来不致様
御約定ニも有之候間、弥難破船にて、其儘漕兼候体ニ候ハヽ、此方より船を
仕立箱館之湊又は長崎江相送候筈ニ候得とも、其内上陸不為致難済ならハ、
上陸相免、其近村寺院等為明渡可指置候、尤其所之法度ニ背間敷旨、兼而御
約定被仰渡候儀ニ有之候間、此方之法度を守り、測量等致間敷、勿論徘徊は
不相成旨申渡、相応懇ニ取扱寺中等之外立廻り候事は差止可申、乍去敢而籠
置候体には不及候間、程能取扱肝要ニ候、尤右三ケ国之外ハ本文之通」
同年被仰出之内
若異国船より海岸之様子を伺ひ、其場所人心之動静を試候為抔ニ鉄砲を打掛
候類可有之哉も難計候得共、夫等之事ニ不致動揺、渡来之事情能々相分、御
憐之御主意貫候様取計可申候
   右様之被仰出有之上は、決而麁忽之取計ハ難相成儀ニ有之、異人共試
   之為打放候鉄砲ニ候はば、地方江向ひ打放候様之儀、先つハ有之間敷
   様被考候へ共、被仰出書ニも鉄砲ならし候而云々とハ無之、打掛候と
   も云々との被仰出ニ候得は、たとへハ筒先を地方江向ケ打掛試候様之
   儀も有間敷ニ無之候、若々左様之儀有之候とも、未渡来之事情不相知
   内ハ、必乱妨之為打掛候鉄砲とハ難決事ニ付、夫等ニ動揺いたし、乱
   妨可致心ニも無之処江、此方より鉄砲打放候様之儀有之候而は、御主
   意ニ相戻り候事ニ可至、品ニ寄而ハ、臆し候ため麁忽之取計いたし候
   抔之唱ニ預り候而は、不被為済儀ニ付、出張之面々其所能々心得可申
   候、扨又寛政度被仰出之内ニは見へかかり事かましく無之様可致との
   趣も相見候ニ付而ハ、異人共江渡来之訳柄相尋候ニハ両三人乃至四五
   人も罷出事情相分候を専要ニ相心得、可成丈事穏便ニ可相尋候、然上
   は甲冑着用ニ而罷出候事ハ勿論不宜候、其余惣人数之義ハ、事情不相
   分内ハ、事かましく無之又不意之儀等有之、不覚を取不申様、其所差
   心得見へかかり事かましくも無之又不意之儀等無之様、時宜次第之取
   計可為肝要事
(後筆)
「同
御固として出張之御人数
異情不相分内ハ
物かけニ為立忍、不指顕様取計
可申候、尤御領分
両港之儀ハ追々砲台も御取建
相成候事故、右様差顕候御場所
ハ却而守禦之人
数等差出置、異人とも近寄
不申様堅相制
可申事」
嘉永二酉年被仰出之内
一、異国船渡来之節取計方之儀、文政八年無二念打払可申旨被仰出、其後去
 ル寅年漂流船之儀ニ付而は、厚キ被仰出之趣も有之候処、近来漂流ニも無
 之船度々渡来昨今年ハ対州、奥羽、松前辺、別而多乗通り海上においてハ
 廻船ニ乗付、或ハ所々浦方江上陸等いたし、食料薪水等を乞、当年は浦賀
 表江イギリス之船渡来、伊豆国付大島江ハ上陸いたし、猶又下田表江も相
 越、滞船之上猥に上陸等いたし、追々横行之振舞相長し候を其儘被差置候
 而は
  御国威ニも拘り、不容易事ニ付、此節ニも厳重之取計方可被仰出哉ニ候
  得共、右様被仰出候上ニハ、何方ニ而如何様之儀出来可致哉難計ニ付、
  其以前防禦手当実用之処、厚く可被申付候云々
   諸国海防手当実用之処相整候を御待被為在候而、厳重取計方之儀猶可
   被仰出之御趣意ニ相見候、然処若々取計方不宜ため抔ニ闘争ニ相成候
   而は、甚以
   御趣意ニ相戻候儀ニ付、猶被仰出有之迄ハ穏便ニ取計可申候、乍然乱
   妨等之儀有之、無止事に至は臨機之取計は別段之事
(後筆)
「同
当節専ら穏便之御取扱を主として兎角節立不申様ニとの
御主意ニ候、異人と
いへとも正敷使節船又商船之類ニは、先ハ猥に乱妨不束の
所業ハ致間敷儀ニ
候へとも、仮令御約定有之候三ケ国之船之由申聞候共、万一
悪計を挿候賊船
歟も難計、尤此方の平穏なるを幸ニ意外之振舞
有之間敷ニも
無之候間、御固向厳静にして、渠か振舞ニ能々心を
付臨機之計略
無油断相励、若自然之節ハ
御名を不汚様
心掛肝要ニ候事」
右之趣、去ル亥年十月申達置候処、猶又増加いたし、申達候事
   巳六月
  近海江異国船渡来之節多少御固御人数早速被差出、外ニ異人取扱方御役
  人被指出候筈ニ候得とも、其場所兼而難期儀ニ候へは、必御手筈通りニ
  も行届兼候儀も可有之哉ニ付、右取扱之もの不在合場所は出張御固御人
  数之内、主ニ立候面々相心得取計可申、兼而其心得有之へく候、且又去
  ル亥年心得方書取面々江相渡置候分、猶又追々
  公辺御沙汰之次第も有之ニ付、心得向増加付札を以申達候御条約被仰渡
  候ヲロシヤ」アメリカ」エキリス」之三ケ国ハ破船漂着ニ無之して、御
  免港之外江船を寄せ候事、御停止之儀ニ有之候、若破船漂着有之、其体
  不得止事節は、為致上陸候事ニ候へとも、
  御国法は相守筈ニ候、猶委細は別紙ニ申達候、元より海外之異人ニ候へ
  は、人情国風徹底いたし兼々儀も可有之筈、仍而は其振舞渠ニおいて敢
  而横行法外之所業と不心得次第も可有之候間、可成たけ事情勘弁を加へ
  取扱可申候、若差免次第等幾重ニ申諭候而も不相用、押而相募り候節ハ、
  其もの取押、早速船将江相渡し、其罪を正し候事ハ、渠江任せ可申候、
  惣而
  公義御趣意堅相守渠より手出無之ニ、此方より手荒之取扱方無之様相心
  得、勿論此方下人等渠江馴合不申様、作法正敷締向肝要ニ候事
   巳六月
  (朱書)「此御達書六月廿一日隼人殿より被相渡候趣ニ而相廻り候」
   未八月十日脇坂様より御留守居御呼出御渡御名
近々英吉利船新潟湊一覧として渡来いたし候節、品ニ寄候ハヽ、其方領分出
羽国酒田湊江相廻り候儀も可有之候間、相越候ハヽ右湊無差支一覧為致候様
可被取計候、尤公義御役人之内乗組罷越候筈ニ候間、可被得其意候事
(朱書)
「此書面御本丸炎上焼失今一通出候様御達、十一月十四日認出ス、申閏三月
猶又三度御右筆認出候由也」
外国貿易御開相成候ニ付而は、惣而異国船庄内領海岸并洋中時々可致通航、
通航一通にて相変候儀無之候は御届等不仕心得ニ而宜御座候哉、且御条約相
済各国之船海面致測量候迄ニ候は其儘差置、無故碇泊或上陸或船中欠乏之品
乞請度段申立候共、御開港場之外御免許無之訳を以精々申諭相断候迄ニ而、
子細も無之事済候ハヽ御届不仕心得にて宜御座候哉、万一洋中難破船ニ而人
名にも拘無余儀致碇泊候事実ニ相見候節は、相応手当申付、時宜ニ寄最寄寺
院等江差置堅取締申付置、其段最寄御開港場御奉行所江申上、御差図次第取
計候方ニ可有御座候哉、御条約外之船右体之節は打払等は不仕候へ共、測量
を始堅相断、其廉々御届申上候心得ニ而宜御座候哉、尤難破船之節は、如何
相心得宜御座候哉、且又惣而外国之船々自然乱妨体之及所行候節は、可相成
丈穏ニ取扱可申は勿論ニ候へ共、差掛不得止場合ニ至候節は、先方之仕成ニ
寄、臨機之取扱ニ仕、其段御届申上候心得ニ而宜御座候哉、尤海岸固方之儀
通航一通り之儀は不差出、其余都而相応手当申付可然哉、右之廉々兼而心得
居申度、各様迄御内慮相伺候様左衛門尉申付候、以上
  八月廿八日                御名岡田楫兵衛
秋保131-5 海防練志録 陰五 歎慨筆記【撮影済】         一冊
 目録「自安政四丁巳至文久二壬戌」
(朱書)
「日本武国於茲衰弱安危不可知測歎慨筆記」
一、安政四年巳八月十四日、堀田備中守様より御留守居御呼出御書付壱通御
用人大野舎人を以御渡被成候写
豆州下田表在留之亜墨利加官吏儀、国書持参江戸参上之儀、相願候処、右は
寛永以前英吉利人等度々御目見被仰付候御先蹤も有之、且条約為取替相済候
国之使節は都府江罷越候儀、万国普通常例之趣ニ付、近々当地江被召寄登城
拝礼可被仰付との御沙汰ニ候、此段為心得相達候
  八月
 秋保の考えでは、ハリスを江戸城に迎えたことが幕府衰弱の始点であった。
秋保131-6 海防練志録 陰六【撮影済】     一冊
 目録「自文久三癸亥至慶応四戊辰明治元」
 この冊は、一般的な大目付触が多くなる。

                (横山伊徳・保谷徹・杉本史子・箱石大・小野将・澤裕作)


『東京大学史料編纂所報』第42号p.58